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2014/02/02

本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 8 明治11(1878)年5月14日に東京は red slope bite different で起きた great long keep Interior business minister 殿の暗殺事件の顛末と処断についてのモースの見解

 五月十五日。昨日胆をつぶすような事件が起った。政府の参議の一人なる大久保伯爵が暗殺されたのである。彼はベットー二人をつれて、馬車で宮城から帰りつつあった。ベットーは馬の先に立って走っていたが、突然八人の男が馬車へとびかかり、先ず馬の脚をたたき切って走れぬようにし、次に御者と二人のベットーを殺し、最後に伯爵を殺した。暗殺者はそれから宮城へ行って、反政府の控訴状を差出し、彼等の罪を白状した。即刻巡査が召集され、暗殺者は牢獄へ連れて行かれたが、途中大声で自分達の罪を揚言した。このような悲劇的な事件は、ここ数年間日本で起らなかったので、この事は市中で深刻な感情を煽り起した。大久保伯爵は政府の最高官の一人で、偉大な知能と実行力とを持っていた。然し、政府の浪費が激しいというので、大いに苦情があったらしい。暗殺した人々は、加賀の国から来た。この事変は、大学から半マイルも離れていない所で行われた。大久保伯の令息の一人は、私の学級にいる。

[やぶちゃん注:明治一一(一八七八)年五月十四日に内務卿大久保利通が東京府麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町)で不平士族六名によって斬殺された大久保利通暗殺事件である。紀尾井坂(きおいざか)の変・紀尾井坂事件とも。以下、近代史には疎いのでウィキの「紀尾井坂の変」から引用すると、『実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名から成る(脇田は暗殺にあたり罪が家に及ぶのを恐れて士族を辞めて平民になった)。その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいたが、征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走』、『杉村寛正(杉村文一の兄)らも征韓論にあたり従軍願いを出している。さらに台湾出兵にあたっては杉村・長らは再び従軍願いを出しており、台湾出兵中止の噂に対する反対の建白書や佐賀の乱の処理を批判する建白書には杉村(寛)・島田・後に斬奸状を起草する陸義猶(陸九皐)が名を連ねている。しかし、これらの建白書は期待した効果を生まず、島田らは実力行使路線を採ることになる。1874年(明治7年)に島田と長は東京で会い、意気投合』、『長は1874年(明治7年)6月に、台湾出兵について西郷、桐野利秋の見解を聞きに杉村(寛)、陸と鹿児島入りしている。長は半年ほど鹿児島に滞在し私学校に留学している。長は1876年(明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めている』。『長が帰県した10月には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族反乱が相次ぎ、島田も金沢で挙兵計画に奔走するが失敗。さらに翌1877年(明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画に奔走したが、周囲の説得に苦慮している間に、4月に政府軍が熊本城に入城したとの情報を得て、勝敗は決したと計画を中止した』。『この後、島田らは高官暗殺に方針を変更する。杉本・脇田・杉村らもこの時期に島田の計画に加わっている。脇田は10月、長は11月、杉村は12月、島田、杉本は翌年4月に上京』、『唯一の島根県人である浅井は西南戦争当時警視庁の巡査であり警視隊に属して従軍し、1877年(明治10年)8月に東京に凱旋していたが、禁令を犯して1878年(明治11年)2月に免職となり、3月に島田らの暗殺計画を知って計画に加わった』。『彼らの暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップである大警視川路利良の耳にも入っていたが川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかった』という。当日の『5月14日早朝、大久保は福島県令山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。話は2時間近くに及び、山吉が辞去しようとしたときに大久保は三十年計画について述べている。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものであった』。『午前8時ごろ、大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう。午前8時30分頃、紀尾井町清水谷(紀尾井坂付近。現在の参議院清水谷議員宿舎前)において、暗殺犯6名が大久保の乗る馬車を襲撃。日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を刺殺。次いで乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろした。大久保は島田らに「無礼者」と一喝したが、斬殺された(享年49〈数え年〉、満47歳没)。介錯として首に突き刺された刀は地面にまで突き刺さっていた。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると大久保は全身に16箇所の傷を受けていた。そのうちの半数は頭部に集中していた。事件直後に駆けつけて遺体を見た前島密は、「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している』。『島田らは刀を捨てて、同日、大久保の罪五事と、他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首した』。『島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。有司専制の罪として以下の5罪を挙げている。

国会も憲法も開設せず民権を抑圧している。

法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。

不要な土木事業・建築により国費を無駄使いしている。

国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした。

外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている。』

翌日『大久保および御者の中村の慰霊式が行われ、17日に両者の葬儀が行われた。大久保の葬儀は大久保邸に会する者1,200名近く、費用は4,500円余りという近代日本史上最初の国葬級葬儀となった』。『警察の捜査は厳重を極め、斬奸状を起草した陸や、島田に頼まれ斬奸状を各新聞社に投稿した者(しかし各紙に黙殺されて掲載されなかった。「朝野新聞」は要旨を短く紹介したが即日発行停止を命じられた)、事件を聞いて快哉を叫んだ手紙を国許に送っただけの石川県人など30名が逮捕された』。『政府は暗殺犯を刑法上規定がない「国事犯」として処理し、大審院に「臨時裁判所」を開設して裁判を行った。臨時裁判所は形式上は大審院の中に存在するが、実際は、太政官の決裁により開設し、太政官から司法省に委任された権限に基づいて判決を下す事実上の行政裁判所であった。司法卿によって任命された玉乃世履判事らは同年7月5日に判決案を作成し司法省に伺いを立て、司法省では、これを受けて7月17日に太政官に伺書を提出した。太政官は7月25日に決裁し、7月27日に6名は判決を言い渡され、即日、斬罪となった。斬奸状を起草した陸は終身禁錮刑に処せられたが、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法発布により特赦を受けて釈放された』。『この事件を機に、政府高官の移動の際は、数人の近衛兵らによる護衛が付くようになった』とある。逸話の項によれば、『斬奸状には大久保が公金を私財の肥やしにしたと指摘があったが、実際は金銭に対しては潔白な政治家で、必要な公共事業を私財で行うなどしていたため、死後は8,000円もの借金が残ったという』。『しかし、このまま維新の三傑である大久保の遺族が路頭に迷うのは忍びないという配慮から、政府は協議の上、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めて、この1万6,000円で遺族を養うことにした』とあり、また『斬奸状に記された「国を思う志士」とは恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らの事だと思われる。大久保が彼らを排斥したという指摘から、大久保は現在でも保守層に嫌われていると思われがちだが、実際は立憲制や国会開設に積極的だった事で、右派でも左派でもない、ほぼ中庸をいく政治家だったという』。さらにこの襲撃時の馬車であるが『後に供養のため遺族が岡山県倉敷市の五流尊瀧院に奉納し現存している』とあり、さらに興味深い予知夢として、『前島密は事件の数日前に、大久保から「西郷と口論して、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。自分の脳が砕けてピクピク動いているのがアリアリと見えた」という悪夢を聞いている。このことが事件直後の』前島の証言の『印象につながっている』とある。これは私には夢自体が実に興味深い。なお、ウィキの「大久保利通」によれば、『大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれ』、『明治6年(1873年)以降の大久保存命中の政権は、一般に「大久保政権」と呼ばれる。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている』。『明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた』(下線やぶちゃん)とあって、この内国勧業博覧会に好意的だったモースは、大久保にも好感を持っていた可能性が高いと思われる。

「ベットー」原文“bettos”。別当は院の厩司(うまやのつかさ)の別当から転じた職名で馬丁のこと。ここでこの二人の馬丁もモースは殺されたと記すが、ある情報では馬丁は一人で逃げて助かったとある。識者のご教授を乞うものである。

「大学から半マイルも離れていない所」「半マイル」約800メートル。この数数値は不審。事件現場と神田一ツ橋の東京大学とは直線でも皇居を隔てて2・6キロメートルもある。私はこれはモースが「ここからどれくらい離れているのか?」と誰かに訊ねた際、相手が起点地を天皇の在地(この時は現在の赤坂御用地にあった赤坂仮御所、現在の東宮御所付近)と事件現場の距離を聴かれたものと勘違いして、かく答えたものではないかと疑っている。現在の東宮御所で直線距離約900メートル、現在の迎賓館正門位置までならば同660メートルもないからである。大方のご批判を俟つ。

「大久保伯の令息の一人は、私の学級にいる」年齢と経歴から察すると大久保の次男である牧野伸顕(文久元(一八六一)年~昭和二四(一九四九)年)か。生後間もなく利通の義理の従兄弟に当たる牧野吉之丞の養子となったものの、すぐに吉之丞が亡くなったために名字を牧野のままに大久保家で育った。明治四(一八七一)年に十一歳で父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米、フィラデルフィアの中学校を経て、明治七(一八七四)年に帰国して開成学校(後の東京大学)に入学、明治一三(一八八〇)年に東京大学を中退して外務省入省してロンドン大使館に赴任、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあっている。その後、福井県知事・茨城県知事・外務大臣・農商務大臣・文部大臣・内大臣・宮内大臣・枢密顧問官を歴任、二・二六事件では親英米派として命を狙われた。第二次世界大戦下にあっても昭和天皇の信頼は衰えず、戦後もオールド・リベラリストの一人として評価は高かった(以上はウィキの「牧野伸顕」に拠った)。]

M305

図―305

 

 朝刊新聞の一つが昨夕、ここに出した付録(図細305)を発行し、購読者全部に配布した。高嶺氏が私に彼の分をくれた。それはこの悲惨な出来ごとを簡単に述べたもので、私は高嶺氏に、これ等の文字を順序に従って、直解的に訳してくれぬかと依頼した。右手の行のてっぺんから読み始めて、それは以下の如くである――“New morning great long keep Interior business minister grammatical character red slope bite different in traitor of action by cut killed has been of grammatical character terrible yet detailed fact grammatical characterlight day. 5 month, 10-4 day, special distribution reach.”――新聞の名前は左の下部に出ている。これによっても人は、これから何等かの意味をつかみ出す為に、どれ程細かに調べねばならぬかということと、漢字を読むことは、よしんばそれを全部知っていても、如何に困難であるかが判るであろう。以下のものから、一つの成句を構成することは、困難と思われる ――“Red slope bite different in traitor of action by cut killed has been.”“Red slope”は暗殺が行われた場所の名前であり、“bite different”は道路が交叉する場所を示す語である。この成句を逆に読むことが、我々の成句の構成法になるらしい。日本語には冠詞は無いが、それをつけ加えて、我々は、“Has been cut and killed by the action of traitors in different bite of Red Slope.”と読む可きである。“yet detailed fact light day,”なる表現は、明朝もっと詳しいことを知らせるの意味である。本文中のある語は、発音字で綴ってあり、他の字は高嶺氏に説明の出来ぬ、文法的の表現を代表している。

[やぶちゃん注:図305を電子化しておく。

 

今朝大久保内務卿ハ赤坂喰違ひにてて賊の爲に切害され

ましたのハ恐れ入ッた次第猶委しいことハ明日

  五月十四日別配達         日 就 社

 

なお、この「日就社」とは、この四年前の明治七(一八七四)年の十一月二日に写真合名会社「日就社」が創刊した『讀賣新聞』の出版元で無論、現在の「読売新聞」の前身である。初代社長は子安峻。部数は約二百部の隔日刊で題号は「読みながら売る」瓦版に由来する(「読売新聞社」公式サイト内の「読売新聞小史」に拠る)。

「高嶺氏」既に注の中で示したが、再掲すると高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、モースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後,女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

great long keep」が「大久保」という固有名詞の単漢字「直解」英語である。

「〔grammatical character〕」この最初の箇所は日本語特有の文法的文字ということで、取り立ての係助詞「は」を指している。なお、原文では「〔 〕」ではなく、半角の“[ ]”で括られている。石川氏は自分の割注を〔 〕で挿入しておられるので、ここはそのままの方が訳としてはよかったはずだか、恐らくはまだまだ半角の[ ]を見慣れない読者が、それを英文脈で見たときに、“l”などの文字と誤認することを配慮されたものと思われる。

traitor」反逆者・裏切り者・売国奴。

「〔grammatical character〕」この二箇所目のそれは「されましたのは」の、受身の助動詞「され」連用形+謙譲の助動詞「ます」連用形+過去助動詞「た」終止形+準体助詞「の」(活用語に付いてその語を名詞と同じ格にすることを表す)+取り立ての係助詞の、「ます」と「「は」の二字相当ということになろうか。

「〔grammatical character〕」この三箇所目は最初と同じく係助詞「は」を指す。

「発音字」底本では直下に石川氏による『〔仮名〕』という割注が入っている。先の係助詞が「ハ」と表記されていることを指している。この段、惨たらしく殺された大久保利通には、これ、悪いが――面白い!]

 

 翌朝の新聞は、更に詳細を報道した。まだ若い犯人達は、ある秘密結社の会員であったが、手に負えなくなったので、追い出されたらしい。そこで彼等は東京へ出て来た。警察は彼等が何か悪事を企らんでいるという警告は受けたが、どこで何をやるかは判らなかった。事変後彼等は大人しく捕えられ、即刻裁決されて、手取早く死刑になった。感情的精神錯乱の歎願も、最初の告訴を誤ったので下手人が別の人で逃げて了ったということも、間違った法廷で審判することも、より上の裁判所へ上告することも、陪審員の意見が一致しない結果、犯人が最後に自由になるということも、一切無いのは興味が深い。すべて、それ等の結果は、世界長高の謀殺率を持つ、我がめぐまれたる米国で、事を行うのとは、非常に違う。

[やぶちゃん注:先の事件の引用注を見て貰えば分かる通り、当時としてはここに示されたモースの情報はかなりディグされたものである。またモースはこの重大事件の裁判と刑の執行が二ヶ月余りで処理されたこと、特にいち早く暫罪の決着をつけたことを積極的に評価してもいる(それは大久保を近代化の旗手として高く評価していたからでもあろう)。それどころか寧ろ、当時のアメリカの陪審制度に対する批判的な視点すら見受けられる。私は当時の本件の裁判判決のスピード、今の陪審員制度を導入した日本の裁判員制度の可否、モースのこれらの感想については今は綜合的に自身の見解を述べ得るだけの整理はついていない。ただ、感じることは、調べれば調べるほど、大久保利通暗殺の犯人たちは今で言うところのテロリストではないと私は思うと述べておこう。現代のテロリストの首謀者は結局、十中八九、自らの命を惜しんでいるからである。彼らはヒットマン・アサッシンをまことしやかな論理や怪しげな教義や薬物によって教唆し、実行行為をそうした他者に為さしめては自らはネット上の動画の中でニヒルな笑いのまま安穏としている。無論、そうした組織の背後にあって、一見合法的な面をしているフィクサーがそうしたテロリストを神にでもなったつもりで操っている張本であるケースもあろうから、そういう実行犯は実はいいようにやはり使われている犬死だとも確かに言えるのであるが、それにしてもこの場合のように自律的な判断の究極に於いて(それが幾分、前時代的であり、近視眼的であるという誹りは免れないとしても)死を賭してターゲットを「天誅」し、自ら投降自首してきた死を覚悟した連中を「テロリスト」と呼ぶには躊躇せざるを得ないのである。無論、私はそれによって彼らの行為を正当化しようという気持ちはさらさらない。如何なる犯罪も結局は実行者の性的エクスシーと直結していると考える私は、どんな高邁な思想を以って論理武装しようと、本質的には皆一律に猥雑な変態性欲の代償行為なのだとどこかで思っているからである。但し――自分も含めてという条件で――ね――]

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