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2014/05/28

北條九代記 卷第六  京方武將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑 (1)承久の乱【二十七】――官軍敗北、大臆病の後鳥羽院、帰り着いた武将らに門を開けず

      ○京方武將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑

能登守秀康、平九郎判官胤義、山田次郎重忠は散々に打なされ、郎從どもは或は討たれ、或は落失せて、賴む影なくなり果てて、一院のおはします四辻殿へ參りたれば、武士共は「是より何方へも落行け」とて、門をも開かで突放さる。山田次郎、大音擧げて「大臆病の君に語(かた)はれ、今は内にだに入れられず、憂死(うきしに)せんずるは」とて南を指して打ちけるが、嵯峨野を心に懸けつゝ、西を遙に落行く所に、子息伊豆守に行合(ゆきあう)たり。桂川の邊にて、天野〔の〕左衞門尉、百騎計(ばかり)にて追詰めたり。人手にかゝらじとや思ひけん。山田父子は小竹の中に走り入て、腹搔切りて死ににけり。平九郎判官は、父子只二人、西山の方に行きて、心靜に自害をぞ致しける。天野〔の〕四郎左衞門は、首を延べて出でたりしを、即ち切りて捨てられたり。後藤大夫判官基淸は降人(かうにん)に出でたりしを、御許(ゆるし)なければ、子息左衞門尉基綱、申受(まうしう)けて切りにけり。他人に切せて、死骸を申受けて孝養(けうやう)せんには遙に劣れる事なりと人々、傾(かたぶ)け言合(いひあ)ひけり。駿河大夫判官惟宣は行方なく落失せぬ。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十七】――官軍敗北、大臆病の後鳥羽院、帰り着いた武将らに門を開けず〉以下、本章も分離する。

「山田次郎重忠」(?~承三年六月十五日(西暦一二二一年七月六日)ここで後鳥羽院を「大臆病」と罵った、承久の乱に於ける官軍の名将であった彼を讃えて特に以下にウィキの「山田重忠」より、その事蹟を引用したい(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。『治承・寿永の乱では父重満が墨俣川の戦いで源行家の軍勢に加わり討死したが、重忠はその後の木曾義仲入京に際して上洛し、一族の高田重家や葦敷重隆らと共に京中の守護の任に就くなどした。義仲の滅亡後、源頼朝が鎌倉幕府を創設すると尾張国山田荘(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手市の一帯)の地頭に任じられ御家人に列する。しかし山田氏の一門は伝統的に朝廷との繋がりが深く、重忠は鎌倉期以降も京で後鳥羽上皇に近侍し、建保元年(一二一三年)には上皇の法勝寺供養に供奉するなどしている』。『承久三年(一二二一年)五月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると重忠は水野高康(水野左近将監)ら一族とともにこれに参じた。同年六月、京方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張川で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。京方の大将の河内判官藤原秀澄(京方の首謀者・藤原秀康の弟)は少ない兵力を分散する愚策をとっており、重忠は兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲い、幕府軍を打ち破って鎌倉まで押し寄せる積極策を進言するが、臆病な秀澄はこれを取り上げなかった』。『京方の美濃の防御線は幕府軍によってたちまち打ち破られ、早々に退却を始めた。重忠はこのまま退却しては武士の名折れと、三百余騎で杭瀬川に陣をしき待ちかまえた。武蔵国児玉党三千余騎が押し寄せ重忠はさんざんに戦い、児玉党百余騎を討ち取る。重忠の奮戦があったものの京方は総崩れとなり、重忠も京へ退却した』。『京方は宇治川を頼りに京都の防衛を図り、重忠は比叡山の山法師と勢多に陣を置き、橋げたを落として楯を並べて幕府軍を迎え撃った。重忠と山法師は奮戦して熊谷直国(熊谷直実の孫)を討ち取るが、幕府軍の大軍には敵わず京方の防御陣は突破された。幕府軍が都へ乱入する中で、重忠は藤原秀康、三浦胤義らと最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを文字どおり門前払いした。重忠は「大臆病の君に騙られて、無駄死にするわ」と門を叩いて悲憤した』。『重忠は藤原秀康、三浦胤義ら京方武士の残党と東寺に立て篭もり、これに幕府軍の大軍が押し寄せた。重忠は敵十五騎を討ち取る奮戦をしたが手勢のほとんどが討ち取られ、嵯峨般若寺山(京都市右京区)に落ちのび、ここで自害した』。『重忠の自害後、嫡子重継も幕府軍に捕らえられ殺害、孫の兼継は越後に流され後に出家、僧侶として余生を送った。山田氏は兼継の弟・重親の子孫が継承していった』。「沙石集」では『重忠を「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と称賛している。また、信仰心の篤い人物であったと云われ領内に数多くの寺院を建立したことでも知られている』。

「大臆病の君に語はれ、今は内にだに入れられず、憂死せんずるは」――「大臆病の天子に言ってやれ! 今は御所の内にさえ入ることが出来ず、このまま心に染まぬ捕囚となって犬死にするぐらいなら、今一度、敵と対して討ち死にせん!」という意である。「承久記」では「大臆病の君に語らはされて、憂死に死せんずるは」で少しニュアンスが違う感じがする。こちらは「大臆病の天子に騙られて、あたら無惨に犬死をすることとなったわ!」であろう。

「天野左衞門尉」幕府方武将天野政景。

「天野四郎左衞門」これはまさに前注の天野政景の実子で、しかし官軍に就いた天野時景である。梟首となった。

「傾け」非難し。

「駿河大夫判官惟宣」大内惟信(生没年不詳)のこと。清和源氏義光流平賀氏の一族で、大内惟義の嫡男。母は藤原秀宗の妹(承久の乱の首謀者藤原秀康の叔母に当たる)。参照したウィキの「大内惟信」によれば、元久二(一二〇五)年、『叔父の平賀朝雅が牧氏事件に連座して誅された後、朝雅の有していた伊賀・伊勢の守護を継承し、在京御家人として京の都の治安維持などにあたった。帯刀長、検非違使に任じられ、南都神木入洛を防いだり、延暦寺との合戦で焼失した園城寺の造営を奉行するなど重要な役割を果たした』。建保七(一二一九年)に第三代将軍源実朝が暗殺された後、『父惟義から惟信へ家督が譲られたと見られ、惟義の美濃国の守護も引き継いだ。しかし、鎌倉幕府は源氏将軍を断絶させた北条氏主導となり、源氏門葉であった平賀(大内)氏は幕府の中枢から離れていく事にな』り、『承久の乱では後鳥羽上皇方に付いて伊賀光季の襲撃に加わり、子息の惟忠と共に東海道大井戸渡の守りについて幕府軍と対峙した。敗北後、逃亡して』十年近くの間、『潜伏を続け、法師として日吉八王子の庵室に潜んでいた所を探知され』、寛喜二(一二三〇)年十二月に『武家からの申し入れによって比叡山の悪僧に捕らえられて引き渡された』ものの、『一命は許されて西国へ配流となり、ここに』幕府創生時、御家人筆頭であった『平賀義信以降、源氏一門として鎌倉幕府で重きをなした平賀(大内)氏は没落した』とある。

 以下、「承久記」(底本の通し番号86から93の半ばまで)。遙かに凄まじい。

 

 去程ニ、京方ノ勢ノ中ニ能登守秀泰・平九郎判官胤義・山田次郎重忠、四辻殿へ參リテ、某々歸參シテ候由、訇リ申ケレバ、「武士共ハ是ヨリ何方へモ落行」トテ、門ヲモ開カデ不ㇾ被ㇾ入ケレバ、山田二郎、門ヲ敲テ高聲ニ、「大臆病ノ君ニ語ラハサレテ、憂死ニ死センズルハ」トテ訇ケル。平九郎判官、「イザ同クハ坂東勢ニ向、打死セン。但シ宇治ハ大勢ニテアンナリ。大將軍ノ目ニ懸ラン事モ不定也。淀へ向テ死ン」トテ馳行ケルガ、東寺ニ引籠ル。駿河守ノ手者ノ中ニ、佐原次郎・天野左衞門尉馳向フ。次郎兵衞、「敵コソ多ケレ、アノ殿原ト軍シテ何カセン」トテ不ㇾ進。サレ共甥ノ又太郎、二十騎計ニテ馳向フ。平九郎判官是ヲ見テ、「ワ君ハ同一家ト云ナガラ、胤義ニハ芳志可ㇾ有トコソ覺へシニ、進寄コソウタテケレ。惡シ、アレ討トレ、者共」ト下知シケレバ、判官ノ子息太郎兵衞・次郎兵衞・高井兵衞太郎、追懸テユク。佐原又太郎一方ヲ懸破リテ、東寺ノ東ウラヲ南へ向テ落行ケリ。相近ニ追懸テ責ケレバ、「是ハ又太郎ニハ非ズ、藤内行成ゾ」ト名乘ケレバ、「何レ、只ウテヤウテヤ」トゾ責ケル。堀ノ際ニ被責攻テ、少シタメラフ所ヲ、太郎兵衞甲ノ鉢ヲハタト打落ス。又太郎早ワザノ者ニテ、馬ヲバ捨テ、堀ヲヒラト飛越、向ノ深田ニゾ立タリケル。太郎兵衞、「如何ニ狐ノバケハ顯レタリ」ト云へバ、又太郎、「殿原ヲモ見ソダテタリ。景吉ヲ打タリ共、勝間敷軍也。ワ殿原ヲ打テモ無用ノ事也」ト云へバ、判官子共返テ父ニ此由ヲ申ケレバ、各笑テ興ニ入。

●「訇リ」「よばはる」と訓じていよう。

●「佐原」「又太郎」佐原氏は胤義と同族の三浦一党である。「吾妻鏡」の建暦三(一二一三)年正月二日の実朝へ垸飯の儀の進物の役人の「二の御馬」として「三浦九郎左衞門尉」(胤義)と「佐原又太郎」の名が並置されてあり、系図では佐原景連の子に蛭河又太郎景義の名を見出せるが、彼か。

●「見ソダテタリ」「見育つ」は面倒を見て養育するの意であるから、わざわざ討たずに命を救ってやったのだ、の謂いか。

●「景吉」蛭河又太郎景義のことか。

 

 又、安西・金鞠カケシカバ、能登守・山田次郎モ落ニケリ。角田太郎・同彌平次、殊ニ進ケリ。彌平次、判官ニ組マント心懸テ、相近ニツト寄合スル所ニ、判官、馬ヨカリケレバ、ツト通ル。彌平次取ハヅス所ヲ、判官ノ郎等、三戸源八組デ落。互ニシタ、力者ニテ、キト勝負モ無ケル。彌平次ガ乘替落合フテ、三戸源八ガ首ヲ取。判官子息次郎兵衞・高井兵衞太郎、敵ニ被組隔テ、東山へ落行ケルガ、地藏堂ノ奧ナル竹ノ中へ引籠リテ、馬切殺シ、物具切捨、二郎兵衞云ケルハ、「高井殿、御邊ハ同一門ト乍ㇾ云、イトケナキヨリ兄弟ノ契ヲナシ、馳遊デ、御邊十七、兼義十六、只今死ン事コソ嬉シケレ。構テ強ク指給ナ。我モ能指ンズル」トテ、手ヲ取運指違テ、同枕ニゾ臥ニケル。

●「兼義」胤義次男と思われる「二郎兵衞」自身の本名。

 

 山田二郎ハ嵯峨ノ奧ナル山へ落行ケルガ、或河ノ端ニテ、子息伊豆守・伊預房下居テ、水ヲスタヒ飮デ、疲レニ臨ミタル氣ニテ休居タリ。山田二郎、「アハレ世ニ有時、功德善根ヲセザリケル事ヲ」ト云ケレバ、伊預房、「大乘經書〔寫〕供養セラル。如法經ヲコナハセテ御座ス。是ニ過タル功德ハ候ハジ」ト申セバ、山田二郎、「サレ共」ト云所ニ、天野左衞門ガ手ノ者共、猛勢ニテ押寄タリ。伊豆守、「暫ク打ハラヒ候ハン。御自害候へ」トテ、太刀ヲ拔テ立揚リ打ハラフ。其間ニ山田二郎自害ス。伊豆守、右ノ股ヲ射サセテ、生取ニ成テ被ㇾ切ニケリ。

 

 平九郎判官、散散ニ戰程ニ、郎等・乘替、或ハ落或ハ被ㇾ討テ、子息太郎ト親子二輪ニ成テ、東山ナル所、故畠山六郎サイゴノ人マロト云者ノ許へ行テ、馬ヨリ下テ入タリ。疲レテ見へケレバ、ホシイ洗ハセ、酒取出テスヽメタリ。暫ク爰ニ休息シテ、判官、鬂ノ髮切テ九ニ裹分テ、「一ヲバ屋部ノ尼上ニ奉ル。一ヲバウヅマサノ女房ニ傳へ給へ。六ヲバ六人ノ子共ニ一アテ取スベシ。今一ヲバワ御前ヲキテ、見ン度ニ念佛申テ訪ヒ給へ」トテ取スレバ、人マロ泣々是ヲ取、心ノ中コソ哀ナレ。

●「畠山六郎サイゴノ人マロ」畠山重忠の乱(北条義時の謀略)で亡くなった重忠の子「六郎」重保には、ウィキの「畠山重保」によれば、『子に時麿(小太郎重行)があったと伝え、目黒氏を称したという』とあり、この人物か。

●「鬂」鬢(びん)に同じい。

●「裹分テ」「つつみわけて」と訓じていよう。

●「屋部ノ尼上」不詳。彼の乳母か。

●「ウヅマサノ女房」既に注し、「承久記」にも載るように、『胤義の妻は二代将軍・源頼家の愛妾で男子を生んだ女性であり、頼家の死後に胤義の妻となっていた。実朝の横死後に仏門に入っていた妻と頼家の子の禅暁の将軍擁立を望んだが、執権北条氏の画策で将軍後継者には摂関家から三寅が迎えられ、その上に禅暁も殺されてしまう。『承久記』によれば、先夫(頼家)と子を北条氏によって殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思い、鎌倉に謀叛を起こそうと京に上ったと述べている』(引用はウィキ三浦胤義」より)。この女房はこの妻のことであろう。

 

 サテ胤義、ウヅマサニアル幼稚ノ者共、今一度見ントテ、父子二人ト人マロ三人、下簾懸タル女車ニ乘具シテ、ウヅマサへ行ケルガ、コノシマト云フ社ノ前ヲ過ケルニ、敵充滿タリト云ケレバ、日ヲ暮サントテ、社ノ中二親子隱レ居クリ。人マロヲバ草ニノセテ置ヌ。

●「コノシマト云フ社」木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社。京都市右京区太秦森ヶ東町にある。

 

 去程ニ古へ判官ノ郎從ナリシ藤四郎賴信トテアリシガ、事ノ緣有テ家ヲ出、高野ニ有ケルガ、都ニ軍有ト聞テ、判官被ㇾ討テカヲハス覽、尸ヲモ取テケウヤウセントテ、京へ出テ、東山ヲ尋ケルニ、ウヅマサノ方へト聞テ尋行程ニ、コノシマノ社ヲ過ケルニ、「アレ如何ニ」ト云聲ヲ聞ケバ、我主也。是ハサレバト思テ、入テ見レバ、判官父子居給ヘリ。「如何ニ」ト申セバ、「軍破レテ落行ガ、ウヅマサニアル幼稚ノ者共ヲ見ルカト思テ行程ニ、敵充滿タル由聞ユル間、日ノカクルヲ待ゾ」ト云へバ、賴信入道、「日暮テモ、ヨモ叶ヒ候ハジ、天野左衞門ガ手ノ者ミチテ候へバ」ト申ケレバ、「太郎兵衞、今ハ角ゴサンナレ、自害ヲセヨ」。太郎兵衞、「賴信入道ヨ、母ニ申ンズル樣ハ、『今一度見進ラセ候ハントテ參候ガ、叶間敷候程ニ、御供ニ先立、自害仕候。次郎兵衞胤連ハ高井太郎時義ニ被懸隔テ、東山ノ方へ落行候ツルガ、被ㇾ討テ候ヤラン、自害仕テ候ヤラン、行衞モ不ㇾ知候。去年春除目ニ、兄弟一度ニ兵衞尉ニ成テ候へシカバ、世ニ嬉シゲニ被思召テ、哀、命存へテ是等ガ受領・檢非違使ニモ成タランヲ、見バヤト仰候シニ、今一度悦バセ進ラセ候ハデ、先立進ラセ候コソロ惜アハレニ覺候へ』ト申セ」トテ、念佛申、腹搔切テ臥ヌ。未足ノ動ラキケレバ、父判官、是ヲ押へテ靜ニヲハラセテ、「首ヲバウヅマサノ人ニ今一度見セテ、後ニハ駿河守殿ニ奉リ、イハン樣ハ、『一家ヲ皆失フテ、一人世ニヲハセンコソ目出度ク候へ』ト申」トテ、西ニ向十念唱へ、腹搔切テ臥ヌ。

●「動ラキケレバ」「はたらきければ」と訓じていよう。

●「駿河守」幕府軍の兄三浦義村。

 

 藤四郎入道、此首ヲ取テ、社ニ火カケ、二ノ首ヲ持テ泣々ウヅマサへ行テ、女房ニ見セ奉リケレバ、抱キカヽヘテ、人目ヲモツヽマズ、恥ヲモ不ㇾ顧、泣悲事、譬ン方モナシ。藤四郎入道申ケルハ、「只今、敵亂入テ奪取候ナンズ。『後ニハ駿河守殿ニ進ラセヨ』ト被仰置候ツル。今ハ給リ候ハン」ト申ケレ共、力ヽへ惜ミテ不放給ケルヲ、兎角シテ乞取テ、駿河守殿ニ奉ル。一腹一生ノ兄弟トシテ、思合ヒタリシ中ナレバ、實ニ哀レニ覺へテ涙ヲ流シ、ソヾロニ袖ヲゾシボラレケル。首ヲバ「武藏守殿へ進ラセヨ」トテ被ㇾ送。其外ニ、散散ニ落行ヌ。或ハ又所々ニテ生取、被ㇾ切ケル。

●「武藏守」北条泰時。

 

 京方軍破テ、サテモ一院ハサリ共トコソ被思召シカ共、忽ニ王法盡サセマシマシテ、空ク軍破レバ、如何ナル事ヲカ被思召ケン。

 天野四郎左衞門尉、首ヲ延テ出タリケルヲ、相模守、武藏守へ被ㇾ申ケレバ、可ㇾ被ㇾ切トテ被ㇾ切ケリ。後藤大夫判官基淸、降人ニ成タリシヲ、子息左衞門尉基網申受テ切テケリ。「侘人ニ切セテ死骸ヲ申請、孝養シタランニハ、頗ル劣リ也」トゾ人々カタブケ申ケル。駿河大夫判官惟宣ハ行衞モ不ㇾ知落失ヌ。

●途中の改行は底本のママ。ここは所謂、段落番号はないので、そのまま続けて電子化した。

 以下、「吾妻鏡」の承久三(一二二一)年六月十五日の条も見ておく。

〇原文

十五日戊辰。陰。寅尅。秀康。胤義等參四辻殿。於宇治勢多兩所合戰。官軍敗北。塞道路之上。已欲入洛。縱雖有萬々事。更難免一死之由。同音奏聞。仍以大夫史國宗宿彌爲勅使。被遣武州之陣。兩院。〔土御門。新院〕兩親王令遁于賀茂貴舟等片土御云々。辰刻。國宗捧院宣。於樋口河原。相逢武州。述子細。武州稱可拜院宣。下馬訖。共勇士有五千餘輩。此中可讀院宣之者候歟之由。以岡村次郎兵衞尉。相尋之處。勅使河原小三郎云。武藏國住人藤田三郎。文博士者也。召出之。藤田讀院宣。其趣。今度合戰。不起於叡慮。謀臣等所申行也。於今者。任申請。可被宣下。於洛中不可及狼唳之由。可下知東士者。其後又以御隨身賴武。於院中被停武士參入畢之旨。重被仰下云々。盛綱。秀康逃亡。胤義引籠于東寺門内之處。東士次第入洛。胤義與三浦佐原輩。合戰數反。兩方郎從多以戰死云々。巳刻。相州。武州之勢著于六波羅。申刻。胤義父子於西山木嶋自殺。廷尉郎從取其首。持向太秦宅。義村尋取之。送武州舘云々。秉燭之程。官兵宿廬各放火。數箇所燒亡。運命限今夜之由。都人皆迷惑。非存非亡。各馳走東西。不異秦項之災。東士充滿畿内畿外。求出所遁戰場之歩兵。斬首拭白刄不有暇。人馬之死傷塞衢。行歩不安。郷里無全室。耕所無殘苗。好武勇西面北面忽亡。立邊功近臣重臣。悉被虜。可悲。當于八十五代澆季。皇家欲絶。

今日。關東祈禱等結願也。屬星祭々文。民部大夫行盛相兼草淸書。及此期。官兵令敗績。可仰佛力神力之未落地矣。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日戊辰。陰る。寅の尅、秀康・胤義等、四辻殿に參ず。宇治・勢多兩所の合戰に於いて、官軍、敗北す。道路を塞ぐの上、已に入洛を欲す。縱ひ萬々の事有りと雖も、更に一死を免かれ難きの由、同音に奏聞す。仍つて大夫史(たいふのし)國宗宿彌(すくね)を以つて勅使と爲し、武州の陣に遣はさる。兩院〔土御門・新院。〕・兩親王は賀茂貴舟(きぶね)等の片土に遁れしめ御(たま)ふと云々。

辰の刻、國宗、院宣を捧げ、樋口(ひぐち)河原に於いて、武州に相ひ逢ひ、子細を述ぶ。武州、院宣を拜すべしと稱して、馬より下り訖んぬ。共(とも)の勇士五千餘輩有り。

「此の中に、院宣を讀むべきの者、候ふか。」

の由、岡村次郎兵衞尉を以て、相尋ねるの處、勅使河原(てしがはら)小三郎云はく、

「武藏國住人藤田三郎は、文博士(もんはかせ)の者なり。」

と。之を召し出だす。藤田、院宣を讀む。其の趣き、

『今度の合戰、叡慮に於て起らず、謀臣等の申し行ふ所なり。今に於ては、申し請くるに任せて、宣下せらるべし。洛中に於いて狼唳(らうえい)に及ぶべからずの由、東士に下知すべし。』

てへり。其の後、又、御隨身(ずいじん)賴武を以つて、院中に於いて武士の參入を停められ畢んぬるの旨、重ねて仰せ下さると云々。

盛綱・秀康、逃亡す。胤義、東寺の門内に引籠るの處、東士、次第に入洛し、胤義と三浦・佐原の輩と合戰すること數反(すへん)にして、兩方の郎從、多く以つて戰死すと云々。

巳の刻、相州・武州の勢六波羅に著く。申の刻、胤義父子、西山の木嶋に於いて自殺す。廷尉の郎從、其の首を取り、太秦の宅へ持ち向ふ。義村、之を尋ね取り、武州の舘へ送ると云々。

秉燭の程、官兵が宿廬、各々放火し、數箇所、燒亡す。運命、今夜に限るの由、都人、皆、迷惑す。存ずるに非ず、亡ずるに非ず、各々東西に馳走(ちそう)す。秦項(しんこう)の災ひに異ならず。東士、畿内・畿外に充滿し、戰場を遁れる所の歩兵を求め出だして、首を斬り、白刄を拭ふに暇(いとま)有らず。人馬の死傷、衢(ちまた)を塞ぎ、行歩(ぎやうぶ)、安からず。郷里(がうり)に全く室無く、耕す所に殘苗無し。武勇を好む西面・北面、忽ち亡び、邊功(へんこう)を立つる近臣・重臣、悉く虜(とら)へらる。悲むべし、八十五代の澆季(げうき)に當り、皇家、絶へんと欲す。

今日、關東の祈禱等の結願也。屬星祭(ぞくしやうさい)の祭文は、民部大夫行盛、草・淸書を相ひ兼ぬ。此の期に及びて、官兵、敗績せしむ。佛力・神力の未だ地に落ちざるを仰ぐべし。

●「寅の尅」午前四時頃。

●「大夫史國宗宿彌」小槻国宗(おづきのくにむね)。「大夫史」は太政官弁官局の大史から五位の位階(大夫)に昇る者。

●「藤田三郎」藤田能国。「吾妻鏡」には寿永三年三月五日に父藤田三郎行康が摂津での平家征伐に先登して討死した勲功によって頼朝が武蔵国の遺跡を『子息能國傳領すべきの旨』命じた記事に初出し、建久三(一一九二)年六月一日にはその『弓馬の藝を繼ぐ故に』恩賞が与えらえおり、建久六(一一九五)年三月十日の頼朝東大寺再建供養には随兵にその名を見出せ、実に文武に秀でた人物であったことが窺える。

●「文博士」狭義には文章博士(もんじょうはかせ)は大学寮の教官であるが、ここが単に文才があることを指しているようである。

●「狼唳」狼藉に同じい。

●「院中に於いて武士の參入を停められ畢んぬる」この「武士」とは朝廷軍のこと。

●「巳の刻」午後四時頃。

●「秦項の災」秦の始皇帝が六国と戦って次々とこれを滅ぼし天下を統一するも、始皇帝の没するや、楚の項羽と漢の劉邦によって国は覆えされ、さらに引き続いて項羽と劉邦との覇権争いが続いた、二、三十年に及ぶ戦災や苛政による人民の禍いをいう。

●「郷里に全く室無く、耕所に殘苗無し」故郷では帰るべき家も完膚なきまでに壊され焼き尽くされなくなってしまい、農地は荒らされて一本の苗さえも残っていない。

●「邊功を立つる近臣・重臣」京を離れた国々を武功として授かった主上の近臣や重臣。前に近衛の衛士であるところの「武勇を好む西面・北面」の武士が出るからそれとの対句表現を狙ったものであろう。

●「八十五代」当時の今上天皇であった仲恭天皇は第八十五代天皇。承久の乱に組した父順徳天皇(当時満二十三歳)の企略に基づき、承久三(一二二一)年四月二十日に譲位され、実に未だ二歳六ケ月での践祚であった。

●「澆季」「澆」は軽薄、「季」は末の意で、道徳が衰えて乱れた世。世の終わり。末世。

●「屬星祭」陰陽道の掌る星祭りで個人の運命を支配する属星を祭り、開運厄除けを祈願する。この場合、直接的個人としては総大将である泰時のそれか。

●「民部大夫行盛」政所執事にして評定衆であった二階堂行盛。

●「敗績」大敗してそれまでの功績を失うこと。]

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