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2014/04/03

不沈母艦沖繩   山之口貘

 不沈母艦沖繩

 

守礼の門のない沖縄

崇元寺のない沖縄

がじまるの木のない沖縄

梯梧の花の咲かない沖縄

那覇の港に山原船のない沖縄

在京三〇年のぼくのなかの沖縄とは

まるで違った沖縄だという

それでも沖縄からの人だときけば

守礼の門はどうなったかとたずね

崇元寺はどうなのかとたずね

がじまるや梯梧についてたずねたのだ

まもなく戦禍の惨劇から立ち上り

傷だらけの肉体を引きずって

どうやら沖縄が生きのびたところは

不沈母艦沖縄だ

いま八〇万のみじめな生命達が

甲板の片隅に追いつめられていて

鉄やコンクリートの上では

米を作るてだてもなく

死を与えろと叫んでいるのだ

 

[やぶちゃん注:【2014年7月1日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、注の一部を追加した。】標題「不沈母艦沖繩」の「繩」はママ(思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では「縄」)。

 普天間の問題を見るまでもなく、この詩のバクさんの怒りは哀しいことに新鮮なママである。

 初出は昭和三一(一九五六)年六月二十七日附『東京新聞』で、同年十月に劇団文化座によって上演された戯曲「ちぎられた縄」(火野葦平作・佐佐木隆演出)のパンフレットにも収録されたと松下氏のデータにある。劇団文化座は昭和一七(一九四二)年に「井上正夫演劇道場」のメンバーだった俳優鈴木光枝や山村聡、演出家佐佐木隆らによって結成された劇団で、「ちぎられた縄」は劇団創立十五周年記念として打たれた芝居(第十八回公演)であった。同劇団公式サイトの「沖縄×文化座」によれば、『戦後、占領下の沖縄を画き、その問題を始めて取り上げた作品。沖縄島民の深刻な苦悩を改めて心に刻んだ作品として反響を呼ぶ。千秋楽には観客が溢れ、会場であった一ツ橋講堂の扉を開けたままで上演するという、前代未聞の公演となった』とあり、演出の佐佐木氏の言葉として、「ところが僕の心の中に沖縄に対して、戦前内地の人間があんな具合にやっておいて、戦後またああいう状態になっていると云うのがなんともかんとも申し訳なくて、又、我々も満州に行く前は、沖縄と蒙古を志願してるんですよ。ところが行けなくなっちゃったでしょう。行ってれば死んでるかも知れないけど、まあそういう因縁もあって、どうしてもうちで取り上げなきゃと思い火野さんにあれをたのんだんですよ。」が引かれてある。同劇団はリンク先にも掲げられているように、二〇一二年には第一三七回公演でバクさんを主人公にした舞台「貘さんがゆく」(杉浦久幸作・原田一樹演出)を上演している。

 なお、この初出はバクさんが沖繩帰郷(昭和三三(一九五八)年十月末)する二年以上も前である点に注意されたい。

「守礼の門のない沖縄」首里城歓会門外の首里を東西に貫く大通り「綾門大道」(あいじょううふみち/あやじょううふみち)の東側に位置する牌楼型の楼門守礼門(本邦の城郭でいう大手門に相当)。参照したウィキの「守礼門」によれば、『創建年代の確定はできていないが、琉球王国第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)の時に建てられていることは分かっている』とある(但し、当時は現在の復元されたような瓦葺(赤本瓦)ではなく板葺きであった)。『沖縄戦で焼失したが、1957年に再建され、1972年には沖縄県指定有形文化財となった』とある。バクさんの帰郷は昭和三三(一九五八)年十月末から翌年の一月上旬までで、守礼門の再建はその翌年であった。

「在京三〇年のぼく」発表時の昭和三一(一九五六)年の三十年前は昭和元年になるが、バクさんが詩稿を懐に再度上京(大正一一(一九二二)年に画家を志して一度上京するも、翌年の関東大震災で罹災、罹災者恩典によって帰郷している)したのは、大正一三(一九二四)年であるから厳密にいうと在京は三十三、四年となる。

「崇元寺」「そうげんじ」と読む。沖縄県那覇市泊にあった臨済宗の寺院。詳細を極め、画像も豊富な必見の「かげまるくん行状集記」にある「崇元寺跡」によれば、創建年代は不詳乍ら、『崇元寺の東ににある拝所である崇元寺の嶽(うたき)の草創説話には、崇元寺建立の経緯の一つとして、尚円王の即位を預言した人物が登場する。崇元寺の嶽は神名を「コバノミヤウレ御イベ」というが、崇元寺の嶽の草創説話によると、崇元寺の建立は尚円王の時とし、さらにこの説話自体の年代を『琉球国旧記』では成化年間』(明代の一四六五年~一四八七年で本邦の室町末期の寛正六年から文明十九・長享元年に相当する)『とする(『琉球国旧記』巻之6、島尻、崇元寺嶽)』とあって、以下に「琉球国由来記」に基づく説話が記されてある。以下、ウィキの「崇元寺」(こちらでは創建を室町時代の大永七(一五二七)年とされるとある)の戦後の跡地の記載によれば(ウィキはそれ以前の記載を載せていないので前の「かげまるくん行状集記」の叙述をまずは読まれることをお薦めする)、『沖縄戦により焼失・全壊したが、三連アーチ型の石門が現在でも残っており重要文化財で歴史的建造物に指定されている。かつては尚氏王統の霊を祭る寺であったが、先の大戦で焼失した。昭和30年代頃までは宗元寺跡に木造で図書館が造られ、いつも多くの人々が利用していた。その頃の門の中の様子は、まず入ると右手が小山の様になっており上には木魔王の木が林の様に立っていた。そこから下へ小さな滝が池に流れ落ち、池には鯉やカメ等がいた。反対側の左奥には階段を上った先に、なぜか紅葉が一本植えられていて、子どもの頃は何故この木は冬になると葉が赤くなるのだろうと不思議であった。(その頃の沖縄には紅葉する木々は見なかった)しかし、その図書館も、小山も滝も、その紅葉もすべて取壊され、門だけが残こり、現在は公園として整備されている』とある。

「がじまる」次のデイゴとともに沖繩を代表する樹木で、常緑高木のイラクサ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa 。参照したウィキの「ガジュマル」によれば、樹高凡そ二十メートル、『実は鳥やコウモリなどの餌となり、糞に混ざった未消化の種子は土台となる低木や岩塊などの上で発芽する。幹は多数分岐して繁茂し、囲から褐色の気根を地面に向けて垂らす。垂れ下がった気根は、徐々に土台や自分の幹に複雑にからみつき派手な姿になっていく。ガジュマルの名の由来は、こうした幹や気根の様子である「絡まる」姿が訛ったという説がある。気根は当初はごく細いが、太くなれば幹のように樹皮が発達する。地面に達すれば幹と区別が付かない。また、成長した気根は地面のアスファルトやコンクリートなどを突き破る威力がある。こうした過程で、土台となる木は枯れていくことから別名「絞め殺しの木」とも呼ばれる。観賞用に、中の枯れた木を取り除いて空洞状にした木も存在する。枝には輪状の節があり、葉は楕円形または卵形、革質でやや厚く、毛はない。イチジクのような花序は枝先につき、小さい』。『ガジュマルの名は、沖縄の地方名だが、由来は不明。前述の「絡まる」の他、一部には『風を守る』⇒『かぜまもる』⇒『ガジュマル』となったという説がある』と記す(但し、最後の語源説には要出典要請が出されている)。また、沖繩の妖精妖怪として知られる「きじむなー」はこの古木に棲むとされることはとみに知られる。

「梯梧」落葉高木のマメ目マメ科マメ亜科デイゴ Erythrina variegata ウィキの「デイゴ」によれば、『インドやマレー半島が原産。日本では沖縄県が北限とされている。春から初夏にかけて咲く赤い花が有名(ただし、毎年満開となるとの保証はないそうである)。沖縄県の県花でもある。デイコ、エリスリナともいう。1967年(昭和42年)、県民の投票により「沖縄県の花」として選定された。デイゴが見事に咲くと、その年は台風の当たり年で、天災(干ばつ)に見舞われるという言い伝えがある(THE BOOMの「島唄」でも歌詞として書かれている)。沖縄では「やしきこーさー(屋敷壊さー)」とも呼ばれることもあるが、これは根の力が強く、家の近くに植えると根がのびて家を傾かせてしまうからであるという』。『落葉性とはいっても、冬に全木が落葉することはあまりなく、花が咲く枝が落葉する傾向がある。花は枝先に穂状に出る。葉は大きな幅の広い葉を3枚つける三出複葉で、クズの葉に似ている。木は太くなるがあまり高くならず、横に枝を張る傾向がある。公園や街路樹としてよく栽培されるが、根本や根からも芽が出るので、人家の庭に植えられることは少ない。材は柔らかく、加工しやすいため、漆器材料として使われる』。『近年では、台湾方面から飛来・帰化したとされるコバチの一種デイゴヒメコバチ(Quadrastichus erythrinae)による被害が相次いでいる』。『このハチはデイゴの葉や幹に産卵して虫こぶを作り、木を弱らせて枯らす場合もあるため、沖縄県では対策を急いでいる』とある。

「山原船」「やんばるせん」と読む。「大辞林」に、江戸時代以来、琉球諸島間の海運に使われた中国系ジャンク技術をもとにした二本マストの小型帆船で、主として山原地方の農林産物輸送に従事したとある。実に美しい形である。グーグル画像検索「山原船」を参照。

「いま八〇万のみじめな生命達が」ウィキの「沖縄県の人口統計」によれば、バクさんが帰郷した昭和33(1958)年前後の沖繩の総人口を見ると、三年前の、

昭和30(1955)年  80万1065人

から、二年後の

昭和35(1960)年  88万3122人

に膨れ上がっている。因みに昭和四七(一九七二)年五月十五日の本土復帰後は県外からの転入者が大幅に増加し、復帰二年前の

昭和45(1970)年  94万5111人

から復帰後三年目には、

昭和50(1975)年 104万2572人

と百万人を超え、そうして現在、沖縄県の総人口(本年2014年2月1日現在)の推計人口は、

            141万9893人

である。]

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