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2014/05/03

Ⅴ 附言 (1)原典の祖型である六朝志怪 / (2)沈既済「枕中記」について

(1)原典の祖型である六朝志怪
 先の注で述べた通り、芥川龍之介の「黄梁夢」のこの原典「枕中記」は、「太平広記」巻二八三の「引幽明録」に載る以下のたった百四字から成る六朝志怪を更なる原典としていると考えられることが魯迅によって指摘されている(「中国小説史略」第八篇及び第五篇参照)。以下の原文はネット上の魔人姿氏(中国人の方と思われる)のこちらのブログにあるものを加工させて戴いた。訓読文は「枕中記」底本の乾氏の解説にあるものを参考にし、現代語訳は先の「中国古典小説選5」の巻末論文「唐代伝奇について」及び魯迅著中島長文訳注「中国小説史略」(平凡社一九九七年刊)を参考にした。
   *
〇原文
宋世、焦湖廟有一柏枕。或云、玉枕。枕有小坼。時單父縣人楊林爲賈客、至廟祈求。廟巫謂曰、君欲好婚否。林曰、幸甚。巫即遣林近枕邊。因入坼中、遂見朱樓瓊室。有趙太尉在其中。即嫁女與林。生六子、皆爲秘書郎。歷數十年、幷無思歸之志。忽如夢覺、猶在枕旁。林愴然久之。
〇やぶちゃんの書き下し文
 宋の世、焦湖廟せうこべうに一つのはくの枕有り。或いは云ふ、玉の枕なりと。枕に小坼せうたく有り。時に單父縣ぜんぽけんの人、楊林、賈客かかくたり、廟に至り祈求きぐす。廟巫べうふ、謂ひて曰く、
「君は好婚を欲するや否や。」
林曰く、
「幸甚なり。」
巫、即ち林をして枕邊まくらべに近づかしむ。因りて坼中たくちゆうに入り、遂に朱樓瓊室けいしつを見る。趙太尉てうたいいの其の中に在る有り。即ち女を嫁して林に與ふ。六子を生み、皆、秘書郎と爲る。數十年をるも、幷びに歸らんことを思ふの志し無し。こつとして夢の覺むるがごとくして、猶ほ枕のかたはらに在り。林、愴然さうぜんたること、之れ久しうす。

〇語注
・「宋の世」紀元前一一〇〇年頃~紀元前二八六年。周・春秋・戦国時代に亙って存在した国。都は商丘。周公旦が殷の紂王の異母兄微子啓を封じた国。都は商丘(現在の河南省)。斉・楚・魏の三国によって滅ぼされた。
・「焦湖廟」「焦湖」は現在の安徽省巣湖そうこ市で、巣湖という大きな湖の西端に位置する。そこにあった道教の廟。後に出る林の故郷「單父縣」からは直線距離で南南東約三六七キロメートルに相当する。
・「柏」中国ではヒノキ Chamaecyparis obtuse に代表される裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科 Cupressaceae や同科のコノテガシワ属 Platycladus 等の常緑樹に対する総称。本邦の双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節のカシワ Quercus dentate とは異なる。ここでは「ひのき」と訓じておいた。
・「小坼」「坼」は裂け目・罅で、小さな亀裂を指す。
・「單父縣」現在の山東省菏沢かたく市単県。
・「趙太尉」古代の官名。秦と漢初までは武官の最高の者「尉の大なる者」の意(漢の武帝以後は大司馬に変わり、後漢では三公の首に置かれた)。
・「祕書郎」既注。秘書省校書郎の略で宮中の図書を官吏する官。

〇やぶちゃん現代語訳
 六朝は宋の世、焦湖廟しょうこびょうの中に一箇のひのきの木で製せられた――或いは玉製の枕とも――安置されてあった。その枕には小さな裂け目があった。
 ある時のこと、単父ぜんぽ県の楊林という人物――彼は旅商人であった――が廟に参って願掛けをした。
 すると廟の巫女みこが出て来て、林に、
「あなたさまは幸せな結婚をお望みなのでは御座いませぬか?」
と訊ねた。
 林は図星であったので正直に、
「そうなれば、これは甚だ結構なことで御座います。」
と答えた。すると巫女はすぐに林をかの枕辺に近づかせた。
 すると……忽ちのうちに林の体は小さくなって……そのまま……すうっと……裂け目の中に入ってしまった。……
……するとそこに、忽然と、朱塗りの楼閣や玉で飾った美しい部屋が現れるのを見た。
 そこには趙太尉がおられた。そしてすぐに自分の娘を林に逢わせると、その場で林に嫁がせた。
 女は六人の子を生み、皆、秘書郎となった。
 林は数十年を経ても、故郷単父へ帰ろうという思いは起らなかった。――
――と
……ふっと夢から醒めたような気がしたが……
……気がつけば……さっきの……その焦湖廟の枕の傍らに立っていた自分を見出した。…………
 それより永く、林は、哀しみにうちひしがれていた、という。
   *
 これを読むと、こうした志怪小説という形をとる以前に、実はさらなるプロトタイプとしての地方の博物誌としての「不思議な枕」の話が元にあったものではないかと思われる。また林の夢人生は廬生のそれとは異なり、一貫して幸福に満ちたものであり、幻想的な遊仙譚の域を出ないが、不思議な枕というアイテム、その裂け目と両端の孔を異界への通路とする設定、至福の婚姻と子らの出世を綴る辺りを見れば、「枕中記」が確信犯でこれをインスパイアしたと考えてよい。

(2)沈既済「枕中記」について
 (1)の分量の実に十倍(「中国古典小説選5」の巻末論文「唐代伝奇について」に拠れば実に総字数千百三十七字である)膨れ上がった「枕中記」の最大の特徴は、史家沈既済の面目躍如たる夢時間内での虚実皮膜とも言うべき廬生一代記の驚くべき緻密さであろう。実際にはこの私のページを読む多くの読者は、注の煩瑣に退屈される方が多いと想像する。夢オチなのだから実際に地名や実在人物や事件や出来事を検証する必要は実際にはないと感じるであろうし、悲愴な自己拘束をかけた専門の研究者ででもない限り、真剣に語注を読もうとも思うまい(曾ての若き日の私も似たり寄ったりだったことをここに告白する。私は今回のこの電子化評釈で初めて「枕中記」を精読したという気がしている)。しかし、この廬生の事蹟はまさに司馬遷の時代からこの唐代至るまで多くの士官の文学者たちが目の当たりにしてきた、波瀾万丈の、そしてそれ以上数奇にして悲劇的な士大夫階級の現実であったことを、沈は自らの失脚左遷や自身を推挙してくれた上司楊炎の暗殺といった体験の中に痛感していた。今村氏の注の最後には、『作者沈既済が、楊炎の失脚という切実な出来事をからませた政治批判という読み方もなされている(卞孝萱)』(卞孝萱べんこうけん 一九二四年~二〇〇九年:元南京大学中文系教授。文学博士)。『唐代、一種の官界出世双六の要素もあって、広く愛読され、李肇』(りちょう 生没年未詳:唐代の翰林学士。)の書いた「唐国史補(下)」『では、韓愈の「毛頴伝」』(「もうえいでん」と読む。文宝の筆を始皇帝に仕えた人物として擬人化し、その一生を歴史書風に真面目腐って書いた文章である)『とならべておりあげ、唐末の詩人房千里』(生没年未詳)『も、この作品を『列子』とともにとりあげて、作者の本意とは逆に、夢の快楽をそこに見出している』とあって、その読みが古来、多様になされてきたことが分かる。
 「中国古典小説選5」の巻末論文「唐代伝奇について」(これは恐らく黒田真美子氏の執筆になるものと思われる)の本作の構成の上手さを簡潔に記しているが、特にその中でも最終局面の夢の部分から現実へ帰還する部分の卓抜した妙味を述べている部分を是非引いておきたい(引用文中の武田泰淳の末尾には注記号があり、それが勁草書房一九七〇年刊の「黄河海に入りて流る」からであること注されてある)。
   《引用開始》
最後に、上奏文と詔勅が認められているが、この帝への礼を記した併催体の上奏文とそれに答える帝からの見舞いの詔(みことのり)は史官としての沈既済の文才を示して、面目躍如である。だがそのものものしさのすぐあとに「――〈廬生はあくびをして、目をさました〉とつづく絶妙の効果。加うるに〈人生の楽しみとは、こんなもんじゃ〉と老人がつぶやく一語で、廬生と天子が交換した公文章の虚飾は一気にひきはがされるではないか」と武田泰淳は、「唐代伝奇小説の技術」という短文で指摘する。沈既済の価値観が正にここに集約されているといえよう。また、夢の世界と、最初と最後の現実世界との時間の相違を「黍を蒸す」時間を用いて際立たせている。楊林の話にはこの点も欠けているが、これによって現実世界のリアリティが格段に高まり、パラドクシカルな意味で「幻設」が確立するのである。
   《引用終了》
 この武田泰淳の指摘は、沈が本作で最も力を入れて書き、しかも作品のテーマとも直結するキモを剔抉して実に美事である。
 また、同論文はこの直後の部分で総括的に『六朝志怪を祖型としつつも、唐代伝奇は右の如く、作者の存在が大きな意味を持ち、作者の創意の下に時空を備えた虚構世界が構築されていることを認め得よう。また志怪的要素を含んでいてもそこに比重があるのではなく、描こうとするのは人間である。それも生身の欲望や感情を有した個性ある人間を。伝奇における怪異は人間というこの不思議な存在を照し出す鏡にしか過ぎ』ないものであったという鋭い指摘をしている。私は正にその伝統を現代に蘇らせたのが芥川龍之介の「杜子春」であり、この「黄梁夢」であり、そしてそれに続く人間李徴の物語としての「山月記」であったと思うのである。
 「枕中記」一巻の最大のテーマを私は、
人間にとっての「人生の適」=「生きることのまことの悦び」=
そして、その「生」は同時に連続する「死」と一体のものでもあるがゆえに、
「人の生き死に於ける真の自由」とは何か?
という哲学的な問題提起であると考えている。そうして、史書の列伝のような圧縮率の高い夢記述に対して額縁を成すところのこの前後の部分の内、この冒頭の呂翁と廬生の問答形式のシークエンスが何か妙に細かく丁寧な描写となっているのである。「枕中記」は単に「人生これ夢の如し」といった如何にもなテーマなんぞではない。
 夢の中の廬生は一見最終的に、家庭と子孫と権力という総ての社会的幸福の頂点に達して大往生を遂げたように見える。しかし私は、それは見えるだけであって、その夢を見た廬生はそのバーチャルに体験した自己の欲望によって構成演出された自作自演の壮大な叙事詩に、目覚めたその瞬間、大きな空虚感を抱いているのである。でなくして、どうして暫くの間、「憮然」(意外なことに驚き、呆れて)として、次に鮮やかに「此れ、先生の吾が欲を窒ぐ所以なり」! と 歓喜に転ずることが出来よう?
 廬生は夢の中の自身の波瀾万丈の人生に、愛欲・野望・賞賛・猜疑・嫉妬という螺旋の中で行われる、人の欲望に付随する信不信のプラスとマイナスのエネルギーの絶望的な熱交換を知り、結局、その果てに冷却収縮萎縮し、遂には単なる点としてゼロへと収束していくだけの己れの姿、
欲にとらわれた多くの人間の模式を――
人生的時間の中での連続する欲望の徒労という真実を感得した――
のであると信じて疑わないのである。その観点から前半部を見ると、この「適」の字が字背の骨のように配されていることが分かる。全部で八箇所であるが、私は寧ろ、テーマの意味ではない用法としてプレに使用される、廬生が初めて馬に乗って登場する「將適于田」の「適」、及び如何にも心から楽しんで呂翁と談笑するシーンの「談諧方適」に着目する。そもそも何故、呂翁は廬生に目を留めたのか? それはまさに青馬に跨って悠然泰然として「行く」凛々しい青年廬生(三十歳ではあるが)の姿に惹かれたからに違いない。道士が人に惹かれるのは、その人物が仙骨を持っていることを絶対条件とする。とすれば、この美しい廬生の馬に乗って野良仕事へ向かってく姿は呂翁にとってまさに「生死に於ける真の自由」を知り得る仙骨を持った人物(教化の候補者)と映ったのだとしか考えられない。そしてそのプエル・エテルヌス、永遠の少年の面影を持つ彼と茶を喫し、語り、呂翁は、そこで如何にもまさに「のびのびとした自由な」彼の人柄に触れた。だからこそ二人は「心から楽しんで談笑する」のである。そうして呂翁は廬生を教化に値する人物と認定、愚痴を零した彼に対して「談諧方に『適』するに」(今さっきまで面白おかしく喋っておったに)、何がお前の「適」じゃ? と水を向けるのである。この二つの「適」の用字をプレに用いているのは私は偶然ではないと思う。その証拠に、夢記述部分には「適」の字は一切使用されず(それは夢の中の廬生の人生には実は「適」はないという暗示でもあると私は思っている。そもそも廬の見る夢をこれが仙術である以上、呂翁は実は事前に知っているのである。そうしてもしその夢が本当に呂翁が最初に言っているような廬にとって正しく「當に子をして、榮適、志しのごとくならしむべし」というものであったなら、その夢記述の中に「適」の字は用いられるのが当然である。それが出ないのは、とりもなおさず、廬生の欲に基づく夢人生には微塵も真の「適」はないという証左なのである)、再度使用されるのは実にコーダの呂翁の決め台詞「人生のてき、亦、是くのごとし。」一度きりなのである。
 なお、この「枕中記」はその後、多くのインスパイア作品を生んでおり、知られたものでは元の馬致遠「邯鄲道省悟黄梁夢雑劇」・明の湯顕祖「邯鄲記」(劇)・清の蒲松齢「続黄粱」、本邦では世阿弥の謡曲「邯鄲」恋川春町の「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」(但し、田舎出の若者が目黒の粟餅屋で寝入るうち、富商の養子に迎えられて金々先生と呼ばれるお大尽となって吉原や辰巳で栄華な生活を送るも、悪手代や女郎に騙されて元の姿で追い出されるという夢を見て人生を悟るというパロディ)、そして芥川龍之介の本作と、そうした過去のインスパイア作品を換骨奪胎してしかも現代劇に改造した三島由紀夫の「近代能楽集」の巻頭を飾る「邯鄲」などが挙げられる。
 最後に一言、個人的な思い出綴っておく。
 私はこの「枕中記」を、富山県立伏木高等学校二年の時の漢文の授業で中年の国語教師蟹谷徹先生から初めて聴いた時のことが忘れられない。先生は巧みな話術で面白おかしく志怪や伝奇をよく話して下さったものだった。その中でも「牡丹燈記」に次いで面白かったのが、まさにこの「枕中記」であった。ところが先生の「枕中記」は結末がちょっと違うのだ。廬生は高位高官に上り詰めるのだが、冤罪によって失脚し、遂には斬罪に処せられてしまうのである。先生の廬生は刑場に引きずられて行く途中も、情けなく「死にとうない! 死にとうない!」と喚き、断頭台の木の切株の上に首を横たえさせられると、「あらあっ! こんなんやったら、邯鄲の田舎で百姓やっとった方がなんぼかましやった!」と富山弁で叫ぶのである。最後に首切り役人が振りおろした、ぶっとい剣の刃が(蟹谷先生はちゃんと黒板に青銅製の中央に峯のあるごっつい剣の絵を描いて「これは刃は鈍いからぶちっ! と押し切るんですね!」と如何にも楽しそう説明された)それが廬生の首筋に――ピタッ!――と触れた瞬間――廬生は目醒める――というのが蟹谷本「枕中記」であったのだ。私は授業が終わると早速に図書室に行って二冊ほどの唐代伝奇をはぐったのだが、今さっき、先生の演じられた最も印象的なそこが――ない――私はその日の放課後、廊下ですれ違った先生にそのことを尋ねてみた。不思議に明るいブルーの瞳(無論、先生は日本人なのだが不思議に虹彩の色がそうだったのだ)を少年のようにキラッとさせて、「そうやったけ? 変んやねえ?」と言いながらも、何故か先生はずっと黙って私の顔を見て笑っておられた――そう――呂翁のように――私はあの、スリリングな感動物の蟹谷本「枕中記」を――今も探しているのである……
[やぶちゃん附注:自分にとってはいささか無粋な附注なのだが、実は今回、いろいろと渉猟するうちにこの先生のネタもとではないかと思われるものが分かってしまった。これは恐らく先に掲げた「枕中記」のインスパイアである、清の蒲松齢の「聊斎志異」に載る「続黄粱」を「枕中記」の後半にすり替えたものと思われる。「続黄粱」は「続」とあるが、続編という体裁ではなく、別箇な作で、主人公も「曾」という名の、とんでもないはねっかえり者である。しかもその夢中での展開は「枕中記」とは似ても似つかぬもので、佞臣となった曾は爛れきった栄華の頂点から転落の一途を辿り、果ては山賊に殺されて地獄のさんざんな責め苦を受け、最後に女に転生してしかも冤罪で惨たらしい凌遅刑に処される。既にお気づきのことと思われるが、実はこの展開は寧ろ李復言の「杜子春傳」の方に酷似しており、蒲松齢自身が確信犯で「枕中記」と「杜子春傳」をカップリングしたものと思われる(リンク先は私の電子テクスト)。今回、この評の公開に先立ち、私の偏愛する角川文庫版の鬼才柴田天馬氏の訳「続黄梁」をブログに公開したのでお読み戴きたい。――にしても流石は蟹谷先生、面白さのツボ(夢覚醒のシーンとしてはこれに勝るものはないと私は思っている)を心得ていらっしゃった。やっぱりこれは私を志怪へと導いて下さった呂蟹谷翁ろけいこくおうの卓抜な呂蟹谷本「枕中記」なのだという思いは全く変わらないのである。――]

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