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2014/03/14

耳嚢 巻之八 川上翁辭世の事

 川上翁辭世の事

 

 文化四年身まかりし川上不白(ふはく)といえるは、千家の茶事(ちやじ)の和尚と京都に名高かりしが、死せる時、辭世也とて認置(したためおき)しを、人に見せける儘、

 借用地水火風空返却焉今月今日

 妙々々妙なる法に生れ來て又妙々に行くぞ妙なる

 不白は文盲のおの子と聞(きき)しが、流石に茶事にくわしく心ある、言葉よりも氣象面白きか。尤(もつとも)不白日蓮宗の信者なる由、此辭世の歌の末に題目二篇を書(かき)て、仍(よつ)て證文如件(くだんのごとし)と書しは、滑稽の一つなるべし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌技芸譚で連関。そこには、

本文川上不白悴(せがれ)當(たう)不白、當時沼津之藩中にて茶道勤居(つとめゐ)候間、右辭世の寫(うつし)爲見(みせ)候處、「相違無之(これなき)」由不白申聞(まうしきけ)る。天保二卯年

とあると記す(恣意的に正字化した)。『天保二卯年』辛卯(かのとう)は西暦一八三一年で、根岸没(文化一二(一八一五)年)から十六年後のことである。

・「川上翁」「川上不白」(享保四(一七一九)年~文化四(一八〇七)年)は現在まで続く茶道江戸千家の始祖。以下、「江戸千家」公式サイト内の「川上不白略伝」より引用する。『紀州新宮に水野家の家臣川上家の次男として生まれた。水野家は紀伊藩江戸詰家老職にあり、江戸に仕官した不白は、十六歳の時に主君の指示により、水野家茶頭職になるために表千家七代如心斎の元で修業を続けた』。『茶の湯は当時、社交接待、稽古事として大衆化の時代に入り始めていたが、不白は師如心斎から茶の湯のあるべき姿を学んだ。延享二年(一七四五)、如心斎より茶湯正脈が授与され、寛延三年(一七五〇)には真台子が伝授された』。『江戸に帰府した不白は、水野家茶頭職としての活動を始め、江戸の武家社会に千家流の茶を伝えた。現在、各地に江戸千家の茶が伝承されているのも、当時江戸に集る大名やその家臣により不白の茶が受け入れられ、各々の国に持ち帰られたことによる』。『安永二年(一七七三)、五十五歳になった不白は嗣子自得斎へ水野家茶頭職の家督を譲る。京都修行時代に師から授かった「宗雪」の安名を自得斎が名乗ることになり、この時以後、やはり京都修行時代に玉林院大竜宗丈和尚より授かった「孤峰不白」と名乗る』。『不白は活躍の場をさらに広げ、江戸の町人文化の影響を受けながら、京都とはまた違った江戸前の茶風を作り上げ、江戸の一般庶民の間にも広めていった』。『不白は当時としては九十歳という稀にみる長命で』、没するまで勢力的に『活動し、長寿茶人としても幅広く人気を博した。今日、晩年に集中する数多くの遺墨ほか茶碗、茶杓等の遺作からも不白の人物像が浮かび上がってくる』。『不白は生前に自ら菩提所とした』谷中にある『日蓮宗安立寺に葬られている』。因みに、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、この辞世を廻る話はすこぶる直近の出来事である。

・「茶事の和尚」「和尚」は武道・茶道の師匠など技芸に秀でた者を指す場合がある。ここでも茶道の師匠を指す。

・「借用地水火風空返却焉今月今日」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の長谷川氏の訓点を参考に訓読すると、

 借用の地水火風空、今月今日に返却す。

・「地水火風空」は仏教に於いて万物を構成している五つの元素、五大・五輪をいうが、ここではそれから成った不白一個の身体を指す。

・「妙々々妙なる法に生れ來て又妙々に行くぞ妙なる」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 妙々が妙なる法に産れ來て又妙々に行くぞ妙なる

となっている(二ヶ所の「々」は踊り字「〱」)。音数律からは後者がよいが、後段の日蓮宗の御題目との絡みからいうなら前者の方が圧倒的に面白い。「妙」は無論、御題目の「妙」と響き合わせるためであるが、岩波で長谷川氏が注されている通り、「妙々」は同時に奥深くて暗い謂いの「冥々」を掛けている。即ち、カオスとしての『冥々の中より妙法により生れ、また冥々に帰するは妙という』謂いである。

・「此辭世の歌の末に題目二篇を書て、仍て證文如件と書しは、滑稽の一つなるべし」「滑稽」とは辞世の和歌を記したそれの末尾に「題目二篇」に添えて、証文(特に金品の借用証文の如き)の末尾の常套句「仍て證文如件」を配して身体の借用証文の体(てい)に成したことを言っている。しかし、この口ぶりにはやはり、根岸の日蓮宗嫌い――「耳嚢 巻之八 古札棟より出て成功の事」では一度、嫌悪感情が緩やかになったかと私は注したが――はやっぱり健在であったという感が強くする。この根岸の苦笑にはやや蔑視感が私には感ぜられるのである。その証拠に、何の手数も掛からないはずの辞世のあとの「題目二篇を書」いて、「仍て證文如件」と書した部分を再現していない(訳では再現してみた。そのため、辞世以下その部分を正字で示すこととした)。

……しかし私は今一つ……別なものをも想起している。……

……もうお分かりであろう。……宮澤賢治のあの詩である。

 

雨ニマケズ

風ニマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨク ミキキシ ワカリ

ソシテ

ワスレズ

野原ノ松ノ林ノ䕃ノ

 小サナ萓ブキノ 小屋ニヰテ

東ニ病氣ノコドモ アレバ

行ッテ看病シテ ヤリ

西ニツカレタ 母アレバ

行ッテソノ 稻ノ朿ヲ 負ヒ

南ニ 死ニサウナ人 アレバ

行ッテ コハガラナクテモ イヽ トイヒ

北ニ ケンクヮヤ ソショウガ アレバ

ツマラナイカラ ヤメロトイヒ

ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ

サムサノナツハ オロオロアルキ

ミンナニ デクノボート ヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

  サウイフ モノニ

  ワタシハ ナリタイ

  南無無邊行菩薩

  南無上行菩薩

 南無多寶如來

南無妙法蓮華經

 南無釋迦牟尼佛

  南無淨行菩薩

  南無安立行菩薩

 

現在、多くのネット上で電子化された本詩があるがそれらについては個人的に微妙に不満がある。そこで今回は筑摩書房昭和五〇(一九七五)年刊の「校本宮澤賢治全集第十二巻(上)」所収の手帳写真版を底本として活字に起こした。手帳に書かれたそのままの字配りだと読み難い箇所があるため、一部は現行の字配を参考にしたものの、今回の自分の眼による字起こしで、私は知られた本詩の区切りとは異なる賢治の口調のリズムを見出すことが出来たと感じている。また、末尾の御題目の連打は私は本詩と一体のものと信じて疑わない。これを省略した「雨ニモマケズ」(この詩には題名はない。これは通称である)は偽物であると私は教師時代にしばしば表明したが、その気持ちは今も変わらない。但し、言っておくが私は日蓮宗信徒なんどではなく、寧ろ、根岸と同様に日蓮宗嫌いでさえある。しかし、天才賢治の宇宙を極めんとする者は日蓮宗に目を瞑っては到底その光輝を味わうことは永遠に出来ないとも真剣に考えている。無論、従って私もそれを味わえないそうした凡夫の一人であることを甘んじて受け入れるという意味に於いて、である。――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 川上不白翁辞世の事

 

 文化四年に身罷られた川上不白と申す御仁は、千家の茶事(ちゃじ)の宗匠として、京都にてその名も高こう御座った御方で御座ったが、死せんとせし折り、

「……これが辞世ぞ……」

とて、認(したた)めおいたものを、人に見せた、そのままに以下に示す。

   ――――――

 借用地水火風空 返却焉今月今日

 妙々々妙なる法に生れ來て又妙々に行くぞ妙なる

 南無妙法蓮華經

 南無妙法蓮華經

  仍證文如件

   ――――――

 不白殿は文盲の御方と聞いて御座ったれど、流石に茶事に精通致いて、その心をも捉(つら)まえておられたものか、ほんに、その辞世の和歌そのものよりも、寧ろ、かくも自ら認められたところの、その御気性の面白きことと拝察仕る。

 もつとも、不白殿、日蓮宗の信者で御座った由なれば、この辞世の歌の後にはかく、題目二篇を書きて御座る。

 しかも御丁寧なことにその掉尾にはご覧の通り、

――仍(よ)って證文件(くだん)のごとし

と書かれたは、これ我らなんどから見れば、まっこと、滑稽の一つとのみ感ぜらるるものと申し添えおくことと致そう。

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