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2014/03/18

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 御殿蹟

    ●御殿蹟

社後の海濱を御殿原と云、相傳ふ賴朝別館の跡なりと、案するに將軍賴朝、實朝、賴經の諸公、屢此地に遊覽の事、東鑑に見ゆ、然らは此館當時休憩の爲に設けられしなるべし。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

東鑑曰元曆元年五月大十九日武衛相伴池亞相右典厩等逍遙海濱給自由比浦御乘令着杜戸岸給御家人等面々餝舟船海路之間各取棹爭前途其儀殊有興也於杜戸松樹下有小笠懸是士風也非此儀者不可有他見物之由武衛被仰之客等入興建保二年二月十四日將軍家被催炬霞之興令出杜戸浦給長江四郎明義儲御駄餉於彼所有小笠懸壯士等各施其藝漸及昏待明月之光棹孤舟自由比濱還御安貞二年四月十六日將軍家爲御遊覽渡御杜戸武州駿河前司以下郎從及夜陰還御六月大廿六日將軍家爲御遊興御出杜戸有遠笠懸相撲以下御勝負武州被獻垸飯又長江四郎以下進御駄餉盃酒之間有管絃等入夜自船還着由比浦寛喜元年二月二十二日竹御所以下自三崎還御駿河前司兼遣四郎家村於杜戸邊儲御駄餉盡善極美者也案するに竹御前は將軍賴經卿の御臺所なり九月七日將軍家爲海邊御遊覽御出杜戸浦是御不例御平愈之後御出始也相州武州被參有犬追物數輩供奉二月七日將軍家渡御杜戸遠笠懸流鏑馬犬追物二十四等也

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の引用は頼経の遊覧記事の「九月七日」が「九月十七日」の誤りである以外は、比較的正しく引用されている。但し、一部に省略や略述している部分があるので、それぞれを以下に正しく引用し、書き下しておく。

 まず最初の元暦元(一一八四)年五月十九日の頼朝遊覧の記事から。当時、頼朝は満二十七歳。

 

〇原文

十九日丙午。武衞相伴池亞相〔此程在鎌倉。〕右典厩(うてんきふ)等。逍遙海濱給。自由比浦御乘船。令著杜戸岸給。御家人等面々餝舟舩。海路之間。各取棹爭前途。其儀殊有興也。於杜戸松樹下有小笠懸。是士風也。非此儀者。不可有他見物之由。武衞被仰之。客等太入興云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十九日丙午。武衞、池亞相(いけのあしやう)〔此の程、鎌倉に在り。〕右典厩等を相ひ伴ひ、海濱を逍遙し給ふ。由比浦より御乘船、杜戸の岸へ著かしめ給ふ。御家人等、面々に舟舩(しふせん)を餝(かざ)り、海路の間、各々棹を取りて前途を爭ふ。其の儀、殊に興有り。杜戸の松樹の下に於いて小笠懸(こかさがけ)有り。

「是れ、士風なり。此の儀に非ずば、他の見物、有るべからず。」

の由、武衞、之を仰せらる。客等、太(はなは)だ興に入ると云々。

 

・「池亞相」平清盛の異母弟池大納言頼盛。彼の母池禅尼の助命を受けた頼朝から厚遇されていた彼は、この前年寿永二年の木曽義仲の京都制圧の直後に京を脱出したものと思われ、「玉葉」の寿永二年十一月六日条には頼盛が既に鎌倉に到着したという情報が記されてある。「亞相」は丞相(じょうしょう)に亜(つ)ぐの意で大納言の唐名。当時五十一歳。

・「右典厩」親幕派の公卿で頼朝の義弟に当たる一条能保。彼も前年の閏十月に叔父で平頼盛の娘婿でもあった公卿持明院基家とともに京都から鎌倉へ脱出していた。右典厩は馬寮(めりょう)の唐名。当時三十七歳。

・「小笠懸」「笠懸」は馬に乗って走りながら弓を射る競技の総称で、平安末期から鎌倉時代にかけて盛んに行われた。本来は射手の笠を懸けて的としたが、後には円板の上に牛革を張り、中に藁などを入れたものを用いた。「小笠懸」は四寸(約十二センチメートル)四方の小さな的を馬上から射る笠懸である。

・「士風」坂東武士の士風。

 

 次に、建保二(一二一四) 年二月十四日の実朝の遊覧記事。実朝は当時、満二十一歳。

 

〇原文

十四日己酉。霽。將軍家被催烟霞之興。令出杜戸浦給。長江四郎明義儲御駄餉。於彼所有駄餉。壯士等各施其藝。漸及黄昏。待明月之光。棹孤舟。自由比濱還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日己酉。霽る。將軍家、烟霞の興を催され、杜戸浦に出でしめ給ふ。長江四郎明義、御駄餉(おんだしやう)を儲(まう)く。彼の所に於いて小笠懸有り。壯士等、各々其の藝を施し、漸くに黄昏に及ぶ。明月の光を待ち、孤舟に棹さして、由比の濱より還御すと云々。

 

・「餉」平凡社「世界大百科事典」によれば、本来は「だしょう」で馬につけて送る飼葉をいう語であったが、平安・鎌倉時代以降は通常「だこう」「だごう」と読んで外出先での食事を指す語となった。上は貴族・将軍から一般武士・僧侶等まで身分ある者について広く用いられたが、用例からすると、外出や従軍の際に持参する旅籠(はたご)・腰兵粮(こしびょうろう)や招待先の邸宅での正式の供応を「駄餉」と呼ぶことはなく、専ら旅行・行軍・巻狩・遊山などに於ける宿所・仮屋・野営地などでの臨時の逗留地で摂る食事を呼んだとある。幕府公文書であることを鑑み、「だしやう(だしょう)」で読んだ。

 

 次に安貞二(一二二八)年四月十六日の第四代将軍藤原頼経の遊覧記事。当時の頼経は未だ満十歳であった。

 

〇原文

十六日己未。將軍家爲御遊覽。渡御杜戸。武州。駿河前司以下扈從濟々焉。及夜陰還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日己未。將軍家、御遊覽の爲に杜戸へ渡御す。武州、駿河前司以下の扈從濟々(せいせい)たり。夜陰に及びて還御すと云々。

 

・「武州」北条義時。当時六十五歳。

・「駿河前司」三浦義村。生年は不詳乍ら、当時は七十歳を越えていたと考えられる。頼経に近侍していた。

・「濟々たり」多くて盛んなさま。

 

 同じく頼経遊覧の同安貞二(一二二八)年六月二十三日の記事。

 

〇原文

廿六日丁夘。天霽。將軍家爲御遊興。御出杜戸。有遠笠懸相撲以下御勝負。

射手

 相摸四郎     同五郎

 越後太郎     小山五郎

 結城七郎     佐原三郎左衞門尉

 上総太郎     小笠原六郎

 城太郎      佐々木八郎

 伊賀六郎左衞門尉 横溝六郎

武州被獻垸飯。又長江四郎以下進御駄餉。盃酒之間有管絃等。入夜。自船還著由比浦。被儲御輿於此所。即入御幕府云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日丁夘。天、霽る。將軍家、御遊興の爲に、杜戸へ出御す。遠笠懸・相撲以下の御勝負有り。

射手(いて)

 相摸四郎     同五郎

 越後太郎     小山五郎

 結城七郎     佐原三郎左衞門尉

 上総太郎     小笠原六郎

 城太郎      佐々木八郎

 伊賀六郎左衞門尉 横溝六郎

武州、垸飯(わうはん)を獻ぜらる。又、長江四郎以下、御駄餉を進ず。盃酒の間、管絃等有り。夜に入りて、船より由比の浦に還著す。此の所に於いて御輿を儲けられ、即ち幕府に入御すと云々。

 

 続いて、安貞三(一二二九)年二月二十二日の竹の御所の遊覧記事。竹の御所(建仁二(一二〇二)年~天福二(一二三四)年)は本文に注する通り、第四代将軍藤原頼経の正妻。第二代将軍源頼家娘。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の頼経に嫁いだ。婚姻の四年後に懐妊、源氏将軍の後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男子を死産、本人も死去した。享年三十三歳。彼女の死によって頼朝の血筋は完全に断絶した。頼経との夫婦仲は円満であったと伝えられる(ここはウィキの「竹御所」に拠った)。

 

〇原文

廿二日辛酉。晴。竹御所已下自三崎還御。駿河前司兼遣四郎家村於杜戸邊。儲御駄餉。盡善極美者也。及黄昏。入御武州御亭。依爲凶會日。竹御所今夜御止宿也。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿二日辛酉。晴る。竹御所已下、三崎より還御す。駿河前司、兼ねて四郎家村を杜戸邊に遣はし、御駄餉を儲く。善を盡し、美を極める者なり。黄昏に及び、武州の御亭へ入御す。凶會日(くゑにち)たるに依つて、竹御所は今夜、御止宿なり。

 

「凶會日」暦注の一つで、干支の組み合わせに基づき、ある事柄をするに際して最凶であるとされる日。二十数種あって月毎に定められた。悪日。

 

 次が誤りの寛喜元(一二二九)年九月十七日の頼経遊覧記事。

 

〇原文

十七日辛巳。晴。將軍家爲海邊御遊覽。御出于杜戸浦。是御不例御平愈之後御出始也。〔去七八月之間御不豫御顏腫云々種々御祈禱在之〕相州武州被參。有犬追物。射手大炊助有時主。足利五郎長氏。小山五郎長村。結城五郎重光。修理亮泰綱。武田六郎信長。小笠原六郎時長。々江八郎。佐原左衛門四郎。佐々木八郎已下數輩也。相州被仰云。駿河次郎折節上洛。尤遺恨云々。駿河前司喜悦顯顏色云々。其後射訖。犬三十餘疋。又御覽例作物。長村時長等施射藝云々。未斜俄暴風起。少其興。及申斜。風猶不休之間。還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十七日辛巳。晴る。將軍家、海邊御遊覽の爲に、杜戸浦に御出。是れ、御不例御平愈の後の御出始(はじめ)なり〔去ぬる七、八月の間御不豫(ふよ)、御顏腫ると云々。種々の御祈禱、之れ在り。〕。相州・武州參らる。犬追物(いぬおふもの)有り。射手、大炊助(おほひのすけ)有時主(ぬし)・足利五郎長氏・小山五郎長村・結城五郎重光・修理亮泰綱・武田六郎信長・小笠原六郎時長・長江八郎・佐原左衛門四郎・佐々木八郎已下、數輩なり。相州、仰せられて云はく、

「駿河次郎、折節、上洛す。尤も遺恨。」

と云々。

駿河前司、喜悦の顏色を顯すと云々。

其の後、射訖んぬ。犬三十餘疋。又、例の作物を御覽す。長村・時長等、射藝を施すと云々。

未の斜(ななめ)、俄に暴風起こりて、其の興、少なし。申の斜に及び、風、猶ほ休(や)まずざる間、還御すと云々。

 

・「不豫」「予」は悦ぶの意で、天皇や貴人の病気。不例。

・「相州」幕府連署であった北条時房。当時、五十四歳。

・「武州」第三代執権北条泰時。当時、四十六歳。

・「犬追物」騎馬で犬を追射する競技。馬場を設けて犬を放ち、これを馬上より射るもの。矢は的である犬を傷つけないように鏃(やじり)の代わりに鳴鏑(なりかぶら)を大きくした蟇目(ひきめ)を装着した。馬場は七十杖(一杖は約七尺五寸、凡そ二・三メートル)四方の竹垣や杭を廻らしたその中央に縄で同心円を二重に設け、通常は三手に分かれて十二騎が一手となり、検見の合図によって開始、白犬百五十匹を十匹ずつ十五度に分けて射た。笠懸・流鏑馬とともに「騎射三物(きしゃみつもの)」の一つとされた(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「駿河次郎」三浦泰村。三浦義村次男。当時、二十五歳(生年元久元(一二〇四)年に従う)。承久の乱の宇治川渡河では足利義氏とともに果敢に攻め込むなど、武勇の誉れ高い武者であった。しかし、後の宝治合戦によって彼の代で三浦一族は滅んだ。

・「例の作物」的打ち用の作り物。

・「未の斜」「斜」は時刻が半ばを過ぎて終わりに近いことをいう。午後三時頃。

・「申の斜」午後五時頃。

 

 最後の寛喜二(一二三〇)年二月七日の頼経遊覧の記事。

 

〇原文

七日己未。天晴。將軍家渡御杜戸。遠笠懸。流鏑馬。犬追物〔廿疋。〕等也。例射手皆以參上。各施射藝云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

七日己未。天、晴る。將軍家、杜戸に渡御す。遠笠懸・流鏑馬・犬追物〔廿疋。〕等なり。例の射手、皆、以て參上し、各々射藝を施すと云々。

 

・「遠笠懸」小笠懸に対する普通の笠懸。的は直径一尺八寸(約五十五センチメートル)の円形(鞣し革で造る)で、これを「疏」(さぐり:馬の走路)より五杖から十杖(約十一・三五~二十二・七メートル)離れたところに立てた木枠に紐で三点留めして張り吊るす。的は一つ(流鏑馬の場合は三つ)。矢は「大蟇目(おおひきめ)」と呼ばれる大きめの蟇目鏑を付けた矢を用い、馬を疾走させながら射当てる(ここはウィキ笠懸に拠った)。]

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