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2014/06/30

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 5 札幌にて(Ⅰ) 札幌農学校のこと / 羆のこと【注は凄惨な内容を持つので注意!】

M371
図―371

 札幌の町道は広くて、各々直角に交っている。全体の感じが我国の西部諸州に於る、新しい、然し景気のいい村である。政府の役人が住んでいる西洋館もいくつかあるが、他の家はみな純粋の日本建である。ブルックス教授は心地よく私を迎え、そして汗をふき、身なりをととのえ終った私を連れて、学校と農場とへ行った。学校は我国の田舎の大学と同じ外見を持っていた。設計にも、建築にも、趣味というものがすこしも見えぬ、ありふれた建物である。一つの部屋には、小樽の貝塚で集めた、器具や破片の、興味の深い蒐集があった。私は咽喉から手が出る位、それ等がほしかった。装飾のある特徴は、大森の陶器を思わせたが、形は全く違っていた(図371)。棚の上の、これ等並に他の品々(主として鉱物)を見た後、私は農場に連れて行かれたが、そこにはマサチューセッツ州のアマスト農科大学のそれに似せて建てた、大きな農業用納屋があった。昨年私はある機会から、この模範納屋の絵のある同大学の報告を見た。我々とは非常に異る要求を持つ日本人ためめに、このような建造物を建てることは、余りにも莫迦(ばか)らしく思われた。然しこの地方を馬で乗り廻し、気候のことをよく知って見ると、私には我々が考えているような農業を、我々の方法で行うことが可能あることと、従って我々が使用する道具ばかりでなく、我々のと同じ種類の納屋も必要であることが理解出来た。納屋の内には、何トンという乾草があった。我々は円屋根に登って周囲の素晴らしい景色を眺め、下りる時には、梁木から遙か下の乾草の上へ、飛び降りたりした。これ等の事柄のすべてに牛の臭が加って、私を懐郷病(ホームシック)にして了った。ブルックス教授の家では、新鮮な牛乳を一クォート御馳走になった。私自身が蝦夷の中心地におり、且つこの場所は僅か八年前までは実に荒蕪の地で只猛悪な熊だけが出没していたということは、容易に考えられなかった。この附近にまだ熊がいることは、去年四人の男を順々に喰った(その一人を喰うためには家をこわした)という、猛々しい奴が、一匹殺されたという、ブルックス教授の話が証明している。日本人が、単に農業大学を思いついたばかりでなく、マサチューセッツの農科大学から、耕作部を設立する目的で、一人の男を招いたことは、大いに賞讃すべきである。札幌は速に生長しつつある都邑である。ラーガア麦酒(ビール)の醸造場が一つあって、すぐ使用する為の、最上の麦酒を瓶詰にしている。このことは、瓶に入った麦酒一ダースを贈られた時に聞いた。

[やぶちゃん注:「マサチューセッツ州のアマスト農科大学」ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark 一八二六年~一八八六年)はマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)学長であったが、教え子の新島襄の紹介によって日本政府の熱烈な要請を受けて一年間の休暇を利用して訪日するという形で明治九(一八七六)年七月に札幌農学校教頭に赴任していた。クラークの立場は教頭で名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語では“President”と表記することが開拓使によって許可され、実質的には殆んどクラークが校内の全てを取り仕切っていたとウィキの「ウィリアム・スミス・クラーク」にある。ここでモースが描写しているのは札幌農学校第二農場にモースの肝入りで建築された牧牛舎のことと思われる。ウィキの「札幌農学校第2農場」によれば、『クラークは、実践を中心とした農業教育を提唱し、当時は「札幌官園」という名で機能していた土地一帯を「農黌園(のうこうえん)」として移管、実践農場としての利用が開始された。この農黌園という名称は「College Farm」の日本語にしたものである。園内は2つの区域に分けられ、学生の農業教育の研究を対象とした「第1農場」が現在の北海道大学南門周辺に、そして畜産の経営を実践する農場としての役割を担った「第2農場」が現在の大型計算機センターと環境研が位置する場所一帯に建設された』。『この第2農場では、それまで日本人になじみの無かった酪農・畜産経営を実践できる実習施設として機能し、外国種の家畜・牧草や畜力農機具、さらにはマサチューセッツ州立農科大学にならって産室・追込所・耕馬舎を建設した。この建造物はクラークにより「Model Barn」と記載され、日本語でも「札幌農学校模範家畜房」と名づけられた。この名称はクラークの北海道農業の模範となるようにとの願いが込められたもので、建物群が象徴的であることもあり、後になって第2農場の建物群そのものを指すようになった』。『モデルバーンは1877年秋に完成。北海道大学内の記念建造物の中では最も古く、バルーンフレーム構造やツーバイフォー方式の工法を用いて造られた洋風の農業建築は国内においても珍しいものである。そのほかにも、W・ブルックスが設計にあたったとされる「第2農場玉蜀黍庫(穀物庫)」も1877年に建築され、こちらは「Corn Barn(コーンバーン)」と呼ばれた』とある。クラークは翌年の明治一〇(一八七七)年五月に離日したが、その後の『1889年には日本で最初と推定されている乳牛ホルスタイン種が導入されるなど、農場は北海道における畜産や酪農が普及する中心となり、日本へ畜産を導入した施設としては成田の御料牧場における技術導入と並ぶ国内畜産の発祥の地とも言われている』とある。モースが珍しくノスタルジア(「懐郷病(ホームシック)」。原文“homesick”)に襲われたのはまさにこのモデル・バーンであったと思われる。リンク先では建設当初の姿に復元された北海道大学構内にあるその牧牛舎の画像も見られる。今度、是非一度、訪ねてみたい。

「一クォート」底本では直下に石川氏の『〔六合余〕』という割注が入る。米クォート(1 quart 0.946 ml)では現在、九四六・四ミリリットル相当。一合は約一八〇ミリリットルであるから、「六合余」は一〇八〇ミリリットル強となってしまう。石川氏は英クォート(1 quart 1137 ml)で換算しているように思われる。

「僅か八年前までは実に荒蕪の地で只猛悪な熊だけが出没していた」この時点から八年前というと明治三(一八七〇)年であるが、この数字が意味する起点はよく分からない。北海道の開拓使の設置はその前年の明治二年七月八日であるから、その辺りを漠然と言ったものか。

「去年四人の男を順々に喰った(その一人を喰うためには家をこわした)という、猛々しい奴が、一匹殺された」ここでモースは「去年」と述べているが、これは恐らく獣害(じゅうがい)事件として記録されたものとしては日本史上三番目に大きな被害を出した「札幌丘珠(おかだま)事件」の名で知られるヒグマの襲撃による死傷事件のことであろう。これはモースが来た半年前の明治一一(一八七八)年一月十一日から同十八日にかけて北海道石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)で発生した。以下、ウィキの「札幌丘珠事件から引く(【注意!】かなり凄惨な記述が現れるので自己責任でお読みになられたい)。『現在の札幌市は人口200万人弱と東北以北最大の都市であるが、事件当時は和人の定住者が現れてから20年あまり。市街地の整備や農地の開墾は急ピッチで進められていたものの、市域を少し出れば原始そのままの大森林や草原に覆われていた。人口は、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」で3000人、後に札幌市に組み込まれることになる周辺の農村すべての人口を合計しても、8000人に満たなかった』。「第一の事件」の項。『1月11日、爾志(にし)通(現在の札幌市中央区南2条)在住の猟師・蛭子勝太郎が郊外の円山山中で、冬眠中のヒグマを発見する。早速狩ろうと試みたものの撃ち損ねてしまい、逆襲を受けた勝太郎は死亡する。理不尽な形で冬眠を覚まされたヒグマは、飢えて札幌の市街地を駆け抜けたため、17日、札幌警察署警察吏で鹿児島県人の森長保が指揮を執る駆除隊が編成された』。『同日、豊平川の川向こうに当たる平岸村(現:札幌市豊平区平岸)で件のヒグマを発見し、追撃を開始する。しかしヒグマは月寒村(現:豊平区月寒)、白石村(現:札幌市白石区)と逃走。再度豊平川に向かうルートを取ったため、駆除隊も雪上に残る足跡を頼りに後を追う。そして再度豊平川を渡り、雁来(現:札幌市東区東雁来)までは確認したが、猛吹雪のため見失ってしまった。これらの地は現在でこそ一面の住宅街だが、当時は畑が拓かれ始めたばかりの大森林地帯だった』「第二の事件」の項。『犠牲になった堺一家の家屋は、俗に「拝み小屋」と呼ばれる形式の簡素な小屋だった札幌区の北西部・丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)。アイヌ語の「オッカイ・タム・チャラパ」(男が刀を落としたところ)を地名語源とする』『この地は後に伏籠川の自然堤防が育んだ良質な土壌を生かしたタマネギ栽培で名を成すことになるが、やはり当時は古木が延々と連なる森林地帯であった。その中に細々と拝み小屋』『を結ぶ数百人ほどの村民たちは、その多くが札幌区に売り出す木炭の製造で生計を立てていた。明治6年ころこの地に入植した堺倉吉も、そのような開拓民の一人であった。妻・リツと周囲の村民同様に寒風舞い込む拝み小屋の生活に耐えつつ、炭を焼いては札幌区に売り出す生活に勤しむ。やがて夫妻には待望の長男・留吉が生まれ、貧しい生活にも燭光が灯りつつあった』『17日深夜、円山から白石、そして雁来へと逃走を重ねた件のヒグマが、突如として堺一家の小屋を襲ったのである。異変を察知して起き出した倉吉は、筵の戸を掲げたところで熊の一撃を受けて昏倒する。妻・リツは幼い留吉を抱いて咄嗟に逃げ出したものの、後頭部にヒグマの爪を受けてわが子を取り落してしまう。リツは頭皮をはぎ取られる重傷を受けつつも村民に助けを求めるが、その間にヒグマは雪原に投げ出された留吉を牙に掛けていた。結果として倉吉と留吉が食い殺され、リツと雇女は重傷を負った』。『18日昼、件のヒグマは駆除隊によって付近で発見され、射殺された』。『加害ヒグマはオスの成獣で、体長は』一・九メートルという恐るべき巨体で、『警察署の前でしばらく晒し者にしたのち札幌農学校に運び込まれ、教授の指導のもと学生たちの手で解剖された』とある。以下、その解剖に立ち会った札幌農学校第一期生大島正健の叙述が回顧録『クラーク先生とその弟子たち』(教文館一九八九年刊)から引用されているが、その際、二三の学生たちは、これ幸いとクマ肉をこっそり切開して事前に食っていた。その後に解剖が進み、『内臓切開に取り掛かったが、元気のよい学生の一人が、いやにふくらんでいる大きな胃袋を力まかせに切り開いたら、ドロドロと流れ出した内容物、赤子の頭巾がある手がある。女房の引きむしられた髪の毛がある。悪臭芬々目を覆う惨状に、学生はワーッと叫んで飛びのいた。そして、土気色になった熊肉党は脱兎のごとく屋外に飛び出し、口に指を差し込み、目を白黒させてこわごわ味わった熊の肉を吐き出した』という強烈なシーンが描かれている。また、この時の『解剖担当者の中には、農学校の2期生として入学し当時は1年生だった新渡戸稲造も含まれている』ともある。

「ラーガア麦酒(ビール)」底本では直下に石川氏の『〔貯蔵用ビール〕』という割注が入る。ラガー(Lager)は原料に麦芽を使用し、酵母を用いて十度以下の低温で熟成させながら比較的長時間の発酵を行わせたビールで、酵母が最終的に下層に沈み込むために下面発酵と呼ばれる。現在、広義にはそれを瓶や缶に詰めた後に加熱殺菌した貯蔵用(向け)ビールのことをいう。]

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