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2014/02/10

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十四年 九州への旅

 九州への旅

 

  鴨綠丸

 

海雀を北風(きた)に群れしめ解纜す

 

[やぶちゃん注:「鴨綠丸」「おうりょくまる」と読む。ウィキの「鴨緑丸」によれば、大阪商船が所有し運航していた貨客船。大阪商船の大阪大連線(大連航路)用として建造され、実際に航路に就航した船としては最後の船であった。太平洋戦争中は船舶運営会管理下で貨客船としてのほか、陸軍及び海軍の配当船としても行動した。連合国側からは、いわゆる「ヘルシップ(地獄船:連合国の捕虜をフィリピンやシンガポールから輸送するために使用した船の連合軍側の呼称。)」の一隻として認知されている。大連航路の最新鋭船として内装も華麗を極め、秋草模様のエッチングガラスなどで装飾されていた。竣工(昭和一二(一九三七)年九月三十日)後の十月二十日に処女航海のため神戸港を出港、以降十二日間隔で就航した。昭和一九(一九四四)年十二月、フィリピンからの最後の引揚げ徴用船としてルソン島にいた日本人・遭難船員及び約一六〇〇名の捕虜合わせておよそ三五〇〇名を乗せ、駆逐艦「桃」と駆潜艇に護衛されてマニラを出港するも艦載機からの銃爆撃を繰り返し受けて応戦したが(当時の「鴨緑丸」は砲三門と機銃十二基を装備していた)、遂に被弾し火災が発生、スービック湾内オロンガポに退避して捕虜や便乗者などを上陸させた後、火に包まれた末に横転、沈没した。

「海雀」チドリ目ウミスズメ科ウミスズメ亜科 Alcinae の一種と思われる。多くが北方種で、特に和名のウミスズメ Synthliboramphus antiquus は冬鳥としてならば九州での観察はある(以上はウィキウミスズメ科」及びウミスズメ」を参照した)。先の注で示したようにこれらは以下の句(四句目及び五句目、さらに後の「炉」や「凩」)からも十二月末の景としか読めず(だからこそ全句の通奏低音としての「北風」の切れるような痛さが生きる)、それならば真正のウミスズメ Synthliboramphus antiquus と採ってよい。

「解纜」は「かいらん」と読み、「纜(ともづな)を解く意で、船が航海に出ること。船出。出帆。]

 

港遠く海雀北風になほとべり

 

北風を航き陸(くが)の探照燈に射られ

 

[やぶちゃん注:「探照燈」の「燈」は底本の用字。]

 

七面鳥皿に灯ともり聖夜航く

 

[やぶちゃん注:二句後に「冬雲」ともあり、前に複数回注したようにこれらの句群は前年の八月の九州への船旅ではない。「昭和十四年」の頭に入れているところを見ると、前年の十二月下旬に船で九州に向い、船中でクリスマスを祝い、櫓山荘で年越しをしたように読める。]

 

北風の中水夫(かこ)綱を降り驅けて去る

 

冬雲に甲板(デツキ)短艇(ボート)を支へ航く

 

北風の浪汽艇にうつる腕をとられ

 

[やぶちゃん注:「汽艇」は所謂、ポンポン蒸気の艀(はしけ)のことである。]

 

  石垣原

 

枯るる野に温泉(ゆ)突きの車輪まはるまはる

 

[やぶちゃん注:「石垣原」は「いしがきばる」と読む。大分県別府市の中央部鶴見岳東麓に広がる扇状地で扇端部は直接に別府湾に接している。「鶴見原」ともいう。この春木川・境川・朝見川の形成する扇状地及びその周辺には別府八湯があり、日本最大の温泉地帯を成している。ここは慶長五(一六〇〇)年に大友義統(よしむね)が黒田孝高に敗北して大友氏が滅亡することとなった古戦場としても有名(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「温泉突き」湯突き。バーチャル博物館である「別府温泉地球博物館」公式サイト内の別府温泉事典にある由佐悠紀氏の「湯突き」の記載を引用させて戴く。

   《引用開始》

 人力と孟宗竹の弾力を動力源にして、先端に鉄製のノミを付けた竹ヒゴで地層を突き崩しながら掘り進む、小口径の井戸掘り技術「上総掘り」で温泉井を掘ることを、別府では湯突きと言いました。出来上がった井戸は「穿湯」とも言いましたが、「突湯」というのが一般的だったようです。この湯突きは、明治・大正・昭和と長く受け継がれ、別府の温泉開発を支えました。湯突きによる井戸数は2000以上、最も深いのは360mもあったそうです。

 しかし、太平洋戦争後、機械力による近代的な井戸掘削技術が導入されると、またたく間に取って代わられ、昭和28年頃を最後として、湯突きは姿を消してしまいました。

 しかし、幸なことに、実物の4分の1の湯突き櫓の模型が別府市美術館に展示されています。美術館の隣には、人気の高い「別府海浜砂湯」があります。

   《引用終了》]

 

  櫓山莊にて

 

炉によみて夫(つま)の古椅子ゆるる椅子

 

ひとりの夜よみて壁炉(へきろ)の椅子熱す

 

凩の天ダイナモも鳴りとよむ

 

[やぶちゃん注:次の句からはこの「ダイナモ」(発電機)は鉄道の電気機関車のそれかと思われる。]

 

北風(きた)昏れて熔炉の炎(も)ゆる驛を發つ

 

  由布高原

 

風車(ウインドミル)寒き落暉を翼にせり

 

風車由布の雪雲野に降りる

 

[やぶちゃん注:大分県由布市湯布院町川北湯布高原は別荘地として知られる。「風車」“windmill”のある(あった)光景については同地の郷土史にお詳しい方のご教授を乞いたい。]

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