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2014/04/07

耳と波上風景   山之口貘

 耳と波上風景

 

ぼくはしばしば

波上(なんみん)の風景をおもい出すのだ

東支那海のあの藍色

藍色を見おろして

巨大な首を据えていた断崖

断崖のむこうの

慶良間島

芝生に岩かげにちらほらの

浴衣や芭蕉布の遊女達

ある日は龍舌蘭や阿旦など

それらの合間に

とおい水平線

くり舟と

山原船の

なつかしい海

沖縄人のおもい出さずにはいられない風景

ぼくは少年のころ

耳をわずらったのだが

あのころは波上に通って

泳いだりもぐったりしたからなのだ

いまでも風邪をひいたりすると

わんわん鳴り出す

おもい出の耳なのだ

 

[やぶちゃん注:【2014年7月7日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、旧全集二箇所のミスを確認、本文を訂正し、さらに注も一部改稿した。】旧全集では十行目「ある日は龍舌蘭や阿旦など」の「龍舌蘭」が「竜舌蘭」となっているが、「思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では「龍舌蘭」である。ここは新全集を採ることとした。なお、これは校合の正当性の比較観点に基づくが、私は実は個人的にも「竜」の字体を好まないのでほっとしもしたということを告白しておく。

 初出は昭和二八(一九五三)年三月発行の『おきなわ』で、発行所は渋谷区氷川町の「おきなわ社」。バクさん、五十歳の懐旧の望郷詩(バクさんの帰郷はこの五年後の昭和三三(一九五八)年十月)。

十三行目「くり舟と」の「く」は底本では活字が右に転倒している。誤植と判断して「く」とした。「思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では正しく「く」となっている。

「波上(なんみん)」ウィキの「波上宮」より引用する。『波上宮(なみのうえぐう)は沖縄県那覇市にある神社。那覇港を望む高台の上に位置し、「なんみんさん」として親しまれてきた。琉球八社の一つで、全国一の宮会より琉球国新一の宮に認定されている』。谷川健一編「日本の神々 ―神社と聖地― 13 南西諸島」(白水社一九八七年刊)では、『主祭神からも分かるように熊野信仰の系列に連なっており、また琉球王国の総鎮守であると述べている。現在も沖縄総鎮守として信仰されている』。創建の年代は不詳であるが、鳥越憲三「琉球宗教史の研究」(角川書店一九六五年刊)によれば、『琉球八社は真言宗寺院に併置され、その創建の由緒を見ると多くは社寺同時に創建されたものと考えられることから、当宮は察度王の御代、護国寺が開山した時期に創建されたのではないかと推測』されている。「波上宮 略記」では、『遥か昔、人々が海の彼方の海神の国(ニライカナイ)の神々に豊穣や平穏を祈った聖地が当社の鎮座する波の上の崖端で、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まると述べている。当地での遥拝に関して柳田國男は「海上の道」で、『波の上の丘陵の高みにおいて、毎年、日を定めてこの付近の居留者が各々の故郷の方角に向けて香炉を置き、自身の本国に向かって遥拝する「ネグミ拝み」と言う祭りが近代まで行われていたことを紹介している』。天啓三年(元和九(一六二三)年)完成の「おもろさうし 第十」には「国王様よ、今日の良き輝かしい日に聞得大君を敬って、国中の人々の心を集め揃え、石鎚金槌を準備して石を積み上げ、波の上、端ぐすくを造り聖地へ参詣し給えば、神も権現も喜び給う。」と言う意味の「おもろ」があり、外間守善校注「おもろさうし 上」 (岩波文庫二〇〇〇年刊)はこの中に詠われる「波の上、端ぐすく」が当宮鎮座地であると解説、これは先の「日本の神々」では当宮創建を詠った「おもろ」ではないかと紹介している。仲松弥秀 「神と村」では、『グスクは古代祖先達の共同葬所(風葬所)であり、納骨洞穴が拝所になった場所は「テラ」と称される場合があると述べたうえで』、「おもろ」に記された『「なみのうへ は げらへて はなぐすく げらへて ものまいり しよわちへ てらまいり しよわちへ」の「てら」が、古代「鼻(はな)ぐすく」と呼ばれた当宮鎮座地にある「波上洞穴遺跡」を指しており、この地が祖先達の葬所を根源とする「神の居所」であることが覗われると述べている』。慶長一〇(一六〇五)年に倭僧袋中良定が著した「琉球神道記 巻第五」の「波上権現事」では『当宮を琉球国第一大霊現と述べ、さらに以下のような当宮の創設伝承を記している』。『南風原の里主という者が釣りをしていると、ある日浜辺で「光り、ものを言う」霊石を見つけた。この石に祈るたびに豊漁となるので、諸神がこの霊石を奪おうとした。そこで里主が当地へ逃れると「吾は熊野権現也、この地に社を建て祀れ、然らば国家を鎮護すべし」との神託があった。里主は琉球王府にこれを奏上し、社殿が創建された』。『上記の伝承は、琉球の固有信仰として古くからあった石体信仰と熊野信仰が結合したものであろうと』「古代文学講座11 霊異記・氏文・縁起』(古橋信孝・三浦佑之・森朝男編 勉誠社一九九五年刊)では考察している。また、上記と同様の伝承が康熙五二年(正徳三(一七一三)年)に国王へ上覧された琉球王府編纂の地誌「琉球国由来記 巻十一」にも記されてある。正平二三(一三六八)年、『頼重法印が当宮の別当寺として護国寺を建立したが、その後一時衰微し、紀伊国熊野から補陀落渡海の果てに琉球へ漂着した真言宗の僧侶日秀上人により』大永二(一五二二)年に再興されているが、『再興にあたり日秀は熊野三所大権現の本地仏である阿弥陀如来・薬師如来・千手観音を刻して安置している』。寛永一〇(一六三三)年に社殿が焼失したが、『本地三尊像は護国寺に移されていて難を逃れた。焼失した社殿は』同一二(一六三五)年に再建された。『明治に入り近代社格制度によって官幣小社へ列格され』、明治二三(一八九〇)年、御鎮座告祭式が行われ、この御鎮座告祭式の五月十七日が、明治二六(一八九三)年以降、本社の例大祭の日となっている。昭和一〇(一九三五)年には御再興三百年祭を催行、さらに昭和一三(一九三八)年頃にかけて神苑が整備されたが、太平洋戦争末期の昭和二〇(一九四五)年、『戦火が迫ったことから宮司がご神体を奉じて摩文仁村へ避難した。しかし境内は激しい沖縄戦の中で鳥居を残し全てが灰燼に帰してしまった』。その後は昭和二三(一九四八)年に別表神社に指定され、昭和二七(一九五二)年、宮司が復興に着手、翌年『ハワイ移民の寄進により本殿と社務所を再建、本土へも呼びかけ』、昭和三六(一九六一)年に拝殿が再建された。昭和四七(一九七二)年本土復帰を迎えて沖縄復帰奉告祭が行われ、皇室より幣帛料を賜っている』。「朝日新聞」の連載記事「愛の旅人」の「山之口貘と静江」に、ここが描写されて、『神社の赤い本殿を乗せた隆起サンゴ礁が白砂のビーチに突き出す』。『那覇市の波之上(なみのうえ)は、山之口貘さんにとって放浪の原点となった場所だ。没落した家を頼れず、友人知人からも最後は見放されて、自然な成り行きのように波之上や隣接する辻遊郭、奥武山(おうのやま)公園などで野宿する生活に入る』。『波打ち際をコンクリートの高架橋が通り、その先の海上にも自動車道の建設が進んでいる。「耳と波上(なんみん)風景」で貘さんが「沖縄人のおもい出さずにはいられない風景」とうたった「浴衣や芭蕉布(ばしょうふ)の遊女達(たち)」「くり舟と山原(やんばる)船」は、もうどこにも見つからない』。『だが、ビーチに接する公園の目立たない木陰には、ホームレスのテントが立ち並んでいた。いつの時代にも、放浪を余儀なくされる人たちはいる』とある。この記事、短いものだが、バクさんのファンは必読である。

「龍舌蘭」単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科リュウゼツラン属 Agave に属する、厚い多肉質の葉からなる大きなロゼットを形成する熱帯性植物。

「阿旦」単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odoratissimus。高さ約六メートルで幹の途中から太い支柱根を出す。熱帯性で沖縄・台湾に自生し、潮風に強い。葉でパナマ帽や籠を、茎で弦楽器の胴を、根で煙管を作る。以下、ウィキの「アダン」によれば、果実は直径一五~二〇センチメートル『ほどでパイナップルに似た外見であり、パイナップルと同様に集合果である。個々の果実は倒卵形で』、長さ四~六センチメートル、幅三~5センチメートル、『内果皮は繊維質、外果皮は肉質』で、『若いうちは緑だが熟すと黄色くなり、甘い芳香を発する』。『葉や幹は利用価値が高く、葉は煮て乾燥させた後、パナマ帽等の細工物としたり、細く裂いて糸とし、筵やカゴを編む素材として利用される。観葉植物や街路樹としても利用される』。『沖縄では古くからその葉で筵やござ、座布団、草履を作るなどの利用があった。凧の糸にもアダンの繊維を撚った糸がもつれにくく適しているという。明治時代以降、加工技術の進歩に伴い、巻き煙草入れや手提げ鞄などが作られるようになったが、その後新たな素材の出現で衰えた。葉を漂白して作られたアダン葉帽子は一時期にブームを起こし、国外にまで輸出されるほどの好評を得た。モーリシャスでは製紙原料とされるとも言う。また、気根を裂いて縄とし、またその縄を編んでアンツクという手提げ鞄とする事も八重山では伝統的に行われ、これに昼食用の芋や豆腐などを入れて畑に出たという』。『防潮林・防風林・砂防林としても利用され、また観賞用に庭園などに栽培されることもある』。『パイナップルのような外観と甘い芳香のため、果実はいかにも美味に見えるが、ほとんどが繊維質で人間が食べるのには適さない。果実の表面に存在する突起の一箇所ごとが種子になっていて、その中心の松の実のような柔らかい白い箇所が可食部である。果実は硬い繊維質に包まれており、可食部を取り出す手間に見合う味と量ではないため、現在の沖縄県で食べる習慣は廃れてしまったが、過去にはアダンの果実でアンダンスーを作った。また、沖縄では昔食用とされたことからお盆には仏前にアダンの果実を供える習慣があったが、現在はパイナップルが使われ』ている。『また、石垣島ではアダンの柔らかい新芽を法事やお盆などの際の精進料理に用いる習慣があ』り、『他の野菜と共に精進煮とし、くせのない若筍のような味だというが、灰汁を抜かないと食べられず、手間がかかるため現在ではあまり食用にされない』とある。]

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