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2014/06/21

北條九代記 卷第六  本院新院御遷幸 竝 土御門院配流(2) 承久の乱最終戦後処理【二】――後鳥羽院隠岐遷幸

同じき十三日、隱岐國へ移し奉るべしと聞えければ、文あそばして、九條殿へ參らせらる。「君しがらみと成りて」とあり。そのおくに

  墨染の袖に情をかけよかし涙ばかりもきちもこそすれ

御供には殿上人出羽〔の〕前司重房、内藏權頭(くらごんのかみ)清範、女房二人伊賀局、白拍子龜菊ぞ參りける。既に都を立ち給ひ、水無瀨殿(みなせどの)を御覽じ遣(やり)て、爰にあらばやと思し召されけるも、せめての御事と哀なり。

  たちこむる關とはなさで水無瀨川霧猶霽れぬ行末の空

播磨國明石〔の〕浦に著(つか)せ給ふ。「こゝは何所(いづく)ぞ」と御尋あり。「明石補浦」と申しければ、

  都をば暗闇にこそいでしかど月は明石の浦に來にけり

白拍子龜菊、かくぞ詠みける。

  月影はさこそ明石の浦なれど雲居の秋ぞなほも戀しき

美作(みまさか)と伯耆(はうき)との中山を越えさせ給ふとて、向(むかひ)の岸に細道の目見えけるを「何所(いづく)へ通ふ道ぞ」と御尋ありければ、「都へ通ふ古道(ふるみち)にて候」と申しければ、千代の古道ならば、都にも近かるべきにと思召し遣らせ給ひて、

  都人誰ふみそめて通ひけん向ひの道のなつかしきかな

出雲國大濱湊(おほはまのみなと)と云ふ所に著せ給ふ。見尾(みを)ヶ崎(さき)と云ふ所なり。修明門院の御方へ此所より遣し給ふ御書の奧に、

  知るらめや浮身を崎の濱千鳥なくなく絞る袖の氣色(けしき)を

是より御舟に召して雲の浪、煙の波を漕(こぎ)過ぎて、隱岐國あまの郡(こほり)刈田郷(かりたのがう)と云ふ所に御所とて造り設けたる、怪しげなる庵の内に入らせ給ふ。海少し近ければ、寄せくる波の音高く、梢を傳ふ嵐の聲、御夢をだに結ばねば、いとゞ憂き世を侘(わび)しらに、猿(ましら)な泣きそと悲(かなし)ませ給へども、都に歸る傳(つて)もなし。

  われこそは新島守(にひじまもり)よ隱岐の海のあらき波風心して吹け

家隆卿(かりうのきやう)この御歌を都にて承り、後の便(たより)に詠みて奉られける。

  寢覺して聞かぬを聞きて悲しきは荒磯浪の曉のこゑ

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱最終戦後処理【二】――後鳥羽院隠岐遷幸〉

「九條殿」親幕派の九条道家。既注。

「君しがらみと成りて」底本頭書に、

 「流行く我身みくづとなりぬとも君しがらみとなりてとゞめよ」(菅公)

とある。菅原道真が大宰府に流される際に宇多法皇に奉ったとされる和歌で「大鏡」の宿的「左大臣時平」伝に著名な「こち吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなきとて春をわするな」の直後に所収するが、そこでは、

 ながれゆく我は水屑(みくづ)となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ

である。

「美作」山陽道の美作国。現在の岡山県東北部。

「伯耆」山陰道の伯耆国。現在の鳥取県中部・西部。

「中山」現在の岡山県真庭郡新庄村附近。

「向の岸」旭川の対岸。

「千代の古道ならば、都にも近かるべきに」「千代の古道」とは歌枕。平安の都人が嵯峨野や広沢池、嵐山に物見遊山に向かうために用いた山城国葛野郡(かどののこおり)へ向かう古道と伝えられるが、一説には文芸の世界だけの道ともされる。孰れにせよ、「古道」の語が都へと向かうそれを連想させたのである。

「出雲國大濱湊」「見尾ヶ崎」美保関。現在の島根県松江市美保関町。後掲する「吾妻鏡」によれば到着は承久三年七月二十七日であった。京を発ったのが十三日、十四日かかっている。

「修明門院」後鳥羽天皇の寵妃藤原重子。既注。

「隱岐國あまの郡刈田郷」隠岐国海部(あま)郡刈田郷(郡名は海士郡とも書く)。現在の隠岐郡海士町(あまちょう)。

「侘しらに、猿な泣きそ」は、「古今和歌集」の凡河内躬恒の一〇六七番歌、

   法皇、西川におはしましたりける日、猿、

   山のかひに叫ぶといふことを題にてよま

   せたまうける

 ましらな鳴きそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ

に基づく。これは延喜七(九〇七)年九月十日に宇多上皇が大井川へ御幸した際の歌。「侘しらに」は副詞。もの哀しげに。こちらは悲痛な叫び声をやめて行幸を言祝げと猿に投げかけているのを、後鳥羽院は自身の哀傷を悪戯に増幅させるのをやめよというネガティヴなものに転じている。

「家隆卿」藤原定家と並び称せられた歌人、公卿藤原家隆。後鳥羽院のかつての和歌の指南役であった。後鳥羽院が隠岐に流された後も題を賜って京から和歌を贈ったりもしている(ウィキの「藤原家隆」に拠る)。

 以下、「承久記」(底本通し番号101の途中から101まで)。

 

 同十三日、隱岐國へ移シ可レ奉卜聞へシカバ、文遊シテ九條殿へ奉ラセ給フ。「君シガラミト成テ、留サセ給ナンヤ」トテ、

  墨染ノ袖ニ情ヲ懸ヨカシ涙計モクチモコソスレ

加樣ニ被ㇾ遊ケルトナン。御乳母ノキヤウノ二位殿、アハテ參テ見進ラスルニ、譬ン方ゾ無リケリ。七條院・修明門院モ御幸ナル。互ノ御心ノ中、申モ中々疎也。御供ニハ、殿上人、出羽前司重房・内藏權頭淸範、女房一人、伊賀局、聖一人、醫師一人參ケリ。已ニ都ヲ出サセ給、水無瀨殿ヲ通ラセ給トテ、爰ニテ有バヤト被思召ケルコソ、セメテノ御事ナレ。

  タチ籠ル關トハナサデ水無瀨河霧猶晴ヌ行末ノソラ

 サテ播磨國明石ニ著セ給テ、「爰ハ何クゾ」ト御尋アリ。「明石ノ浦」ト申ケレバ、

  都ヲバクラ闇ニコソ出シカド月ハ明石ノ浦ニ來ニケリ

又、白拍子ノ龜菊殿、

  月影ハサコソ明石ノ浦ナレド雲居ノ秋ゾ猶モコヒシキ

 美作卜伯耆トノ中山ヲ越サセ給フトテ、向ノ岸ニホソミチ有。「何クへ通フ道ゾ」ト御尋有ケレバ、「都へ通フ古キ道ニテ」ト申ケレバ、

  都人タレ蹈ソメテ通ヒケン向ノ路ノナツカシキカナ

 出雲國大八浦ト云所ニ付セ給フ。見尾崎ト云所也。其ヨリ修明門院へ御書ヲ進ラセ給。

  シルラメヤ浮身ヲ崎ノ濱千鳥泣々シボル袖ノケシキヲ

 是ヨリ御舟ニメシテ、雲ノ波・烟ノ波ヲ漕過テ、隱岐國アマノ郡カリ田ノ郷ト云所ニ、御所トテ造儲タリケレバ、入セ給フ。海水岸ヲ洗ヒ、大風木ヲワタル事、尤烈シカリケレバ、

  我コソハ新島モリヨ澳ノ海ノアラキ波風心シテフケ

都ニ家隆卿傳承リテ、後ノ便宜ニ、

  ネザメシテキカヌヲ聞テ悲キハアラ礒浪ノ曉ノ聲

●「御乳母ノキヤウノ二位殿」後鳥羽天皇乳母であった卿二位藤原兼子(けんし 久寿二(一一五五)年~寛喜元(一二二九)年)。亡き実朝の後継者問題では北條政子に接近したが、承久の乱の勃発により、結果的に倒幕側の中心となった兼子に繫がる一族も処刑されるなど連座を受け、後鳥羽上皇・順徳上皇は配流となったが、老年の兼子は都に留まり、乱後八年を生きながらえている(以上はウィキ藤原兼子に拠った)。


 以下、勝者の「吾妻鏡」の記載は如何にも流石にあっさりとしている。前回省略した後鳥羽院の大浜の湊への現着記事の七月二十七日の条をまず掲げておく。

廿七日庚戌。上皇著御于出雲國大濱湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以皈洛。付彼便風。被献御歌於七條院幷修明門院等云々。

  タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ

  シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ

○やぶちゃんの書き下し文

廿七日庚戌。上皇、出雲國大濱湊に著御、此の所より御船に遷坐す。御共の勇士等、暇まを給はり、大略以つて皈洛(きらく)す。彼の便風(びんぷう)に付きて、御歌を七條院幷びに修明門院等に献じらると云々。

  たらちめの消えやらでまつ露の身を風よりさきにいかでとはまし

  しるらめや憂きめをみをの浦千鳥嶋々(しまじま)しぼる袖のけしきを

●「庚戌」誤り。戊申。

●「彼の便風に付きて」隠岐島へ渡るための風待ちの間にことよせて。

●和歌はを参照されたい。

 隠岐到着の八月五日の条。

五日丙辰。上皇遂著御于隱岐國阿摩郡苅田郷。仙宮者改翠帳紅閨於柴扉桑門。所者亦雲海沈々而不辨南北者。無得鴈書靑鳥之便。烟波漫々而迷東西之故也。不知銀兎赤鳥之行度。只離宮之悲。城外之恨。増惱叡念御許也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

五日丙辰。上皇、遂に隱岐國阿摩(あま)郡苅田(かりた)郷に著御。仙宮(せんぐう)は翠帳紅閨(すいちやうこうけい)を柴扉桑門(さいひさうもん)に改め、所は亦、雲海沈々(ちんちん)として南北を辨ぜずてへれば、鴈書靑鳥(がんしよせいてう)の便りを得るは無し。烟波漫々にして東西を迷ふが故に、銀兎赤鳥(ぎんとせきてう)の行度(かうど)を知らず。只だ離宮の悲み、城外の恨み、増々叡念(えいねん)を惱まし御(たま)ふ許りなりと云々。

●「翠帳紅閨」美事な翠帳を垂れて鮮やかな紅色に飾った寝室。本来は貴婦人の閨房を指す。

●「柴扉桑門」「柴扉」は柴 (しば) で作った粗末な扉(とぼそ)、「桑門」は出家して修行する沙門のことであるが、前と対句になって粗末な侘び住まいをいう。

●「雁書靑鳥」ともに手紙。前者は蘇武に関わる知られた故事による。「靑鳥」は前漢の東方朔が青鳥の飛来を見て西王母の使いだといった「漢武故事」に見える故事から、使者や使い、転じて書簡の意となった。

●「銀兎赤鳥」は将棋の駒の一つ。現在知られる本将棋ではなく、より多い駒数と盤面を持つ泰将棋や最大の大局将棋にある駒の名である。「赤鳥」不詳。同じく駒で「行鳥(ぎょうちょう)」ならある。前の「靑鳥」と対句表現にしたものか。以下の「行度」からも筆者は明らかに将棋の駒の名称として用いていると考えられる。前の「銀兎」は月、「赤鳥」は太陽をシンボライズするもののようには読める。識者の御教授を乞うものである。

●「行度」これは将棋の対戦中に当該の駒を動かし得る総ての可能性をいう語のようである。]

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