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2014/03/03

南と北 火野葦平 ブログ・アクセス550000突破記念

   南と北   火野葦平

 

        第 一 信

 

 北海道の河童殿へ、はじめてのお便りさしあげます。私は九州は筑後川(ちくごがは)に棲む河童です。われわれ河童族といふものは發生の歷史に徴(ちよう)してみれば、南に棲む者も北に棲む者も、その血液や思考、習俗等にそんなに差があるとは思へませんが、なにしろ日本の端と端、逢ふこともまつたくないわけでありまして、なにやら他人めいた疎遠の感がなくもありません。これはまことに殘念至極のことでありまして、日ごろからなにかの機會に連絡して、親善友交をはかりたいとの念願は長いことでありました。たまたま最近ひとつの事件に遭遇いたしましたので、かかる事態はわれわれ南方族の間のみに發生するところのものか、あなたがた北方族の間においても類似のことがあるやなきや、ことのあらましを記して御高説を拜聽させていただきたいと、唐突の書面をしたためる次第であります。

 聞くところによれば北海道の風物は規模雄大、天地自然の氣は胸もひらけるばかりといふことでありますが、九州もまた御國自慢ではありませんが、潤達廣茫(くわつたつくわうばう)の山野河川はいたるところに、その美しい景觀をひろげて居ります。北海道は、洞爺湖(とうやこ)、支笏湖(しこつこ)、摩周湖(ましゆうこ)、阿寒湖(あかんこ)など、すばらしい湖にめぐまれた土地柄のやうですが、九州にも、これに劣らぬ湖がたくさんあります。しかし、私がこれからお話し申しあげることば、そんな大きな湖で起つた出來事ではなく、或る山間のほんのささやかな沼でおこつた話なのです。

 その沼は水も澄んで居り、鮒、鮭、鯰(なまづ)、みぢんこ、えび、などもたくさんゐまして、河童の棲む條件が揃つてゐますから、大體ならばたくさんの河童がゐなくてはならない筈なのに、そこには一匹もゐませんでした。なぜかといふと、河童たちはこの沼を恐れてゐたからです。といつてもこの沼に河童たちの敵であるどんな怪物が棲息してゐたわけでもなく、人間どもがわれわれ河童のもつとも嫌惡する唾(つば)や小便を、やたらに放射するからでもありません。理由は、單に月のためです。

 晝間見れば、この沼はなんの變哲もありませんが、夜ともなれば恐しい形相を呈します。それはこの沼全體が一個の眼になるからです、楕圓形(だゑんけい)になつてゐる沼は長い方の端が切れてゐますから、それはあたかも眼の形になつてゐまして、岸邊のくさむらが睫毛(まつげ)のやうに感じられます。その眼型の沼へ夜になると、月が瞳を點じるのです。これは恐しいことです。人間たちは沼へうつる月を賞して、俳句をつくる男などが、名月や池をめぐりて夜もすがら、などとやに下つてゐますが、われわれ河童にとつては、沼をめぐるどころか、ひと目見ただけで肌が冷えあがり、背の甲羅がちぢんでひびが入るくらゐ恐しいことなのです。かういふことは傳説の掟にもとづいたことなので、あなたがた北方族の間でも共通なことではないでせうか。

 月が登つて來る。その月が沼の水面にうつる。それまでは死んだやうな沼だつたのに、月が瞳のやうに嵌(は)めこまれると、にはかに沼はいきいきとした巨大な一つの眼になつて、われわれを、山中(やまぢゆう)を、いや、夜氣に森閑としてゐる天地全體を睥睨(へいげい)しはじめる。滿月のときには沼の眼の中に靑銀色の瞳はもつと鋭く光り、弦月、半月となつてもその凄さは衰へない。三日月となると一屠不氣味です。猫の瞳のやうに沼の瞳が變化してゆくことは、われわれにさらに妖怪じみた恐怖をおぼえさせます。月が移動するにしたがつて瞳もうごく。すると、あたかも沼はなにかの意志や感情を持つてゐるかのやうに見えます。かういふ恐しい沼の表情を見ては、到底氣の弱いわれわれ河童は、棲まうにも棲めないではありませんか。はじめうつかりしてこの沼に棲んだり、覗いたりした河童が、恐怖のあまり眼をまはしたり、甲羅をうち割つたり、ひどいのは生命を絶つたりしたために、爾來、この沼には一匹の河童もよりつかなくなりました。

 しかし、ここに一人の勇者があらはれました。彼はこんな豐饒(ほうぜう)な食餌庫(しよくじこ)であり、住み心地のよい居住地たる沼があるのに、濁つた水の、あまり魚やみぢんこもゐない貧寒な附近の池や沼に、河童たちが棲まなくてはならぬことに義憤をおぼえたのです。救世主的な氣特にもなつたのでせう。どんな神聖な思想もおふむね慾望から出發するものですから、彼の英雄的發奮も、ひよつとしたら、これまで棲んでゐた沼のきたなさ、餌(ゑさ)の惡さに飽いた、新しい住居と豐富な食物に對するおさへがたい慾求であつたかも知れません。それは帝國主義の思想にちよつと似てゐますが、いづれにしろ、傳説の掟をくつがへし、恐怖を克服して實行にとりかかつた彼の勇氣は賞されなければなりません。

 彼は沼から月を除かうと考へたのです。沼が恐しいのは月が瞳と化すからでありまして、瞳さへなければ沼はあたり前の沼にすぎません。眼の形をしてゐるのはなんでもありません。しかし、一口に、月を除くといひましても、はたしてどういふ方法に寄つたらよいか? 彼は熟考しました。作戰を練りました。そのために瘦せたほどです。そして、結局、彼が最後に到達したプランは、月が沼の中心に瞳となつてあらはれたとき、網をかぶせて獲(と)るといふことでした。河童には多少の神通力がありますけれども、月そのものを天から除去するほどの力はありません。さうとすれば沼にうつつた月を捕へるしか方法がなく、その捕獲の方法といふものも、科擧や機械と緣のない河童であつてみれば、網でとるといふ原始的手段に歸するはかはなかつたわけでせうか。彼とてこの直接行動がどんなに危險をともなふ冐險であるかを知らなくもありませんでしたから、その覺悟のほどもなみなみならぬものでありました。あとで、この冐險に協力した河童の話をききますと、最初は沼の上をなにかで掩(おほ)つて月光をさへぎることを考へてゐたとのことです。しかし、それは大變な事業で、ほとんど不可能に近いことがわかつたので、直接に月を摘む簡單明瞭な手段に出たとのことでした。

 北海道の河童毆、この勇敢な河童の決心をどう思はれますか。さやうな無理をしなくてもよいではないかと考へられますか。しかし、先覺者といふものはいつでも行動の最初のときには嘲笑されてゐるものですが、今度の場合だけは、彼は仲間中から感謝されました。コロンブスのときとは違つてゐました。もし成功すれば、その結果がどんなに仲間中をうるほすか、想像に絶するものがあつたからです。一匹の河童もよりつかぬ沼は魚やみぢんこの天國でありまして、生み方題、殖(ふ)え方題、まるで魚の中に沼があるみたいに、鯉、鮒、鯰などが水面にもりあがつてはねまはつてゐる始末でした。それならば月の出ない晝間、これを獲ればよいではないかといはれさうですが、それは傳説の掟が許しません。もし晝間沼にもぐつて餌をとれば、夜になつて沼が眼なつたとき、その簒奪者(さんだつしや)は睨み殺されてしまふのです。餌が慾しくば月を除くの一手といふわけです。

 或る夜、彼は友人の協力を得て、これを實行にうつしました。友人が協力するといつても沼に飛びこむのは彼だけで、友人はものかげからその成果を見とどける役なのでした。これとて勇氣がなければできぬことです。眼になつた沼を見るさへ恐しいのに、ものかげに陰れてゐるとはいへ、始終、友人の行動を凝視するといふことはなみ大抵ではありません。しかし、友人は彼の犧牲的精神に感動してこの困難な役をひきうけたやうです。

 苦心してこしらへた網を小脇に抱いて、彼は沼の中心へ月が點じられるのを待ちかまへました。網は龍舌蘭の繊維を裂いて編んだ目の細いもので、もしこれで伏せることができれば逃さない自信がありました。友人は彼の肩をたたき手を振つて激勵しました。成功を祈るといはれたとき、彼の瞳にはうつすらと涙が光つてゐたといふことです。月が沼に浮かんだとき、高い樹の梢からその水面の月に向かつて一直線に飛び降りるといふのですから、あたかも嘗て日本空軍がやけ糞戰術のやうにして採用した特攻隊の突込みのやうなものだつたでせう。

 時が來ました。滿月が東方の山からしづかに登つて來ました。やがて、それはぽつかりと沼のうへに影を落しました。睫毛のやうなくさむらのあたりから、すこしづつ移動して沼の中心に來ます。それを見ると、二匹の河童の體はもはや恐怖ですくむ思ひでした。巨大な眼と化した沼は瞳をぎらぎらとかがやかし、そこに隱れてゐるのは何者だ、ちやんとこの眼で見てゐるのだぞ、と嘲笑してゐるやうにすら思はれました。はじめは月が沼の中心に來るまで待つつもりだつたのですが、彼はもはや忍耐をうしなひました。凝視することの方が行動するよりずつとむづかしいことです。彼はほとんど絶望的な勇氣をふるひおこし、これまで立つてゐた榎のてつぺんから、呻(うめ)きに似た掛け聲を發すると、一直線に、眼下の沼に向かつて、風をおこして飛び降りました。兩手にしつかり網が持たれてゐたことはいふまでもありません。

 はげしい水音とともに、沼の水面はかきみだされ、波紋が岸に向かつてひろがつて行きました。月に網をかぶせた河童は、狂氣のやうになつて、獲(と)つたぞ、獲つたぞ、もう月はないぞ、と叫び立てました。榎の上に待機してゐた友人の河童は恐る恐る眼をあげて、沼を見つめました。その友人の耳に、沼の水面にゐる河童の聲で、さあ、月はもうなくなつたぞう、沼は眼でなくなつたぞう、どこにも瞳はないぞう、といふ歡喜の絶叫がひびきました。しかし、友人はびつくりしたのです。どうしたことでせう? 勇敢な河童が網で月を伏せた筈なのに、その月は河童の頭の皿の中で光つてゐるのです。はじめからおづおづしながらの仕事でしたから、どちらの河童も冷靜さをうしなひ、その神經も錯倒してゐたにちがひありません。友人の河童は錯亂してしまつて、よせばよいのに、榎の上から沼に向かつて、月は君の頭の皿にあるぞう、とどなりました。どうして、かういふ戰慄すべき恐怖に、河童が耐へることが出來ませうか。恐るべき瞳の月が自分の頭の皿に入つたと知つて、河童は悶絶してしまひました。

 北海道の河童殿におたづねしたいのは、ここのところです。勇氣に滿ちた哀れな河童は遂に死んでしまひましたが、かういふ犧牲といふものは一切が無駄事でせうか。無論、月が山の沼に瞳を點じるのは相かはらずです。今でもこの沼にはわれわれ仲間は誰一人寄りつきません。そして、この沼の豐饒さを發見した人間どもが、このごろでは晝となく夜となくやつて來て、鯉鮒を多量に釣りあげて歸るのを、指を銜(くは)へて傍觀してゐるばかりです。この人間どもに發見の機會をあたへたのは、月をとらうとした河童の網です。彼は月をとらへようとしたのに、網に入つたのはたくさんの魚でした。そして、彼が悶絶したまま息絶えて沈んでしまふと、水面に殘つた網の中に、鯉や鮒などがぴちぴとはねまはつてゐるのでした。この網は目が細かくてなかなか沈まなかつたために、翌朝、沼のかたはらを通りかかつた人間によつて發見されたのです。それからこの沼にどつと釣人(つりびと)がおとづれて來るやうになりました。人間どもは月が出て沼にうつつて、沼が眼になつてもすこしも恐れません。それどころか、そんな月夜をかへつてよろこんでゐるのです。

 北方にはかういふことはないでせうか。御意見を聞かせて下きいますと幸です。

(十二月二十九日)

 

        第 二 信

 

 北海道の河童殿、私の長い手紙に對してどうして御返事を下さらないのですか。今日まで待ちましたが、なんの音沙汰もないので、實は少々殘念なのです、でも、きつと忙しいのにちがかありませんから、またこの手紙書きます。何故なら、前の事件と關聯してどうしても知らせなければならぬことが生じましたからで、前信とこの便りとにあはせて御返事賜はらばありがたいです。

 河童が沼の月を取らうとして失敗したことは、人間どもに漁場を教へる癪(しやく)な結果をもたらしたことは前便で傳へましたが、われわれ河童にとつても全然無駄ではなかつたのです。そのことが最近になつてやつとわかりました。それは私たちの藝術に大きなプラスをしたのでした。

 失敗にもかかはらず、彼の犧牲がわれわれを感動させた度合(どあひ)は少からぬものがありました。どんな場合でも反對者はゐますから、彼の行動を暗愚蒙昧(まうまい)、笑ふべき無智の然らしむるものだと嘲る者もありましたけれど、死をも恐れぬ冐險の動機が仲間へ幸福をもたらすためであつたことは明瞭ですから、彼の死を悼(いた)む者はたくさんありました。そこで藝術家たちはこれを讚へる制作をしたのです。作家は小説で、詩人は詩で、畫家は繪で、音樂家は音樂で、彫刻家は彫刻で。

 これらの成果のうち、もつとも話題を投げたのは彫刻です。或る若い彫刻家が月をとる男を主題にしたものを、全精魂と全才能とを傾けて制作にとりかかりました。彼はこの一作をもつて藝術界にデヴユゥし、一大金字塔をうちたてる野心に燃えてゐました。しかし、その意氣ごみと苦心にもかかはらず、なかなか會心の作はできない模樣でした。彼ははじめに、これを藝術化するのは自分をおいて他にないといふやうなことを傲語したり、聲明したりしてゐましたから、いつか責任のやうなものが生じて苦しくなつた樣子です。いく度か試作をしてみたのですが、批評家は寄つてたかつて惡口をいふばかりで、彼の焦躁は日とともに深まり、今や神經衰弱から分裂症狀的狀態にさへなつて來ました。

 彫刻家は月とり作業に協力した友人の河童を顧問にして、完壁な作品を作らうと心魂を注ぎました。しかし、彼にはたつた一だけ不足のものがありました。それは才能です。意慾、情熱、野心は申し分なく、宣傳もはつたりも充分でありましたが、肝心の才能が足りなかつたために、作品は幾十度作りなほしても滿足なものができませんでした。粘土(ねんど)をこねながら原型をつくりますと、批評家に一杯のませてこれを示しますが、どんなに御馳走になつてもそれは義理にも褒めやうがありません。

 彫刻家の立場はだんだん苦しくなりました。こつそり作つてゐたのならそんなこともなかつたのですが、大威張りではじめたので立つ瀨がなくなつて來たのです。さうして、遂に苦境におちいつた彫刻家は、或る日、自殺してしまひました。しかし、その後が大變でした。河童藝術界に大問題が起つたのです。

 彼は遺書を書いてゐますので、覺悟の離世たることに疑ひありませんが、その遺書がまた衒氣(げんき)に滿ちたもので、誰一人自分の進歩的藝術を認めないとは、ことごとく盲目ばかりだ、自分は天國に行つて自分の藝術の價値を問ふ、もう諸君など相手にしない、といふやうな文面なのでした。彼の屍の横はつてゐたアトリヱに知人が葬ひに訪れました。友人の藝術家も批評家もやつて來ました。さうして、彼等はおどろいたのです。アトリヱの中央、彫刻家の遺骸のかたはらにある一個の彫刻、なんともいひやうのない不思議な形、異樣に複雜で奇怪な線と圓、これまでの古くさい形式や故術を琴全に破壞してゐる斬新警拔(ざんしんけいばつ)最な構圖(コンストラクション)、いかにも、恐しい眼となつた沼から、瞳の月を除かうとする河童の情熱や犧牲の感動が、その彫刻のなかに、一つの抽象の形として表現されてゐるやうに見えました。一人の高名な批評家が、これはすばらしいと叫びました。その批評家はうるさいことで有名な男で、死んだ彫刻家をもつとも手きびしくやつつけてゐたのです。彼の眼には一流の藝術作品に接したときに浮かぶ恍惚としたものが溢れてゐました。すると、そこになみゐる連中はその批評家に追隨して、これは傑作だ、神品だ、新藝術の誕生だ、彼はやつぱり天才だつた、と、口々に述べはじめました。

 北海道の河童殿、いかがですか。死んだ彫刻家は天才といふことになり、その奇妙なアブストラクト風の作品はわが藝術界に革命的影響をもたらしたのです。死して新風を送つたわけです。恐しい眼の沼のために、二人の有名な河童が命をすてたわけですが、どちらが偉大でせうか。しかし、後者の場合、殘念なことを一つつけ加へておかねばなりません。それは人々を驚歎させた彼の最後の作品は、制作されたのではなくして破壞されたものだといふことです。どんなにしても滿足なものの完成できない彫刻家は、悲しみと怒りとに燃えて、それまで作つてゐた彫刻をめちやめちやに手や槌で、ぶちこはした後、毒をあふいだのでした。その破壞されたものが新藝術の傑作として認められたわけです。

 北方にはかういふことがあるでせうか。今度は御返事下さいませんか。

(一月二十日)

 

        第 三 信

 

 どうして返事をくれませんか。あんまり失禮ではないですか。僕はわれわれ河童の重大問題について、北方の河童族の意見を徴したのです。それといふのがこれまでの疎遠をあらためて、親善友交を共にしたいと考へたからです。それに對して一言も洩さぬとは、禮儀を知らぬにもほどがある。わけを聞かせて下さい。北方族には、われわれ南方族が遭遇したやうなテーマについて、なんらの問題はないのですか。當世流行のエロ話、河童も行儀がわるくなつて混血兒をたくさん産むやうになつたり、氣が荒くなつて暴力沙汰ばかり起してゐるやうな話題を提供すれば、返事をくれるのですか。いづれにせよ、なんとか意志表示をしていただきたいものだ。

(二月八日)

 

        第 四 信

 

 今日まで待つたが、まだ返事がない。あきれてしまつた。うんともすんともいはぬとは何事だ。我慢してゐたが、もう勘忍袋の緒が切れさうになつた。四通目のこの手紙によこさなかつたら、お前とは絶交だ。

(二月二十八日)

 

        第 五 信

 

 北の河童の馬鹿野郎、貴樣なんかと誰がつきあふものか。

(三月十日)

 

 

 

 北海道に、春が來た。大雪山の雪は消えなかつたけれども、マツカリヌプリのいただきに靑草が萌え、石狩川はにはかに水量を増した。凍結してゐる湖や沼も溶けて、春の花々はいたるところの山野に咲きみだれた。

 雪どけの水が地底を爽やかに流れる音を聞いて、河童は冬眠から醒めた。十二月はじめから三月の終りまで、北海道の河童は冬眠する。河童は寢ぼけ眼をこすつた。あたりを見まはした。かたはらに蓮の葉の手紙の束がある。その一番上の一遍をもの憂い手つきで取つた。讀んだ。第五信目である。河童は血相を變へた。怒りで甲羅をがちがち鳴らした。積んである手紙を蹴とばしずたずたに引き裂いた。それから、ペンを取りあげると、一氣呵成に一通の手紙をいた。

「南の河童の馬鹿野郎、貴樣なんかと誰がつきあふものか」

 

[やぶちゃん注:各書簡の末尾の丸括弧書きのクレジットは底本では最終行と同じ行の右インデントで有意にポイント落ちである。本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本日を以って550000アクセスを突破した記念として作成公開した。【2014年3月3日 藪野直史】

「マツカリヌプリ」北海道後志地方南部に位置する標高一八九八メートルの羊蹄山、別名、後方羊蹄山(しりべつ/しりべしやま)のアイヌの人々の呼称。「深ちゃんのホームページ」の後方羊蹄山によれば、これは「その後ろの部分を廻る川(尻別川と真狩川)がある山」という意味だそうである。]

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