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2014/05/19

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅3 日光 あらたうと靑葉若葉の日の光

本日二〇一四年五月 十九日(陰暦では二〇一四年四月二十一日)

   元禄二年四月  一日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月 十九日

である。「奥の細道」の旅ではこの日、日光へ辿りついた。

 

あらたうと靑葉若葉の日の光

 

あなたふと木(こ)の下闇(したやみ)も日の光

 

  日光山にて

たふとさや靑葉若葉の日のひかり

 

  日光山登臨之時

あらたふと若葉靑葉の日の光

 

  日光に詣(けいす)

あらたふと木の下闇も日の光

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」。仮名遣としては、正しくは、

 

あらたふと靑葉若葉の日の光

 

である。

 第二句目は「随行日記」中の「俳諧書留」の、第三句目は「初蟬」(風国編・元禄九(一六九六)年刊)の、第四句目は「鏽鏡」(さびかがみ・舎羅編・正徳三(一七一三)年刊)の、第五句目は「茂々代草」(ももよぐさ・其流等編・寛政九(一七九七)年刊)の句形で、この第五句は真蹟が伝存する。

 但し、第二句目の「随行日記」中の「俳諧書留」のそれは「室八島」と題して、

 糸遊(いとゆふ)に結(むすび)つきたる煙哉

 あなたふと木(こ)の下闇(したやみ)も日の光

 入かゝる糸ゆふの名殘かな

 [やぶちゃん注:「糸ゆふの名殘かな」を見せ消ちにして次句。]

 入かゝる日も程々に春のくれ

 鐘つかぬ里は何をか春の暮

 入逢(いりあひ)の鐘もきこえず春の暮

と載る。即ち、実は現在、日光山での名吟として知られる本「あらたうと靑葉若葉の日の光」という句の原形は日光ではなく、室の八島で創作されたものなのである。これについて安東次男は「古典を読む おくのほそ道」で、

   《引用開始》

 「あなたふと木の下闇も日の光」は、通説、日光参詣の句(「青葉若葉」)の初案だとされているが、室の八島で出来たと考えるしかあるまい。木花咲耶姫の弥生尽日(花じまい)なら木下闇だとしゃれている。安産の神様よりも糸遊の方に結びつきたがる風情の「煙」の句と合せて読むと、新しい社の前でいささか出鼻をくじかれた俳諧師の春の限が、なかなか面白く現れる。この祭神とこの日に限って「木下闇」という季語をとくべつに許したくなる句だろう。とはいうものの、これを室の八島の段にしるすほど、大胆には流石(さすが)なれなかったか。上・下句をそのまま、中七文字に出闇の工夫をほどこして、このあとの日光の段に移している。つれて「糸遊(煙)」の句は紀行から捨てられた。書留の残三句は室の八島ではないということもあったろうが、先に惜春に寄せた留別吟(「行春や」)がある以上、重出になる。

 結局、室の八島に筆を尽すことなど、どこから考えても無理があったようだ。「同行曾良が曰」の内容は「…謂也」までと読むべきだろうが、以下の記述も含めてこの段には芭蕉自身の興はまったくしるされていない。『ほそ道』中、異例のことである。

   《引用終了》

と述べている。私は先の「室の八島」の最後で、そ『の段自体、「奥の細道」の最初の訪問地であるにも拘わらず発句を示しておらず、まただからこそこの中途半端な博物学的俳文も、作中、極めて例外的に、著しく精彩を欠いているように私には見える』と批判したことに些か内心忸怩たるものを感じていたが、この安東の評を読んで少し安心した。

 初案の「木の下闇」では木蔭の闇にさえも神君家康公の恩沢が余すところなく射し入ってあるという寓意があからさまであったものが、決定稿ではその理窟が字背に後退し、鮮やかな緑にハレーションする陽射しという自然の美が美事に浮き出て来て、まことに美しく、しかも素直な神々しさへの感慨が心地よい(但し、あくまで「自然」に対してであって、「日光東照宮」という建物に対してではない。後述)。

 以下、「奥の細道」の「日光」の段を手前で宿した(虚構。後述)仏五左衛門の章から「裏見の瀧」の手前までを示しておく。

   *

卅日日光山の麓に泊るあるしの

云けるやう我名を佛五左衞門と云

萬正直を旨とする故に人かくは

申侍まゝ一夜の草の枕も打と

けて休み給へと云いかなる佛の

濁世塵土に示現してかゝる

桑門の乞食順礼こときの人を

たすけ給ふにやとあるぢのな

す事に心をとゝめて見るに唯

無智無分別にして正直偏固

のもの也剛毅木納の仁にちか

きたくひ痴愚の淸質尤尊

ふへし

卯月朔日御山に詣拜す往昔此

御山を二荒山と書しを空海

大師開記の時日光と改たまふ

千歳未來をさとり給ふにや今此

御光一天にかゝやきて恩澤八荒に

あふれ四民安堵の栖穩也猶

憚多くて筆を指置ぬ

 あなたふと靑葉若葉の日の光

黑髪山は霞かゝりて雪いまた

白し

  剃捨て黑髪山に衣更  曽良

同行曽良は河合氏にして惣五郎

と云芭蕉の下葉に軒をならへて予か

薪水の労をたすく此たひ松嶋

象泻の眺共にせむ事をよろ

こひ且は羈旅の難をいたはり旅

立暁髮を剃て墨染にさまをか

へて惣五を改て宗悟とす仍て

黑髮山の句有衣更の二字力有て

きこゆ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した)

〇順礼            → ●巡礼

〇朴納            → ●朴訥

〇智愚            → ●氣稟(きひん)

〇あなたふと靑葉若葉の日の光 → ●あらたふと靑葉若葉の日の光

〇同行曾良          → ●曽良

〇と云            → ●といへり

〇いたはり          → ●いたはらんと

〇さまをかへて        → ●さまをかへ

 

■やぶちゃんの呟き

「卅日」は虚構。元禄二(一六八九)年三月は小の月で二十九日で終わりで、「卅日」はなかった。但し、これについては頴原・尾形の角川文庫の評釈に、『実際は二十九日であっても「卅日」の字を宛てた例は他にもある』とあり、この日附自体は大きなフィクションとは言えない。しかし問題は他にある。事実は彼らがこの「佛五左衞門」なる人物の宿に泊まったのは曾良の随行日記によって四月一日の夜で、しかも実はそれはその後に書かれている日光参拝と同日であり、芭蕉は時系列を恣意的に入れ替えているのである。

 私は若い時からずっと、この「佛五左衞門」の章が気になっていた。頴原・尾形(その他の諸家も)は角川文庫の評釈で、

   《引用開始》

 その前夜の記事の中で、「いかなる仏の濁世塵土に示現して」といっているのは、仏五左衛門の名に興じ、かれを前ジテの里人、自身を諸国一見のワキ僧に比した、夢幻能の擬態にもとづく〝俳諧〟にほかならない。

 「ただ無智無分別にして」云々(うんぬん)という文言の中にも、後ジテの仏の示現への期待が破れ、一介の愚直ないなか者を見いだした失望軽侮の微苦笑と、その世間智に汚れぬ一徹な正直さをたたえる愛情とが、表裏二様に複雑にからみあった形で含まれ、隠微な笑いをかもしている。

 仏の示現を期待した能のワキ僧の姿勢は、右の諧謔(かいぎゃく)のスタイルより謹直のスタイルへと筆づかいを改めた東照宮参詣の条にまで響いていって、「あらたふと」という神威賛仰(さんごう)の声調に結晶する。日光山は皇家鎮護・国土安寧を祈願して開かれた山で、東照権現は江戸時代人にとって、天照大神に次ぐ絶対神格だった。

   《引用終了》

と述べている。複式夢幻のパロディというのは、それはそれで面白い。恣意的に時系列を転倒させたのも、確かにそれを狙ったものに違いない。違いないが、それにしても、かの「神」君家康公を祀る日光の前に『佛五左衞門』『濁世塵土』『桑門の乞食巡礼』『唯だ無智無分別』『偏固』『朴訥』『痴愚』という強烈な表現の羅列はどうか? それ以上に私は素直に納得は出来ないことがあるのである。それはまさに、『猶ほ憚り多くて筆を指し置きぬ』と芭蕉が記すところに、である。もしも諸家が評するように「佛五左衞門」のエピソードが、その後の日光山の神威への夢幻能を洒落た対称的呼び水として機能しているのであるのならば、この、「これ以上は、とてものことに、神威、これ、畏れ多御座るによって筆を措く」なんどと如何にもな弁解を述べ添えた上に、かの名吟を、はたして芭蕉が配するであろうか? という素朴な疑問なのである。どうも私はこの『憚り多くて』という語が好きではないのである。芭蕉にして、ここにその語を使わざるを得ない、何か、内的なアンビバレントな感懐が潜んでいるように思われてならなかったのである。

 今回、このプロジェクトで、永年、積ん読(どく)で放置した数多の芭蕉関連書を、今更ながら斜め読みする機会を得たが、その中の一冊に、まさにこの私の積年の疑問を氷解させて呉れる(納得させて呉れる)ものを見出した。山本※(「亻」+「胥」。さとし)「奥の細道事典」(講談社一九九四年刊)の第二章「未知との出会い」の『「筆をさし置ぬ」の真意』一節であった。非常に長くなるが、私にとって眼から鱗の論なればお許し戴きたく思う。山本氏はまず、先に示した日附の問題を確信犯の虚構と検証した上で、

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]『奥の細道』をかなりあとでしたためたとはいえ、芭蕉の思い違いとはどうしても考えられない。さらに、ある種の感動をもって東照宮に接し、その晩五左衛門の家に泊まっているのに、五左衛門宅に泊まった翌日、東照宮に参拝した、と勘違いするはずはない。それにもかかわらず、虚構の三十日をつくり上げ、『奥の細道』全体の構想からすると、とくに必要とは思えない仏五左衛門の話にかなりの量の筆を残したということに意味がある。

 芭蕉が日光を訪ねたのは、紹介状をたずさえたことからしても、前もって日程に組み込んであったはずである。それにもかかわらず、日光についての記載は、空海(くうかい)大師(実は天平神護二年、勝道上人の開基)が名づけた地名の由来の後、「猶博多くて筆をさし置ぬ」と、直接の描写は一言ももらしていない。芭蕉は俳諧を業とする。目や心に映った事象を言葉に託し、他人に訴えるのが職業と解してよい。『奥の細道』をまとめたのも、自分の体験を通して得たものを、人々に知らせたかったからに他ならない。その芭蕉が、「筆をさし置ぬ」と書くのは、「自己否定」にもなりかねない。その危険をあえておかしてまでこう書き残したのは、それを通して、自分の日光に対する気持ちを、読者に読み取ってもらいたかったからに違いない。

「猶憚多くして」という表現は、対象物を悪(あ)しざまに言いたい気持ちを伏せるときに用いることが多い。「今此御光(みひかり)、天にかゝやき」と芭蕉がいう「御光」をおおかたの解説書は東照権現(とうしょうごんげん)の威光と説明している。私もこれまでそう信じていた。ところが再三読み返すうちに、すぐ前にあげている、「日光と改給(あらためたま)ふ」た空海ととるのがもっとも妥当である、と考えるようになった。この「御光」を東照権現とする根拠は、「卯月朔日(うづきついたち)、御山に詣拝す」と書きはじめた「御山」を、東照宮と解するからである。ところが芭蕉は、「むかし御山を二荒(ふたら)山と書いていたが、空海大師開基のときに日光と改めた」と述べている。だから芭蕉が詣拝した御山は、東照宮ではなく、「日光」そのものの自然だった、と読み取れる。

 日光東照宮は、日本人の感覚からすると、異例としかいいようがないほど華美にかざりたてた社である。こういう造作は、どう考えても芭蕉好みとは思えない。

 さらに、仏五左衛門について「気稟(きひん)の清質尤尊ぶべし」と述べた直後、日光の記載に移ったのが気にかかる。「気実の清質」とはうらはらの気持ちを東照宮に対していだいた、と言いたかったのである。そうすれば、わざわざ虚構の期日を付してまで記した仏五左衛門の話を、ここに取り上げた理由ものみ込める。「筆をさし置ぬ」と空白にした、真の東照宮像を読者に伝えるため、と考えてもおかしくない。俳詔は、短い言葉に万感をこめて表現するので、あいまいさが残るものである。」

 

    (ふ)

  あらたうと青葉若葉の日の光

 

 この句は室(むろ)ノ八嶋(やしま)で詠(よ)んだ「あらたふと木の下暗も日の光」を、『奥の細道』執筆のとき手直しした、ということは前に述べた。木の葉越しに、日の光が糸のように降りそそぐ室ノ八嶋は、この句にぴったりのところといえる。この句の「日の光」は、やはり太陽の光でなくてはいけない。自然の光と解釈したほうがわかりよい。木もれ陽(び)を詠んだ句を、わざわざここに持ってきた理由は、「猶憚多くて筆をさし置ぬ」の気持ちの延長線上にあるのではなかろうか。「日の光」を「東照権現」とするのは誤りで、自然をそこなう権力の象徴としか思えない東照宮の日光にも、仏五左衛門のような「日の光」もいる、というように解釈することもできる。いかさま芸術を照らし出す自然の光、と解釈してもよい。

 それにしても、日光描写の前後に、わざわざ仏(ほとけ)と墨染(すみぞめ)という仏教に関係ある人間像をはさんだのも、わけがありそうである。神の名を借りた虚構の偶像を、無智無分別(むちむふんべつ)かもしれないが、清質の人間像ではさみ打ちしたつもりかもしれない。

 もしそうだとすれば、芭蕉はしたたかな反権力主義者とも思えてくる。日光東照宮を通りいっぺんの造型物と見たのではなく、権力の象徴ととらえたのだろう。だから、配される側の代表として、仏五左衛門をすぐ前に演出した。すると、「唯無智無分別」という、ふつうなら悪(あ)しぎまにいう文字の重みがずっしりと響いてくる。さらに、「濁世塵土(ぢよくせじんど)」「正直偏固(へんこ)」「剛毅朴訥(がうきぼくとつ)」と、権力への対抗語が、これでもか、これでもかと言わんばかりに並んでいる。空海大師の「千歳未来をさとり給ふにや」というくだりも、こういう事態を見越しての言葉で、芭蕉自身の主観が少なからず含まれている。

 芭蕉が、故郷の上野(うえの)(三重県)を後に江戸へ出てきた当時、江戸幕府は町づくりの最中だった。芭蕉は水道工事などに従事しながら糊口(ここう)をしのいでいる。苦学しながら、どうにか俳諧を身のよすぎにできた人間だから、今様にいうと、れっきとした労働詩人である。

 よきにつけ、悪(あ)しきにつけ、徳川幕府が後世に残した唯一の遺産は、東照宮だといわれる。しかし私は、この杉並木をおいてないと考えている。芭蕉が辿(たど)ったころは、まだ樹齢三十~五十年くらいで、歴史の重みは感じられなかっただろうが、現在、樹齢約三百四十年の巨大な杉が三七キロメートルにわたり一万五〇〇〇本を数える。もし、芭蕉が現在これを見たとすれば、日光についての感興も異なったのではないか。東照宮をしのぐ建築物なら、他に数多いが、これだけの並木道は世界中どこをさがしてもないし、いくら近代文明を駆使しようが、今後つくることは不可能に近い。

 日光に着いた芭蕉は、まず、江戸から持参した江北山清水(こうほくざんせいすい)寺からの紹介状をもって、養源院を訪ねた。清水寺と深い関係にあった養源(ようげん)院は、水戸頼房(よりふさ)の養母の妹おろくの冥福(めいふく)を祈って建てられた寺院で、日光山の衆徒でもあった。寺そのものは現存しないが、東照宮社務所の裏手を登ったところに、その跡が見られる。

 芭蕉は、養源院の使僧とともに御別所を訪ね、東照宮拝観を願い出た。どうやら日光を訪ねたのは、東照宮拝観が目的で、そのためにわざわざ江戸からの紹介状も準備した。ところが先客があったため、かなりの時間待たされた末、ようやく東照宮を拝観したが、それについて芭蕉は口をとざして語らない。その夜は上鉢石(かみはついし)町の五左衛門方に泊まった。『曾良日記』には、その個所に「壱五弐四」と書き込んであるが、おそらく宿賃なのだろう。仏五左衛門は、誇張があるにしろ、芭蕉にとって感じのよい人物だったようだ。芭蕉は、快晴の翌日、さっさと裏見(うらみ)ノ滝を見物に出かけた。

 

 廿余丁(にじゆうよてふ)山を登つて滝有(あり)。岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭(へきたん)に落(おち)たり。岩窟(がんくつ)に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝(まうしつた)え侍(はべ)る也(なり)。

  暫時(しばらく)は滝(たき)に籠(こも)るや夏(げ)の初(はじめ)

 

 滝の多い日光のうちでも、裏見(うらみ)ノ滝は、華厳(けごん)、霧降(きりふり)とともに日光三名瀑(さんめいばく)と呼ばれてきた。流れをまたいで降り、そそぐ滝の裏手へ近づけるので、裏見ノ滝と名づけられた。明治三十五(一九〇二)年の大風で、滝の上部がくずれたが、芭蕉の訪れたころはいまよりかなり迫力のある滝だったはずである。芭蕉は、「暫時(しばらく)は滝に籠るや夏の初」と涼しげな句を残しているが、「碧潭(へきたん)」と書き留めた流れの青さが目にしみるようだった。

 芭蕉は、裏見ノ滝で日光の自然を代表させているが、『曾良日記』によると、そのあと含満ケ淵(がんまんがふち)を訪ねている。岩や岸を嚙(か)む急流である。「弘法(こうぽう)の投筆」と呼ばれる絶壁にきざまれた梵字(ぼんじ)は、ここを開いて寺を建てた晃海(こうかい)が、修学院山順の書した「憾満(かんまん)」の字をきざませたもので、コウカイがクウカイに転じたものと思われる。芭蕉よりいくらか前の時代の話で、芭蕉が日光を訪れたころ、この含満ケ淵は人のうわさに上るようになっていた。

 あたりには、晃海の弟子がきざんだ地蔵が列をつくるが、いくら数えても、そのたび

ごとに数が異なることから、化け地蔵とも呼ばれる。

   《引用終了》

――まさにこれである! 私は山本氏の主張に激しく賛同する。それ以外にはない。この見解のみが、永年の間、私の心に巣食っていたどうしようもないと思っていた曇りを鮮やかに払拭して呉れるものだからである! どうか、氏の著作をお読み戴きたい。実際に「奥の細道」を踏破された方にのみ見えてくる、とても素晴らしい作品である。]



本記事はシンクロの当日の予約公開を数件登録した際に、登録したと思いこんでいて、その直後に
義父の突然の逝去の混乱があって名古屋に旅立ち、それから10日後も経った今日(5月29日)になって脱漏していたことに気付いた。それでもこの記事は僕にとっての今回の「奥の細道」再読の最初の驚くべき発見でもあるため、シンクロさせないと標題にも反し、何より僕自身が癪なので公開日時は「5月19日00:00」とした。特に先般、楽しみに読んでいますとメールを下さった未知の方には心よりお詫び申し上げねばならない。向後ともよろしくお願い致します。【2014年5月29日記】

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