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« 橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十年 Ⅵ 秋簾訪ひ來し人の聲をきく | トップページ | 飯田蛇笏 靈芝 昭和九年(百七句) Ⅱ »

2014/04/13

篠原鳳作句集 昭和一一(一九三六)年二月 喜多青子を憶ふ 附やぶちゃん注 夭折の俳人喜多青子について

  喜多靑子を憶ふ

 

三角のグラスに靑子海を想ふ

 

咳き入ると見えしが靑子詩を得たり

 

耳たぶの血色ぞすきて瞑想す

 

咳き入りて咳き入りて瞳(メ)のうつくしき

 

   その手

氷雨よりさみしき音の血がかよふ

 

   靑子長逝

半生をささへきし手の爪冷えぬ

 

詩に瘦せて量(かさ)もなかりし白き骸(から)

 

[やぶちゃん注:私の偏愛する鳳作の喜多靑子追悼の哀傷の絶唱句群である。八句総てが載るのは二月発行の『傘火』で、同月の『天の川』には最初の二句と「氷雨より」「半生を」「詩に瘦せて」の計五句を載せる。

「喜多靑子」(きたせいし 明治四二(一九〇九)年~昭和一〇(一九三五)年十月)は本名喜多喜一。神戸生。新興俳句の鳳作の盟友であった。私が偏愛する俳人であるが、彼について記載するものは少なく、知る限りでは「―俳句空間―豈weekly」の冨田拓也氏の俳句九十九折(34) 俳人ファイル ⅩⅩⅥ 喜多青子が纏まった唯一のものである。されば同記載等を参考にして以下に事蹟を示す。

 大正一四、一五(一九二九/一九三〇)年頃より句作を初め、昭和三(一九二八)年頃から本格的に俳句に取り組むようになる。昭和八(一九三三)年刊の『ひよどり』など、さまざまな俳誌を創刊、昭和一〇(一九三五)年には自身の俳誌『ひよどり』が同誌に合併する形で日野草城の『旗艦』創刊に参加したが、同年十一月に満二十六歳で結核により夭折した。昭和一一(一九三六)年に遺稿句集「噴水」が出版されている(序文・日野草城、収録作は昭和七(一九三二)年頃から没する昭和一〇(一九三五)年までの二百二十五句。永年私は古本で探し続けたが見つからなかった。冨田氏によれば平成元(一九八九)年に同句集が復刻されているらしいが、如何にも悔しいことに私は所持していない)。

 冨田氏の記事(Q&A形式)には、『もし生きながらえていれば、それこそ高屋窓秋、篠原鳳作、富澤赤黄男、渡辺白泉、西東三鬼に次ぐような作者になっていた可能性もあったのではないかと思わせるところが確かにあ』ると述べておられ(私も激しく同感する)、『篠原鳳作とは、青子は一度神戸で会っていて、その後は葉書でお互いの作品を批評し合う仲であった』というとある。この後半部分は本底本の鳳作年譜の昭和十年の八月の項に、『京阪神に遊び、神戸の榎島沙丘宅に一泊、「旗艦」同人らの歓迎句会が開かれ喜多青子らと快談、「鶏つるむ」の連作五句を出句した』とあるのを指すものと思われる。

 以下、冨田氏の選句されたものから青子の句を幾つか引いておく(恣意的に正字化した)。

 

 さんらんと陽は秋風を磨くかな

 

昭和七(一九三二)年の作。他に同時期の作として掲げられている句に、

 

 吹かれ來て草に沈みぬ秋の蝶

 

 春愁のふと聽き入りし歌時計

 

 タイプ打つ七階の窓秋日和

 

 ジャズいよよはなやかにして年は行く

 

がある。次に昭和八年の句として、

 

 噴水の夜目にもしるき穗となんぬ

 

 噴水の水な底にある魚の國

 

 灰皿に嚙み捨つるガム夏を病む

 

 汽車の噴く入庫のけむり鷄頭に

 

 長き夜のシネマの闇に君とゐる

 

 ラグビーの脚が大きく駆けりくる

 

などが引かれ、昭和九年になると、

 

 鞦韆のつかれ來し眼に虛空あり

 

 きざはしのしづかなるときかぎろへる

 

 星涼し鉄骨くらく夜を聳ちぬ

 

 地下歩廊出でて夏樹のみどり濃き

 

 秋寒し隊道とはの闇を垂れ

 

『などといったやや重い印象の作品がいくつか見られるようになって』(冨田氏)くるとある。既に結核の症状が出ていたであろうことと、軍靴の音の忍び寄りをも伝える感じがする。

 

 秋炎の空が蒼くて塔ありぬ

 

は私の偏愛する句である。以下、昭和十年の句。

 

 枯芝とナチスの旗といまは暮れ

 

 群衆のなだれに在りて憂き春ぞ

 

 瞑ればこがらし窓に鋭かり

 

 おぼろ夜の街へ空氣のごとく出る

 

 春愁のわれ海底の魚とねむる

 

同十年の「夢の彩色」連作名吟、

 

   夢の彩色

 

 夢靑し蝶肋間にひそみゐき

 

 夢靑し肋骨に蝶ひらひらす

 

 脳髄に驟雨ひゞける銀の夢

 

 叡智の書漂泊の夢にくづれくる

 

 天才の漂泊の夢書を焚けり

 

 書肆に繰る文藝の書の白き夏

 

最後に晩年の一句と私の偏愛する二句を示す。

 

 蝶のごとく瞼の奥を墜つる葉よ

 

 陰多き螺旋階段春深し

 

 砂日傘夜は夜でギターなど彈ける

 

 因みに私は彼の慄っとするほどに素敵な幻想吟である、「夢靑し蝶肋間にひそみゐき」を確信犯でインスパイアした、

 

 夢白し蝶肋間に蛹化せり   藪野唯至

 

をかつて創っている(雄山閣出版一九九七年刊「俳句世界 6 パロディーの世紀」で齋藤愼爾選から特選を頂戴している。句集鬼火」を参照されたい)。

 なお、鳳作の最初の句にある「三角のグラス」は三角フラスコで、結核性胸膜炎で出潤する胸水を採るためのものと思われる(前田霧人氏の「鳳作の季節」では靑子の死因を肋膜炎としておられ、また、『かつて「夢青し」と詠んだ青子は神戸に生まれ育ち、今は明石海峡大橋が架かる美しい舞子の海を見ながら逝った。鳳作の句には、青子と青い海の記憶を共有する彼の気持ちが良く表現されている』と述べておられ、彼が亡くなったのが兵庫県神戸市垂水区の舞子であったことが分かった)。

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