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2014/04/19

飯田蛇笏 靈芝 昭和九年(百七句) Ⅵ



虹たちて白桃の芽の萌えにけり

 

   猿橋々畔の大黑屋は國定忠治の定宿と

   て今尚彼が武具を藏す。

懸け古りし忠次が弓や竹の秋

 

[やぶちゃん注:猿橋橋畔(山梨県大月市猿橋町猿橋)に現存するが、現在は名物「忠治そば」を出す飲食店となっているが。この当時はまだ旅館であったらしい。公式サイトはこちら。]

 

   四月十二日、雲水宗淵の東道にて汀波、

   呉龍と四人連れ大菩薩登山を決行せん

   と微雨を衝いて神金雲峰寺に到る。庭

   前の櫻、樹齡六百年と傳ふ。

雲霧にこずゑは見えず遲ざくら

 

[やぶちゃん注:「宗淵」俳人としても知られた臨済僧中川宋淵(そうえん 明治四〇(一九〇七)年~昭和五九(一九八四)年)と思われる。個人ブログ「OpenSesame 叡智の扉」の「不二ということ」に、かのベストセラー「般若心経入門」の著者松原泰道の師でアメリカで禅を広めた傑物とあり、蛇笏と彼の印象的な邂逅が綴られてあるので引用させて戴く(改行の一部を連続させた)。

   《引用開始》

宋淵が富士山の頂上で半年間に亘って座禅を組んだことがあった。その年の冬、下山命令が出て山を下りた宗淵は、その足で甲府にある飯田蛇笏の門を叩く。現れた蛇笏に向かって宗淵が問うた句があった。

 

 秋風や 火口に落つる 砂の音

 

この句を見た蛇笏は、即座に宗淵の入門を認める。しかし同時に、この俳句には一点、間違ったところがあるといって句に朱を入れた。

 

 秋風や 火口を落つる 砂の音

 

それを見た宗淵は、あまりの感激にその場にへたり込んでしまったという。

 

 秋風や 火口に落つる 砂の音。

 

  この句の心は砂粒に在る。

  秋風の吹く高い空は、砂粒からの眺めだろうか。

  我が心が転がり落ちる先に火口があって、

  砂音は我が身を取り巻いて大きく響いている。

 

 秋風や 火口を落つる 砂の音。

 

  秋風が吹き渡り、

  辺りには火口に向かって滑り落ちる砂の音が、

  カラカラと響いている。

 

わずか一文字の違いが、句の描く景色をここまで変えてしまう。宗淵は、不二の境地を求めて富士の山頂で座禅を組んできたけれど、結局自分は、自分のことから離れられてはいなかった。その事実に愕然としたのだろう。小さな砂粒ひとつに心が囚われて、世界が一体不可分であると見えていなかったことに、ハッと気づくのだ。

 

蛇笏が宗淵を高く賛するのは、不二の姿を瞬間にして理解した人間の輝きを見たからに違いない。

   《引用終了》

以下、宗淵の逸話が含蓄のある続く。是非、お読みあれ。なお宗淵はこの句作の昭和九(一九三四)年当時は四十一歳で、蛇笏は明治一八(一八八五)年生まれであるから当時、四十九歳であった。

「東道」は「とうだう(とうどう)」で同道の意。本来は「東道の主」「東道の主人」で、これは「春秋左氏伝」僖公(きこう)三十年に載る、東方へ赴く旅人をもてなす主人の意が語源で、主人となって来客の案内や世話をする者のことをいう。

「汀波」は「ていは」と読む。医師樋水昌策(といずみしょうさく)の俳号。彼の妻静枝は蛇笏の妹。参照したサイト「山梨・まち[見物]誌 ランデブー」内の第6号 特集・田富町 花輪と『雲母』 大正9年の「笛吹川観月句会」再現ドキュメントに印象的な回顧談が載るので是非お読みあれ。

「呉龍」は『雲母』同人の高室呉龍(たかむろごりゅう 明治三七(一八九九)年~昭和五八(一九八三)年)かと思われる。昭和九年当時は三十三歳。

「神金雲峰寺」「神金」は「しんかね」と読み、現在の山梨県甲州市塩山上萩原の地名。「雲峰寺」は同地にある臨済宗妙心寺派の裂石山(さけいしざん)雲峰寺。ウィキの「雲峰寺」によれば、『甲府盆地東部を流れる笛吹川支流の重川上流部、青梅往還を大菩薩峠へ向かう登山道沿いに立地する。寺伝によれば、もとは真言宗もしくは天台宗寺院で、天平17年(745年)に行基が大石が裂け一夜にして生えた萩木から本尊の十一面観音を彫刻し、開山したと伝えられている』。『室町時代には恵林寺住職の絶海中津が観音堂改修の浄財勧募を行っており(『絶海録』)この頃には恵林寺末寺として臨済宗に改修していたものと考えられている。戦国期には甲府(甲府市)が甲斐守護武田氏の本拠となるが、雲峰寺は甲府の鬼門に位置するため、『甲斐国志』に拠れば武田氏の祈願所となっていたという。天文年間に火災に遭い、紹謹禅師の尽力と甲斐守護武田信虎・晴信(信玄)の支援により復興された(「雲峰寺文書」)』。『天正10年(1582年)に武田勝頼が一族とともに天目山の戦いで滅亡した時、武田家の家宝である「日の丸の御旗」「孫子の旗」「諏訪神号旗」などを山伝いに運んだといわれ、寺宝として保存され現在も宝物殿で見ることができる』とある。公式サイトには、宝物殿前にある「峰のサクラ」は天然記念物に指定されており、約七百年前に植えられたものとされているとあるから、未だ健在である。]

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