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2014/03/14

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 28 吉備楽を聴く

M329

図―329

M330_2  

図―330

M331

図―331

 

 今日の午後、我々は文部省から、古い支那学校で行われる音楽会へ招待された。音楽はキビガクとして知られる、二百年にもなる古い形式で、備前の国から来た。音楽会の開かれた広間には、敷物や椅子があり、椅子は広間の両側に三列をなしてならべられ、中央に空地を残してあった。二百人に近い聴衆の、殆ど全部は日本人で、その中には、女子師範学校と幼稚園の先生が、二十名いた。彼等はいずれも、立派な婦人連だった。お互に会うと、如何にも低く、そして儀礼的にお辞儀をしあうのは、興味があった。床の中央にはコト(図329)、即ち日本の竪琴が二台置かれてあった。この楽器は長さ五フィートに近く、支那から来た古い形式である。しばらくすると、総数六人の演技者が入って来た。琴堅に二人、歌い手が二人、他の二人の一人は笛を吹き、一人は古代の支那の書籍に屢々出て来る、ショーと呼ぶ奇妙な楽器(図330)を吹く。これは椰子(やし)の実を半分に切ったような、まるい底部から、長さの異る何本かの竹管が縦に出ているもので、吹奏口は底部の横についている。演奏者は写生図(図331)にあるように、それを両手で持つ。指導者は年とった男で、笛を吹き、時に途法もない音を立てる一種の短いフラジオレット〔篳篥?〕を吹いた。

[やぶちゃん注:「支那学校」原文は“the old Chinese college”。不詳。文字通りの中国語の高等語学学校であるとするならば、学校外務省による「漢語学所」の開設は六年前の明治四(一八七一)年、民間の「興亜会支那語学校」 は前年の明治一〇(一八七七)年開設であるから“old”はおかしい(東京音楽学校の前身である東京府下谷区の官立音楽取調掛(音楽専門学校)は後の明治二〇年の敷設)。内容からは現在の宮内庁式部庁の楽部が相応しいように思われるが、当時、現在のような庁舎内の雅楽舞台があったかどうか定かではなく、しかもそこをモースが“the old Chinese college”と誤認するというのもやや妙な感じがする。……そこで考えてみた。……これはもしや、「湯島聖堂」、のことではあるまいか? ウィキの「湯島聖堂によれば、現在、「日本の学校教育発祥の地」とされ、元禄三(一六九〇)年『林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた』。翌元禄四年二月には神位奉遷が行われて完成『林家の学問所も当地に移転している』。その後、火災や幕府の実学重視政策で荒廃したが、寛政九(一七九七)年、『林家の私塾が、林家の手を離れて幕府の官立の昌平坂学問所となる。これは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれる。「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみを指すようになる。また』、この二年後の寛政十一年には、『長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は一万二千坪から一万六千坪余りとなり、大成殿の建物も水戸の孔子廟にならい創建時の二・五倍規模の黒塗りの建物に改められた』。『ここには多くの人材が集まったが、維新政府に引き継がれた後』(ここの箇所、アラビア数字を漢数字とし、記号の一部を改めた)、明治四(一八七一)年に閉鎖されたとあるものの、『この大成殿は明治以降も残っていた』とあるから、ここが会場とされたとしても何の不思議もない。――しかも創建から当時で既に一八七年が経過しているから十分に“old”だ。――しかも「大成殿」は孔子廟であるから、これは見た目にはまさに“Chinese”であろう。――さらにそこが元の幕府官立昌平坂学問所であったと通訳から聴けばそれはもう、モースは“college”と呼ぶに間違いない! 識者の御教授を乞うものであるが、これは直感的にはかなり自信がある。なお、次の「キビガク」の注も参照されたい。

 

「キビガク」吉備楽 。岡山地方に起った雅楽楽器を用いる明治期成立の音楽で、明治五(一八七二)年頃に岡山藩の伶人(れいじん:明治三(一八七〇)年に太政官に設けられた雅楽局の楽人の呼称。)岸本芳秀が雅楽を元に創始した芸能音楽。古歌などを歌詞とする歌に箏(そう)・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)の伴奏がつく(ここまでは平凡社「世界大百科事典」に拠る)。の一部を掲載しています。岸本芳秀(文政七(一八二一)年~明治二三(一八九〇)年)は現在の岡山市内の神社の神官を務めて岡山藩楽人でもあった岸本家に生まれた。明治五(一八七二)年頃に雅楽を基盤とした大和舞の要素も加味しつつ、大衆化させた「吉備楽」を創作、まさにこの明治一一(一八七八)年に岡山県令高崎五六の要請を受けて上京、青山御所を初めとして東京各所で吉備楽の演奏会を行ない、一躍、吉備楽は全国へと広がった、と岡山県立図書館のレファレンスデータベースの「岸本芳秀」にある。この記載と文部省主催であることなどからは、この青山御所(旧紀州徳川家江戸中屋敷跡、現在の迎賓館のある赤坂離宮の敷地内の一画)が、モースのいう「支那学校」のであった可能性はある。しかし、だとすればそこを“the old Chinese college”と誤認する要素が今一つであると私は思う。湯島聖堂の方が遙かに可能性が高いことがご理解頂けるものと思う。

「女子師範学校」東京女子師範学校。明治七(一八七四)年に設立された官立師範学校。明治一八(一八八五)年の東京師範学校への統合を経て、明治二三(一八九〇)年に女子高等師範学校として分離・改組され、明治四一(一九〇八)年東京女子高等師範学校に改称された。現在のお茶の水女子大学の旧制前身校(以上はウィキの「東京女子師範学校」に拠った)。

「指導者は年とった男」岸本芳秀と思われる。但し当時は未だ今の私と同じ五十七歳である。四十歳の外国人のモースから見ると、その風体は相当な老人に見えたものか。

「時に途法もない音を立てる一種の短いフラジオレットを吹いた」底本では「フラジオレット」の下に石川氏の『〔篳篥?〕』という割注が入る。「一種の短いフラジオレット」(原文“a kind of short flageolet”)のフラジオレットはフラジョレット(英語:Flagioletto tones)とは西洋音楽におけるフィップル・フルートファミリーに属する木管楽器で、十六世紀に開発され、ティン・ホイッスルに受け継がれ、二十世紀に至るまで製造され続けた楽器。今日では演奏されることは滅多にないが、この楽器の音色は非常に柔和で上品であり、他の楽器に代え難い独特の魅力を有しているとィキの「フラジオレット」にある(フラジョレットには現在、この『楽器フラジオレットのような柔和な音を出すべく楽器を通常でない方法で奏することにより特定の倍音が浮き立つように発生させ、それを基音のように聞かせることで通常の奏法とは異なった音色をかもし出す特殊な奏法、あるいはその特殊な奏法により出される音』を指す音楽用語の解説が続く)。ウィキには別に「フラジオレット(楽器)」もあり、そこにある“Flageolettflöjt 1800-talet - Collection privée Dominique Enon”の写真を見ると、本邦の篳篥(グーグル画像検索「篳篥」)に似ている感じが私にはする。]

 

 演奏は先ず例の老人が、不愛想な唸り声を、単調な調子でいく度か発することによって開始された。食いすぎた胡瓜が腹一杯たまっていたとしても、彼はこれ以上に陰欝な音を立てることは、出来なかったであろう。事実それは莫迦げ切っていて、私は私の威厳を保つのに困難を感じた。彼がかくの如き音を立てている間に、一人の演奏者が、琴でそれに伴奏をつけ出した。これが一種の序曲であったらしく、間もなく若い男の一人が歌い始め、老人は笛を吹き、楽器はすべて鳴り出し、筝はバッグパイプに似た音で、一つか二つの音色の伴奏を継続した。曲の一つ一つは、その名こそ大いに異れ、私にはいずれも非常に似たものに聞えた。この吉備楽は、聞いていて決して不愉快ではないが、我々の立場からは、音楽とは呼び得ない。ある曲には、「春の夜の月」という名がついていた。別のには、ある将軍の名がついていた。また別なのは、有名な川に寄題され、更にもう一つの、これはいつ迄立っても終らぬぞと思った曲は、誠に適切にも、「時」という名で呼ばれていた。

[やぶちゃん注:「バッグパイプ」底本では直下に『〔スコットランド人の用いる風笛〕』という石川氏の割注が附く。ウィキの「バグパイプ」によれば、リード『の取り付けられた数本の音管(パイプ pipe )を留気袋(バッグ bag )に繋ぎ、溜めた空気を押し出す事でリードを振動させて音を出すものである。 バグパイプの発声原理は有簧木管楽器と同じであり、一種の気鳴楽器ではあるが、必ずしも一般的な意味での「吹奏楽器」ではない』とある。「風笛」という語は袋笛とともに現代中国語でもバグパイプを指す。

『ある曲には、「春の夜の月」という名がついていた。別のには、ある将軍の名がついていた。また別なのは、有名な川に寄題され、更にもう一つの、これはいつ迄立っても終らぬぞと思った曲は、誠に適切にも、「時」という名で呼ばれていた』個人的には悪いけれど、興味がないものの、これらの楽曲の名の記載は現代に伝わる吉備楽(現在は教派神道の金光教や黒住教と深く関わって継承されているらしい)の向後のためにも、これらの曲を同定しておく必要があるように思われるとのみ記しおくこととする。]

 

 長い休憩時間に、私は室外へ出、葉巻に火をつけて、しばらく構内を散歩した。再び管絃楽が開始された時、私の葉巻はまだ残っていたので、私は注意深くそれを風が吹いても吹き散らさせぬ、一隅の、階段の上に置いた。次の休憩時間に、葉巻を求めて出て来た所が、それは失踪している。いく分不思議に思って見廻していると、巡査が一人来て、質問するような様子をしながら、厳粛に私が葉巻を置いた場所を据さした。私が日本語で「イエス」と答えると、彼は廊下の端に置いてある、いくつかの火の箱、即ちとヒバチを指示した。行って見ると私の葉巻が、一つの火桶の端に注意深く、燃えさしが落ちても灰の中へ置ちるようにして置いてあった。日本人は火事に対しては、このように深く注意する。

 

 一人の男が、日本の、緩慢な、そして上品な舞踊の一つを舞った。これは明確な意味に於るダンスではなく、足を踏みつけたり何かして、いろいろな身振をする劇なのである。これは劇の古い形式を示している点で興味が深かった。「これは我々の言葉の意味に於る音楽だろうか」という質問が、間断なく起った。音楽ではあるが、我々のとは非常に違う。演奏者の真面目な、受働的な顔に微笑が浮ぶというようなことは決してない。我々の歌い手は、歌詞に霊感を感じると、鼻孔を大きくし、眼を輝かし、頭を振るが、こんなことも丸でない。こんなに単調な音からして、霊感なり興奮なりを受けることは、不可能であろうと思われる。最も近い比較は、我国の、音楽のまるで分らぬ老人が、たった一人材木小屋にいて、間ののびた、どっちかといえば陰気な讃美歌を、ボンヤリ思い出そうとしていることである。この印象は、日本の音楽に就ては全然何も知らぬと、正直に白状した人が、感じた所のものなのである。我々は日本の絵画芸術のある形式、例えば遠近法を驚く程無視した版画や、野球のバットのような釣合の大腿骨を持ち、骨格は、若しありとすれば、新しい「属」として分類されるであろうような人体画やを、莫迦気ていると考えたが、而も我国の芸術家は、これ等の絵に感嘆している。だから日本の音楽も、あるいは、現在我々にはまるでわからぬ、長所を持っていることが、終局的には証明されるようになるのかも知れない。

[やぶちゃん注:この段はすこぶる面白い。既に以前から日本人の非音楽性を述べ、和旋律には美を感じ得ないモースが、それでも最後には邦楽の美の発見へ好意的な将来的期待を抱いている辺り、まっこと日本が好きで好きでたまらない彼の姿が垣間見えるシーンである。]

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