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2014/04/15

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(6)



午後三時會社をいづるスコツチの

中にまぢりて我が影も行く

 

[やぶちゃん注:「まぢりて」はママ。「スコツチ」スコッチ・ツイード(Scotch tweed)。スコットランド産の羊毛の紡毛糸を用いて機械織りしたざっくりとした毛織物。因みに英語の“tweedy”には、ツイードを着た(好む)以外に、田舎に住む上流階級らしいという意がある。]

 

パノラマの暗き階子を登るより

すこしまさりし不安なるかな

             (初めて女を抱けり)

 

[やぶちゃん注:「階子」はママ。校訂本文は無論、「梯子」とする。ここで述べておくが(今までもそのセオリーで電子化してきているのであるが)、私は誤字や当て字であってもそれを訂せずとも分かり、意味として全く問題なく採れて認識出来る場合は、改訂すべきではないと考えている。

「パノラマ」上野及び浅草にあったパノラマ館のイメージと思われる。以下、サイト「meijitaisho.net」の「パノラマ館の記載によれば、日本初登場となったパノラマ館は明治二三(一八九〇)年五月七日(朔太郎未だ満四歳である)に上野公園内に開館した「上野パノラマ館」で、戊辰戦争の白河の戦いを描いた「奥州白川大戦争図」を配したこのパノラマ館は同公園で開催中だった第三回内国勧業博覧会の人出もあって大きな人気を集めた。続いて、二週間後の五月二十三日には浅草公園六区内に日本で二番目のパノラマ館「日本パノラマ館」が登場している。数あるパノラマ館の中でもとりわけ高い人気を集めたこの日本パノラマ館は、円形小屋で直径三十六メートル・全高約三十メートルという当時としては異様に巨大にして高層の建物であった(華族女学校や農商務省舎を手がけた建築家新家孝正(にいのみたかまさ)の設計)。サンフランシスコ直輸入の本格的な南北戦争図を配したその圧倒的なパノラマは開館直後から大人気となり、五ヶ月間で二〇万人もの観客を動員したとある。朔太郎は「パノラマ館にて」(リンク先は「宿命」(昭和一四(一九三九)年創元社刊)版。形「靑色のさびしい光線」も参照されたい。孰れも私の電子テクストである)を詠み、同詩集末の「附録 散文詩自註」に本詩の自註も掲げており、そこから一部を引用すると(「パノラマ館にて」のリンク先に同註全文を掲げてある。なお、下線部はやぶちゃん)、

   *

パノラマ館にて  幼年時代の追懷詩である。明治何年頃か覺えないが、私のごく幼ない頃、上野にパノラマ館があつた。今の科學博物館がある近所で、その高い屋根の上には、赤地に白く PANORAMA と書いた旗が、葉櫻の陰に翩翻(へんぽん)としてゐた。私は此所で、南北戰爭とワータルローのパノラマを見た。狹く暗く、トンネルのやうになつてる梯子段を登つて行くと、急に明るい廣闊とした望樓に出た。不思議なことには、そのパノラマ館の家の中に、戸外で見ると同じやうな靑空が、無限の穹窿となつて廣がつてるのだ。私は子供の驚異から、確かに魔法の國へ來たと思つた。(中略)

 館全體の構造は、今の國技館などのやうに圓形になつて居るので、中心の望樓に立つて眺望すれば、四方の全景が一望の下に入るわけである。そこには一人の説明者が居て、畫面のあちこちを指さしながら、絶えず抑揚のある聲で語つてゐた。その説明の聲に混つて、不斷にまたオルゴールの音が聽えてゐた。それはおそらく、館の何所かで鳴らしてゐるのであらう。少しも騷がしくなく、靜かな夢みるやうな音の響で、絶えず子守唄のやうに流れてゐた。(その頃は、まだ蓄音機が渡來してなかつた。それでかうした音樂の場合、たいてい自鳴機のオルゴールを用ゐた。)

 パノラマ館の印象は、奇妙に物靜かなものであつた。それはおそらく畫面に描かれた風景が、その動體のままの位地で、永久に靜止してゐることから、心象的に感じられるヴイジヨンであらう。馬上に戰況を見てゐる將軍も、銃をそろへて突擊してゐる兵士たちも、その活動の姿勢のままで、岩に刻まれた人のやうに、永久に靜止してゐるのである。それは環境の印象が、さながら現實を生寫しにして、あだかも實の世界に居るやうな錯覺をあたへることから、不思議に矛盾した奇異の思ひを感じさせ、宇宙に太陽が出來ない以前の、劫初の靜寂を思はせるのである。特に大砲や火藥の煙が、永久に消え去ることなく、その同じ形のままで、遠い空に夢の如く浮んでゐるのは、寂しくもまた悲しい限りの思ひであつた。その上にもまた、特殊な館の構造から、入口の梯子を昇降する人の足音が、周圍の壁に反響して、遠雷を聽くやうに出來てるので、あたかも畫面の中の大砲が、遠くで鳴つてるやうに聽えるのである。

 だがパノラマ館に入つた人が、何人も決して忘られないのは、油繪具で描いた空の靑色である。それが現實の世界に穹窿してゐる、現實の靑空であることを、初めに人人が錯覺することから、その油繪具のワニスの匂ひと、非現實的に美しい靑色とが、この世の外の海市のやうに、阿片の夢に見る空のやうに、妖しい夢魔の幻覺を呼び起すのである。

   *

以下、参考先「meijitaisho.net」の「パノラマ館」から引用すると、かくも『圧倒的な視覚体験を提供したパノラマ館でしたが、背景の巨大な図絵や前景の造作物等、規模が大がかりなパノラマは、新図を頻繁に入れ替えることは困難で、人気の維持には苦労していたようです。いずれのパノラマ館も、開館当初は高い人気を集めますが、最初の感動が強いだけに同じ絵のままでは飽きられるのも早く、しばらくすると客足は途絶えがちになります。そのため何とか数年ごとに新図に入れ替えて、客足を呼び戻すというかたちが専らでした』。『しかしこのように更新のサイクルが遅く、加えて基本的には絵が静止したままのパノラマは、上映の入れ替えが頻繁で、実像が動き続ける新時代の見世物にはかなうべくもありません。明治40年代に入って国内に活動写真が全盛し始めると、その人気を奪われるのに時間はかからず、大正時代を待たずに相次いでその姿を消していきました。一時は大変な人気を集めた日本パノラマ館も、日露戦争の頃まではなんとか客足をつないだものの、その後は急速に人気を失って』、明治四二(一九〇九)年に閉鎖したとある。

 さて、本「ソライロノハナ」の「自敍傳」のクレジットは大正二(一九一三)年四月(同年四月時点で朔太郎は満二十七歳であった)ではあるが、次の次の一首の元が明治四三(一九〇二)年六月以前の句であるから、この歌の作品内時制をそれ以前(上野や浅草のパノラマ館があった時期)と考えることはなんら問題なく、まさに浅草の日本パノラマ館(と限定しているわけではないが、私には恐らくは啄木の短歌などの影響か、何故かそれらしく思われてしょうがないのである。悪しからず)の閉鎖される直前の景ととるのも、これまた哀感を興に添えるという気が私にはするのである。]

 

鷄鳴(けいめい)すかく言ひ君をかい抱く

きぬぎぬこそはまたなかりけれ

 

しかれども悲劇の中の道化役者(ピエロー)の

一人(にん)として我は生くべき

 

[やぶちゃん注:この一首は、朔太郎満二十三歳の時の、『創作』第一巻第四号・明治四三(一九〇二)年六月号に掲載されたものの一首、

 しかれども悲劇の中の道化役の一人として我は生くべき

表記違いの相同歌である。]

 

いかならん尚も流涕したまふは

悲劇の幕のとぢしのちにも

 

不覺にも胸さはがせて背後(うしろ)より

おどかす君がにくきたくらみ

 

[やぶちゃん注:「さはがせて」はママ。]

 

尊氏といふわが伯父は日の本に

すこし過ぎたる人なりしかな

 

[やぶちゃん注:「尊氏といふわが伯父」不詳。萩原家には父光蔵(萩原玄隆三男)の上には長男玄得(腸チフスで早逝)と次男玄碩という伯父がおり、この玄碩という人物が医家であった主家萩原家第十一代目を継いでいる(養子先から戻ったらしい)が、この人物を指すのではあるまいか?(母方の八木家には俊一郎という叔父はいるものの伯父はいない)。大阪府八尾市立図書館公式サイトの「デジタルアーカイブ」内の「萩原朔太郎」によれば、祖父玄隆は八尾の旧家の出で、『朔太郎の父密蔵は、八尾市南木の本で代々続く医家の三男として生まれ』(嘉永五(一八五二)年)、明治一四(一八八一)年に『東京帝国大学医学部別科を卒業後、群馬県立病院の医師として前橋に赴任。土地の素封家の娘と結婚し』(密蔵三十五歳、妻ケイ(朔太郎の母)二十歳。但し、密蔵は五歳若く年齢を詐称していた。ケイは終生それを信じていたと底本全集の年譜にある)明治一九(一八八六)年十一月一日に朔太郎が誕生、自身の医院を『開業したのはその前年で、前橋随一の名士として市の医師会長まで勤め』たとあり、その後に『八尾の本家は、密蔵の次兄玄碩が継ぎ、現在はその孫にあたる隆氏が、萩原家16代目として家業(内科医院)を継いでおられ』、『隆氏の父栄次は、医師であると同時に短歌をたしなむ風雅の人で、朔太郎の良き理解者でもあり』、『朔太郎は、八歳年長のこの従兄を兄とも慕い、終生敬愛してやま』ず、『朔太郎の第一詩集『月に吠える』の初版は栄次に捧げられ』ている。『隆氏は、昭和54年、筑摩書房から『若き日の萩原朔太郎』を上梓されました。自己の内面を赤裸々に吐露した朔太郎の栄次宛書簡に著者ならではの解説が付された本書は、すぐれた“朔太郎論”であるとともに、ふたつの高貴なる魂の交友録だといえるでしょう。また、『河内どんこう 60号』にも『我が家と萩原朔太郎』という隆氏の一文が掲載されています』とある。この現在の萩原朔太郎の伯父の子孫の名前が「隆」(「たかし」であろう)というお名前であることに着目したい。全集の系図に出る「玄碩」という名は如何にも昔の医家の号そのものである。この人は実はこの「隆」という名に響きも合う「尊氏」というのが本名であったのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

櫻さく夷の國に生れしは

いかなる母が不覺なりけむ

 

[やぶちゃん注:朔太郎の母ケイは旧厩橋松平藩藩士で当時は師範学校副校長(県衛生課兼務)であった八木始の長女で、慶応三(一八六七)年に前橋で生まれている。父始は古武士風の厳格な性格で子弟への躾も厳しかったが、一面ハイカラ趣味の持ち主でもあったと年譜にある。彼女と朔太郎の異常とも言える母子の愛情関係はよく知られたところではあるが、ここで朔太郎が述べているこの「母が」「櫻さく夷の國に生れ」てしまったことは想像を絶するほどに「不覺」であったことであろう、と述懐するその具体な核心部分は私にはよく分からない。識者の御教授を乞うものである。]

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