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2014/02/21

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 20 実験室のスタッフ

 実験室の仕事はドンドン進んで行く。大学当局が助手として私につけてくれた、ハキハキした利口な男が、私が米国から持って来た蒐集品に、札をつけることを手伝う以外に、ボーイが一人いて、部屋を掃除し、片づけ、解剖皿から残品を棄て、別に用がなければ近郊へ行って、私のために陸産の貝や、淡水産の貝を採集してくれる。これ等の人々が如何にもいそいそと、そして敏捷に、物を学び、且つ手助けをすることは、驚くばかりである。学生の一人、佐々木氏は、人力車をやとって、市中の遠方へ採集に出かけた所が、車夫も興味を持ち出して採集した為に、材料を沢山持って帰ったと私に話した。

[やぶちゃん注:「大学当局が助手として私につけてくれた、ハキハキした利口な男」は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「18 教室・弟子・講義」に載る助手(正式職名は「教場助手補」)の種田織三(安政三(一八五六)年~大正三(一九一四)年)である。磯野先生によれば(前掲書一六八~一六九頁)、

   《引用開始》

種田織三は、舘(たて)藩(明治二年北海道檜山郡厚沢部(アッサブ)に新設)の出身。諸藩から推挙された「貢進生」の一人として明治三年に大学南校に入り、九年に東京開成学校予科を出た。松浦や佐々木、松村任三とは同級になる。しかし、理由はわからないが、種田は本科には進まなかった。そしてモースの助手になるのだが、モース留守中の大森貝塚発掘には参加していないので、雇傭はその後であろう。モース在任中は動物学教室の標本の採集や整理に従事、モースの北海道・東北旅行ならびに九州・関西旅行にも同行、モースにとっては無くてはならぬ人物だった。やがて、モース帰国直後に完成した博物場の管理を受け持ったが、明治十八年九月に東大を去る。その後、東京商業学校、山形県中学校、山形県師範学校などで教えていたらしいが、のちの消息は不明である。

 いま東京大学理学部動物学教室には、ダーウィンの『種の起源』第六版(一八七二年米国版)が一冊残されているが、それには『固(モ)ト此書ハ種田織三氏ノ所有ナリシモ故松浦氏ノ所有トナリ次テ佐々木忠次郎ノ所有スルモノナリ』と記した付箋がついている。種田は日本で『種の起源』にもっとも早く目を通した人の一人だったのである。

   《引用終了》

と記す。『のちの消息は不明である』とあるのだが、ネットで検索を掛けると、脇本茂紀氏(社民党で現在は広島県竹原市市会議員をなさっておられる)の公式サイトの内の「旧制忠海中学校初代校長・種田織三」(二回連載)に、上記の箇所を引用された後、

   《引用開始》

 この本では「種田ののちの消息は不明である」と書かれているが、この種田織三こそ、明治30年忠海中学校初代校長として「荊棘に満ちた過渡期を担い、光輝ある忠中史の礎石を固める」(梅林慈円「忠中先史時代への回想」『忠海高等学校の100年』P66)のである。

 忠海高等学校では創立百周年を記念して、書庫を整備したが、その蔵書のなかには、種田織三がその博学にもとづいて収集したであろう稀覯本が存在するそうである。

   《引用終了》

とあり、第二回の部分によって種田織三が明治二九(一八九六)年四月から明治三一(一八九八)年四月までの三年間忠海(ただのうみ)中学校初代校長として赴任していた事実が明らかになる。この忠海中学校とは現在の広島県竹原市忠海床浦四丁目にある広島県立忠海高等学校のことである。さらに「ひろしま英学・英語教育史」のサイト内に種田織三ページがあり、そこには明治二六年五月九日附で「尋常師範学校尋常中学校高等女学校英語科教員タルコトヲ免許ス(文部大臣井上毅)」(徳島県脇町中学校所蔵職員履歴書)というデータが、さらに『忠海中学ではデクラメーションと英文解剖の授業を行った。発音と一字一句の文法的解剖を徹底的に教えた』という附記が載る。これによって磯野先生が『消息は不明』とされていた種田氏の生涯は、晴れて明らかになったといってよいであろう。

「ボーイが一人」彼は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「18 教室・弟子・講義」に載る職員で、雑用係の菊池松太郎(正式職名は「雇」)である。その記載によれば、本書の他の箇所では「小使」「従者」「マツ」(この「マツ」という用字は今のところ、ここまででは出てきていないと思う。原文で検索もかけたが不明)と記されている人で、『前歴は皆目不明。またいつ動物学教室に来たかもわからない。モースの旅行には種田とともに従い、モースを助けた。器用なひとだったらしく、標本作成に熟練して重宝がられ、明治二十七年まで動物学教室にいた。その後、敬業社という博物学関係書の出版社にあった標本部に移ったが』、『以後の足取りはわからない』とある。

「佐々木氏」佐々木忠次郎。既注。]

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