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2014/03/15

北條九代記 蒲原の殺所謀 付 北陸道軍勢攻登る 承久の乱【二十一】――北陸道の朝時軍、親不知小不知を突破

      ○蒲原の殺所謀 付 北陸道軍勢攻登る

北陸道より向はるゝ式部丞朝時(ともとき)は、五月晦日に越後國府中に著て勢揃し、加地(かぢの)入道父子三人、太湖(たいこの)太郎左衞門尉小出〔の〕四郎左衞門尉五十嵐黨(たう)を始として、都合その勢四萬餘騎、越後、越中の境なる蒲原(かんばら)と云ふ所に行(ゆき)掛る。此所は極めたる殺所(せつしよ)なり。一方は岸高くして、人馬更に通ひ難く、一方は荒磯にて風烈しき折節は船路も亦心に任せず。岸に添ひたる細道を認めて行くには、馬の鼻を四五騎並べても通(とほり)得ず。僅に一二騎づつ身を峙(そばだ)てゝ打過ぐる。市降淨土(いちふりじやうど)といふ所に、逆茂木(さかもぎ)を引きて、宮崎〔の〕左衞門尉政時と云ふのもの、近邊の溢者共(あぶれものども)三百餘人を集めて堅めたり。上の山には石弓を張(はり)設けて、敵押掛(おしかゝ)らば弛(はづ)し掛けんと用意したり。關東勢如何すべきと案じ煩ふ所に、加地入道申しけるは、「善(よき)謀(はかりごと)の候ぞや」とて、近邊の在家に人を遣し、七八十疋の牛を取集め、兩の角に續松(たいまつ)を結(ゆひ)付けて日の暮るるをぞ待掛けたる。既に夜に入りければ、かの續松に火を燈して、道筋を追(おひ)續けたりしかば、數多の牛共續松に恐れて走り掛り突(つき)通る。上の山より是を見てすはや敵の寄るぞとて、石弓のある限り一同に弛(はづ)し掛けたれば、數多の牛共これに打たれて死す。軍兵等は事故なく打過ぎて、夜も曙になりける比、逆茂木近く押寄せて見たりければ、折節海の面は凪になりて、風靜(しづか)に波もなし、究竟(くつきやう)の時分なりとて汀(なぎさ)に添うて馬を打入れ、海を渡して向ふもあり。足輕共は. 手に手に逆茂木取除けて、打て通る。逆茂木の内には、郎従共僅に四五十人計(ばかり)篝(かゞり)を燒(た)いて居たりけるが、大勢の向ふを見て、皆打捨てて山の上に逃げ上(のぼ)る。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十一】――北陸道の朝時軍、親不知小不知を突破〉この章も分割する。標題は「蒲原の殺所(せつしよ)謀(はかりごと) 付(つけたり) 北陸道軍勢攻(せめ)登る」と読む。「殺所」は難所のこと。

「越後、越中の境なる蒲原」「蒲原」郡は越後の中央北部の地名であるが、ここで語られる「此所は極めたる殺所なり。一方は岸高くして、人馬更に通ひ難く、一方は荒磯にて風烈しき折節は船路も亦心に任せず。岸に添ひたる細道を認めて行くには、馬の鼻を四五騎並べても通得ず。僅に一二騎づつ身を峙てゝ打過ぐる」という場所は寧ろ、まさに「越後、越中の境」にある「殺所」即ち難所、親不知子不知に相応しい。また、すぐ後に「市降淨土」とあって、この「市降」とはまさにあの「奥の細道」の現在の新潟県糸魚川市大字市振のことである。因みにこの「淨土」という名称は更に「市振」の東の直近にある、親不知の西の端の「浄土崩れ」のことを指し、東から来た旅人が難所の親不知を越え来た果てに「ここは浄土のようだ」と安堵したことに由来すると伝わっている海岸沿いの地形の呼称である。

「七八十疋の牛を取集め、兩の角に續松を結付けて日の暮るるをぞ待掛けたる。……」以下は、「源平盛衰記」の木曽義仲の倶利伽羅(この場所は次文で「砥竝山」として出る)合戦でよく知られた火牛の計である。ここまでそっくり(しかも位置も相対的には近い)だと、やはりこの本邦の「火牛の計」そのものが後代の潤色である可能性が高いと言えよう(ネタ元は中国戦国時代の斉の武将田単が用いた「火牛の計」で、原話では角に剣を、尾に松明を括り付け、突進する牛の角の剣が敵兵を刺し殺しつつ、しかも尾の炎が敵陣に燃え移って大火災となるという設定になっている。この「火牛の計」の部分は
ウィキ倶利伽羅峠の戦いの記載を参照した)。

 以下、「承久記」(底本の編者番号51及び52のパート)の記載。

 式部丞朝時ハ、五月晦、越後國府中ニ著テ勢汰アリ。枝七郎武者・加地入道父子三人・大胡太郎左衞門尉・小出四郎左衞門尉・五十嵐黨ヲ具シテゾ向ケル。越中・越後ノ界ニ蒲原卜云所アリ。一方ハ岸高クシテ人馬更ニ難ㇾ通、一方ハ荒磯ニテ風烈キ時ハ船路心ニ任セズ、岸ニ添タル同ソ道間ヲ傳フテトメユケバ、馬ノ鼻五輪十騎雙べテ通ルニ不ㇾ能、僅ニ一騎計通ル道也。市降淨土ト云フ所ニ道茂木ヲ引テ、宮崎左衞門堅メタリ。上ノ山ニハ石弓張立テ、敵ヨセバ弛シ懸ント用意シタリ。人々、「如何ガスベキ」トテ、各區ノ議ヲ申ケル所ニ、式部丞ノ謀ニ、濱ニイクラモ有ケル牛ヲトラヘテ、角サキニ續松ヲ結付テ、七八十匹追ツヾケタリ。牛、續松ニ恐レテ走リ突トヲリケルヲ、上ノ山ヨリ是ヲ見テ、「アハヤ敵ノ寄ルハ」トテ、石弓ノ有限ハズシ懸タレバ、多ノ兵、被ㇾ討テ死ヌ。

[やぶちゃん注:「同ソ道」不詳。「ホソ道」か。]

 去程ニ石弓ノ所ハ無事故打過テ、夜モ明ボノニ成ケルニ、逆茂木近押寄テ見レバ、折節海面ナギタリケレバ、賤木尻吹ノ早雄ノ若者共、汀ニ添テ、馬強ナル者ハ海ヲ渡シテ向ケリ。又足輕共、手々ニ道茂木取ノケサセテ通ル人モアリ。逆茂木ノ内ニハ、人ノ郎從トヲボシキ者二三十人、カヾリ燒テ有ケルガ、矢少々射懸ルトイへ共、大勢ノ向ヲ見テ、皆打捨テ山へニゲ上ル。其間ニ無事故通リヌ。

 

・「賤木尻吹ノ早雄」不詳。「賤木」は樵若しくはそうした林業に携わった人々の呼称か?また「尻吹」は北陸道へ抜ける際に通過した現在の福島県大沼郡金山町尻吹峠か?(「賤木尻吹」でセットの地名かも知れない) 「早雄」が分からぬが、神名(諏訪大社の祭神建御名方命の子出早雄命)に由来する神社若しくは何らかの神事に纏わる担当職の呼称か? もしかすると「賤木尻吹ノ早雄ノ」は単に徒歩侍の「若者共」を指し修飾しているだけの語かも知れぬ。識者の御教授を乞うものである。]

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