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2014/03/02

夢の後   山之口貘

 夢の後

 

飯を食べてゐるところで眼が開いてしまふた。

 鼻先には朝が來合はせてゐる。顏の重みで草

 が倒れてゐる。昨夜、置きつ放しの足が、手

 が、胴體が、亂雜してゐる。疲勞の重さで僕

 の寢てゐるところの土が窪んでゐる。それら

 の肉體を、熊手のやうに僕は一所に搔き寄せ

 る。僕は僕を一纏めにすると、さて、立ち上

 らうとするんだがよろめいてしまふ。よろめ

 くたびの僕にゆすぶられて、そこに朝が綻び

 かけてゐる。

 この情景を隙見してゐるやうに、僕は飯を食

 つてゐたんだが、と僕はおもふ。

夢にくすぐられて、からまはりしてゐる生理作

 用。生活のなかには僕がゐない。僕は死んで

 しまつたかのやうに、月日の上をうろついて

 ゐる。

『このごろはどうしてゐるんだ

あゝこのごろか! このごろもまた僕はひもじ

 いのである。

だから借して呉れ。

『ないんだ』と聲が言つた。あんまり度々なん

 だから、あるにしてもないんだらう。

僕はガードの上の電車に眼を投げる。眼は電信

 柱の尖端にひつかゝる。往來の頭達の上に眼

 が落ちる。この邊も賑やかになつたもんだが、

 眼は僕の上に落ちる。食べ易いのであらうか、

 よくも情類のやうなやはらかいものばかりを

 僕は、食べて歩いてゐるもんだ。つんぼのや

 うになつて、僕のゐる風景を目讀してゐると、

 誰かゞ、僕の肩を叩いてゐる。

『空腹になるのがうまくなつたんだらう』

 

[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和九(一九三一)年四月号『改造』。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」によれば、この雑誌には旧全集に載らない新発見の長詩(バクさんにしては、である)「發聲」という詩と同時掲載されたとある(近い将来、この「發聲」は電子化するので、それまでお待ち戴きたい。新全集の「既刊詩集未収録詩篇」は順番に電子化しているので悪しからず)。

 本詩は一部に以上のような繋がった一行の一字下げとは異なる一字下げという特殊な技法が用いられている。底本では一行字数が多いので全体の行数はもっと少ないが、ブログの文字サイズを大きめにしても改行が起こらず、しかも貘の特殊字下げの差別化を有効に見せて、更に句読点や一字空けが行末で出っ張りとして生じないような字数を勘案し、以上のように表記した。「?」は明らかに濃く大きいので太字とした(「定本 山之口貘詩集」を底本とする新全集の方ではそうした操作はなされていない)。太字「情類」は底本では傍点「ヽ」である。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」との異同は以下の通り。

・句読点は除去され、読点と途中にある句点は字空けとなっている。

・一行目の「熊手のやうに僕は一所に搔き寄せる」が「熊手のやうに僕は一ケ所に搔き寄せる」。なお、新全集では「ケ」を「ヶ」で表記するが、旧全集校異は「ケ」である。

・「『ないんだ』と聲が言つた」で改行され、「あんまり度々なんだから、あるにしてもないんだらう」は次行送り。

・「この情景を隙見してゐるやうに、僕は飯を食つてゐたんだが、と僕はおもふ。」は行頭から記されている(「定本 山之口貘詩集」を底本とする思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」に拠る)。

・「つんぼのやうになつて、僕のゐる風景を目讀してゐると、誰かゞ、僕の肩を叩いてゐる。」は行頭から記されている(「定本 山之口貘詩集」を底本とする思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」に拠る)。則ち、ここ、底本の旧全集では前の「食べ易いのであらうか、よくも情類のやうなやはらかいものばかりを僕は食べて歩いてゐるもんだ。」が行末で終わっているためにどうみても連続した詩句としか読めないものが、実は独立句であったことが分かるのである。これは大きな相違である。

 以上から、この特殊な字下げによって今まで旧全集に拠って読んでいた我々は、ある意味、間違った読み方をしてしまっていた可能性がここに浮上してくる。そこでこの特殊な字下げを無視した上で「定本 山之口貘詩集」通りの句読点を除去した詩形を読み易く示したいと思う(但し、漢字は私が恣意的に正字化したママで、しかも「?」は「」、「ヶ」は「ケ」で、である)。バクさん、私の我儘を、どうか、お許しあれ。

 

 夢の後

 

飯を食べてゐるところで眼が開いてしまふた 鼻先には朝が來合はせてゐる 顏の重みで草が倒れてゐる 昨夜 置きつ放しの足が 手が 胴體が 亂雜してゐる 疲勞の重さで僕の寢てゐるところの土が窪んでゐる それらの肉體を 熊手のやうに僕は一ケ所に搔き寄せる 僕は僕を一纏めにすると さて 立ち上らうとするんだがよろめいてしまふ よろめくたびの僕にゆすぶられて そこに朝が綻びかけてゐる

この情景を隙見してゐるやうに 僕は飯を食つてゐたんだが と僕はおもふ

夢にくすぐられて からまはりしてゐる生理作用 生活のなかには僕がゐない 僕は死んでしまつたかのやうに 月日の上をうろついてゐる

『このごろはどうしてゐるんだ

あゝこのごろか! このごろもまた僕はひもじいのである

だから借して呉れ

『ないんだ』と聲が言つた

あんまり度々なんだから あるにしてもないんだらう

僕は ガードの上の電車に眼を投げる 眼は電信柱の尖端にひつかゝる 往來の頭達の上に眼が落ちる この邊も賑やかになつたもんだが 眼は僕の上に落ちる 食べ易いのであらうか よくも情類のやうなやはらかいものばかりを僕は食べて歩いてゐるもんだ

つんぼのやうになつて 僕のゐる風景を目讀してゐると 誰かゞ 僕の肩を叩いてゐる

『空腹になるのがうまくなつたんだらう』

 

 ここにきて、前の「挨拶」を見ても、この特殊な字下げは直接話法を含む詩に対して、バクさんが好んで用いる傾向が強い、一種のシナリオのト書き的な特殊な形式であるように私は感じている。但し、この詩の場合はそれが上手く機能していないように思われるが、如何であろう?]

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