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2014/03/27

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 三ケ岡

    ●三ケ岡

眞名瀨(まなせ)の東に續ける海濱なり、葉山村に屬す、東鑑に佐賀岡と記すもの是なり。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

東鑑曰養和元年六月十九日武衛爲納凉逍遙渡御三浦上總權助廣常者依兼日仰恭會佐賀岡濱郎從五十餘人悉下馬各平伏沙上廣常安轡而敬屈于時三浦十郎義連令候御駕之前に示可下馬之由廣常云公私共三代之間未成其禮者

[やぶちゃん注:現在の一色海岸。バス停に「三ヶ丘」公営駐車場に「三ヶ岡駐車場」の名が残る。

「眞名瀨」現在は「しんなせ」と読む。森戸の北の鼻の東側の海岸をいう。サイト「花の家」のページが附近の地図も写真もあって一目瞭然。

「吾妻鏡」の引用はやや不備があり、面白い顛末部分がカットされているので、「吾妻鏡」の養和元・治承五(一一八一)年六月十九日の条全文を以下に示す。

 

〇原文

十九日甲子。武衞爲納凉逍遙。渡御三浦。彼司馬一族等兼日有結搆之儀。殊申案内云々。陸奥冠者以下候御共。上總權介廣常者。依兼日仰。參會于佐賀岡濱。郎從五十余人悉下馬。各平伏沙上。廣常安轡而敬屈。于時三浦十郎義連令候御駕之前。示可下馬之由。廣常云。公私共三代之間。未成其禮者。爾後令到于故義明舊跡給。義澄搆盃酒垸飯。殊盡美。酒宴之際。上下沈醉。催其興之處。岡崎四郎義實所望武衞御水干。則賜之。依仰乍候座著用之。廣常頗嫉之。申云。此美服者。如廣常可拜領者也。被賞義實樣老者之條存外云々。義實嗔云。廣常雖思有功之由。難比義實最初之忠。更不可有對揚之存念云々。其間互及過言。忽欲企鬪諍。武衞敢不被發御詞。無左右難宥兩方之故歟。爰義連奔來。叱義實云。依入御。義澄勵經營。此時爭可好濫吹乎。若老狂之所致歟。廣常之體又不叶物儀。有所存者。可期後日。今妨御前遊宴。太無所據之由。再往加制止。仍各罷言無爲也。義連相叶御意。倂由斯事云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十九日甲子。武衞、納涼逍遙の爲に三浦に渡御す。彼の司馬一族等は兼日(けんじつ)に結搆の儀有りて、殊に案内申すと云々。

陸奥冠者以下、御共に候ず。上総權介廣常は、兼日の仰せに依つて、佐賀岡の濱に參會す。郎從五十余人悉く下馬し、各々沙上に平伏す。廣常、轡を安じて敬屈(きやうふく)す。時に三浦十郎義連(よしつら)、御駕の前に候ぜしめ、下馬すべきの由を示す。廣常云はく、

「公私共に三代の間、未だ其禮を成さず。」

てへり。伱(しか)る後、故義明舊跡に到らしめ給ふ。義澄、盃酒垸飯(わうばん)を搆へ、殊に美を盡す。酒宴の際、上下沈醉して、其の興を催すの處、岡崎四郎義實、武衞の御水干(ごすいかん)を所望す。則ち之を賜はる。仰せに依つて座に候じ乍ら之を著用す。廣常、頗る之を嫉(ねた)み、申して云はく、

「此の美服は廣常がごときが拜領すべき者なり。義實の樣なる老者に賞せらるの條、存外。」と云々。

義實、嗔(いか)りて云はく、

「廣常、功有るの由を思ふと雖も、義實、最初の忠に比べ難し、更に對揚(たいやう)の存念有るべからず。」

と云々。

其の間、互ひに過言に及び、忽ち鬪諍(とうじやう)を企てんと欲す。武衞、敢へて御詞を發せられず。左右(さう)無く、兩方を宥(なだ)め難きの故か。爰に義連、奔(はし)り來り、義實を叱(しつ)して云はく、

「入御に依つて、義澄、經營を勵ます。此の時、爭(いかで)か濫吹(らんすい)を好むべけんや。若しや老狂の致す所か。廣常の體(てい)、又、物の儀に叶はず。所存有らば、後日を期(ご)すべし。今、御前の遊宴を妨ぐるは、太だ據所(よんどころ)無し。」

の由、再往(さいわう)、制止を加ふ。仍つて各言を罷(や)めて無爲(ぶゐ)なり。義連、御意に相ひ叶ふこと、倂(しかしなが)ら斯の事に由ると云々。

 

・「司馬」三浦介の「介」の唐名。

・「兼日」その日より前。

・「陸奥冠者」毛利(源)頼隆(平治元(一一五九)年~?)。頼朝の曽祖父源義家七男陸奥七郎義隆の三男。以下、ウィキの「源頼隆」に拠る。父義隆が相模国毛利庄を領していたことから毛利頼隆とも呼ばれる。信濃国水内郡若槻庄を領してからは若槻を号した。平治の乱で父義隆は竜華越で源義朝の身代わりとなって討死、源氏が敗北すると平家方による源氏の縁者に対する厳しい探索が行われ、生後五十日余りの乳飲み子であった頼隆も捕えられ、翌年、下総国の豪族千葉常胤の下に配流された。常胤は源氏の貴種である頼隆を庇護し、大切に育てた。治承四(一一八〇)年八月に挙兵した頼朝は石橋山の戦いに敗れて房総に逃れたが、この時いち早く頼朝への加勢を表明していた千葉常胤の館に入った。九月十七日、常胤は頼隆を伴って頼朝の前に伺候し、頼隆を用いるよう申し入れ、頼朝は頼隆が源氏の孤児であることに温情を示し、大軍を引き連れて随身した常胤よりも上座に据えるなどの厚遇を施したという(この時、頼隆は満二十一歳、頼朝は三十三歳)。その後も源氏一門として遇され、文治元(一一八五)年九月三日に頼朝が父義朝の遺骨を勝長寿院に埋葬した際には遺骨を運ぶ輿を頼隆と平賀義信に運ばせ、頼隆・義信・惟義のみを御堂の中に参列させている。建久元(一一九〇)年十月の頼朝上洛、建久六(一一九六)年三月の東大寺落慶供養などにも随行しており、頼朝の死後は所領の信濃国若槻庄に下って従五位下伊豆守に叙せられている。

・「三浦十郎義連」佐原義連(さわらよしつら ?~建仁三(一二〇三)年)。三浦義明末子。義澄は兄。三浦氏の本拠相模国衣笠城東南の佐原(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため佐原氏を称した。ウィキの「佐原義連」によれば、『治承・寿永の乱では一ノ谷の戦いで源義経率いる搦手軍に属し、「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇が『平家物語』に描かれて』おり、文治五(一一八九)年の『奥州合戦にも従軍し、その功により、陸奥国会津を与えられ』た。同年の北条時政の子時房の元服の際には頼朝の命により烏帽子親ともなっている。建久三(一一九二)年の頼朝上洛にも従い、『左衛門尉に任ぜられる。関東御領遠江国笠原荘の惣地頭兼預所も務めた』とあって、末尾の頼朝の信任の厚かったことも分かる。『なお、三浦氏の庶流である佐原氏は、その多くが』宝治元(一二四七)年の宝治合戦で宗家三浦氏とともに滅んだが、『北条氏方に付いた佐原盛時が残り、後に相模三浦氏として再興した。また、鎌倉時代から会津に分かれた庶流は蘆名氏を称して有力な戦国大名となった』とある。

・「岡崎四郎義實」(天永三(一一一二)年~正治二(一二〇〇)年)は三浦義明の弟で三浦氏庶家岡崎氏の祖。相模国大住郡岡崎(現在の平塚市岡崎及び伊勢原市岡崎)を領し、岡崎氏を称した。参照したウィキの「岡崎義実」よれば、『三浦氏は古くからの源氏の家人で、義実は忠義心厚く平治の乱で源義朝が敗死した後に鎌倉の義朝の館跡の亀谷の地に菩提を弔う祠を建立している。義朝の遺児源頼朝の挙兵に参じ石橋山の戦いで嫡男の義忠を失ったが、挙兵直後の頼朝をよく助け御家人に列した。晩年は窮迫したが』、八十九歳の長寿を全うした、とある。また、頼朝が挙兵した際には、嫡男の与一義忠とともに直ちに参じており、『挙兵を前に義実は源氏の御恩のために身命を賭す武士として、特に頼朝の部屋に呼ばれて合戦について相談され「未だに口外していないが、汝だけを頼りにしている」との言葉を受け、感激して勇敢に戦うことを誓った。実は、このように密談をしたのは義実だけではなく、工藤茂光・土肥実平・宇佐美助茂・天野遠景・佐々木盛綱・加藤景廉も同じことを頼朝から言われている。ただ、義実・義忠父子が特に頼みにされていたのは事実で、挙兵前にあらかじめ土肥実平』(義実は実平の姉妹を妻にしていて土肥氏とも関係が深かった)『と伴に北条館へ参じるよう伝えている』とあって、頼朝の信頼が厚かったことは確かである。この時、義実は満六十九歳である。ここの主な登場人物の中で頼朝を除くと生年が明確なのは彼だけであるので、ここで広常が「義實の樣なる老者」と表現し、義連が諌めの言葉の中で「若しや老狂の致す所か」と述べていることから、逆にこの二人の年齢の大まかな相対推定が出来る。広常は五十代か? 義連の方は「老狂」のきつい言葉を面と向かって言い放てること、傲慢な広常をぴしゃりと封じていることからは広常よりも年上で、没年から見ても義実とはそれほど離れていないように思われるから六十代かと思われる。

・「更に對揚の存念有るべからず」「対揚」は匹敵・対等で、ため張って思うような資格はない、儂のなして参った手柄と比較出来るような余地などお前にはない、の謂いであろう。

・「經營」饗応。

・「濫吹」本来は無能な者が才能があるかの如く振る舞うこと、実力がないのにその地位にあることをいう。斉の宣王は竽(う)という笛を聞くのが好きで楽人を大勢集めていたが、竽を吹けない男が紛れ込み、吹いているような真似をして俸給を貰っていたという、「韓非子」の「内儲説(ないちょせつ)上」の故事に基づく。但し、ここは場違いの単なる乱暴狼藉の意で用いている。]

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