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2014/03/26

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 二階明神

    ●二階明神

明神と號すれと祠廟(しべう)あるにあらず、墳墓にて村の西北陸田の間にあり、塚上松樹あり、圍六尺、樹下五輪塔三基あり、一基は大乾元二年七月の字仄(ほのか)に見ゆ、二基は小にして文字剝落す、二階堂出羽入道沙彌行然の墓所と云傳ふ。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

二階堂系圖を按ずるに、藤原行盛入道行然は行光の子、初左衛門少尉に任し、建保六年十二月民部少尉に轉じ、元仁元年閏七月政所執事となり、嘉祿元年剃髮して行然と號す、此年評定衆に加はる、建長五年十二月九日卒す、年七十三、乾元は建長を下る事凡五十年の後なり、行光の弟行村の曾孫左衛門尉行藤、後出羽守に任し、正安三年剃髮して道我と號す、乾元元年八月廿七日卒、年五十七、若くは此人の碑なるにや、村内慶增院は寛治中行然開基すと傳ふれば、二小碑の内、若くは行然の墓標あるも知べからず。

[やぶちゃん注:この大型の五輪塔一基は現在、京急神武寺駅直近の逗子市池子二丁目にある東昌寺(鎌倉の廃寺で北条氏が滅亡した名刹東勝寺の後身と伝える)境内にある。同寺公式サイト内の「境内・宝物」の頁に「旧慶増院五輪塔」とあってそこには、『東昌寺本堂の前に、国の重要文化財(建造物)に指定されている五輪塔が祀られています。この五輪塔は、かつて葉山町堀内の慶増院という真言宗の寺の墓地にあったものです。この寺は、後に高養寺と改名されました』とあって、五輪塔の写真も附されている。解説によれば安山岩製で高さ一四一センチメートル、地輪に「沙弥行心帰寂、乾元二年癸卯七月八日」の銘が刻まれているとあって、そこでも『鎌倉時代の武将の二階堂行然のの墓であろうと伝えられてい』るとし、さらにこの墓は昭和五一(一九七六)年に東昌寺に移転安置されたとある。更に逗子市の公式サイト内の「逗子市内の重要文化財」を見ると、『この五輪塔は、かつて葉山町堀内の慶増院にあったものと伝えられています。近世に無住となった慶蔵院は、昭和初期に葉山に別荘を持っていた政治家の高橋是清と犬養毅らの援助を得て再興されました。この際に寺名を「高養寺」と改められたのち、逗子市小坪の「波切不動」の再興に伴って、本堂と五輪塔が移築され』たものの、後に高養寺がこの池子の東昌寺の持ち分となったことから、昭和五十一年に東昌寺に移設されて現在に至っているという事蹟が判明する。加えて、『水輪には金剛界大日如来をあらわす梵字の「バン」』が刻まれており、『鎌倉時代末期の中型五輪塔として、地域の基準となる貴重な文化財』であるという記載もある。これらが伝承としての行然墓をそのままに載せているのに対し、本文の記載は寧ろちゃんとした考証を試みようとしていて好感が持てる。なお、ネット上の画像の視認であるが(私はこの寺に参ったことはない)、同墓には現在、説明版が建てられてあって、そこにはこの「行心」を、第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)の御家人二階堂信濃守行心入道の墓と伝えられているとある。さらに当該リンク記事では、この墓石の年号についての複数の記載の、奇妙な齟齬を指弾されてもいる。必読。

「六尺」約一・八メートル。

「乾元二年」嘉元元・乾元二年は西暦一三〇三年。

「二階堂出羽入道沙彌行然」二階堂行盛(養和元(一一八一)年~建長五(一二五三)年)は二階堂行政の孫で政所執事・評定衆。父二階堂行光の後は政所執事は行光の甥伊賀光宗となったが、光宗が元仁元(一二二四)年の伊賀氏の変(伊賀光宗とその妹で義時後妻(継室)であった伊賀の方が伊賀の方の実子政村の執権就任と娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した事件)によって流罪となり、行盛が任ぜられた(「吾妻鏡」貞応三(一二二四)年閏七月二十九日の条)。嘉禄元(一二二五)年に出家して法名を行然と名乗ったが、致仕した訳ではなく、七十二歳で没するまで同現職にあった。以降、この家系がほぼ政所執事を世襲した。没後は行盛の子二階堂行泰が継いだが、その子の早死になどで行盛の他の子、行泰の弟の二階堂行綱、二階堂行忠の家に移り、弘安九(一二八六)年には行忠からその孫の二階堂行貞に受け継がれた(以上はウィキの「二階堂行盛」に拠る)。さらにウィキの「二階堂氏」によると、『二階堂氏は藤原姓で、南家藤原武智麻呂の子孫を称している。工藤行政が文官として源頼朝に仕え、二階堂が存在した鎌倉の永福寺周辺に屋敷を構えたので二階堂氏を称したという。行政には行光と行村の二人の子がいた。行光は鎌倉幕府の政所執事に任命され、一時親族の伊賀光宗が任じられた以外は二階堂氏から同職が補任される慣例が成立した。当初は行光を祖とする「信濃流」と呼ばれる一族が執事職を占めていたが、鎌倉時代中期に信濃流嫡流の執事の相次ぐ急逝によって信濃流庶流や行村を祖とする「隠岐流」を巻き込んだ執事職を巡る争い』『が発生し、鎌倉時代末期には信濃流の二階堂行貞の系統と隠岐流の二階堂行藤の系統が交互に執事の地位を占め、前者は室町幕府でも評定衆の地位にあった』。『二階堂氏の子孫は実務官僚として鎌倉幕府、室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、多くの庶子家を輩出した』と記す。

「左衛門尉行藤」(寛元四(一二四六)年~正安四(一三〇二)年)政所執事。二階堂行有(彼は二階堂行政―行村―行義の次男)の子で弘安五(一二八二)年に引付衆となった。同年、検非違使六位尉、正応元(一二八八)年に出羽守、永仁元(一二九三)年政所執事、同三年に評定衆・寄合衆の在任が確認されており、正安元(一二九九)年には引付五番頭人となった。同三年に出家、法名を道暁、後に道我と改めている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「寛治中」西暦一〇八七年~一〇九四年。これでは時代齟齬も甚だしく、誤り。一部データには慶増院を乾元二・嘉元元(一三〇三)年に行然が開基したとするが、これも行然はとっくに死んでいる。寧ろ、この前年に没している行藤が生前に開基を志し、没後の翌年に開かれたとするならば通ずる。そしてその二階堂家の縁者(それがその時に亡くなった北条貞時の御家人二階堂行心なる人物なのかも知れない)が二階堂家に政所執事の世襲を齎した行然の供養塔をも建てたものかも知れない(それは現存しないか、何処かへ消えたか。この本文に書かれた小さな二基の墓が気にはなる)。その後、伝承が誤って伝えられ、近代以降の寺の変遷も相俟って、時代錯誤や埋葬者の誤認というどうしようもないまでの状況へと進んでしまったものかも知れない。「知れない」尽くしで恐縮だが、私の中の鎌倉の圏外の事蹟なれば、悪しからず。識者の御教授を乞うものである。]

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