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2014/05/13

北條九代記 卷第六  宇治川軍敗北 付 土護覺心謀略(3)承久の乱【二十六の一】――宇治の戦い

折節、雨降り出て、車軸を流す如くなるに、武藏守泰時、如何思はれけん、家子(いへのこ)芝田橘(きつ)六を召して、河の瀨踏を致せとあり。芝田は槇島(まきのしま)の二岐(ふたまた)なる瀨を中島に游(およぎ)付きて、敵の樣躰迄、善々(よくよく)見果(おほ)せて立歸りて、有樣を申上(まうしあぐ)る所に、佐々木四郎、只一騎、御局(おつぼね)といふ逸物(いちもつ)の栗毛の馬、その長(たけ)八寸(やき)に餘(あまり)たるに白鞍置(おか)せ、彼の二岐の瀨にがばと打入り、瀨枕(せまくら)を切つて金(かね)に渡し、「近江國の住人、佐々木四郎左衞門尉源信綱、今日宇治川の先陣」とぞ名乘ける。是を見て、中山、佐野、浦野、白井、多胡、秋庭(あいば)を初として、小笠原四郎、内海(うつみの)九郎、河野(かうの)九郎、勅使川原(てしがはらの)小三郎、長江、小野寺、關、左島(さしま)を初(はじめ)て、諸軍打入(うちいり)々々渡しけるに、水は堰(せか)れて陸(くが)は海にぞ成りにける。その中にも馬弱きは押流されて死する者も多かりけり。後に人數を尋ぬれば、八百餘人は流れて死にたり。されども大軍なれば、數にもあらず。京方下合(おりあ)うて散々に防ぎ戰ふ。討つもあり。討たるゝもあり。物の色目(いろめ)も見分かず。右衞門〔の〕佐朝俊(ともとし)は、敵に組まれて討死せらる。又京方より緋威(ひおどし)の鎧に、白月毛(しらつきげ)の馬に金覆輪の鞍置きて打乘たる武者一騎、小河太郎に寄合うて、打咲(うちゑ)みたるを見れば、鐵漿黑(かねぐろ)なり。小河、押竝べける所を、拔打(ぬきうち)に甲の眞甲(まつかふ)を打たれて、目昏(くら)みけれども取付きたる所を放たず、馬よりどうど組んで落ちたり。心を靜めて見たりければ、我が組んで抑へたる敵は首もなき髏(むくろ)計(ばかり)なり。「こは如何に人の組んだる敵の首を傍(そば)より取る事やある」と叫(よばは)りしかば、武蔵太郎殿の手の者に、伊豆國の住人平馬(へいまの)太郎某(それがし)、「和殿は誰(た)そ」。「駿河守殿の手の者小川太郎經村(つねむら)」と名乘る。さらばとて首を返す。小川、是を受取らず、後に此由申しければ、平馬太郎が僻事(ひがごと)なりとて、小川に勸賞(けんじやう)賜りぬ。甲斐(かひの)宰相範義朝臣の御首にてぞ侍りける。佐々木太郎左衞門尉氏綱は、同名四郎左衞門尉信綱が甥なり。秋庭(あいばの)三郎に組んで討たれたり。荻野(をぎの)次郎、中條(なかでうの)次郎左衞門も、寄手大勢に取込められ、遂に皆、討たれたり。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十六】――宇治の戦い〉

「槇島の二岐なる瀨」現在の京都府宇治市槇島町の東端を流れる宇治川にあった大きな分流流路。当時とは流路流域が全く異なり、野暮氏のサイト「近江の城砦」の「槇島城」に載る「天正期当時の宇治川と槇島城」の当時の復元流路図から見ると二つどころか四分岐が認められる。ここから推測すると実は現在の槇島町全体町名通り、その当時は中洲、島であったことが分かる。ここはもっと時代が遡るわけだか、それでもこの復元地図で当時の戦場に近い宇治橋の下流域が巨大な中洲を含む広範囲な氾濫原であったのである。

「中島」前注の中洲の名。

「八寸」「寸(き)」は、昔、馬の丈(たけ)を測るのに用いた語で、四尺(約一メートル二十一センチ)基準とし、それより高ければ一寸(ひとき)・二寸(ふた)から八寸(やき)と数え、九寸(くき)以上は「丈に余る」と呼んだ。。「八寸」は凡そ二十四・二センチメートルであるから「八寸」は四尺八寸(すん)で約一メートル四十五センチに相当する。但し、ここはさらに「八寸に餘たる」とあるから、更に二センチほど高かったものであろう。因みに馬の丈は前足の位置で肩までの高さをいう。

「瀨枕」水が捲いて波の立っている箇所。

「切つて」物ともせずに突っ切り。

「金に渡し」底本頭書に『金に渡し――曲尺なりに渡り』とある。「曲尺(かねじゃく)」は直角に曲がったL字型の例の指矩(さしがね。指金)で、ここは真っ直ぐに渉って、という意味である。

「水は堰れて陸は海にぞ成りにける」それでなくても折からの土砂降りの雨によって増水していた川水が、どっと川に入った兵馬の一隊によって堰き止められるような形になり、急激に中洲や両岸へ浸水と氾濫を起こし、結果、濁流となってこの幕府軍一行を襲ったというのである。

「八百餘人は流れて死にたり。されども大軍なれば、數にもあらず」流石に、「承久記」も「吾妻鏡」もこんなもの謂いはしていない。筆者の、戦場の非情さを誇張するための加筆のようにしか見えないが、実はこれは「承久記」を読むと、多量の溺死者眼前にした総大将泰時が、あまりの凄惨さに、「自分独り、おめおめと生き残って何をするというか!」と、自ら馬に乗って渡河せんとするところを、直前に子息を溺死させて、しかも自らも流されて辛くも郎等に助けられた信濃の武将春日刑部三郎貞幸が、身を挺して泰時の馬を止め、策杖で打たれても放さぬという、入河を防ぐシーンに於いて、春日貞幸が泰時を諌める言葉に由来するものである。是非、後掲する原文を味わって戴きたい。この部分の「北條九代記」の筆者は妙に筆が鈍っていると言わざるを得ない。

「右衞門佐朝俊」藤原朝俊(ともとし ?~承久三年六月十四日(一二二一年七月五日)。廷臣。藤原北家勧修寺流で侍従藤原朝経の子(またはその兄朝定の子とも)。権大納言藤原朝方は祖父。母は中納言藤原親信の娘。常陸介・右衛門佐。後鳥羽上と順徳天皇の近臣として仕える。承応二(一二〇八)年に鳩を取るために朱雀門に昇り、その火が延焼して門が炎上した記事が「明月記」に載り、そこに『ただ弓馬相撲をもつて藝となす。殊に近臣なり』と紹介されていることから、武芸の才をもって重用されていたことが窺われる。積極的に後鳥羽上皇の討幕計画に参加、高倉範茂らとともに宇治方面の防衛に当たった。この宇治川合戦では八田知尚や佐々木高重ら官軍の諸将とともに奮戦したが、乱戦の中で小河経村によって討ち取られた。「六代勝事記」(仮名書の史書。著者や成立年代は不詳。一巻。高倉から後堀河までの六代に及ぶ天皇(仲恭天皇の即位は明治初年になるまで正史では認められていなかった)の代に起こった事柄を列記し、承久の乱の失敗を経験した貴族の悲嘆を述べる。「勝事」は「凶事」と書くのを憚ったためという。序文では貞応年間(一二二二年~一二二四年)に書かれたことになっているものの、諸書からの点綴らしい箇所も多く疑問を挟む考えもある(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)に於いては、その果敢な戦いぶりが賞賛されている(以上はウィキの「藤原朝俊」に拠る)。

「白月毛」既注。白地の毛に黒や濃褐色のサシの入った、赤みの強い(これが月毛の由来)毛色。

「鐵漿黑」鉄漿(おはぐろ)。凡百のホラー映画も真っ青、いや、真っ黒の描写である。

「武蔵太郎殿」北条時氏。北条泰時長男。当時、満十八歳であったが、この宇治川合戦では敵前を美事に渡河したという。病気のため、惜しくも二十七歳で早逝した。

「平馬太郎某」が首を持っており、その平馬が小河に対して「貴殿はどなたか?」と質した、という文脈である。

「駿河守殿」三浦義村。

「僻事」道理や事実に合わないこと。間違っていること。心得違い。

「甲斐宰相範義朝臣」「範義」は「範茂」の誤り。承久の乱の首謀者の一人であった公卿藤原範茂。但し、彼は宇治川の戦いに実戦参加しているものの、そこでこのような形で討死はしていない。上皇方が敗北した後に六波羅に拘禁され、斬罪と定められ、都での処刑を避けるために北条朝時によって東国へ護送される途中、足柄山麓の早川で沈められて処刑された。これは、範茂が五体不具では往生に障りがあるとして自ら入水を希望した結果という(以上はウィキの「藤原範茂」に拠った)。享年三十八。

「佐々木太郎左衞門尉氏綱」以下に掲げる「承久記」も「氏綱」とするのだが、これは本文以下に先に出た先陣を切った佐々木「四郎左衞門尉信綱が甥なり」とあるから、恐らくは佐々木継綱の誤りではなかろうか? 佐々木信綱の長兄で、父定綱の嫡男であった佐々木広綱は、在京御家人として鎌倉幕府に仕えていたが、後鳥羽上皇との関係を深めて西面武士となり、承久の乱では官軍に属してこの宇治川合戦に参加、敗走したが(敗戦後の七月二日梟首)、参照したウィキの「佐々木広綱」には、『嫡男継綱は』六月十四日(まさに宇治川合戦の日附である)『に戦死し、次男為綱と三男親綱の行方は判らない。四男の勢多加丸は』七月十一日に捕縛されたが、十一歳と『まだ幼い事から助命されるが、信綱に身柄を奪われ斬首された。佐々木氏は後に信綱が継ぐ事となる』とあるからである。何かしらん、哀しい話ではある。

「寄手大勢」言わずもがな乍ら、幕府軍の、である。

 

 以下、「承久記」を引くが、「北條九代記」は勢多合戦から宇治川合戦の場面が相当にはしょられてしまっている。底本の61から81に及ぶ長文になるが、その部分も総て電子化して示す。途中、私自身、半可通なところもあるが、細部に拘ると先へ進めなくなるので、特に思うところ以外は今は注を附さないこととする。悪しからず。ともかくも非常に面白い「承久記」は将来の全文電子化を期して、かく続けたくはあるのである。

 

 武藏守、供御瀨ヲ下リニ宇治橋へ被ㇾ向ケルガ、某夜ハ岩橋ニ陣ヲ取。足利武藏前司義氏・三浦駿河守義村、是等ハ「遠向候へバ」トテ、暇申テ打通ル。義氏ハ宇治ノ手ニ向ンズレ共、栗籠山ニ陣ヲ取。駿河次郎、同陣ヲ雙ベテ取タリケルガ、父駿河守ニ申ケルハ、「御供仕ベウ候へ共、權大夫殿ノ御前ニテ、『武藏守殿御供仕候ハン』ト申テ候へ。暇給リテ留ランズル」ト申。駿河守、「如何ニ親ノ供ヲセジト云フゾ」。駿河次郎、「サン候。尤泰村モサコソ存候へドモ、大夫殿ノ御前ニテ申テ候事ノ空事ニ成候ハムズルハ、家ノ爲身ノ爲惡ク候ナン。御供ニハ三郎光村モ候へバ、心安存候」ト申ケレバ、「サテハ力不ㇾ及」トテ、高所ニ打上テ、駿河次郎ヲ招テ、「軍ニハトコノアレ、角コソスレ。若黨共、餘ハヤリテアヤマチスナ。河端へハ兎向へ角向へ」ナド能々教へテ、郎等五十人分付テ被ㇾ通ケリ。

・「武藏守」北条泰時。

・「岩橋」位置不詳。

・「栗籠山」現在の京都府宇治市神明宮西にある神明神社付近。後掲する「吾妻鏡」では「栗子山」で他に栗隈山・栗駒山とも表記するが、これは少なくとも現在は一つの山を指す名ではなく、北は宇治、南は大久保・久津川・寺田の東方を経、富野荘に至るところの、一連の低い丘陵部を総称するものであるらしい。神社から現在の宇治橋西橋詰までは直線で約二・一キロメートルある。

・「前武州」足利義氏。当時、満三十二歳。

・「駿河次郎」会話にも出る通り、三浦義村の次男泰村。彼には生年に諸説あるが、「承久記」の以下の記載(名乗りの数え十八)に従えば十七歳である。

・「三郎光村」三浦泰村の同母弟で義村四男。当時十六歳。

 

 留マル家子ニハ佐野與一、郎等ニハ乳母子ノ小河太郎・同五郎、阿曾太郎・同次郎、山崎三郎・那波藤八、是等也。其中ニ十四騎進テ申ケルハ、「未案内モシラセ不ㇾ給、我等モ存知セズ候。サレバ先樣ニ罷向候テ、事ノ體ヲモ窺ヒ見、川ノ有樣ヲモ存仕候ハン。又大雨ニテ候へバ、御宿ヲモ取儲候ハン」トテ進行。是ハ、海道尾張河ヨリ始テ所々ノ戰ニ、我等モ若黨モ、甲斐甲斐敷軍セヌ事ヲ口惜思テ、「今日相構テ合戰ヲセヨ」トテ、内々心ヲ合セ、指遣シケリ。

 

 其後、駿河次郎、雨ニ餘ニヌレタリケレバ、馬ヨリ下リ、物臭ヌギカへ腹帶シメ直シナドシケル所ニ、カチ人少々走歸テ、「御前ニ進マレ候ツル殿原、ハヤ橋ノ際へ馳ヨリ、御手者名乘テ矢合シ、軍始テ候。某々手負テ候」ト申ケレバ、小川太郎、「足利殿ニ此由ヲ申バヤ」ト申。駿河次郎、「シバシナ申ソ」トテ物臭ノ緒ヲシメヲホセテ、馬ニヒタト乘クツロゲテ行トテ、「ハヤ申セ」トテゾ行ケル。駿河次郎、宇治橋近押寄テ見ケレバ、現ニ軍ハ眞サカリナリ。馬ヨリヲリ橋爪ニ立テ、「桓武天皇ヨリ十三代ノ苗裔、相模國住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」ト名乘テ、甲ヲバ脱デナゲノケ、指攻引攻シテ射ケリ。乳母子ノ小川太郎、甲ヲ取テキセケレバ、脱デハ捨、脱デハ捨、二度迄ゾシタリケル。是ハ矢強射ン爲也。小河太郎、主ト同矢束ナリケルガ、始ハ「大將アナガチ手下シ、軍スル樣不ㇾ候」ト諫ケルガ、泰村ニ被ㇾ射テ、敵サハギ各氣色ヲ見テ、「左候ハヾ經景ハ射候ハデ、矢種ツクサデ射サセ進ラセン」トテ、雙デゾ立タリケル。向ノ岸ヘハ普通ノ矢長トヾクベシ共見へヌ所ニ、宗徒ノ人歟ト覺シキヲ、能引ゾ射タリケル。駿河次郎支へテ射矢、二ツ三射マドハサレ、幕ノ中騷アヘリ。急幕ヲ取テ、向ノ堂ノ前へゾノキニケル。後ニ聞へシハ、甲斐宰相中將也。向ノ岸ニ奈良法師・熊野法師、數千騎向タル、其中ニ不動・コンガラ・セイタカ童子ヲ笠符ニ著タル旗共打立テ有ケルガ、河風ニ被ㇾ吹テ靡ケルハ、實ニヲソロシクゾ見へタリケル。武藏前司義氏馳來リ、相加テゾ戰ケル。駿河次郎手者共、散々ニ戰ヒ、少々ニハ手負テゾ引退ク。日モ暮行バ、武藏前司、平等院ニ陣ヲトル。駿河次郎モ同陣ヲゾ取タリケル。

 

 甲斐國住人室伏六郎ヲ使者トシテ、武藏守へ被レ申ケルハ、「駿河次郎ガ手者共、早軍ヲ始テ、少々手負候。義氏ガ若黨共、數多手負候。日暮間、平等院ニ陣ヲ取候。東方、向ノ岸ニ少々舟ヲ浮テ候。橋ヲ渡テ一定今夜夜討ニセラレヌト覺候。小勢ニ候へバ、御勢ヲ被ㇾ添候へ」トテ被ㇾ申ケル。武藏守、「コハ如何ニ。サシモ明ルト方々軍ノ相圖ヲ走ケル甲斐モナク軍始ケンナル此人々、若夜討ニセラレテハ口惜カルベシ。急ギ者共向へ」ト宣ケレバ、平三郎兵衞尉盛綱奉テ馳參リ相觸ケレ共、「武藏守殿打立給時コソ」トテ、進者コソ無ケレ。サレ共、佐々木三郎左衞門尉信綱計ゾ、可罷向曲申タリケル。

[やぶちゃん注:このシーンも面白い。私は、『泰時の家来は殿御自身とともに一気に打って出て、抜け駆けしながら尻を絡げて平等院に逃げ込んだ情けない連中を尻目に、その鼻を明かしてやりましょうぞ、とでもいうのであろう。だから主君泰時の命にも拘わらず、救援に行こうとはしないのであろう。』と読んだのだが、実は次の段に理由が述べられてあって、それどころか、実はバケツをひっくり返したような異様な豪雨や堪えがたい暑気から、家来たちの間に『この敗勢と異様なる天候は、我ら賤しい者どもが畏れ多くも朝廷に対し弓引いたことによるもので、最早我らは命運尽きた』と思ったからだとあるのである。]

 

 六月中旬ノ事ナレバ、極熱ノ最中也。大雨ノフル事、只車ノ輪ノ如シ。鎧・甲ニ瀧ヲ落シ、馬モ立コラヘズ、萬人目ヲ見アケラレネバ、「我等イヤシキ民トシテ、忝モ十善帝皇ニ向進ラセ弓ヲ引矢ヲ放ントスレバコソ、兼テ冥加モ盡ヌレ」トテ進者コソ無ケレ。サレ共、武藏守計ゾ少モ臆セズ、「サラバ打立、者共」トテ、軈テ甲ノ緒シメ打立給ケリ。大將軍、加樣ニ進マレケレバ、殘留人ハナシ。

[やぶちゃん注:「軈テ」は「やがて」と読む。]

 

 又、夜中ニ宇治橋近押寄テ見レバ、駿河次郎、昨日ノ薄手負ノ若黨共、矢合始メテ戰ケリ。武藏前司手者共、同押寄戰、シバシ支テ引退。二番ニ相馬五郎兵衞・土肥次郎左衞門尉・常田兵衞・平兵衞・内田四郎・古河小次郎、押寄テ散々ニ戰フ。少々手負テ引退。三番ニ新開兵衞・町野次郎・長沼小四郎、各、「某國住人、其々」ト名乘テ、橋桁ヲ渡リ搔楯ノ際迄責寄タリケルヲ、敵數多寄合テ、三人三所ニテゾ被ㇾ討ケル。四番ニ梶小次郎・岩瀨七郎、推寄テ散々ニ戰テ引退ク。五番ニ波多野五郎信政、引タル橋ノ際迄押寄クリ。是ハ、去六月、杭瀨川ノ合戰ニ、尻モナキ矢ニテ額ヲ被ㇾ射タリケルガ、未カンバカリハレタリ、進出テ名乘ル。「相模國住人、信政」トテ橋桁ヲ渡シ、向ヨリ敵ノ射矢、雨ノ如ナルニ、向ノ岸ヲ見ント振アヲノキタル右ノ眼ヲシタヽカニ被ㇾ射テ、河へ巳ニ落トス。橋桁ニ取付テ、心地ヲ沈テ向ントスレバ先モ不ㇾ見、歸ントスレバ敵ニ後ロヲ見セン事口惜カルベシト思ケレバ、後ロ樣ニゾシサリケル。橋ノ上へシサリアガリ、取テ返ケル所ニ、郎等則久ソトヨリ肩ニ引懸返リケルガ、河端ノ芝ノ上ニフセテ、二人左右ヨリ寄テ、膝ヲ以押テ矢ヲ拔テケリ。血ノ出事、鎧ニ紅ヲ流テ、誠ニヲビタヽシクゾ見へケル。

[やぶちゃん注:この最後のシークエンスはまるで戦争映画のワン・シーンのように凄絶。まさに「遠過ぎた橋」だ――。]

 

 武藏國住人鹽谷左衞門尉家友、押寄テ戰ケルガ、被射倒ヌ。子息六郎左衞門尉家氏、親ヲ乘越テ矢面ニ立テ戰ケルガ、是モ薄手負テ、父ヲ肩ニ引懸テゾノキニケル。其後、各押寄押寄戰ケリ。宮寺三郎・須黑石馬允・飯高小次郎・高田武者所・大高小太郎・息津左衞門尉・高橋九郎・宿屋次郎・高井小次郎、押寄テ劣ラジ負ジト戰テ、是等モ手負テ引退ク。

 

 東方ヨリ奈良法師土護覺心・圓音二人、橋桁ヲ渡テ出來リ。人ハ遙々渡橋桁ヲ、是等二人ハ大長刀ヲ打振テ、跳跳曲ヲ振舞テゾ來リケル。坂東ノ者共、是ヲ見テ、「惡ヒ者ノ振舞哉。相構テ射落セ」トテ、各是ヲ支テ射ル。先立タル圓音ガ左ノ足ノ大指ヲ、橋桁ニ被射付、ヲドリツルモ不ㇾ動、如何スベシ共不ㇾ覺ケル所ニ、續クル覺心、刀ヲ拔テ被射付クル指ヲフツト切捨、肩ニ掛テゾノキニケル。

[やぶちゃん注:「土護覺心」本章のサブ・キャラクターで最初に述べた通り後述する。しかしこのシークエンスも凄い!]

 

 武藏守、「此軍ノ有樣ヲ見ルニ、吃ト勝負可ㇾ有共不ㇾ見、存旨アリ、暫ク軍ヲトヾメント思也」ト宣ケレバ、安東兵衞尉橋ノ爪ニ走寄、靜メケレ共不ㇾ靜。二番ニ足利武藏前司、馳寄テ被ㇾ靜ケレ共不ㇾ靜。三番ニ平三郎兵衞盛網、鎧ハ脱デ小具足ニ太刀計帶テ、白母衣ヲ懸、橋ノ際迄進デ、「各、軍ヲ仕テハ誰ヨリケンジヤウヲ取ントテ、大將軍ノ思召樣有テ靜メサセ給フニ、誰々進ンデカケラレ候ゾ。『註シ申セ』トテ、盛綱奉テ候也」ト、慥ニ申ケレバ、其時、侍所司ニテハアリ、人ニ多被見知、一二人キカヌ程コソアレ、次第ニ呼リケレバ、河端・橋ノ上、太刀サシ矢ヲ弛テ靜リニケリ。

[やぶちゃん注:臨場感たっぷり!

「ケンジヤウ」既注。「勸賞」で「けんしやう(けんしょう)」「けじやう(けじょう)」とも読み、功労を賞して官位や物品・土地などを授けることをいう。]

 

 武藏守、芝田橘六ヲ召テ、「河ヲ渡サント思ニ、此水底ノ程ニハ一尺計モマサリタルナ。此下ニ渡ル瀨ヤアル。瀨蹈シテ參レ」ト宣ケレバ、「奉リ候」トテ一町計打出タリケルガ、取テ返シ、「檢見ヲ給リ候バヤ」ト申。「尤サルベシ」トテ、南條七郎ヲ召テ被相添。二騎連テ下樣ニ打ケルガ、槇島ノ二マタナル瀨見渡ケルニ、アヤシノ下﨟ノ白髮ナル翁一人出來レリ。是ヲトラヘテ、「汝ハ此所ノ住人、案内者ニテゾ有覽。何ノ程ニカ瀨ノアル、慥ニ申セ。ケムジヤウ申行ベシ。不ㇾ申ハ、シヤ首切ンズルゾ」トテ、太刀ヲ拔懸テ問ケレバ、此翁ワナヽキテ、「瀨ハ爰ハ淺候。カシコハ深候」ト教へケレバ、「能申タリ」トテ、後ニハ首ヲ切テゾ捨ニケル。又人ニイハセジトナリ。其後、馬ヨリ下リテハダカニナリ、刀ヲクワヘテ渡ル。檢見ノ見ル前ニテハ、淺所モ深樣ニモテナシ、早所ヲモノドカナル樣ニ振舞テ、中島ニヲヨギ著テ見レバ、向ニハ敵大勢扣タリ。サテ此河ハサゾ有覽ト見渡シテ取テ返シ、「瀨蹈ヲコソ仕ヲホセテ候へ」ト申ケレバ、佐々木四郎左衞門尉、御前ニ候ガ、芝田ガ申詞ヲ聞モ不ㇾ敢、イツタチ馬ニヒタト乘テ、シモザマニ馳テ行。芝田橘六、アナ口惜、是ニ前ヲセラレナンズト思テ、同馳テ行。佐々木、前ニ立テ、「爰ガ瀨カ爰ガ瀨カ」ト云ケレバ、「未ハルカハルカ」トテ、槇島ノ二マタナル所ノ、我瀨蹈シタル所へ馬ノ鼻ヲ引向、ガハト落サントス。芝田ガ馬ハ鹿毛ナルガ、手飼ニテ未乘入ザレバ、河面大雨降テ、洪水漲落、白浪ノ立ケルニ驚テ、鼻嵐吹テ取テ返ス。引向テ鞭ヲシタヽカニ打テ落サントス。佐々木、是ヲ見テ、コハ如何ニ、カシコハ瀨ニテ有ケル物ヲト思テ引返シ、芝田ガ傍ヨリガハト打入テ渡シケリ。佐々木ガ馬ハ權大夫殿ヨリ給タリケル甲斐國ノ白齒立、黑栗毛ナル駄ノ下尾白カリケリ。八寸ノ馬、其名ヲ御局トゾ申ケル。駄ノヲツルヲ見テ、芝田ガ馬モ續ヒテヲツル。河中迄ハ佐々木ガ馬ノ鞭ニ鼻ヲサス程ナリケルガ、元來馬劣リタレバ、次第ニ被ㇾ捨テ二段計ゾサガリタル。佐々木、未向ノ岸へモ不ㇾ襄シテ、「近江國住人、佐々木四郎左衞門尉源信綱、今日ノ宇治河ノ先陣也」ト高ラカニゾ名乘ケル。同續ヒテ、「奧州住人、芝田橘六兼能、今日ノ宇治河ノ先陣」ト、同音ニ高ラカニゾ訇リケル。佐々木、向ノ中島ニ打上タレバ、子息左衞門太郎トテ十五ニナリケルガ、タウサキニ白キ帷ヲ著、腰刀バカリ指、太刀ヲ頸ニカケ、父ガ馬ノ鞦ノ總ニ取付テ來タリ。父、見返テ、「向ノ河端迄ハアリツレ共、是迄可ㇾ渡トハ不ㇾ覺。如何ナル子共アリ共、己レニマサル子有マジ」ト、親子ガ戰テ、敵ノ矢ニアテジト、馬ヲ横ニ折フサギ、子ヲ陰ニゾ立タリケル。サレ共スハダナレバ、猶痛敷、角テハ如何ガ可ㇾ有ナレバ、「己レイシウモ渡タリ。此後如何ナル愛子ヲ儲共、汝ニ不ㇾ可恩替。急、武藏守殿ニ參テ、『瀨蹈ヲコソ仕ヲホセテ候へ』ト申セ」ト云ケレバ、左衞門太郎、只「御供仕候バ」ト申ケレバ、信綱、ヤハラカニ云ハヾヨモ歸ラジト思テ、「如何デ參ラデハ可ㇾ有ゾ。サテハ親ノ命ヲ背タカ」ト被ㇾ云テ、力不ㇾ及取テ返シテヲヨギ渡リ、武藏守殿へ參テ此由ヲ申テ、又取テ返、親ノ跡ヲ尋テゾ渡ケル。サレバ大河ヲ渡事三度也。洪水瀧漲出タル事ナレバ、流石ニ身モ疲レテ、被押入押入シケレバ、重代ノ太刀ヲ首ニ懸クリケルガ、重カリケル間、惜ハ思へ共、取テ河ニ投入テ、身計ヲヨギ上リテゾ助力リケル。

 佐々木ニ續テ渡者ニハ、中山五郎次郎・佐野與一・浦野太郎・構五郎・白井小太郎・多胡宗内、是等也。秋庭三郎モ同手ニ渡ケレ共、御尋有ケルニハ、佐々木存旨ヤ有ケン、「我等ハ不ㇾ見」トゾ申ケル。後ニ七騎渡スニハ、小笠原四郎・内海九郎・河野九郎・四郎右馬允・敕使河原小三郎・長江與一・平六、是也。軈テ續テ渡シケル若狹兵部入道・關左衞門尉・小野寺中務丞・左島四郎、四騎打入テ渡ケルガ、若キ者共ノ馬強ナルハ、河ヲ守ラヘテ能渡アヒダナ、子細ナシ。關左衞門尉入道、身ハ老者ナリ、馬ハ弱シ、被押落下頭ニ成ケレバ、聟ノ左島四郎見捨ガタク思テ取テ返シ、押雙テ馬ノ口ニ付タリケルガ、被押入二目共不ㇾ見、共ニ流レテ失ニケリ。是ハ、左島四郎、國ヲ立ケル時、妻室云ケルハ、「我親ハ頼敷キ子一人モナシ。我ニ年比情ヲ懸給事ナラバ、此言葉ノ末ヲ不ㇾ違シテ、我父構へテ見放シ給ナ」ト、軍ト聞シヨリ打出ル朝迄、鎧ノ袖ヲ抑へテ云ケル事ヲヤ思ヒ出タリケン、同ク流ケルコソ哀ナレ。故郷ノ者共此事ヲ傳聞テ、「左イハザリセバ、一度ニ二人ニハヲクレマジキ物ヲ」ト、歎ケルコソ甲斐ナケレ。

[やぶちゃん注:途中の改行は底本のママ。ここは所謂、段落番号はないので、そのまま続けて電子化した。

「北條九代記」の本文は実にやっとここからを典拠とする。しかも、どのシーンを見てもこれ「承久記」の作者の方が遙かに才能ががあると言わざるを得ない。筆者はもしかすると既にして「承久記」には負けたとこの辺りで完全降伏してしまった、が、そこはそれ、悔しいから、いいシーンはみなスル―した、という気がしてくるほどに、それぞれのエピソードが生き生きとしていて、実に手に汗握ってほろりとさせるシークエンスではないか!

「此水底ノ程ニハ一尺計モマサリタルナ」これは馬の丈の標準である四尺(約一メートル二十一センチ)にプラス一尺(三〇・三センチメートル)で一メートル五十二センチを超える深さであるというのであろう。先に出た抜きん出た名馬の「八寸」でさえ約一メートル四十五センチであるから、これでは騎馬では渡れない。

「子息左衞門太郎」信綱の長男佐々木(大原)重綱(承元元(一二〇七)年~文永四(一二六七)年)。乱後は第四代将軍九条頼経の近習として仕えた。後の仁治三(一二四二)年に父が死去すると、父の生前に家督と所領を譲られていた弟の泰綱と抗争を起こし、寛元元(一二四三)年には幕府に対して訴訟を起こして勝訴、泰綱の近江国内にあった所領を譲り受けているが、これが結局は佐々木氏の勢力の分散化の濫觴となってしまった(以上はウィキの「佐々木重綱」に拠った)。]

 

 安東兵衞、同一門ナリケル彌藤内左衞門尉十四騎、大勢ノ渡ヨリ下、セバカリケル所ニ實ニ深ク見へケルヲ、爰ヲ渡サバ大勢ヨリモ前ニ向へハ可ㇾ著トテ、ガハト落ス。殊ニ深所ニテ一騎モ不ㇾ見沈ケリ。

 

 武藏國住人、阿保刑部丞實光・鹽谷民部丞家經、同國ノ者トシテ、所領モ堺ヲ雙テ、朝夕申通ズル中ニテ、今日モ一所ニ打連レ云合テ、同心ニ川端ニ進デ渡サントシケルガ、我等ガ子共アマタ有、我コソ空カラメ、子共サへ失ハン事悲クヤ思ケン、武藏守殿へ使ニ進ラセケレバ、是等モ心得テ、「御供ニコソ候ハメ」ト申。「小賢キ奴原哉」トテ追返ス。「我等已ニ八旬ニ及デ、病ニテゾ死ンズラント思ツルニ、今カヽル御大事出來テ、人ノツラニ成テ、此河ニテ命ヲ死ム事、尤本望也。民部丞殿」。「左承候、刑部丞穀」トテ、ガハト落ス。二目共不ㇾ見流ケリ。

[やぶちゃん注:「阿保刑部丞實光」武蔵七党の一つ、丹党の武将で同丹党の流れの安保(阿保)氏の祖である安保実光(あぼさねみつ 永治二(一一四二)年?~ 承久三(一二二一)年)。没した歳は八十歳とも伝えられる。参照したウィキの「安保実光」に、『父は秩父(丹)綱房(のちの新里恒房)で、その次男として二郎実光は生まれる。その後、父から武蔵国賀美郡(現児玉郡西部域)の安保郷(現神川町元阿保)の地を譲られ、居住し、安保(阿保)氏を称した。子息は、安保五郎左衛門尉実房、安保六郎兵衛光重、安保七郎左衛門尉実員などで、この内、五郎実房と六郎光重は、建久元年』(一一九〇年)の頼朝上洛の際の随兵の中に既に名が載り(「吾妻鏡」)、その戦歴は一ノ谷の戦い・奥州合戦・承久の乱と、やはり「吾妻鏡」によって確認出来る。そうしてまさにこの部分についての、『承久の乱の時、二郎刑部丞実光は老齢の身であったが、北条政子の命で参戦した。実光が属した勢力は、美濃の摩免土で官軍の第一線を破り、数十名の関東武士と共に京の宇治川へ向った。そして宇治川の戦いで溺死する事となる。宇治川を渡ろうとする前、塩谷家経』(同じく武蔵七党の一つ、児玉党系塩谷氏二代目統領)と語り合ったとされ、この家経の方も既に七十一歳という『老齢の身であり、実光と同様、重い鎧を着たまま荒れ狂う宇治川の激流に流され、溺死した。これらは老いてもなお武蔵武士の勇ましさを示す事とな』った、という記事が載る。その後の子孫である『安保氏の直系の宗家(惣領家)である安保宗実(入道して道堪)は、鎌倉幕府の滅亡と共に滅び、結果として、実光の七男(実員)の子孫である安保光泰、つまり安保氏の分家筋が宗家を継ぐ形となり、安保氏は鎌倉時代以後も栄える事となる』とある。宇治川の藻屑となった実光にとってこの事実は確かな供養となろう。]

 

 其後、馬次第ニゾ渡ケル。久瀨左衞門次郎・大山彌藤太・善右衞門太郎・安藝庄四郎・片穗民部四郎・山内彌五郎・高田小太郎・成田兵衞・女陰四郎・神澤八郎・奈良八郎・科河六郎太郎・志村彌三郎・豐島彌太郎・伊佐大進太郎・相馬五郎子共三人・物射次郎太郎・下妻小次郎・佐野八郎入道・同二郎太郎・澁谷平三郎・木戸刑部丞・平塚少輔太郎・春日刑部三郎・足濯平内・長江小四郎・飯田左近・鹽谷四郎・土肥三郎・仲藤八・成田次郎・島平三郎・同平四郎・同平四郎太郎・平三五郎・覺島小次郎・大河津小四郎・對馬左衞門次郎・湯原六郎・岡部六郎・飯高六郎・金子與一太郎・大倉六郎・讚岐左衞門六郎・大鹽太郎・浦野四郎・布施左衞門次郎・縣左衞門四郎・片切六彌太・彌藤太左衞門尉・飯島太郎・備前房・大高六郎・岡部介庄三郎・石田左近・飯沼三郎・櫻井二郎・島津二郎・石川三郎・齋藤左近・今泉七郎・鹽谷摧次郎太郎、是等ヲ始トシテ、宗徒ノ者九十六人、打連々々渡シケルガ、助カル者ナク、流者多カリケリ。上下八百餘騎、流レテ死トゾ聞へシ。

[やぶちゃん注:これらの溺死者名簿は「吾妻鏡」にも載らない。次段のシーンも併せて、「承久記」の作者の、戦さに対して持つところの一面の無常感への、深い思いが伝わってくるではないか。]

 

 武藏守、「アタラ侍共ヲ失テ、泰時一人殘止テモ何カスベキ。運盡ヌ共、具ニ相向テコソ死ナメ」トテ、河端へ被ㇾ進ケルヲ、信濃國住人、春日刑部三郎ト云者、親子打入テ渡シケルガ、子ハ流レテ死ヌ、親モ被押入タリケルヲ、郎等未だ岳ニ有ケルガ、弓ノハズヲ入テサガシケル程ニ、無左右取付テ被引上タルヲ見レバ、春日刑部三郎也。川端ニ大息ツキテ休ケル所ニ、武藏守、河端へ被ㇾ進ケルヲ、立揚鞍ニツヨク取付テ、「如何ニ角口惜御計ハ候ゾ。軍ノ習ヒ、千騎ガ百騎、百騎ガ十騎、十騎ガ一騎ニ成迄モ、大將軍ノ諜ニ隨習ニテコソ候へ。マシテ申候ハンヤ、御方ノ御勢百分ガ一ダニ亡候ハヌ事ニテコソ候へ。如何ニ御命ヲバ失ハントセサセ給候ゾ」ト申ケレバ、武藏守、「思樣アリ。放セ」トテ策ニテ腕ヲ被ㇾ打ケレ共ハナサズ。去程ニ御方百騎計、川ノ端へ進ミ前ヲ塞ケル間、力及不ㇾ給。此事鎌倉ニ傳聞テ、「刑部三郎ガ高名、先ヲシタランニモ増リタリ」トゾ宣ケル。

 

 

 駿河次郎同渡ントス。武藏守、「如何ニ、泰時ト一所ニテコソト契給シニ、渡サントハ仕給フゾ」ト宣ケル上、乳母子ノ小河太郎、「守殿御供申ントテ、父ノ供ヲモセサセ給ハヌニ、兎角モナラセ御座申ン樣ニコソ隨被ㇾ申候ハメ」ト申ケレバ、理ニ伏、打テ不ㇾ被ㇾ渡。旗差・手者共、少々打入テ渡シケルガ、流ル、者モ多カリケリ。

[やぶちゃん注:最初のシーンで駿河次郎三浦泰村が父義村と別行動をとることを妙に細かく述べた意図がここにきて明らかとなる。伏線に於いても「承久記」の作者は張り方が上手い。]

 

 武藏守太郎殿ハ其モ渡サントテ、河端へ被ㇾ進ケルヲ、「如何ニ泰時ヲ捨ントハセラルヽ哉覽。表ニテコソ兎モ角モ成給ハメ」ト宣ケレバ、力不ㇾ及シテ留リケリ。サレ共猶渡サンテ、河端へ被ㇾ進ケルヲ、小熊太郎取付テ、「殿ハ日本一ノ不覺仁ヤ。大將軍ノ身トシテ、如何ナル謀ヲモ運シ、兵ニ軍ヲサセ、打勝ムトコソ可ㇾ被ㇾ爲ニ、是程人毎ニ流死ル河水ニ向テ、御命ヲ失セ給テハ、何ノ高名カ可ㇾ候」トテ、水付ニ取付ケルニ、「只放セ」トテ、策ニテ臂ヲシタヽカニ被ㇾ打ケレバ、「サラバ」トテ放シケル。其時、武藏太郎颯ト落ス。關判官代實忠、同渡シケリ。小熊太郎モ渡ス。三騎無ㇾ煩向ノ岸ニ著ニケリ。爰、萬年九郎秀幸ハ、眞先ニ渡シタルゾト覺シクテ、向樣ニゾ出來タル。武藏太郎、是ヲ御覽ジテ、「汝ガ只今參タルコソ、日比ノ千騎萬騎ガ心地スレ」ト宣ケル。

[やぶちゃん注:「水付」「みづつき(みずつき/みずき)」は「七寸」とも書き、轡の部分名。手綱の両端を結び附ける轡の引き手部分をいう。但し、広義に手綱の両端の意でも用い、ここでは小熊が放した反動で泰時が落馬しているから後者であろう。

「萬年九郎秀幸」泰時の御内人。後、保奉行人(ほぶぎょうにん:保々奉行とも。後に執権となった泰時が新たに作った幕府の職制。暦仁元(一二三八)年に上洛して京の警固体制を整備した北条泰時は、鎌倉に帰ると京にならって「保」という行政単位を敷き、保官人である検非違使に習って鎌倉御府内の地域別警備担当者たる保奉行人を置いた。保奉行人であり,仁治元(一二四〇)年に御府内触れられた条例によれば、盗人・悪党以下の雑人の取締りや商売統制を任務の中心としている。その点で御家人を対象とする侍所とは管轄を異にし、雑人の裁判権を持つ政所の指揮下に属していた〔以上は平凡社「世界大百科事典」等に拠った〕)。北畠研究会のサイト「日本の歴史学講座」内の「御内人人物事典」の「万年秀幸」のページによれば、彼は具体的に『鎌倉に夜盗・殺害事件が起こった場合には松明を用意するように市民に布令したり、政所の下級役人や侍所の小舎人による市中騎馬の禁止、押買の禁止も布令している』とある。]

 

 去程ニ、相模國住人、樫尾三郎景高、東方ヨリ宗徒ノ者ト見ル敵ノ呼ヒテ出來ケルニ、押雙ベテ組デヲツ。樫尾未十六歳ニナル小冠者也。敵ハ大ノ男也。取テヲソフ。武藏太郎是ヲ見テ、「アナムザンヤ、樫尾打スナ」トテ、少スキノアリケル所ナレバ、馬ヲハタト出シテ、小笠懸射樣ニ落下テ、敵ガ鎧ノ草ズリノ餘、白ク見へケル所ヲ支テ射給フ。被ㇾ射テヨハル所ヲ、下人寄合テ手反ヲツカンデ引返ス。主從シテ首ヲ取。

 駿河次郎ノ手者共、先樣ニ渡ケルニ、格勤ノ源八男出來テ、「如何ニ次郎殿ハ」ト云フ。「見へサセ不ㇾ給」ト申ケレバ、アナ口惜、サテハ流レサセ給ケルニコソ、一所ニテ兎モ角モ見成進ラセ、見へ進ラセントコソ思ツルニ、何トナラセ給ヌラント思テ、向ノ河端ヲ見渡シケレバ、駿河次郎、先樣ニ渡タル者共サゾ思覽、旗差向ニ渡リタル三浦ノ笠符ヲ弓ノハズニ著テ指擧タリ。先ニ渡ル輩、是ヲ見テ、「アハヤ次郎殿渡サセ給ケルヲ」トテ跳擧リテゾ悦ケル。

 小河太郎、武藏太郎ノ手ニ續ニケリ。先樣ニ渡シタル勢、今續ヒテ渡ス。五百餘騎ニゾ成ニケル。「敵・御方ヲバ如何ニシテ存知スベキ」ト申セバ、「坂東勢ハ、只今河ヲ渡シタレバ、鞦・ムナガヒ・馬モヌレタリ。其ヲシルシトシテ討ヤ、者共」トテ、ヱリ拔ヱリ拔、是ヲ討。

[やぶちゃん注:二ヶ所の改行はママ。これらも段落番号はない。]

 

 京方ヨリ、赤地ノ錦ノ直垂ニ、萌黄ニホヒノ鎧、スノ金物打タルニ、白星ノ甲、キリフノ矢負テ、紅ノ母衣懸、白葦毛ナル馬ニ乘タル上﨟、宗徒ノ人ト見ル所ニ、「是ハ右衞門佐朝俊也。御所ヲ被罷出ケル時、君勝セヲハシマサバ、如何ナル有樣ヲシテモ可ㇾ參。御方負色ニ見へ候ハヾ、討死スベク候也」トテ懸出タリ。駿河次郎手ノ者、小河太郎、能敵ト目ヲ懸テ寄合處ニ、「是ハ駿河殿ノ手者」トテ押ヨケテ通シケレバ、此手ニハ加樣ノ人ハ不ㇾ覺ト思ケレ共、御方ト名乘ケレバ透シテケリ。其後右衞門佐、大勢ノ中ニ懸入、被組落テ被ㇾ討ヌ。

[やぶちゃん注:最後の大働きの策略、簡潔によく描けている。]

 

 又、京方ヨリ、火威ノ鎧、白月毛ナル馬ニ、長覆輪ノ太刀帶テ、呼ヒテ出來タリ。打エミタルヲ見レバ、カネ黑也。小河太郎、押雙ベケル所ヲ拔打ニ、小川ガ甲ノ眞甲ヲ被ㇾ打、目昏ミケレ共、取テ付テ二匹ガ間ニゾ落タリケル。心ヲ靜メテ見ケレバ、我組タル敵ノ首無ケリ。「如何ナル者ナレバ、人ノ組ダル敵ノ首ヲバ取タルゾ」ト呼リケレバ、「武藏太郎殿ノ手ノ者、伊豆國住人、平馬太郎ゾカシ。ワ殿ハタソ」。「駿河次郎ノ手ノ者ノ小河太郎經村」ト云ケレバ、「サラバ」トテ首ヲ返ス。小河、是ヲ不請取後二、後ニ此由申ケレバ、平馬太郎ガ僻事也、小川高名ニゾ成ニケレル。

[やぶちゃん注:纏まって「北條九代記」の筆者が採用した部分であるが、こうしてずっと読んでくると、ここがピックアップするほどには面白くない(もっと他の部分のほうが面白い)ということがお分かり戴けたものと思う。]

 

 又、京方ヨリ、「佐々木太郎左衞門尉氏綱」ト名乘テ懸出タリ。叔父ノ四郎左衞門尉、是ヲ見テ、「太郎左衞門、能散ゾ。中ニ取籠、討ヤ、者共」ト下知シケレバ、太郎左衞門、何トカ思ケン、カイフイテ引所ヲ、三浦ノ秋庭三郎寄合テ、押雙べテ組デ落。秋庭三郎ハ十七ニ成ケレ共、大力成ケレバ取テ押へテ首ヲ取。

[やぶちゃん注:「佐々木太郎左衞門尉氏綱」先に注したように、私は佐々木信綱の兄の長男継綱の誤りではないかと考えている。]

 

 又、京方ヨリ、萩野次郎、懸出タリ。是モ被組落テ被ㇾ討ニケリ。中條次郎左衞門尉ハ、奧州ノ住人宮城小四郎ト河端ニテ寄合テ、押雙テ組デ落。何レモ大力ナリケルガ、御方ニヤ引レケン、次郎左衞門被組伏テ被ㇾ討ケリ。

 

 以下、「吾妻鏡」の承久三 (一二二一) 年六月十三日及び宇治川合戦の一部始終と官軍の敗走を記した翌十四日の条も見ておく。

 

十三日丙寅。雨降。相州以下自野路相分于方々之道。相州先向勢多之處。曳橋之中二箇間。並楯調鏃。官軍幷叡岳惡僧列立招東士。仍挑戰爭威云々。酉刻。毛利入道。駿河前司向淀。手上等。武州陣于栗子山。武藏前司義氏。駿河次郎泰村不相觸武州。向宇治橋邊始合戰。官軍發矢石如雨脚。東士多以中之。籠平等院。及夜半。前武州。以室伏六郎保信。示送于武州陣云。相待曉天。可遂合戰由存之處。壯士等進先登之餘。已始矢合戰。被殺戮者太多者。武州乍驚。凌甚雨。向宇治訖。此間又合戰。東士廿四人忽被疵。官軍頻乘勝。武州以尾藤左近將監景綱。可止橋上戰之由。加制之間。各退去。武州休息平等院云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日丙寅。雨、降る。相州以下、野路より方々の道に相ひ分かる。相州、先づ勢多に向うの處、橋の中二箇間(けん)を曳き、楯を並べ、鏃(やじり)を調(そろ)へ、官軍并びに叡岳の惡僧、列び立つて東士を招く。仍つて挑戰し威を爭ふと云々。

酉刻、毛利入道、駿河前司、淀・手上(たながみ)等へ向ふ。武州、栗子山に陣す。武藏前司義氏、駿河次郎泰村、武州に相ひ觸れず、宇治橋邊に向ひ、合戰を始む。官軍、矢石(しせき)を發(はな)つこと、雨脚(うきやく)のごとし。東士、多く以つて之に中(あた)り、平等院に籠る。夜半に及びて、前武州、室伏六郎保信を以つて、武州の陣に示し送りて云はく、

「曉天を相ひ待つて、合戰を遂ぐべしの由存ずるの處、壯士等、先登に進むの餘りに、已に矢合せを始め、戰ふに、殺戮せらるる者、太(はなは)だ多し。」

てへれば、武州、驚き乍ら、甚雨(じんう)を凌ぎ、宇治へ向ひ訖んぬ。此の間、又、合戰す。東士廿四人、忽ち疵を被(かうむ)り、官軍、頻りに勝ちに乘ず。武州、尾藤左近將監景綱を以つて、橋上の戰さを止むべきの由、制を加へるの間、 各々退去す。武州、平等院に休息すと云々。

・「相州」北条時房。

・「毛利入道」毛利季光。大江広元四男。当時、満十九歳。妻は三浦義村の娘。

・「駿河前司」三浦義村。

・「手上」地名なるも不詳。識者の御教授を乞う。

・「武州」幕府軍総大将北条泰時(三十九歳)。

・「前武州」足利義氏。当時、満三十二歳。

・「橋」宇治橋。

 

・「相ひ觸れず」通告せずに。この「吾妻鏡」の方の記載は明らかに両名にはどこか泰時を軽んずる思いが働いている感じがする(ように書かれているように私には見える。それは主に三浦義村に対して感ずるのである。ウィキの「三浦義村」によれば、泰時の若き日の前妻矢部禅尼〔長男時氏出生後に離縁しているが理由は不詳〕は義村の娘で泰時にとって彼は元舅に当たり、頼朝直参の幕府宿老として後に評定衆に列し、晴れて北条氏に次ぐ家格を獲得するに至る義村は執権となった泰時の定めた貞永式目にさえ反する行動をしばしばとり、「吾妻鏡」にも『傍若無人』と批判されてある)のであるが、ともかくも防衛線の渡渉を容易と判断した確信犯の先陣抜け駆けを狙ったのである(この辺、「承久記」では義村はそれを事前に厳しく制していたにも拘わらず、従軍以来、ろくな勲功をがないことを口惜しく思った家来らの先走った行為が原因となって合戦が始まってしまったとなってはいる。この辺の印象の違いは面白い)。ところが、豈に図らんや、想像を絶する対岸からの雨のような矢の攻勢に遇い、命からがら平等院へと逃げ込んで、結局、膠着状態に陥ってしまったため、慌てて未報告であった泰時に、「暁を待って渡渉総攻勢をかけるとの仰せを受け、河畔に待機して御座ったところが、血気にはやる壮士どもが、つい、先陣を競う気持ちから矢合わせを始めてしまい、すでに戦闘状態に入って御座る。雨の如き敵の矢に味方の者の殺戮せらるることこれ、甚だ多御座る。」という、如何にもな苦し紛れ言い逃れの虚偽報告をしているという風にここは読めてしまう。ちょっと、格好悪いね。

 

十四日丁夘。霽。雷鳴數聲。武州。越河不相戰者。難敗官軍由相計。召芝田橘六兼義。示可尋究河淺瀨之旨。兼義伴南條七郎。馳下眞木嶋。依昨日雨。綠水流濁。白浪漲落。雖難窺淵底。爲水練遂知其淺深。頃之馳皈。令渡之條。不可有相違之由申畢。及夘三刻。兼義。春日刑部三郎貞幸等受命爲渡宇治河伏見津瀨馳行。佐々木四郎右衞門尉信綱。中山次郎重繼。安東兵衞尉忠家等。從于兼義之後。副河俣下行。信綱。貞幸云。爰歟瀨々々々者。兼義遂不能返答。經數町之後揚鞭。信綱。重繼。貞幸。忠家同渡。官軍見之。同時發矢。兼義。貞幸乘馬。於河中各中矢漂水。貞幸沈水底。已欲終命。心中祈念諏方明神。取腰刀切甲之上帶小具足。良久而僅浮出淺瀨。爲水練郎從等被救訖。武州見之。手自加數箇所灸之間。住正念。所相從之子息郎從等。以上十七人没水。其後。軍兵多水面並轡之處。流急未戰。十之二三死。所謂。關左衞門入道。幸嶋四郎。伊佐大進太郎。善右衞門太郎。長江四郎。安保刑部丞以下九十六人。從軍八百餘騎也。信綱獨在中嶋古柳之陰。依後進勇士入水。欲渡失思慮。遣子息太郎重綱於武州陣云。賜勢可令着向岸者。武州示可加勇士之由。與餉於重綱。賜之訖。又歸于父之所。卯刻。雖着此中嶋。相待勢之程。重綱〔不着甲冑。不騎馬。裸而纏帷許於頭〕往還之間。依移尅。及日出之期也。武州招太郎時氏云。吾衆擬敗北。於今者。大將軍可死之時也。汝速渡河入軍陣。可捨命者。時氏相具佐久滿太郎。南條七郎以下六騎進渡。武州不發言語。只見前後之間。駿河次郎泰村〔主從五騎〕以下數輩又渡。爰官軍見東士入水。有乘勝氣色。武州進駕擬越河。貞幸雖取騎之轡。更無所于拘留。貞幸謀云。着甲冑渡之者。大略莫不没死。早可令解御甲給者。下立田畝。解甲之處。引隱其乘馬之間。不意留訖。信綱者。雖有先登之號。於中嶋經時刻之間。令著岸事者。與武藏太郎同時也。排大綱者。信綱取太刀切棄之。兼義乘馬雖中矢斃。依爲水練。無爲著岸。時氏揚旗發矢石。東士官軍挑戰爭勝負。東士已九十八人被疵云々。武州。武藏前司等乘筏渡河。尾藤左近將監令平出彌三郎壞取民屋造筏云々。武州著岸之後。武藏相摸之輩殊攻戰。大將軍二位兵衞督有雅卿。宰相中將範成卿。安達源三左衞門尉親長等失防戰之術遁去。筑後六郎左衞門尉知尚。佐々木太郎右衞門尉。野次郎左衞門尉成時等。以右衞門佐朝俊爲大將軍。殘留于宇治河邊相戰。皆悉亡命。此外官兵忘弓箭敗走。武藏太郎進彼後。令征伐之。剩放火於宇治河北邊民屋之間。自逃籠之族。咽煙失度云々。武州相具壯士十六騎。潛陣于深草河原。右幕下使〔長衡〕來此所云。迄何所有渡乎可奉見由。有幕下命云々。武州云。明旦可入洛候。最前可啓案内者。問使者名。長衡名謁訖。則以南條七郎付長衡。遣幕下之許。可警固其亭之旨。示付云々。毛利入道。駿河前司破淀。芋洗等要害。宿高畠邊。武州依立使者。兩人到深草云々。相州於勢多橋與官兵合戰。及夜陰。親廣。秀康。盛綱。胤義。棄軍陣皈洛。宿于三條河原。親廣者於關寺邊零落云々。官軍佐々木弥太郎判官高重以下。被誅于處云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日丁夘。霽る。雷鳴數聲。武州、河を越えて相ひ戰はずんば、官軍を敗(やぶ)り難き由相ひ計り、芝田橘六兼義を召し、河の淺瀨を尋ね究むべきの旨を示す。兼義、南條七郎を伴いひ、眞木嶋へ馳せ下る。昨日の雨に依つて、綠の水流、濁る。白浪、漲(みなぎ)り落ち、淵底を窺ひ難しと雖も、水練たれば、遂に其の淺深を知る。頃之(しばらくあ)つて、馳せ皈(かへ)り、渡さしむるの條、相違有るべからずの由申し畢んぬ。卯の三刻に及びて、兼義、春日刑部三郎貞幸等、命を受けて、宇治河を渡らんが爲に、伏見の津の瀨へ馳せ行き、佐々木四郎右衞門尉信綱、中山次郎重繼、安東兵衞尉忠家等、兼義が後に從ひ、河俣(かはまた)に副ひて下り行く。信綱・貞幸云はく、

「爰か瀨は爰か瀨は。」

てへれば、兼義、返答を遂ぐ能はず、數町を經るの後、鞭を揚ぐ。信綱・重繼・貞幸・忠家同じく渡す。官軍、之を見て、同時に矢を發(はな)つ。兼義・貞幸の乘馬、河中に於て各々の矢に中(あた)り水に漂ふ。貞幸、水底に沈み、已に命を終へんと欲す。心中、諏方明神を祈念し、腰刀を取りて甲(よろひ)の上帶(うはおび)・小具足(こぐそく)を切り、良(やや)久くして僅かに淺瀨へ浮び出る。水練の郎從等が爲に救はれ訖んぬ。武州、之を見て、手自(てづか)ら數箇所の灸(きう)を加うるの間に、正念に住す。相ひ從う所の子息郎從等、以上十七人、水に没す。其の後、軍兵多く水面に轡(くつばみ)を並べるの處、流れ、急にして未だ戰はずに、十のうち二、三は死す。所謂、關左衞門入道・幸嶋四郎・伊佐大進太郎・善右衞門太郎・長江四郎・安保刑部丞以下九十六人、從軍八百餘騎なり。信綱獨り、中嶋の古柳の陰に在り、後進の勇士、水に入り、渡らんと欲するも思慮を失ふに依つて、子息太郎重綱を武州の陣に遣はして云はく、

「勢を賜はり、向岸に着かしむべし。」

てへれば、武州、

「勇士を加へるべし。」

の由を示し、餉(かれいひ)を重綱に與ふ。之を賜はり訖りて又、父の所に歸る。卯の刻、此の中嶋へ着くと雖も、勢を相ひ待つの程、重綱〔甲冑を着けず、騎馬せず。裸にして帷(かたびら)許りを頭に纏ふ。〕往還の間、尅を移すに依つて、日の出の期(ご)に及ぶなり。武州、太郎時氏を招きて云はく、

「吾が衆、敗北せんと擬す。今に於ては、大將軍の死すべきの時なり。汝、速かに河を渡り軍陣に入り、命を捨つべし。」

てへれば、時氏、佐久滿(さくまの)太郎・南條七郎以下六騎を相ひ具し進み渡す。武州、言語を發せず、只だ前後を見るの間、駿河次郎泰村〔主從五騎。〕以下の數輩、又、渡る。爰に官軍、東士の水に入るを見て、勝に乘ずる氣色有り。武州、駕(が)を進め、河を越さんと擬す。貞幸、騎の轡を取ると雖も、更に拘留するの所無し。貞幸、謀りて云はく、

「甲冑を着て渡すの者、大略、没死(もつし)せずといふこと莫し。早く御甲(おんよろひ)を解かしめ給ふべし。」

てへれば、田畝(でんぽ)に下り立ちて、甲を解くの處、其の乘馬を引き隱すの間、意(こころならずも留り訖んぬ。信綱は、先登の號(な)有りと雖も、中嶋に於いて時刻(とき)を經るの間、岸に著かしむる事は、武藏太郎と同時なり。大綱を排すれば、信綱、太刀を取り、之を切り棄つ。兼義が乘馬、矢に中り斃(たふ)ると雖も、水練たるに依つて、無爲に岸へ著く。時氏、旗を揚げ、矢石を發つ。東士・官軍、挑戰し勝負を爭ふ。東士、已に九十八人疵を被ると云々。

武州、武藏前司等、筏(いかだ)に乘りて河を渡す。尾藤(びとう)左近將監、平出(ひらで)彌三郎をして民屋を壞(こぼ)ち取りて筏を造らしむと云々。

武州、岸に著くの後、武藏・相摸の輩、殊に攻め戰ふ。大將軍二位兵衞督有雅卿・宰相中將範成卿・安達源三左衞門尉親長等、防戰の術を失ひて遁れ去る。筑後六郎左衞門尉知尚・佐々木太郎右衞門尉・野次郎左衞門尉成時等、右衞門佐朝俊を以つて大將軍と爲し、宇治河邊に殘留して相ひ戰ひ、皆、悉く命を亡(うしな)ふ。此の外の官兵、弓箭(きゆうぜん)を忘れ、敗走す。武藏太郎、彼の後へ進み、之を征伐せしめ、剩(あまつさ)へ、火を宇治河北邊の民屋に放つの間、自(おのづか)ら逃げ籠るの族(うから)、煙に咽(むせ)びて度を失ふと云々。

武州壯士十六騎を相ひ具し、潛かに深草河原に陣す。右幕下の使ひ〔長衡。〕、此の所に來て云はく、

「何(いづ)れの所に迄(いた)らば渡り有るや。見奉るべし。」

の由、幕下の命有りと云々。

武州云はく、

「明旦(みやうたん)入洛すべく候。最前に案内を啓(けい)すべし。」

てへれば、使者の名を問ふに、

「長衡。」

と名謁(なの)り訖んぬ。則ち、南條七郎を以つて長衡に付け、幕下の許へ遣はし、其の亭(ちん)を警固すべきの旨、示し付くと云々。

毛利入道・駿河前司、淀・芋洗(いもあらひ)等の要害を破りて、高畠(たかばたけ)邊に宿す。武州、使者を立てるに依つて、兩人、深草に到ると云々。

相州、勢多橋に於いて官兵と合戰す。夜陰に及びて、親廣・秀康・盛綱・胤義、軍陣を棄てて皈洛(きらく)し、三條河原に宿す。親廣は、關寺(せきでら)の邊に於いて零落すと云々。

官軍佐々木弥太郎判官高重以下、處に誅せらると云々。

・「宰相中將範成卿」は「範茂」の誤り。

・「右幕下」右大将西園寺(藤原)公経。彼の屋敷は後に金閣寺が建てられた場所にあった。

・「高畠」現在の京都市伏見区醍醐(だいご)高畑町(たかはたちょう)。]

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