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2014/03/01

挨拶   山之口貘

 挨拶

 

『さよなら』と僕は言つた

『今夜はどこへ歸るの?』と女が言つた。僕

 もまた、僕が歸るんださうだとおもひなが

 ら戸外へ出る。

 僕の兩側には、寢ついたばかりの街の貌が

 ほてつてゐる。街の寢息は、僕の足音に圓

 波をつくつて搖れてゐる。巡査の開いた手

 帖の上を、僕の足が歩いてゐる。足は、刑

 事に躓づいてよろける。石に躓づいても、

 足はよろけてしまふのである。

 足に乘つてゐると、見覺えのある壁が近づ

 いてくる。玄關が近づいてくる。

 足が逡巡すると、僕は足の上から上體を乘

 り出して、戸の隙間に唇をあてる。

『すまないが泊めてくれ』

呼聲が地球外に彳ずんでゐるからなんだらら

 うか! 常識外れのした時刻(とき)を携

 へてゐるからか! 見るまでもなく返事を

 するまでもなく、それは僕であることに定

 めてしまつたかのやうに、默々と開く戸で

 ある。戸は默々と閉ざすのである。

ところで、僕は歸つて來たのであらうか。這

 入つて見るとあゝこの部屋、坐つて見ると

 この疊、かけて見るとこの蒲團、寢て見る

 とこのねむり、なにを見てもなにひとつ僕

 のものとてはないではないか。

ある朝である

『おはやう』と女に言つた

『どこから來たの?』と僕に言つた

流石は僕のこひびとなんだらうか。僕もまた

 僕。あの夜この夜を呼び起して、この陸上

 に打ち建てた僕の数ある無言の住居、あの

 友情達を振り返つた。

『僕は方々から來るんだよ』

 

[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:ミス・タイプを訂正、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和一〇(一九三五)年三月発行の『羅曼』。但し、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題によれば原初出誌は確認されていないとある(この初出情報の出所その他はそちらを参照されたい)。

 本詩は一部に以上のような繋がった一行の一字下げとは異なる一字下げという特殊な技法が用いられている。底本では一行字数が多いので全体の行数はもっと少ないが、ブログ公開用に、文字サイズを大きめにしても改行が起こらず、しかも貘の特殊字下げの差別化を有効に見せて、更に句読点や一字空けが行末で出っ張りとして生じないような字数を勘案し、以上のように表記とした。なお、「呼聲が地球外に彳ずんでゐるからなんだららうか!」という一行の「なんだららうか!」は「なんだらうか!」の原詩集の誤植とも見られるが、ママとした(以下の校異を参照)。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、句読点は総て除去され、行末にある句点以外は総て字空きとなっている。以下、それ以外の異同を列挙する。

・三行目の中の「足は、刑事に躓づいてよろける」が「足は 刑事に躓いて よろける」に、同じく「石に躓づいても、足はよろけてしまふのである。」が「石に躓づいても 足はよろけてしまふのである」と送り仮名を変更してある。

・四行目の「足に乘つてゐると、見覺えのある壁が近づいてくる。玄關が近づいてくる。」が改行せずに三行目に続いている。

・七行目の「呼聲が地球外に彳ずんでゐるからなんだららうか!」が「呼聲が地球外に彳ずんでゐるからなんだらうか!」と改稿されている。これは旧全集校異及び思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との比較検証によるが、後者の「定本 山之口貘詩集」を底本とする本文では、「彳ずんでゐる」の「彳」が「佇」となっている。しかし乍らこれは、新全集の新字体採用という編集方針による改変と思われるので私は採らない。旧全集校異では校異の「定本 山之口貘詩集」の方も同じ「彳」となっているからである。

 この奇妙な字下げはしかし、『 』で括られた直接話法部分が、科白・主旋律を成し、一字下げの部分がその台本のト書きというか、それに就いたり離れたりする別な旋律というか、ともかくも不思議な対位法的効果を以って立ち現れてくる構造を持っている。ただ、この形式の欠点は組み方によってはそれが改行なのかそうでないのかが判別しにくくなる致命的な欠点がある。少なくとも私は当初それが神経症的に気になったのである。そこでバクさんにはまことに悪いのであるが、ここに以下、この特殊な字下げを無視した上で「定本 山之口貘詩集」通りの句読点を除去した詩形を読み易く示したいと思う(但し、漢字は私が恣意的に正字化したママで、しかも「彳」を採用して、である)。バクさん、私の我儘を、どうか、お許しあれ。


 挨拶


『さよなら』と僕は言つた

『今夜はどこへ歸るの?』と女が言つた 僕もまた、僕が歸るんださうだとおもひながら戸外へ出る

僕の兩側には 寢ついたばかりの街の貌がほてつてゐる 街の寢息は 僕の足音に圓波をつくつて搖れてゐる 巡査の開いた手帖の上を 僕の足が歩いてゐる 足は 刑事に躓いて よろける 石に躓いても 足はよろけてしまふのである 足に乘つてゐると 見覺えのある壁が近づいてくる 玄關が近づいてくる

足が逡巡すると 僕は足の上から上體を乘り出して 戸の隙間に唇をあてる

『すまないが泊めてくれ』

呼聲が地球外に彳ずんでゐるからなんだらうか! 常識外れのした時刻(とき)を携へてゐるからか! 見るまでもなく返事をするまでもなく それは僕であることに定めてしまつたかのやうに 默々と開く戸である 戸は默々と閉ざすのである

ところで 僕は歸つて來たのであらうか 這入つて見るとあゝこの部屋 坐つて見るとこの疊 かけて見るとこの蒲團 寢て見るとこのねむり なにを見てもなにひとつ僕のものとてはないではないか

ある朝である

『おはやう』と女に言つた

『どこから來たの?』と僕に言つた

流石は僕のこひびとなんだらうか 僕もまた僕 あの夜この夜を呼び起して この陸上に打ち建てた僕の數ある無言の住居 あの友情達を振り返つた

『僕は方々から來るんだよ』


――この詩の発表当時の昭和十年三月現在、バクさんは満三十一歳。……

――この詩から私が即座に強烈な酷似性とともに想起したのは……

――安部公房の「赤い繭」であるが……

――安部公房の「赤い繭」の初出は無論、戦後の昭和二〇(一九五〇)年十二月号『人間』である……

――バクさんは世界のコウボウ・アベさえも、とっくのとっくに、喰っちゃってたんだなぁ!]

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