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2014/04/22

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家   芭蕉

本日二〇一四年四月二十二日(陰暦では二〇一四年三月二十三日)

   元禄二年三月  三日(桃の節句)

はグレゴリオ暦では

  一六八九年四月二十二日

である。

★注:前回も述べたが、今回の「奥の細道」のシンクロニティの旅より、単純な現在の当日の陰暦換算の一致日ではなく、実際の芭蕉の生きたその時日の当該グレゴリオ暦との一致日にシンクロさせることとする。その方が、少なくとも季節の微妙な変化の共時性により正確に近づくことが可能だからと判断したためである。例えば、今年の陰暦三月三日はグレゴリオ暦四月二日で陰暦の元禄二年三月三日の桃の節句(=一六八九年四月二十二日)とは二十日もズレてしまって、明らかに季節感覚が異なってくると考えたからである。――この元禄二年三月三日の桃の節句は恐らく、桃の花どころか桜の花も散った暖かな春の陽に包まれたものであったのであり、それを心のスクリーンの映像に反映してみて初めて、我々は「奥の細道」に旅立つ前の、あの冒頭の漂泊者たる芭蕉の、虚実皮膜の世界に遊ぶことが出来るといえるのではなかろうか――

 

 なお以下、後掲する「奥の細道」の原文は岩波書店一九七七年刊の「芭蕉自筆 奥の細道」(所謂、一九九六年発見された中尾本、芭蕉真筆とされる野坡本)の影印を底本とし、正字を原則とし(略字と正字の判断に迷ったものは正字を採った)、影印に従って改行を行った。踊り字は「ヽ」(現在は片仮名の繰り返し記号)の形の箇所が見られるが「ゝ」で統一した。新発見版であるから、現在知られている素龍木本の本文とは微妙に異なるので注意されたい(その主な異同は後掲した)。これを採用したのは、ただどこにでも転がっている「奥の細道」のテクストを附けるのは私のテクストらしくないというただそれだけの理由からである。なお、私はここでは「奥の細道」の本文評釈をする意図は全く持っていない。どうせ、そんな注釈は腐るほどあるからである。がしかし、人の言っていないしかし全くオリジナルに言いたいことは、それなりに言い添えておこうとは思う。

 

   *   *   *

 

草の戸も住替る代ぞひなの家

 

草の戸も住みかはる世や雛の家

 

草の戸も住かはる代ぞ雛の家

 

草の戸も住かはる代は雛の家

 

[やぶちゃん注:一句目は一般的な「奥の細道」、二句目は「笈日記」、三句目は「蕉翁文集」の句形。四句目は永機本の「奥の細道」に載るものを二ヶ所の「ハ」を平仮名「は」に代えて示した。なお、二句目の句形は前書に、

 

 むすめ持たる人に草庵をゆづりて

 

という前書を持った真蹟短冊が現存すると、以上の句の基本底本とした中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波書店刊)注にある。

 また山本健吉「芭蕉全句」(講談社学術文庫二〇一二年刊)によれば、「俳諧一葉集」(仏兮/湖中編・文政一〇(一八二七)年刊)には、

 

 日頃住ける庵を相しれる人に讓りて出ぬ。此人なん妻を具しむすめ孫など持(もて)る人なりければ

 

とあるとし、その前書の出典が詳らかでないことを注記しつつも、『この句の解釈の参考になる』とする。また、今栄蔵校注「芭蕉句集」(新潮日本古典集成昭和五七(一九八二)年刊)には「俳諧世中(よのなか)百韻」(松籟庵麦阿著・元文二(一七三七)年刊)には(一部を恣意的に正字化した)、

 

 遙けき旅の空思ひやるにも、いささかも心に障らん、ものむつかしければ、日頃住みなれける庵を相(あひ)知れる人に讓りて出でぬ。この人なん、妻を具し娘・孫など持てる人なりければ

 

という前書があると記された上、『譲受人は平右(へいう)(衛門(えもん))といった』と譲渡者の名前まで掲げてある。

 

 問題は――通行するこの句の評釈――である。

 諸家の一致点は総て『虚構』の一致点にある。

 例えば、かの凡評を辛口で掃討する安東次男でさえ、かの「芭蕉」(中央公論社昭和五四(一九七九)年)でこの句を六度以上引きながら、その実、あの他の評釈に見られるようなの快刀乱麻の斬り口が何故か今一つ認められない(と私は思う。但し、流石に人とは違う安東独特の切り口は後掲する)。

 そうして諸家は口を揃えて「奥の細道」の「面八句を書て庵の柱に懸置」という叙述を虚構とし、そんな連句は存在しないとする。安東は、この「奥の細道」自体が壮大な架空の百韻の「表八句」ならざる「面八句」の、幻想の発句であった、という。

 安東のそれはそれで大いに肯んずる見解ではある。

 肯んじはする――がしかし――この句を一つの感懐として確かに読み解いているという風には私には読めないのである。仮定された連句世界の構造主義的位置付けは分かっても、決して『個』としての本句の独立した核心を突いてはいない――と私は思うのである。

 諸家の釈を試みに引いてみよう。まずは新潮の今栄蔵氏のものである(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

 人生有為(うい)転変、こんな取るに足らぬ庵にも主(あるじ)の住み替る時は来るものだ。新たに住む人は世捨人同然の自分と違って妻子があり、近く来る雛祭には雛壇なぞ飾られて、花やいだ家に変わるだろう

   《引用終了》

とする。同じ新潮古典集成の富山奏校注「芭蕉文集」(昭和五三(一九七八)年刊)で富山氏は、

   《引用開始》

 こんなささやかな草庵も流転の相から逃(のが)れることなく住人が変って、隠者のごとき私の出たあとは、雛人形を飾る娘たちの住居となることであろうよ

   《引用終了》

という『流転の浮生に対する自覚自戒の心が主題の吟』と評し、また、山本健吉は前掲「芭蕉全句」で、

   《引用開始》

 女気のなかったこの草庵に新しく移り住んだ人は、桃の節句も近いので、雛壇など飾り、にわかに花やかな住居になることだろう

   《引用終了》

として、『ささやかなこの草庵にも、人の世の移り変りが認められるとの感慨である』と記す。……

 ……如何か?

 私は――これに類した凡百の解釈を――高校教師時代に数多の評釈書で読んで実は

――飽き飽きしている――

のである。

 それはこれらの 

――これみよがしに「方丈記」や「徒然草」に通底させた辛気臭い如何にもな無常観をこてこてに張り付けた退屈な解釈 

 

――この句から生ずる私の心のスクリーンの映像とは全く異なるもの 

だからである。

 流石にちょっと違ってディグしているなぁと感ずるのは、やっぱり偏屈孤高の屈原みたような安東次男のそれではある(中央公論社一九八九年刊「芭蕉百五十句」。但し、御想像の通り、通釈ではない。やや長いが他者との比較のためにその全文を引く。問題があれば抜粋形式に変更するが、末尾で私のシンクロニティ前提をも偶然にも支持して呉れる形になったそれなれば、故安東氏も許して下さるものとは存ずる。踊り字「〱」は正字化した)。

   《引用開始》

 桃の節供を上巳(じょうし)と呼ぶのは、陰暦三月の初の巳(み)の日、転じて三月三日を、節日(せつじつ)とする祓の考が古くから行われてきたからで、曲水もそれを現した宴遊の思付だ。雛まつりは、初は幼児の守り札から起った平安貴族の人形遊が、この上巳の人形(ひとがた)流しと習合した民間行事である。三月三日を当てるようになったのは室町時代の末、『増(ぞう)山の井』(寛文三年成)には「天正以後のことか」と云っている。布着せの内裏雛が作られたのは元禄前後、調度がそろえられるのは江戸も中期以後に下る。

 句は『ほそ道』の冒頭に「…住(すめ)る方(かた)は人に譲り、杉風が別墅(べっしょ)に移るに」から続けて記し、この「人」は「妻を具し、娘、孫など持てる人」(『世中(よのなか)百韻』元文二年刊)だったようだ。華やかな内裏雛がまだ物珍しかったころの句だ、というところが一つの見所になる。

 右の由来からもわかるように、雛まつりには流し離・古雛という傍題がある。芭蕉は流浪の門出を、自ら古雛に見立てたらしい。旅の予定を伊賀上野へしらせた手紙に「ことしのたびはやつしやつして、こもかぶるべき心がけにて御坐候」(元禄二年閏正月乃至二月初、猿雖(えんすい)宛)と云っているのも、新居の人の形代(かたしろ)となってけがれを持去ってやる覚悟があってのことだが、『源氏物語』の須磨の巻には、源氏が上巳の祓をさせて「しらざりし大海の原に流れきてひとかた(人形、一方)にやは物は悲しき」と詠むくだりが出てくる。「草の戸も」の句に続く『ほそ道』の書きぶりから見て、これは芭蕉の念頭にあったに違ない。漂泊の旅に出るならまず流し雛になってやろう、流し雛になるなら光源氏の心意気でゆこう、というのが句の云いたいことだ。

 芭蕉が、小名木(おなぎ)川をはさんで南側の元木場平野町にあった杉風別宅へ移ったのは、元禄二年二月中か。旅立は三月二十七日である。たまたまこの年は一月に閏が重ったから、三月三日は陽暦に直せば四月二十二日である。

   《引用終了》

 この評釈は流石に凄い。 

雛人形は実は流し雛であり、それが芭蕉自身だ 

という誰も言わない真相である。……

……ではあるが、やっぱり私は不服なのである。 

……何が不服か? 

……それは誰もが

――説教臭い無常観の推量表現や典故の敷衍的有職的故実的分析で満足してそこで立ち去ってしまっているから

――如何にもな凡夫の無常にして所詮は惨めでしかないそうした『知』の遊びでくちくなって読み捨てるばかりだから

である。 

 ではお前にとってはどうなのか? と問われれば、

――私にとっては

――この「雛の家」は

――芭蕉の見た(幻視した)確かな景

――虚構的(幻像的)実景

(というトンデモない謂い方が許されるなら)であるということに尽きるのである。

 それは中学二年時分(私が教科書で尾崎放哉に出逢って自由律俳句の『層雲』に属したのもその頃ではある)に「奥の細道」を初めて読んで以来、一貫している私の確信である。

 即ち――私がこれを何故、陰暦元禄二年三月三日の桃の節句、グレゴリオ暦一六八九年四月二十二日に合わせて今日、二〇一四年四月二十二日に公開したか――ということとも強く関わってくることなのである。

 それは――「奥の細道」にあるような、これを発句として「面八句を書て庵の柱に懸置」(以下、引用は後掲する自筆本に則る。以下、この注は略す)いたという実景(というものの、これも虚構であることは間違いない。安東も拘っているように、この句を発句とした連句などはどこにも全く残ってなどいないからである。そして私も、そんな連句はもともと存在などしないのだと思っている)などはあり得ず、従ってこの句の時制が万が一どころか劫が一にも陰暦元禄二年三月三日の桃の節句であったことなど、あり得たはずがないという唯物主義的な凡百の批判――などは無論、承知の上での話である。――但し、「承知」というのは私の中の愚直下劣な唯物的で退屈な知性にとってに過ぎない――という謂いである。 

 即ち私はただ
 

――芭蕉は確かにこの句の中で雛人形を見ている

――元禄二年三月三日の桃の節句のその日に

――最早自らの庵ではなくなったそこに

――美しい雛人形が飾られているさまを

――現に見ている
 

と言いたいのである。
 

――芭蕉は確かに見ている

――彼の孤独な草庵がみるみる変容して

――そこに雛人形が飾られているのを 

――そしてそこに

――透明になった芭蕉は

――誰にも読まれることのない

――この

――草の戸も住替る代ぞ雛の家

――という句を発句とした

――幻しの「面八句」を掛け置いて

――立ち去る
 

のである。……それは例えば――アンドレイ・タルコフスキイばりのカメラ・ワーク――とでも言えば、少しは分かって戴けるであろうか?……カメラ・ワーク?

 いや、エイゼンシュタインやタルコフスキイが強く俳句に惹かれたのは故なしとしない。

 寧ろ、連句や発句や「奥の細道」といった優れた俳諧紀行の構成はとりもなおさず三百年以上も前に既にして映画理論やその手法を先取りしたものだったからである。

 映画はまさに複数のスタッフやキャストによる近代に初めて誕生した稀有の総合芸術とされるのであるが、世にも稀な文芸と言われ、連衆の文学と称される俳諧連歌や連句こそ、まさに複数の作者による創作という総合芸術であった。そうしてその連綿と続いてきた俳諧の構造理論や個別的手法のいちいちは皆――写真の組写真から、かつてはよく実験的に行われた全く異なる複数の監督らによるオムニバス作品、さまざまなエイゼンシュタインのモンタージュ理論、それに反駁してタルコフスキイの立てた“Sculpting in Time”といった映画哲学とその詩想――に於いて、全く同一である、と私は思うのである。

 優れた俳諧師の感性の生み出した発句や付句が映し出すイメージは、映画の真に鬼才と呼べる人々がスクリーンに映し出した稀有の奇跡のイコンと相同なのである―― 

 最後に言おう。 

 現実とは厳然たる現象であり、悲哀とも歓喜とも無縁である。

 そうして「文学」とはそうした現象としての事実を虚構した幻像である。

 そうしてそれは「それ以下」でも「それ以上」でも――ない――。 

 牛の涎のような感懐にお付き合い戴きありがとう。では以下に「奥の細道」の冒頭を示して終わりと致す。 

   * 

月日は百代の過客にして行かふ

年も又旅人也舟の上に生涯

をうかへ馬の口とらえて老をむ

かふるものは日々旅にして

旅を栖とす古人も多く旅に

死せるありいつれの年よりか

片雲の風にさそはれて漂泊

のおもひやます海濱にさすらへ

て去年の秋江上の破屋に

蜘の古巣をはらひてやゝ

年も暮春改れは霞の空に

白川の関こえむとそゝろかみ

の物につきてこゝろをくるはせ

道岨神のまねきにあひて取

もの手につかすもゝ引の破を

つゝり、笠の緒付かえて三里に

灸すゆるより松島の月先心

もとなし住る方は人に讓りて

杉風か別墅に移るに

 草の戸も住替る代ぞ雛の家

面八句を書て庵の柱に懸置 

   * 

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した)

〇いづれの年よりか      → ●予もいづれの年よりか

〇海濱にさすらへて      → ●海濱にさすらへ

〇春改(あらたむ)れば霞の空に→ ●春立てる霞の空に

〇松島の月先づ心もとなし   → ●松島の月先づ心にかかりて

〇面八句を書て庵の柱に懸置  → ●表八句を庵の柱に掛けおく

 決定稿は意味よりも、まず韻律が実にいいことが(表記上のなめらかさを含め)音読するとよく分かる。 

■やぶちゃんの呟き

・「江上の破屋」この芭蕉庵は二軒目(新芭蕉庵・第二次芭蕉庵)のもので、下里知足の「知足斎日々記」によれば、住所は『深川元番所、森田惣左衞門屋敷』であった。元番所とは幕府の船番所のことで一般町民が住めるような場所では実はない。これを探っていったところ、ここに至って小説家鏡川伊一郎氏のブログ「小説の孵化場」の「芭蕉庵の真実に出逢った。まさにそこ(同「3」)には、この第二次芭蕉庵は先に示した「俳諧一葉集」前書に『日頃住ける庵を相しれる人に讓りて出ぬ。此人なん妻を具しむすめ孫など持る人なりければ』とあるように、『なんと三世代が住める家なのである。3月3日の雛祭りの日に、譲った芭蕉庵の様子を見に行ったら雛飾りがあって華やかであったというのだ』と記しておられるのである。ここで鏡川氏は私の解釈にとって頼もしくも、まさに実景として本句をとっておられる、それを実証されておられる点に着目されたい。さらに鏡川氏はこの時の芭蕉庵について二代目市川團十郎の日記「老の楽」から引用して、『深川のばせを庵、竃(へっつい)二つありて、台所の柱に瓢(ふくべ)を懸けてあり。二升四合ほども入るべき米入也』『翁の佛壇は壁を丸く掘り拔き、内に砂利を敷き、出山の釈迦の像を安置せられし由、まのあたりに見たりと笠翁物がたり』とあるとされ(「老の楽」については引用に際して一部表記を変更して恣意的に正字化した)、以下解説されて、『「出山の釈迦像」というのは難行を終えて山を出る釈迦の像という意味で、その像は門人の文鱗からの贈り物だった。私が注目するのは、それをおさめる造り付けの仏壇のことである』。『壁をくりぬいて作っているわけだが、それほどの厚い壁のある構造物が茅舍のたぐいであるわけがない』という実に目から鱗の解説をなさっておられるのである。そこに今度は飾られてあった雛人形なのである! その他にも鏡川氏の論(全五回)は芭蕉と芭蕉庵に纏わる意外な真相を語って呉れていて、すこぶる面白い。必読である。

・「道岨神」の「岨」はママ。しかし、いいね、この用字は。「道祖神」なんていう辛気臭い字よりずっといい。「岨」は音「ソ」・訓「そは」「そば」「そばだつ」で「稜(そば)」と同語源の、岩石の積み重なった山、幾重にも岩が重なりあって行く手を阻むさま、山の切り立った嶮しい所・崖・絶壁の謂いである。

・「そゝろかみの物につきてこゝろをくるはせ」の「そぞろ神」だ。不思議な神名だ。諸注、何となく何心なく人の心を旅へと誘う神として芭蕉の造語とする。そうであろう。しかし如何にも美事な神名ではないか! ウィトゲンシュタインも言っている。――「神は名指すことは出来るが、示すことは出来ない。」――「そぞろ神」とはまさに、そうした神の名としてコズミックでエターナルな魅力に満ちている!

・「杉風か別墅」仙台堀の海辺橋直近にあった杉山杉風の別邸採荼庵。ここは旧芭蕉庵から直線でたった六百四十メートルほどしか離れていない。即ち、芭蕉庵を明け渡した後、ふらっと桃の節句に訪ねることはいとも容易なことであったのである。

   *

 この元禄二年三月三日から二十四日後の元禄二年三月二十七日(グレゴリオ暦一六八九年五月十六日)に芭蕉は奥の細道へと旅立つのである。では――次回は五月十六日に――またお逢い致そう……これよりは芭蕉と曾良の後ろ影を見つめながら……三人目の影として……私はこの旅に出ようと存ずる次第である……]

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