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2014/04/22

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 五 受精 (2)

前回のパートに配した以下の画像は本文との照応が悪いことに気付いたのでこちらに移した。




Uninoseisi


[「うに」の卵の受精]

[やぶちゃん注:この図は実は底本では(一)が(三)、(三)が(一)である。しかし、これはどうみても向って左の図が突出して侵入する精子を、(二)が侵入直後の精子と卵子表面の著しい変化を、そして(三)が卵子の表面の受精膜の堅固な形成と他の精子の排他的状況を示しているとしか思われず、図は時間軸で左から右へ移っているとしか読み取れない。実際に講談社学術文庫版の挿絵では、この配置のままの図でありながら、底本とは違って左から右へアラビア数字で1・2・3と番号が打たれてある。諸状況から、底本のこの部分は左から右への変化の番号の誤植としか思われないため、恣意的に数字を訂した。大方の御批判を俟つものである。]

 

 また卵細胞は留まつて動かず、精蟲の方が夢中になつて急ぐのを見ると、引力があるのは卵の方ばかりのやうに思はれるが、精蟲が卵に接近してからの樣子を調べると、實は精蟲の方にも一種の引力があつて、卵はそのために引き寄せられるものらしい。その證據には、精蟲が愈々卵細胞の近くまで來ると、その到着するのを待たず、卵の方からも表面より突起を出してこれを迎へ、一刻も早く相合せんと努める。この瞬間に於ける卵細胞の擧動を、中國の文人に見せたならば、必ずこれを形容して「落花情あれば流水心あり」とでもいふに違ない。精蟲に比べると卵は遙に大きいから、たとひ精蟲に引力があっても、丸ごとにその方へ引き寄せられるわけには行かぬが、相手が側まで來ると、それに面した部の原形質は引力のために引き寄せられ、突起となつて進み近づくのであらう。詰る所、異性の生殖細胞の間には相引く力があるが、卵の方は重いために動き得ず、身輕な精蟲のみが相手を求めて盛に游ぎ廻るのである。

[やぶちゃん注:「落花情あれば流水心あり」これは、落花には流水に従う気持ちがあるのに、川の水はそしらぬ顔で流れて行く、一方には情があるのにも拘わらず、他方には通じぬ恋の譬えをいう「落花情あれども流水意なし」を丘先生が捩ったものである。この故事成句は「和漢朗詠集」の巻上「落花」の冒頭に載る(一二六番歌。引用は新潮日本古典集成版を用いたが、恣意的に正字化した)、

 落花語(ものい)はずして空しく樹(き)を辭す 流水心なうして自(おのづか)ら池に入る  白

及び、その原詩である以下の白居易の詩(「白氏文集」巻五十七・二七九九)に基づく(但し、この現在使用される対称性を際立ててしまった含意は白居易の思いを歪曲させているように私には感じられる。以下の白居易の原文は「ジャパン・ナレッジ」の「古典への招待」の『和漢朗詠集』をどう読むかに拠ったが、訓読は私の読みに従った)。

 

 過元家履信宅   白居易

雞犬喪家分散後

林園失主寂寥時

落花不語空辭樹

流水無情自入池

風蕩醼船初破漏

雨淋歌閣欲傾攲

前庭後院傷心事

唯是春風秋月知

 

 元家(げんけ)の履信(りしん)の宅に過(よ)ぎる  白居易

 

鶏犬 家を喪ふ 分散の後(ご)

林園 主(あるじ)を失ふ 寂寥の時

落花 語(ものい)はずして 空しく樹(じゅ)を辭す

流水 情(こころ) 無くして 自(おのづ)から池に入る

風は醼船(えんせん)を蕩(ゆるが)して 初めて破漏(はろう)す

雨は歌閣(かかく)に淋(そそ)ぎて 傾欹(けいき)せんと欲す

前庭 後院(こうゐん) 傷心の事

唯だ是れ 春風秋月のみ知る

 

以下、参照させて戴いた『和漢朗詠集』をどう読むかによれば、これは八三四年、白居易六十三歳の折りの作。「元家の履信の宅」とは、これより三年前に五十三歳で世を去った親友の詩人元稹(げんしん)の洛陽履信里(り)の彼の旧宅を訪れた際の感懐を詠んだものである。賑やかに飼われていた鶏や犬も散り散りとなり、広い園内は寂莫荒涼、『折しも咲き乱れる花は、主の死を悼いたんで、その後を追うかのように、音もなく散り急ぐ。それに反して庭の流水は、主の死も知らぬげに、昔通りに無心に池にそそぎ込む』。「醼船」の「醼」は酒盛りで舟遊びをするための屋形船であるが、それが「破漏」、破れ果てて半ば沈みかけている。詩歌管弦の遊びに興じた高殿(「歌閣」)も雨にうたれ最早、朽ち傾きかけている(「欹」は「そばだつ」で朽ちた柱が辛うじてそそり立っているのである)。前庭も後室もどこもかしこも、これ、心を傷ましめぬものとてない。今はただ、春の風と秋の月だけが訪れるばかり――(典故となった頷聯の部分の訳は参考元に敬意を表してそのまま引用させて貰った)という謂いである(以下、引用先の評論は、まさに私が「歪曲」と感じた通り、これが「和漢朗詠集」の『落花」の部立に入れられたという事実は、断章取義の摘句が修辞的な意味で強調され、原作者の意図からかけはなれていく』として批判されているように、非常に格調高いものである。本注に引くにはあまりに場違いなので以下は省略するが、御一読をお薦めしたい)。]

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