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2014/03/17

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 29 吉備楽の返礼としてのメンデンホール・フェノロサ・リーランド・モース四重合唱団公演!

 文部省が外国人教授に聞かせてくれた音楽会の返礼として、大学教授が四人、四重唱団を組織し、いくつかの歌を練習した。四重唱団はメンデンホール、フェノロサ、リーランド及びモースの四教授から成立していた。我々が練習した歌の中には、「巡礼の合唱」、アリオン集中の若干、「オールド・ハンドレッド」〔讃美歌の一〕、「すべての名誉を兵士に捧ぐ」その他があった。二百人という日本人の先生達が集ったが、各々が鉛筆と紙とを持ち、選曲は順序書に印刷され、そして先生達は、彼等の印象を記録することを委嘱された。これ等の記録は取りまとめられ、大部分は飜訳されずに、いまだに歌手の一人の手もとにある。「すべての名誉を兵士に捧ぐ」は大いに勢よく歌ったが、この感情が静かな日本人にとって、むしろいやらしかったと知った時、我々は多少耻しい気がした。その後我々は、日本人が、詩ででも散文ででも、戦争の栄光を頌揚したりしたことは、決して無いということを知った。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の二四九~二五〇頁に、明治一二(一八七九)年一月のモースの多忙ぶりが日録風に記されている中に、『〇二十九日、昌平館で、モース、フェノロサ、メンデンホール、リーランド(東大体操伝習所教師)の四名が四重唱』とあることから、年月日が特定される。しかも、この「昌平館」とは間違いなく旧昌平坂坂学問所=旧昌平黌=湯島聖堂のことと思われ、先の吉備楽の演奏会が、私が推測した通りにやはり同じ場所で行われた可能性を強く示唆するものと思われる。

「メンデンホール」モースが招聘した当時の東京大学理学部物理学教授トマス・メンデンホール(Thomas Corwin Mendenhall 一八四一年~一九二四年)はアメリカ合衆国オハイオ州生まれ。高卒後に独学で数学と物理学を習得し、高校教師からオハイオ州立大学物理学教授となった。モースの推薦で明治一一(一八七八)年十月一日附で東京大学に迎えられた彼は、富士山頂で重力測定や天文気象の観測を行うなど、本邦に於ける地球物理学の濫觴となり、また、モースの官舎の裏に当たる本郷区本富士町(現在の文京区本郷七丁目)に竣工した東京大学理学部観象台(気象台)の初代台長(観測主任)となって、翌明治一二(一八七九)年一月から二年間に亙って気象観測に従事、本邦での地震の頻発を考慮して、観象台への地震計設置を主張したり、日本地震学会の創立にも貢献した。明治一四(一八八一)年の帰国後はオハイオ州立大学教授・陸軍通信隊教授・ローズ工科大学学長・アメリカ科学振興協会(AAAS)会長・海岸陸地測量局長(アラスカの氷河の一つである彼の名を冠したメンデンホール氷河はこの局長時代の仕事を記念して命名されたもの)・ウースター工科大学学長などを歴任し、科学行政にも関与した。米政府のメートル法採用に果たした役割も大きい。明治四四(一九一一)年に日本を再訪している(以上はウィキの「トマス・メンデンホール」に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」のデータを加えてある)。

「フェノロサ」東洋美術史学者で、モースが招聘した当時の東京大学文学部政治学及び理財学教授アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa 一八五三年~一九〇八年) はアメリカ合衆国マサチューセッツ州セーラム生まれ。ハーバード大学で哲学を学び、一八七四年に首席で卒業、二年後に同大学院修了後、一八七七年にボストン美術館付属美術学校で油絵を学んでいた。モースの推薦で明治一一(一八七八)年八月九日附で東京大学に迎えられた彼は、二年後の明治十三年度からは哲学・理財学・論理学担当に変わった。彼の政治学講義は社会有機体説を提唱したハーバート・スペンサーの学説が中心で、当時の自由民権運動の思想的支柱として少なからぬ影響を及ぼし、哲学講義ではヘーゲルなどのドイツ哲学を初めて本邦に紹介した功績が挙げられる。また、来日後間もなく、彼は日本美術に並々ならぬ関心を寄せ、その収集と研究を開始(以前にも注したが、これもモースの陶器収集に触発されたものともいう)、狩野友信・狩野永悳(えいとく)に師事して鑑定法を学んだ。フェノロサの鑑定力は人々に大きな驚きを与えたようであり、後に永悳から「狩野永探理信」という画名をも受けている。一方、日本美術の復興を唱え、明治一五(一八八二)年に龍池会(財団法人日本美術協会の前身)で「美術真説」という講演を行い、日本画と洋画の特色を比較する中で日本画の優秀性を説いて日本美術界に大きな影響を及ぼしてもいる。明治十七年には自ら鑑画会を結成、狩野芳崖・橋本雅邦らとともに新日本画の創造を図った(これらの作品はフェノロサ自身の収集によって現在ボストン美術館・フィラデルフィア美術館・フリーア美術館などに収蔵されている)。 同年に図画調査会委員となって以降、美術教育制度の確立にも尽力、明治二〇(一八八七)年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)を設立(開校は明治二十二年)、同校では美術史の講義を行い、これが本邦初の美術史研究の濫觴となった。古美術保護にも尽力する一方、仏教にも傾倒、明治一八(一八八五)年にはビゲローとともに天台宗法明院(三井寺北院)で桜井敬徳師により受戒、「諦信」の法号も受けている。明治二三(一八九〇)年に帰国してボストン美術館中国日本美術部主任となったが、六年後に辞任、その後も数度来日している。一九〇八(明治四十一)年、ロンドンの大英博物館での調査中に心臓発作で客死した。当初、英国国教会の手によりハイゲート墓地に埋葬されたが、フェノロサの遺志によって火葬された後に日本に送られ、大津の法明院(三井寺(園城寺)寺塔頭で滋賀県大津市園城寺町にある)に改めて葬られた。近代日本での華々しい功績とは裏腹に、フェノロサの後半生は必ずしも恵まれたものではなかった(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「アーネスト・フェノロサ」とを比較参照しつつ、より正確と思われる記載を探り、それに「磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」のデータを加えたものである)。

「リーランド」当時の官立体操伝習所(明治一一(一八七八)年十月に現在の東京都千代田区に設立された体育教員及び指導者の養成機関)教授ジョージ・アダムス・リーランド(George Adams Leland 一八五〇年~一九二四年)。アメリカ合衆国ボストン生まれの医師・教育者。以下、ウィキの「ジョージ・アダムス・リーランド」によれば、明治十一年九月に日本政府の招聘によって来日し、明治一四(一八八一)年七月の離日まで体操伝習所教授として学校体操の指導者養成に尽力した。アマースト大学からハーバード大学医学部に入学、一八七八年医学博士となる。これより先、一八七二年に札幌農学校のクラーク博士の紹介でアマースト大学を訪れていた日本の文部大丞田中不二麿が体操場を見学、田中はここでの体操教育に深く感銘し、日本の学校でもアマースト式体操を課そうと決意、一八七六年にフィラデルフィアでの博覧会視察のために再度訪米した田中が同校学長に体操教師招聘の交渉を行い、その結果として適任者として推薦されたのがリーランドであった。リーランドは明治一一(一八七八)年九月六日に来日、各地の学校を視察して日本の学校体操は軍隊式操練の影響が強過ぎると指摘、同年十月には体操伝習所の開設が決裁され(初代主幹は伊沢修二)、リーランドが指導に当たった。教授内容については当時アマースト大学で行われていた二種類の体操(器械を使ったドイツ体操「重体操」と女性や少年向としてあった「軽体操」)から軽体操を当て、翌年には軽体操で用いられる唖鈴(鉄アレイ)・球竿・棍棒・木環、クロッケー・クリケット・ベースボール用具一式の他、握力器・胸囲巻尺・身長測器等も準備された。明治一二(一八七九)年四月に体操伝習所第一期給費生二十五名が入学、内二十一名が二年後の明治十四年に卒業している。同年七月三十一日附でリーランドは離職、離日した(主に財政上の理由で契約が更新されなかったためとされる。その後、体操伝習所は明治一九(一八八六)年四月に廃止されて高等師範学校体操専修科に引き継がれ、またリーランドもたらした軽体操は彼の通訳を努め自ら体操家となった坪井玄道によりその理論が構築され、「兵式体操」に対して「普通体操」と呼ばれるようになり、この普通体操は明治三三(一九〇〇)年頃にスウェーデン体操が登場するまで学校体育の主たる形式としての地位を保った)。離日後のリーランドはヨーロッパで咽喉学・耳学の研究に専念し、一八八二年十月に帰国、翌年のボストンYMCA体育館医務責任者から本来の医学の道に進み、一九一二年に米国咽喉学会会長就任、一九一四年にはダートマス医学校咽喉科名誉教授となった。大正八(一九一九)年、日本政府から勲四等章を受章した、とある。

「巡礼の合唱」原文“Pilgrim's Chorus”。ワーグナーが一八四五年に完成させた楽劇「タンホイザー」の中でも屈指の名曲。幾つかの動画を見聴きしたが、私は何故か、“Gay Men's Chorus of San Diego performs Wagner's Chor der Pilger (Pilgrim's Chorus) from his Opera Tannhäuser. From GMCSD's "Really Big Songs" show in April 2009.の合唱を推したくなった。

「アリオン集」原文“the Arion collection”。不詳。ドイツ系アメリカ人が一八五〇年に組織した合唱団“Arion Gesangverein”の作った唱歌集か? “Arion”はギリシャの詩人で音楽家の名で、“Gesangverein”(ゲザング・フェァアイン)はドイツ語で合唱団・歌唱サークルの意である。識者の御教授を乞う。

「オールド・ハンドレッド」原文“Old Hundred”。底本では直下に石川氏の『〔讃美歌の一〕』という割注が入る。プロテスタントの頌栄として著名な「詩篇旧百番」。旋律はフランス・ルネサンス期の音楽家ルイ・ブルジョワ(Loys Bourgeois)が作曲したものとされる。ピンとくる合唱に行き当たらないが、取り敢えずをリンクしておく。

「すべての名誉を兵士に捧ぐ」原文“All honor to the soldier be”。最も検索が容易と思われたこの曲がまるで分からない。原文文字列では動画は勿論、ウェヴ検索でもヒットしない。これはお手上げである。識者の御教授を俟つものである。]

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