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2014/05/12

ブログ・アクセス570000突破記念 曲馬團 火野葦平

[やぶちゃん注:個人的に私はこのパロディとしての異類婚姻譚の、夢野久作をどこか髣髴とさせる雰囲気を持った、滑稽な中に何か曰く言い難いペーソスを孕んだ一篇が好きである。本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本日を以って570000アクセスを突破した記念として作成公開した。【2014年5月12日 藪野直史】]

 

 

 曲馬團

 

 あしへいさん、私は、例の曲馬團の生き殘りです。あの、二つの曲馬團が、蛭子(えびす)祭の最後の日に、大亂鬪を演じた事件は、相當に、町中の話題となり、新聞面を賑はしたことは、あなたの御承知のとほりですが、噂や報道には、すこしもつたはつてをりません。とくに、肝心要(かんじんかなめ)の大切な點が、全然、忘れられてゐます。それも、その筈でせう。兩者とも、馬鹿々々しいことに、全滅してしまつたのだから、ことの經緯(いきさつ)を知つてゐる者は、だれもゐないわけなのです。新聞でも、巷間でも、警察でも、ただ、二つの曲馬團の商賣上の利害競爭からの衝突、ちよつとうがつた説としても、興行上の繩張り仁義の出入りくらゐのところで、核心をついてゐるものは、一つもありません。あの途轍もない大喧嘩は、そんな簡單なものではなかつたのです。もつと深刻で、ロマンチックなもの、つまり、ラヴ・アフェアだつたのです。

 ものごとの眞相といふものは、えてしてかういふもので、歴史といふものも、眞實は伏せられたまま、誤りつたへられて行くものかもわかりませんから、このまま、ほつたらかしておいてもかまはないやうなものですが、私がかうしてあなたのところに參りましたのは、俗世間はともかく、我々の理解者たるあなたにだけは、ことの次第をぜひ知つておいていただきたいと思つたからなのです。幸ひ、私は、唯一ともいつてよい幸運の生存者ですから、やつて參りました。

 まづ、おしまひまで、お聞き下さい。

 この町の蛭子祭は、昔から近郊近在に鳴りびびいた福運の祭禮でしたから、三日間の期日は毎年、たいへんな混雜をきたすのを例としてゐました。渡船で、灣の入口をわたらねばなりませんが、渡場に押しかける參詣者の行列が、三町、五町に及ぶことは、珍しいことではありません。

 その賑はひが、今年は、また特に輪をかける騷ぎとなりました。それといふのが、例の曲馬團のためだつたのは、いふまでもありません。毎年、祭には、種々の高物がかかり、のぞき、蜘蛛(くも)人間、海女(あま)、ろくろ首、八幡の藪、活動人形、猿芝居、女レスリング、サーカス、など、珍しいものがやつて來て、客を呼ぶのですが、珍しいといつても、毎年來るものの趣好は、大體似たりよつたりで、これはといふものもなかつたわけです。

 そのコスモポリタン曲馬團にしたところで、例年やつて来て、曲目も、冐險も、出すものを出しつくし、この上の工夫も浮かばず、いはばマンネリズムにおちいつてゐたわけですが、この年は、それが、さうではなかつたのです。客が、たれもかれも、コスモポリタン・サーカスを目ざしてものすごい殺到ぶりを示したのは、いふまでもなくあの河童の見世物が、新しく加はつてゐたからなのです。

「ええい、いらつしやい。いらつしやい。世界的サーカス、コスモポリタンの世界的花形、世界中どこを探しても、めつたには見つからぬ珍奇の隨一、正眞正銘の河童の曲藝、本年度隨一の呼びものでございます」

 マイクをとほして鳴りわたる呼びこみの聲は、活氣にあふれ、自信に滿ち、たしかにゐならぶ高物のすべてを壓してをりました。

「河童と申しまする我が國獨特の動物、頭に皿、背に甲羅、手足には水かき、三歳の小兒のごとく、小柄にて、嘴とがる愛矯者、かずかずの珍妙なる曲藝を演じまして、みなさまに御滿足をあたへます。さあ、今今、早いが勝ち、早いが勝ち」

 雜沓のなかで、群衆は口々に、

「河童がゐるなんというとるが、ほんものぢやらうか?」

「別府に河童のミイラがあるが、あれと同じで、こしらへものぢやないか。ほんとにをるわけがない」

「でなかつたら、人間が扮裝(ふんさう)しとるんだ」

「騙(だま)されるな」

 敏感に、さういふ呟(つぶや)きを聞きとつた呼びこみは、いよいよ得意に聲を高めます。

「絶對にインチキではない。正眞正銘の河童のほんもの、びちびちと生きてゐて、藝當をする。さあきあ、論より證據、百聞は一見に如かず。錢は見てのお歸り。インチキだつたら、一錢もいらない。さあ、今今、今今」

 かうして、はじめは半信半疑で、客は入つて來たのですが、それが呼びこみの言葉に、すこしも噓がないとわかると、たちまち人氣は沸騰(ふつとう)し、コスモポリタン曲馬團は人間を吸ひつける巨大な磁石になつたやうな盛況を呈するにいたりました。

 さらに、このことが新聞に出ましたので、祭はそつちのけに、ただ河童を見るだけに、遠方から、汽車に乘り、電車に乘り、般に乘つて、やつて來る者が激增しました、ただ、不思議なことは、新聞に麗々しく記事は出てゐますが、當の河童の寫眞がないことです。かういふ記事には寫眞がつきものであることは、常識でありますのに、それがない。そのため、いくらか疑念をいだく者もあつたのですが、新聞にはそのことについても、釋明はしてありました。新聞社としてはまつさきにカメラマンをつれて行つて、撮影したわけなのですが、現像し燒附してみると、河童が寫つてゐないといふのです。たしかにピントを合はせてシャッターを切つたのに、全然、河童の姿がない。それが技術上の失敗でないことは、河童の周圍のもの、サーカスの舞臺、綱わたりのロープ、河童が手にもつてゐた傘、乘つてゐた一輪車などは、ちやんと寫つてゐるのでわかります。映畫に、透明人間といふのがありましたでせう。ちやうどあれと同じで、寫眞には、河童の實體が出てゐないのです。これは、カメラ・マンを仰天させましたが、このことが、やはり、その河童が、正眞正銘のほんもの、なにかの妖術か神通力かをもつてゐる河童の習性を、實際に示したものだといふことになつて、きらに、人氣を增すに役立らました。コスモポリタンは、連日、押すな、押すなです。

「たしかに、ほんものだ」

 一度見た者は、もう誰ひとり、それを疑ふ者はなく、木戸錢を拂はないといふ者はありませんでした。噂は噂を呼び、人が人を呼んで、コスモポリタンは大賢繁昌です。

 

 

 

 なぜ、河童がこの一座に加はつてゐるかといふことが、はじめはわかりませんでしたが、まもなく明らかになりました。それは、へまをやつて、遠賀川(をんががは)の土堤(どて)でつかまつたのです。

 曲馬團の一行が、この町の蛭子祭にくりこむために、遠賀川に添つた道を歩いてゐますと、一頭の馬が突然うごかなくなり、奇妙な悲鳴に似た斯(いなな)き聲をたてました。をかしなことに思つてゐるうちに、ずるずると川の方へずり落ちて行きます。

「河童だ」

 一行のうちにゐた道化役者(ピエロ)が、さう叫びました。彼はこの川に河童が多いといふことや、その河童が、よく馬や牛を川に引きこむことをも聞いて知つてゐました。豪膽で、強力のピエロは、つかつかと馬の後足のところに近づいて行くと、そこへ、ペつペつと、唾(つば)をはきかけました。すると、いままでなにも見えなかつたのに、唾が散ると同時に、一匹の河童の姿があらはれたのです。河童は馬の後足をつかんでゐましたが、唾がかかると、急に力が拔けたやうに、そこへ、げんなりとへたばつてゐます。

 自由になつた馬は、よろこびに嘶いて、土堤のうへに走りあがりましたが、もつとよろこんだのは、馬に乘つてゐた少女です。一體、この曲馬團は、三十人ほどの一座で、馬が八頭をり、親方といはれてゐる團長を先頭に、足弱のサーカスの少女たちは、いづれも馬に乘つてゐました。その河童に引き入れられようとした馬に乘つてゐたのは、マリ子といつて、一座の人氣者で玉乘り專門、くりくりした二重瞼の眼、ふつくらした頰と、二枚の花びらのやうな唇、ふさふさした黑い斷髮、女輕業師たちのなかで、もつとも美人でした。マリ子ははじめは仰天してまつ靑になつてゐましたが、助かると、うれしさで、ぼろぼろと涙をながしてゐました。

「太え河童だ」

「うち殺してしまへ」

「ふん縛れ」

 團長や、道具方の荒くれ男たちは、口々にわめきましたが、捕へたピエロは、急に、なにか思ひついた風で、にこにこしはじめました。そして、親方にそつと耳打ちをしてゐましたが、それまで佛頂面をしてゐた親方も、にはかに笑顏になつて、

「うん、お前にまかせた」

 といひました。

「こら、不屆な河童奴」

 ピエロは、わざと恐しい形相をつくつて、そこへ這ひつくばつてゐる河童を睨みすゑました。

 河童にとつて、人間の唾と佛飯(ぶつぱん)とは鬼門(きもん)です。ピエロは、そんなことをよく知つてゐたものでせう。唾をはきかけられると、神通力はなくなつてしまひ、かわくまで、身體の自由すらも利きません。しかし、いくらか氣力をとりもどして來た河童は、自分の生命の危險を感じとつて、狼狽し、

「どうぞ、お助け下さい。自分が惡くありましたです。どうぞ、命ばかりはお助け下さい」

 と、必死になつて歎願をはじめました。

「勘所ならぬ。うち殺してくれる」

 ピエロは、棍棒をふりあげて嚇(おど)します。

「どうぞ、どうぞ、一生のお願ひ。命さへ助けて頂けば、どんなことでもいたします」

「ほんたうに、どんなことでもするか」

「はい、河童は一度約束しましたことは、けつして破りません。人間のやうに、噓はつきません」

「餘計なことをいふな。……それでは、命を助ければ、俺のいふことをなんでも聞くといふのだな」

「はい」

「よし、それでは、命は助けてやる。そのかはり、今日から、うちの一座に加はれ」

「あなた方の曲馬團に入るのですか」

「さうだ」

「さうして、なにをするのですか」

「曲藝をするのだ」

 河童は世にも情なさうな顏をしました。しかし、河童のいつたとほり、河童といふものは、一旦約束したことは、絶對に守るといふ美德を持つてゐました。そのときから、河童が一座に加はつたのです。

 ピエロのこの氣轉は大成功でした。寶籤で百萬圓當つたよりも、もつとはげしい當りかたで、それまでどこの興行でも不入り、赤字つづきだつたのが、この町の蛭子祭ではいつペんにすごい成績をあげることができたのです。

 

 

 

 河童は藝當をするといつても、綱わたりをしたり、自轉車に乘つたり、踊つたりするくらゐのことでしたが、いづれにしろ、河童そのものが呼びものなのですから、なにをしなくてもよかつたわけです。客の方は、話にきいたとほりの傳説の動物の實物が、眼前に生きて動いてゐるだけで、滿足なのでした。

 河童は怒濤(どたう)のやうな拍手と喊聲(かんせい)のなかに舞臺に出て、傘をさしてロープをわたつたり、一輪の自轉車を乘りまはしたりしますが、いかにも佛頂面で、愛嬌といふものがありません。まるで、怒つてゐるやうにも見えます。すると、それがかへつて愛嬌になつて、人氣はさらに高まる。

「つないで置かないと逃げやしねえか」

 はじめ團長をはじめ、皆それを心配しましたが、河童は全く信義を守る者でした。足に鎖をつけようとしたり、檻に入れようとしたのを、自分で斷りましたが、逃げる氣配などまつたくなく、おとなしく、神妙に一座のなかで暮すのでした。

「ありがたう。お前のおかげで、コスモポリタンも息を吹きかへした。なんでも食べたいものをいひな。どんな御馳走でもしてやる」

 上機嫌の團長は、よくさういひましたが、その都度、河童は首をふつて、

「なにもいりません。胡瓜と茄子とだけあれば充分です」

 と、靜かにいふのでした。

「それでも、なにか欲しいものがあるだらう。遠慮なく、いつてみな」

 團長がさういひますと、河童の眼がくりくりと動いて、またたきました。その眼に、いひやうもない淋しい光がありました。團長の言葉に、たしかに、心が動いた。なにか欲しいものがある。しかし、それをいひだすことを、強い忍耐と克己心とで押へてゐる、その氣配が見えました。

 團長も氣づいて、

「ほんとに、欲しいものがあつたらいふがよい。できることなら、叶へてやる」

「いいえ、なにもありません」

 そして、河童は悲しげに、うつむいてしまふのでした。

 河童の胸のなかは、千々にみだれてをりました。河童は、戀をしてゐたからです。河童がひそかに思ひをかけてゐたのは、曲玉乘りのマリ子でした。曲馬團一行が遠賀川の土堤を通りかかつたときに、川の中からこれを眺めてゐた河童は、八頭の馬の三番目に乘つてゐるマリ子に目がとまりました。さうして、彼女の乘つた馬の足をつかんで川へ引き入れようとしたのですが、ピエロの智慧と膂力(りよりよく)によつて、不覺をとりました。そのとき、すでに、河童の目的は、馬にあつたのではなくして、マリ子にあつたのでした。

 命を助けられ、一座のなかで暮すやうになつたとき、河童はこの奇貨(きくわ)に、内心はよろこんだのです。マリ子と一緒に暮すことができる、そのうれしさの方が、人間に捕へられて奴隷(どれい)となり、恥さらしな曲藝をしなくてはならぬその苦痛よりも、大きかつたのです。河童はマリ子ひとりのために、日々の憂悶を忘れました。河童の人氣のために、蛭子祭はすんでも、サーカスはロング・ランのヒットをつづけ、一週間、十日と日が延び、同時に、河童のマリ子への慕情は、切なく高まつて行くばかりでした。しかしながら、どうして捕はれの身の河童が、一座の人氣者たるマリ子への戀などを打らあけることができませうか。内氣な河童は、日々つのる胸の焰を、苦しげにおさへながら、心にもない舞臺の日々を送つてゐたのです。

「なんでも欲しいものがあつたらいひな。叶へてやる」

 と、親方にいはれても、そんならと、甘える氣持にもならないのでした。

 きらびやかな衣裳のマリ子が、五彩をほどこした大きな毬を乘りまはしながら、澄んだ聲でうたひ、踊りますと、その美しさはかがやき散るばかりで、大向かふから、

「女王」

「クレオパトラ」

「日本一」

 といふやうな聲がかかります。

 河童は小屋の隅から、それを眺めながら、胸ときめかし、ため息をつき、自分が河童といふ卑賤の身である宿命を歎きます。人間であつたら、なんの引け目もなく、すすんで求愛するのにと、情なくなります。河童は、そして、嫉妬の思ひで、打ちふるへます。マリ子はまだ少女で、夫も男もないことは知つてゐます。しかし、美しいマリ子を、どうして、助平な人間の男たちが、放つておきませうか。何人もの團員が、いく度となく口説き、ものにしようと競爭してゐました。とくに、このごろでは、道化役者がもつとも積極的で、執拗(しつえう)です。

「おい、マリちやん、お前は恩を忘れたか。俺があのとき、河童をとつちめなかつたら、お前は馬といつしよに川の中へ引きこまれてゐたんだぜ。危いとこだつたよ。俺やお前の命の恩人だぜ」

 ピエロには、絶好の理由があるのです。

 河童は、マリ子がピエロから抱きすくめられて、危く自由にされようとしたのを、やつと逃げた場面をなん度か目撃しました。そんなとき飛びだして行くことのできぬ囚虜

しうりよ)の身の自分が、無念でなりませんでした。

 しかし、ともかく、河童は、マリ子がゐることによつて、恥多いサーカスの生活も我慢してゐることができました。河童も、人間も、戀愛感情の純粹さにおいて、なんら逕庭(けいてい)はなく、いや、單純な河童の方が、むしろ、人間よりも、一層、淸純であつたかも知れません。このとき、河童は、不幸と幸福との想念のなかに身をおいて、生き甲斐を感じてゐたのであります。

 ところが、事態は、急轉しました。

 或る日、コスモポリタン曲馬團の天幕を、一匹の河童が訪れて參りました。裏手にある事務所の入口から、この河童は、いんぎんに、仁義を切りながら入つて來ました。

 私はよく知りませんが、興行師などの渡世人には、むつかしい仁義の掟があるさうで、なにか話をしに行くにしても、いきなり、のこのことは、入つて行けぬらしい模樣です。そこで、その河童も、よくさういふことを研究したものらしく、

「ごめんなさい」

 と、聲はかけたが、中に入らず、入口の扉を七分三分の三分だけ開け、腰も七三に曲げて、佇みました。

 すると、曲馬團の方は、仁義の專門家ですから、子分が出て來て、

「お出でなさい」

「西海道は九州博多、渡世宗家の大金看板、コスモポリタン・サーカスの岩熊權八郎親分さんのお座所は、こちらでござんすか」

「御意(ぎよい)にござんす。お入りなさい」

 そこで、三歩下つて、腰をかがめ、

「恐れ入ります、これにて仁義願ひます」

「それにて仁義なりません。お入りなさい」

「どう致しまして、高うござんす。憚りでござんす。失禮さんでござんす。これにて仁義願ひます」

「それにて仁義なりません。御同樣に高うござんす。慣憚りさんでござんす。失禮さんでござんすが、お入りなさい」

「恐れ入ります。ぜひとも、高うござんす。憚りさんでござんす。失禮さんでござんすが、これにて仁義願ひます」

「それにて仁義なりません。高うござんす。憚りさんでござんす。失禮さんでござんすが、ぜひとも、お入りなさい」

「ありがたうござんす。高うござんす。憚りさんでござんす。失禮さんでござんすが、再三のお言葉に甘えまして、ごめんなさい」

「お入りになつたら、お掛けなさい」

 河童はそこではじめて、中に入つて腰かけるわけですが、こんな七面倒な仁義のやりとりなどは省きませう。なんでも、渡世人仲間には、ちやんとした方式があるとのことで、仁義を切りそこなつた方が負けになるので、隨分とやかましいものださうです。やつと中に入つた訪問者も、腰をのばして三歩進み、四歩目に閾(しきゐ)をまたいで、また三歩進み、すなはち表の軒のところから七歩進み、相手の座敷が右ならば右足を、左ならば左足を半分引いて、中腰になり、手拭は四つ折にして左手につかみ、親分が生きてゐたら兩方の拇指を出し、死んでゐた場合には、拇指(おやゆび)を指のなかに握りこみ、脛(すね)のうへに兩手をおき、下駄草履をぬいで、そのうへに足をのせ、中腰になつて――いや、もうやめませう。私がいまこれをいふのは、その日やつて來た河童が、自分たちはその專門家ではないにもかかはらず、相手がさうであるために、ちやんと方式を研究して來て、すこしも間違はなかつた熱心さを、おどろくべきことであると思ふからです。仁義は手のこんだもので、本親付(ちかづき)、三々の親付、ざつくばらんの親付、一口親付、現代式親付、現代一口親付、と嚴密にいへばわけられるらしいのですが、その日の河童は、もつとも格式ばつた本親付の仁義で、そのときやつて來たのです。ともすれば、子分から、親分にとりついで貰つて、用件を切りだすまでには、何時間といつてかかるわけで、馬鹿げたことのやうですが、その理由といふのは、實に涙ぐましいことでした。それは、遠賀川であやまちををかし、人間の虜(とりこ)となつて、サーカスでこき使はれてゐる哀れな仲間河童を、救ひだしたいための一心なのでした。

 河童がつれ去られて以來、川の河童たちは、種々協議して、なんとかつれて歸りたいと、案を練つたあげくに、

「これは、コスモポリタンの團長に辭を低うして、懇請する外に、手はない。もともと、こちらに落度があるのだから、荒立ててはいけない。われわれの神通力をもつてすれば、暴力をもつて奪還(だつくわん)することは、易(い)々たるものであるが、それこそ、河童が信義の動物たることの傳説の掟に反する。本人もかたく約束して、一座に加はつたのである。そこで、こちらからは折れて出て貰ひ下げて來るのが穩當で、唯一のとり得る方法だ。さうすると、相手は名だたる金看板(きんかんばん)の渡世人だから、方式どほりに挨拶をせねば、目的の達成はできない」

 この結果、にはかに、仁義の研究がなされ、それに手間どつて興行現場へ訪問するのが、遲れたわけでした。

 訪問、案内、面會、用談、とすべて型どほりに進められたのですが、そんなことは省略して重點だけを要約しませう。

 サーカスの團長にやつと面會した河童は、

「惡かつた點は、重々おわび申しあげますので、このたびは、特別の御寛恕(ごくわんじよ)をもつて河童を釋放願ひたく、參上いたしました」

 と、丁寧に申し入れました。

 ところが、團長の岩熊權八部親分は、けんもほろろで、

「ならぬ。絶對に歸さぬ」

「御立腹はごもつともですが、奴も、ほんの出來心でありましたのでせうし……」

「何度いつても同じだ。本人が約束したのだから、諸君がさし出口を聞くな」

「本人は、川に歸りたいのは、山々なのでございます。しかし、河童の掟にしたがつて、泣く泣く我慢をしてゐるのでございます。なにとぞ、衷情(ちゆうじやう)が察し下され、特別の御配慮をもつて……」

「うるさい。……おい、若え奴等、こいつをつまみ出せ」

 使者の河童は、五六人の荒くれ男から、天幕の外へ放り出されました。

「とつとと、川へ歸りやがれ。愚圖々々しとると、貴樣もつかまへて、見せ物にするぞ」

 遠賀川の底で、結果を案じてをりました河童たちは、これを聞いて、落膽いたしました。一筋繩でいかぬ手強さを感じ、みんな暗澹とした氣持になりました。首をうなだれ、顏見あはせ、吐息をつくばかりで、名案も出ません。

「一度で挫(くじ)けては、駄目だ。成功するまで何囘でもやらう」

 とどのつまりは、その案に全員が一致、またぞろ、使者が出かけました。今度は別の河童が行つたのですが、前者とまつたく同じに追ひかへされました。その後も、根氣よく入れかはり立ちかはり通ひつづけましたが、とんと效果はありませんでした。それどころか、もう先方では、仁義なども受けつけようとはせず、

「また、來やがつたか」

と、顏を見た途端に挑(いど)みかかつて來て、のちには、河童たちは、蹴られる。叩かれる。つきとばきれる。背の甲羅にひびが入つたり、水かきが破れたり、大切な頭の皿が割れたりする始末で、怪我人、病人が續出するありさまとなりました。

 ここにいたつて、さすがに、おとなしく忍耐づよい、信義に厚い河童たちも、堪忍袋の緒を切つたのです。といつても、暴力に訴へて、捕虜を奪還することは、やはりさしひかへ、智慧者が一案を編みだしました。

「うん、それがよい」

 と、全部が、會心の笑みをたたへて、その案に贊成いたしました。

 

 

 

 蛭子(えびす)神社の廣場に奇妙な光景が現出いたしました。コスモポリタン曲馬團のテントの正面に、もう一つ、ほとんど似たやうな高さの大天幕が張られ、そこでも、サーカスが始まつたのです。

「さあさあ、いらつしやい。いらつしやい。こちらは河童大曲馬團であります。ほんものの河童五十匹の大一座、神變不可思議の大曲藝、大魔術、水遁(とん)、火遁、風遁、雲遁の大忍術。はては、空中飛行、河童レヴュー、歴史上一度もあらはれたことのない珍奇絶妙の大藝術。さあ、今今、お早いが勝ち、料金は無料、どこかのインチキサーカスが、たつた一匹の河童を賣り物にするのとは、似ても似つかぬ大規模の河童一座、さあさあ、お入り」

 メガホンで一匹の河童がしきりに口上を述べます。

 この結果は、想像がおつきでせう。なにがさて、一匹でも珍しかつた河童が、五十匹もで組んで、新に曲馬團をはじめた。しかも、只といふ。只より安いものはない。これに客が殺到しなかつたら、噓です。コスモポリタンどころの騷ぎではありません。客が、雲霞か、海嘯(つなみ)のやうに、どつとこの河童サーカスに押しよせたばかりでなく、コスモポリタンの方は、がらあきになつてしまひしました。入つてゐた客まで、向かふ側がはじまると、風呂の栓(せん)を拔いたやうにどんどん減つてしまつて、前の小屋へ入つてゆくのです。コスモポリタンの方では、ただ、あれよあれよと呆然としてゐるばかりで、いくら聲を嗄(か)らして、客を呼びとめても、歸る筈はありません。

「畜生」

 と、團長の岩熊權八郎は齒嚙みをして、河童サーカスの方を睨みつけます。

 がらんとなつた小屋のなかで、捕虜になつてゐた河童は、仲間の友情に、涙の出る思ひが致しました。恥を忍んで、舞臺に出てゐたのに、もう出演の必要がなくなりました。客が來ないからです。仲間が自分を貰ひうけに何度も來てゐたことを、彼は知つてをりました。そのたびに失敗し、ひどい目にあつてゐるのを知つて、ゐたたまらぬ思ひがしました。とるにも足らぬ自分一人のために、全河童が結束して、救援の道を講じてくれる、その好意は、どんなに感謝しても足らぬほどです。だのに、河童は心の一隅で、そのことに何か不吉を感じてゐました。不吉な豫感がしてならないのです。不幸と幸福との奇妙な混淆(こんかう)のなかにゐながら、生き甲斐も感じてゐた彼の矛盾は、あきらかに、マリ子に對する感情によつたものです。しかも、彼が廣大な寂寥(せきれう)をもつて、この戀をあきらめてゐましたのに、このごろでは、マリ子が彼に好意を示しはじめてゐたのです。さらに、好意だけでなく、河童の愛に應(こた)へようとする態度すらほのめかしてゐたのです。

「團の人たちつたら、みんな、いやらしいわ。獸みたいよ。ことに、ピエロときたら、まるきり、野獸よ。わたし、座の人、誰も彼もきらひよ」

マリ子は、さういふ率直な氣持を、河童に打ちあけるやうになつてゐました、十數日を暮すうち、マリ子も、いつか、河童のいだいてゐる感情、胸のうちを感じとるやうになつてゐたやうです。戀愛感情といふものは、電氣のやうに、或ひは、なにかのエーテルに似たものを、放射するものでせうか。眠が千萬言よりも、ものを言ふからでせうか。マリ子は河童の自分に對する氣持を知り、しかも、それを押し殺してゐる純情に氣づくと、座の連中のいやらしさに對する反動のやうに、急速に、河童へ傾いていつたもののやうです。さうなれば、もう、人間と河童の區別はありません。まだはつきりとは、言葉ではあらはしませんが、心のつながりはできてゐました。

「あんたが、あのとき、馬を川に引きこまうとしたのは、あたしが目的だつたのね」

 マリ子は、そこまで氣づくやうになつてゐました。河童は、羞恥(しうち)で顏が赧(あか)らみましたが、うれしさで、頭の皿の水がたぎり、背の甲羅がひきしまりました。自分の思ひの叶ふ日の近づく豫感に、泣きたい思ひにすらなりました。

 かういふ時期でしたので、仲間たちが自分を救ふために種々畫策し、努力してくれる友情がうれしい反面、迷惑といふのではありませんが、不安は掩(おほ)ひがたかつたのです。すまぬ話ながら、おせつかいは止めて欲しいと思ふこともありました。もうこのままでいい、マリ子と相愛になつてをれるのだから、この曲馬團の奴隷でもいい、いつまでもゐてもいい、と思ふやうになつてゐたからです。

 

 

 

 萬事は終りました。

 二つの敵對する曲馬團が、向かひあつて競爭してゐて、ただですむ筈はありません。しかも、それは競爭ではなくて、河童サーカスの方の一方的勝利、コスモポリタンの急速な凋落(てうらく)なのですから、無事である方が無理です。名だたる渡世人の金看板の岩熊權八郎が、本性をあらはしました。

「畜生、河童の分際で、ふざけた野郎どもだ。岩熊親分に對して、なめた眞似をしやがる。吠面(ほえづら)かくな」

 かうなると型どほりです。

 勢揃ひ、なぐりこみ、猛獸のやうな團長を先發に、コスモポリタンの荒くれ男ども、それに女輕業師の連中まで、手に手に武器をふるつて、河童サーカスになだれこみました。折から、黑山の觀衆が見物中でありましたから、たちまち大混亂、落花狼籍、阿鼻叫喚(あびけうくわん)の巷と化しました。戰鬪が開始されました。

 多分、物識(し)りのピエロの知慧でせう。河童の苦手で、敵とすべき唾、佛飯、忍冬(すいかづら)、蛞蝓(なめくぢ)、さういふものの猛攻擊で、さすがの河童もたじたじとなりました。萬事は騎虎の勢、はげしい格鬪がつづいて、どちらからも、次々に、犧牲者が出はじめました。

 さうして、わづか三十分ほど後には、どちらも、全員横死、すなはち全滅してしまつたのです。馬鹿々々しいことです。

 あしへいさん、これが、このごろ世間を騷がした兩曲馬團衝突の顛末(てんまつ)です。巷間や、新聞記事と、私の話とは、だいぶん違つてをりますでせう。私は、そのころ、事件の中心にをりましたので……いまは、なにを隱しませう。私こそ、その事件の元兇たる河童なのです。私が、最初、遠賀川の土堤を通るコスモポリタン一座のマリ子を見染めたばかりに、かういふ騷ぎが起つたのです。なんといふことでせうか。

 コスモポリタンと、河童サーカスとが、亂鬪をはじめたとき、私とマリ子とは、逸早(いちはや)く、手に手をとつて、不愉快な修羅場を脱出いたしました。いよいよ、二人だけの幸福な生活をいとなむことのできる機會の來たよろこびで、二人とも有頂點でした。私たちは、石峰山(いしみねやま)の下にある池のなかへ逃れ、やれやれと胸をなで下しました。さうして、はじめて、抱擁しあつて、前途を祝福いたしました。

 あしへいさん、須臾(すゆ)の間の私たちの幸福でした。コスモポリタン側も、河童側も、ことごとく全滅といふ悽慘な結果を知るにいたつて、私たちの夢は、一擧にくづれました。多くの人々を犧牲にして、どうして、私たちだけ、生きてゐられませうか。私たちは心中をすることにきめました。……おや、あなたは、なぜ止めるのですか。これは駭(おどろ)いた。なぜ、止めるのです。私たらに生き永らへて、もつと苦しめといふのですか。駭きましたね。あなたが、止めるやうな人だつたのなら、こんな話をするんぢやなかつた。あなたが、いくら止めても、駄目です。これは宿命であり、掟です。あしへいさん、これは、なすな戀といふことでせうか。いいえ、私は滿足です。マリ子が待つてゐますので、もう私は歸ります。ともかくも、これまで、我々河童のよき理解者であつたあなたに、すべてを話して、私も安心しました。氣が輕くなりました。明日は、山のふもとの池に、私とマリ子の死體が浮かぶかも知れませんが、人々は、また、河童が人間の女を誘拐した、だが、しくじつて自分もくたばつた、などといふでせう。なんといはれてもよろしいです。……では、さやうなら。

 

[やぶちゃん注:「蛭子祭」これは祭りに関わる、後の「渡船で、灣の入口をわたらねばなりません」という叙述部分と、作中に「遠賀川」(福岡県筑豊地区から北九州市・中間市・遠賀郡を流れる一級河川)「石峰山」(標高三〇二メートルで北九州市若松区にある山)が登場することから見て、福岡県北九州市若松区浜町にある若松恵比須神社(通称「若松のおえべっさん」)の若松えびす祭と思われる。同神社は洞海湾の西岸にあるが、現在の洞海湾に架かる日本初の長大橋若戸大橋の架橋は昭和三七(一九六二)年で火野葦平没後であり、調べてみたところ現在も若松区と同北九州市戸畑区を結ぶ渡し船若戸渡船(わかととせん)が現存している。北家登巳氏のサイト「北九州あれこれ」の「若松えびす祭」によれば、『若松は、江戸時代福岡藩の米積出港として、江戸時代から昭和まで石炭積出港として繁栄してきました。海上安全の神様として若松恵比須神社は多くの人々の崇敬を集め、商売繁盛の神様として「おえべっさん」と呼ばれ、古くから遠くからも多くの人々がお参りしました。若松恵比須神社は、現在も洞海湾の近くにありますが、明治20年代の初めまで、その北側は海岸でした。船でお参りする人もいたといわれています』とある。この若松恵比須神社の祭りは春季例大祭(四月二日から同月四日)と秋季例大祭(十二月二日から同月四日)があり、孰れも若松えびす祭と呼称している。恋の物語(「ラヴ・アフェア」)、恋の季節ということからはシチュエーションは春か。

「高物」「たかもの」と読み、興行物・見世物・サーカス等をいう。そうした業界での隠語である。

「カメラマン」と後の「カメラ・マン」の表記の違いはママ。

「有頂點」はママ。

「須臾(すゆ)」読みはママ。]

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