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2014/02/18

北條九代記 株瀨川軍 付 關東勢手賦 承久の乱【十九】――株瀬川の戦い

      ○株瀨川軍  關東勢手賦

大豆途渡(まめどのわたり)へは相模守足利武蔵〔の〕前司向はれたり。足利〔の〕小太郎兵衞、阿曾沼(あそぬまの)小次郎近綱をはじめて川に打入り渡しけるに、京勢は、皆落失せて防ぐ者一人もなし。美濃國莚田(むしろだ)と云ふ所にして、京勢少々出合ひて戰ふといへども、大軍折重(をりかさ)なり、新手入替りける故に、多くは皆討取られ、残るは又散々に落ちて行く。尾張國の住人山田〔の〕次郎重忠此有樣を見て云ふやうは「君の仰を蒙り、京都より討手に向けらる之者共の、尾張川にても恥ある矢の一つをも射ず、跡をも顧ずして落ちて歸道(かへりみち)の程にも甲斐々々しき軍(いくさ)もせで、京までも追立てられ、關東武士に笑はるゝのみにあらず。君御尋あらんには、なにとか答へ奉らん。重忠一軍(ひといくさ)して、此憤(いきどほり)を散ぜんと思ふなり」とて、郎等に水野左近、大金太郎、太田五郎兵衞、藤兵衞、伊豫坊、荒左近(あらさこん)、兵部坊、以下九十餘騎を前後左右に立てて、株瀨川(くひぜがは)の端に控へて敵を相待つ所に、奥州の住人岳島橘(だけしまのきち)左衞門、五十餘騎にて川を渡し、散散に戰ふ、岳島が郎等、加地(かぢの)丹内、佐賀羅(さがらの)三郎矢庭(やには)に射臥(いふ)せられ、其外の者共も、手を負はぬはなかりけり。大將軍、武藏守泰時、川端に打臨み、軍の下知をせらるれば、跡より大軍重りて、ひたひたと川を渡す。山田次郎叶はずして、南を指して落ちて行く。武藏國の住人高枝(たかえの)次郎只一騎、川瀨を渡して細繩手(ほそなはて)にかゝりて追掛けしに、敵七八騎返合(かへしあは)せ、孝枝だをなかに取込めて戰ふに、高枝片足を田の中に蹈(ふみ)入れて、片足は繩手に跪(ひざまづ)き、立寄る敵一人諸膝(もろひざ)薙(なぎ)て切伏せ、立ち上らんとする所に、遂にして切伏せられ、敵一人走り寄りては首を取(とら)んとする所に大軍どつと續きたれば、打捨てて落ちて行く。關東勢近(ちかづ)きて手負(ておひ)を見れば、鎧物具(よろひものゝぐ)朱(あけ)に成りて、誰とも更に見分(みえわ)かず。大將武藏守「あら無慘やな、此者痛手負ひたれども、未だ死なず、片息(かたいき)なるぞ、何者ぞ名乘(なのれ)」とありしに、「武蔵國の住人高枝〔の〕次郎」と云ひければ、能々(よくよく)見せらるゝに、痛手、薄手二十三ヶ所。是にても死(しな)ざるは天命ある者なりとて、人を副(そ)へて鎌倉へぞ下されける。軍兵を憐み給ふ大將の志を感ぜぬはなかりけり。伊具六郎有時が郎從に、伊佐(いさの)三郎行正と名乘りて、山田次郎を追(おひ)つめて引組みて、堀の底に落人たり。敵も味方もこれを知らず、上になり下になり、半時計(ばかり)揉合(もみあう)たり。伊佐〔の〕三郎が雜色一人倶したりけるが、主(しゆ)の軍(いくさ)する加勢にもならず、敵と打合ふ時は、立退きて見物し、戰疲れて休む時は、突(つく)として傍に居たり。組合へども只見物して動くべき色もなし。其間に山田が郎等藤兵衞尉立歸りて、伊佐を押伏(おしふ)せ、山田を馬に搔(かき)乘せて落ちて行く。伊佐もた討れざるを幸にして、味方にぞ馳入りける。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十九】――株瀬川の戦い〉標題「株瀨川軍 付 關東勢手賦」は「くひぜがはいくさ つけたり くわんとうぜいてくばり」と読む。本章も分離させる。

「株瀨川」杭瀬川。現在の岐阜県揖斐郡池田町・大垣市・養老郡養老町・安八郡輪之内町を流れる木曽川水系の河川で揖斐川支流の牧田川に合流する一級河川。この川は慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いの前哨戦の戦場として知られるが、参照したウィキの「杭瀬川によれば、『かつては揖斐川の本流であり、現在よりも川幅が広い大きな河川であったが、戦国時代の享禄3年(1530年)に発生した大洪水により揖斐川の流れが現在の位置に変化したため、現在の姿となった』とあり、川の流路は現在のそれとは大きく異なることが分かる。

「相模守」北条時房。

「足利武蔵前司」足利義氏。

「美濃國莚田」席田郡。現在の本巣郡北川町。「席田用水」にその名を留める。

「突と」副詞。「つくねんと」と同じ。何もしようとせず、独りぼんやりしているさま。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号48から50のパート中ほどまで)の記載。原文の臨場感は何時もながら、素晴らしい。

 

 大豆渡へハ、相模守・足利武藏前司被ㇾ向タリケルニ、足利小太郎兵衞・阿曾沼小次郎近綱ヲ始トシテ、各河ヲ渡ス。京方、宵ニ皆落タリケレバ、屋形ハ殘テ主モナシ。敵ナクテ軍ヲセヌ事ヲ無念ニ思ヒテ、敵ノカサニ逢ント向フ輩タレタレゾ。伊具六郎有時・善左衞門太郎・奧嶽島橘左衞門・山田五郎兵衞入道・紀伊五郎兵衞入道・阿保刑部丞・由良左近・靑木兵衞・新開兵衞小次郎・目黑太郎・佐賀羅三郎・加地丹内・同中務、是等ヲ始トシテ、敵ノカサニ合ント道ヲバヨケテ進行。美濃筵田ト云所ニテ、京方少々返合セ戰ケリ。坂東ノ兵共、願所ニテハアリ、悦ヲナシテ責戰フ。京方、落足武者ニテハアリ、組落シ組落シ被ㇾ討ニケリ。サレバヨ、獨シテ頸ノ二三取ヌハ無ケリ。

 被討殘テ落行ケル勢ノ中ニ、山田次郎申ケルハ、「サレバトヨ、打手ニ向セラレタル者共ノ尾張川ニテモ有ㇾ恥矢ノ一モ不ㇾ射、道ノ程モ甲斐々々敷軍モセデ、君ノ御尋有ンニハ何トカ答申ベキ。サレバ重忠ハ一軍セント思也」トテ、杭瀨河ノ西ノハタニ九十餘綺ニテ扣タリ。奧嶽島ノ橘左衞門、三十騎餘ノ勢ニテ馳來レバ、御方ヲ待カト覺シタテ、河モ不ㇾ渡、軍モセズ。

 去程ニ御方ノ勢少々馳著タリ。河ノ端ニ打立テ、「向ノ岸ナルハ何者ゾ。敵カ御方カ」。山田次郎、「御方ゾ」。「御方ハタソ」。「誠ニハ敵ゾ」。「カタキハタソ」。「尾張國住人、山田次郎重忠ゾカシ」。「サテハ」トテ矢合スル程コソアレ、打出テ渡シケリ。山田次郎ガ郎等共、水野左近・大金太郎・大田五郎兵衞・藤兵衞・伊豫坊・荒左近・兵部坊、是等ヲ始トシテ九十餘騎、河ノ端ニ打下テ散々ニ戰フ。其中ニ大弓・精兵數多有シカバ、河中ニ射ヒデラレ流ルヽモアリ、痛手負テ引退者モアリ。其中ニ加地丹内ハ渡シケルガ、鞍ノ前輪鎧コメ、尻輪ニ被射付テ、シバシハ保テ見へケルガ、後ニハ眞倒ニ落テゾ流ケル。佐賀羅三郎、眞甲ノ餘ヲ射サセテ引退ク。波多野五郎、尻モナキ矢ニテ、其モ眞甲ノ餘ヲ射サセテ引退ク。大將軍武藏守、河端ニ打立テ軍ノ下知セラレケリ。手負共、各參テ見參ニ入。誠由々敷ゾ見へケル。薄手負タル者共、矢折懸テ臆タル氣色モナク渡シケリ。被ㇾ討ヲモ不ㇾ顧、乘越々々渡ス。東國ノ兵共、如雲霞續キケレバ、暫戰フテゾ、山田次郎颯ト引テゾ落行ケル。

 武藏國住人高枝次郎、河瀨渡シテ只一騎細繩手ニ懸テ、敵ニ向テ追懸テ行。七八騎有ケル勢取テ返シ、高枝ヲ中ニ取籠テ戰フ。高枝ノ次郎、片足ヲ田へ蹈入、片足ヲバ繩手ニ跪テ被切伏ヌ。甲モ被打落テ、痛手負テ横樣ニ臥タブケリ。敵一人寄合テ、取テ押へ首取ントシケル所ニ、東國ノ兵サツト續タリケレバ、首ヲモ不ㇾ取、打捨テ落行ヌ。御方勢近ヅキテ見レバ、鎧・物具・面モアケニ成テ、誰共不ㇾ見。大將軍武藏守、「アラムザンヤナ。此者、痛手負クリ。タレゾ」ト問給へバ、未死ヤラデ片息シタリケルガ、「是ハ武藏國住人、高校次郎ト申者ニテ候」。武藏守、「ムザンノ事ヤ。手ヲ能々見ヨ」。甲被打落テ、頭ノ疵ヨリ物具ノスソマデ、大小ノ疵廿三箇所ゾ負クリケル。「如何ニ、此手ニテハ可ㇾ死カ。「ヨモ此手ニテハ死候ハジ」ト申。「如何ガスベキ。道ニテハ叶マジ」トテ、御文遊シ、御使一人添テ、其ヨリ鎌倉へゾ被ㇾ下ケル。「是ハ武藏國住人、高枝次郎ト申者ニテ候。六月六日、杭瀨河ノ軍ニ手アマタ負テ候。道ニテハ如何ニモ療治難ㇾ叶候間、進ラセ候。隨分忠ヲ致候。相構テ相構テタスカリ候樣ニ、御計ヒ可ㇾ有」由、權大夫殿へゾ被ㇾ申ケル。

 去程ニ京方落行ケルヲ、各追懸々々行程ニ、伊具六郎有時ガ手者、伊佐三郎行正、山田二郎ヲ目ニ懸テ行程ニ、彼方端モ此方ノ岸モ草ハ生ヲホヒ、底モ見へザルニ、馬ノシリ足蹈ハヅシテ倒ニ歸リケレバ、山田次郎、堀ノ底ニテ落立タル。伊佐三郎馳ヨセテ、「如何ナル者ゾ」。「山田次郎重忠ゾカシ。ワ君ハタソ」。「伊佐三郎行政」ト名乘。鐙ヲ越テ落合テ、堀ノ底ニテ引組間、敵・御方是ヲ不ㇾ知。山田次郎、乘替・下人モナシ。伊佐三郎、雜色一人具シタリ。主ガ軍セバ寄テ手傳モセズ、打合時ハ立ノキ見物シ、戰疲レテ休時ハ寄テソバニ居ル。角スル事、三度ニ及べリ。山田ガ郎從藤兵衞尉、落行ケルガ、サテモ我主ハ何ト成給ヒケント思テ、取テ返シ見ケレバ、堀ノ底ニ太刀打ノ音シケリ。打寄テ窺へバワガ主也。是ニ御座ケル物ヲト思テ、馬ヨリ飛ヲリ、主ヲ己レガ馬ニ搔乘テ落ントス。伊佐、山田ガ甲ノ甲ヲツカンデ引タリケレ共、大力ナリケレバ甲ノ緒ヲフツト引切テ、山田ハ延ヌ。伊佐被打取ヌハ遺恨ナレ共、甲・馬・鞍ヲ奪留タレバ、伊佐ガ高名トゾ申ケル。山田次郎落行ケルニ、美濃小關ニテ高キ梢ニ旗ヲ結付テゾ落行ケリ。是ハ、爰ニ敵アリト思ハセン爲ナリト覺へタリ。]

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