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2014/06/25

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅28 松島 嶋々や千々にくだけて夏の海

本日二〇一四年六月二十五日(陰暦では二〇一四年五月二十八日)

   元禄二年五月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月二十五日

である。【その一】この日、塩釜を船出して正午頃、遂に芭蕉は念願の松島に辿り着いた。先にも述べたが、実は芭蕉は松島でちゃんと句を作っている(「奥の細道」ではこの「翌々日」の「五月十一日、瑞巌寺に詣づ」とあるのであるが、実際には芭蕉は、この九日の松島着後すぐに瑞巌寺の総てを拝観し終えてしまっている。ここは松島総説部が長いので、順列を変えずに【その二】として後に記すこととした)。

 

  松島は好風扶桑第一の景とかや。古今の

  人の風情、此の島にのみ思ひ寄せて、心

  を盡し、巧みをめぐらす。およそ海の四

  方(よも)三里計りにて、さまざまの

  島々、奇曲天工の妙を刻みなせるがごと

  し。おのおの松生ひ茂りて、麗しき花や

  かさ、言はむかたなし。

嶋々や千々(ちぢ)にくだけて夏の海

 

  奥州松島にて

島々や千々にくだきて夏の海

 

松島や千々に碎(くだけ)て夏の海

 

[やぶちゃん注:第一句は「蕉翁文集」(土芳編・宝永六(一七〇九)年完成)の「松島詞書」に載る句形(これに限っては前書及び句は中村吉雄氏の「細道句碑とその周辺 曾良『随行日記』をたよりに」(文芸社二〇〇二年刊)を参考にした)、第二句目は「奥の細道菅菰抄附録」(奥細道附録【菅菰後考】・梨一著・文政一一(一八二八)年少波写)の、第三句目は「俳諧一串抄」(亦夢(えきむ)著・天宝元(一八三〇)年序)の句形。但し、曾良の「俳諧書留」にも載らぬことから、これは旅の後の創作とも言われる。

 ともかくもこの句、如何にもショボい。「奥の細道」に載せなくてよかった。

 なお、存疑の句としては、

 

松島や夏を衣裳に月と水

 

がある(この句の部分異形句が他に三句有り)が、恥の上塗りである。採らない。

 以下、「奥の細道」塩釜から松島の段。

   *

[やぶちゃん注:頭の八字は前の「末の松山」から「塩釜」の段の末尾「から殊勝に覺らる」の分の空欄。]

        早朝鹽竈の

明神に詣ツ國守再興せられて

宮柱ふとしく彩-椽きらひやかに

石の階九尋に重り朝日あけの玉

かきをかゝやかすかゝる道の果塵土

のさかひまて神㚑あらたにまします

こそ吾國の風俗なれといと貴し

神前に古き宝-燈有かねの戸ひら

のおもてに文治三年和泉三郎

奇進と有五百年來の俤今目

の前にうかひてそゝろに珍し

渠は勇義忠孝の士也佳名今

に至りてしたはすと云事なし誠人能

道を勤義を守て佳命をおもふへし

名も又これにしたかふと云り

日既午にちかし船をかりて松嶋に

渡ル其間二里餘小嶋の礒につく

抑松嶋は扶桑第一の好風に

してをよそ洞庭西湖を恥す

東南より海を入て江の中三里浙(セツ)

江の潮(ウシホ)をたゝふ嶋々の數を盡して

欹(ソハタツ)ものは天を指ふすものは波に圃(ハラ)

匐(ハウ)あるは二重にかさなり三重に

疊(タヽミ)て左りにわかれ右につらなる負る

あり抱(イタケ)るあり、兒-孫愛すかことし

松のみとりこまやかに枝-葉汐風に

吹たはめて、屈-曲をのつからためた

るかことし其氣色窅(ヨウ)然として

美人の顏を粧ふ千早振神のむかし

大山すみのなせるわさにや造-化の

天工いつれの人か筆をふるひ詞を

盡さむ

小嶋が礒は地つゝきて海に成出たる嶋也雲

          石

居禪師の別室の跡坐禪■なと有將松

の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて落

ほ松笠なと打煙たる草の庵閒に住なし

いかなる人とはしられすなから先なつかしく立

寄ほとに月海にうつりて晝のなかめ又

あらたむ江上に歸りて宿を求れは窓を

開き二階を作て風雲の中に旅寢する

こそあやしきまてたへなる心地はせらるれ

             曽良

  松島や鶴に身をかれほとゝきす

予は口をとちて眠らんとして

いねられす旧庵をわかるゝ時素堂

松嶋の詩あり原安適松がうらしまの

和歌を贈らる袋を解てこよひの

友とす且杉風濁子發句あり

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

 

〇かゝる道の果塵土のさかひまて神㚑あらたにましますこそ吾國の風俗なれといと貴し

 ↓

●かゝる道の果、塵土の境まで、神靈あらたにましますこそ、吾國の風俗なれと、いと貴けれ。

 

〇誠人能道を勤義を守て佳命をおもふへし名も又これにしたかふと云り

 ↓

●誠、「人、能く道を勤め、義を守るべし、名もまた是にしたがふ。」と云へり。

 

〇小嶋の礒につく        → ●雄島の磯につく

〇抑松嶋は扶桑第一の好風にして

 ↓

●抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして

〇小嶋か礒は          → ●雄島が磯は

〇海に成出たる嶋也       → ●海に出たる島也

〇且杉風濁子發句あり      → ●且、杉風・濁子(ぢよくし)が發句あり

■やぶちゃんの呟き

「鹽竈の明神」現在の宮城県塩竈市一森山(いちもりやま)にある鹽竈神社。

「國守再興せられて」ウィキの「鹽竈神社」によれば、『近世に入り仙台藩伊達家がよせた崇敬は特に厚く、伊達氏が当地を治めた江戸時代以降から明治時代に至るまで、歴代仙台藩主は「大神主」として祭事を司ると共に社領・太刀・神馬などを寄進した』とあり、『初代藩主政宗は岩出山から仙台に居城を移すと、領内寺社の整備に取り掛かる。鹽竈神社へは』元和五(一六一九)年に社領二十四貫三百三十六文を寄進、慶長一二(一六〇七)年に社殿造営を行い、第二代藩主忠宗は寛永一三(一六三六)年に鐘楼を再興、寛文四(一六六四)年に拝殿、さらに慶安三(一六五〇)年には長床(神社建築の一つで本殿の前方にたつ細長い建物。単なる拝殿ではなく、修験者,行人(ぎようにん:平凡社「世界大百科事典」によれば、諸堂の管理や供華点灯を始めとして炊事給仕など寺社に於いて雑務に従事した僧。)らの宿泊や参籠の場を提供する建築区画を指す。)を修造している。三代藩主綱宗は伊達騒動で万治三(一六六〇)年に家督を子綱村に譲ったが、寛文三(一六六三)年に大幅な社殿改築を行うとともに社領七貫五八四文を寄進しており、彼は『歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せ』、芭蕉来訪の前の、貞享二(一六八五)年には塩竈の租税免除や市場開催許可及び港湾整備を行って同地を手厚く遇している。貞享四(一六八七)年には『吉田家に神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙され』、さらに後の元禄六(一六九三)年には『神祇管領吉田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させ』、元禄八(一六九五)年には『社殿の造営計画を立てて工事に着手』、九年後の第五代藩主吉村の宝永元(一七〇四)年に竣工している。『この時造営されたものが現在の社殿である』とある。ここで芭蕉が言うのは、無論、伊達綱村のこと。

「宮柱ふとしく」「ふとしく」は元来、「古事記」に出る「太知る」(ラ行四段活用)、「万葉集」に出る「太知く」(カ行四段活用)という動詞で、宮殿の柱などをしっかりと立てるの意。諸注は「内外詣」(金剛流の伊勢神宮の神事を扱う特異な能)など、謡曲の慣用句とする。

「彩-椽」は「さいてん」と読み、彩色を施した垂木(たるき)のこと。山から切り出したままの材を用いた白木の垂木をいう「采椽」からの造語とする(後半は新潮古典集成富山奏校注「芭蕉文集」の注に拠る)。

「九尋に重り」流布本では「九仭」で非常に高いことをいう。「書経」の「旅獒」に基づく「九仞の功を一簣(き)に虧(か)く」という故事成句で知られる(九仞の高い山を築くのに最後の一杯の簣(き:もっこ。)の土を欠いても完成はしない。転じて長い間の努力も最後の詰めの僅か一つで完成せずに失策となるという譬え)。

「あけの玉かきをかゝやかす」先の富山奏氏の注にやはり謡曲の慣用句とする。

「文治三年」西暦一一八七年。

「和泉三郎」藤原忠衡(仁安二(一一六七)年~文治五(一一八九)年)。藤原秀衡三男で藤原泰衡の異母弟。泉三郎は通称。泉冠者とも。ウィキの「藤原忠衡」によれば、文治三年十月二十九日、『父秀衡は平泉に庇護していた源義経を主君として推戴し、兄弟心を一つにして鎌倉の源頼朝に対抗するよう遺言して没した。忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、意見が対立した兄の泰衡によって誅殺された』(「吾妻鏡」文治五年六月二十六日の条。享年二十三)。『「奥州に兵革あり」と記録されている事から、忠衡の誅殺には軍事的衝突を伴ったと見られる。なお、中尊寺金色堂内の秀衡の棺内に保存されている首は忠衡のものとする説があったが』、昭和二五(一九五〇)年の実見調査によって確認された晒首の『痕跡から、現在では兄・泰衡のものとするのが定説化している』。『妻の佐藤基治(信夫荘司)の娘は、忠衡の菩提をとむらうため、薬師如来像を奉納して出家し、妙幸比丘尼と称した』というとある。佐藤基治は「弁慶が笈をもかざれ紙幟」の注をも参照されたい。総ては意識的に「平泉」に向くベクトルとして配置されてあるのである。

「五百年來」文治三年から元禄二年までの間は五百二年。今の我々は西暦によって簡単に区間計算が可能であるが、山本胥氏も「奥の細道事典」で素朴な疑問として述べておられるが、当時の人々は一体どのような方法で以って計算をしていたのであろうか? 各将軍の在位が何年、開幕から何年、どれそれの戦さがその何年前という足し算を常に意識の中で心得ていたのであろうか? いや、西暦年号を覚えるのが厭で、日本史も世界史も選択しなかった(私は地理と政経を選択した。孰れにせよ、それで受けた新潟大と富山大は落ちたのであったが)私には頭が下がるばかりである。

「人、能く道を勤め、義を守りて佳命をおもふべし、『名も又、これにしたがふ。』と云へり」「古文真宝後集」の韓愈「進學解」(進學の解)に『動而得謗、名亦隨之』(動きて謗(そし)りを得、名も亦、之に隨ふ)とあるのに拠る。これは韓愈の実体験に基づく感懐で、私は「行動すると悪口をいわれ、名声や評判もそれに随って悪くなるというわけだ。」の謂いであるが、ここはそれをポジティヴな意味、「名声もまたその人の正しい節に基づいた正しい行動に伴って自然、生ずるものなのである、という意に反転させてある。

「船をかりて」当時の出船場所は現在のJR仙石線本塩釜駅の市役所壱番館庁舎前の道の向かい辺りであった。

「二里餘」約七・九キロメートル。

「小嶋の礒」流布本は「雄島(をじま)の磯」。これならば、松島海岸の島の知られた島の固有名。渡月橋で陸と繋がる歌枕で、古来より真言密教の修業の場でもあった。現在の松島海岸駅の東南四〇〇メートル程の位置にあり、現在は「おしま」と濁らない。

「抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして」流布本で追加されたこの謂いは、新潮古典集成の富山奏校注「芭蕉文集」の注によれば、「ことにふりたれど、同じこと、また今更に言はじとにもあらず」という「徒然草」第十九段の謂いを踏まえ、さらに例の仙台で世話になった嘉右衛門加之が天和二(一六八二)年に実質的に執筆した大淀三千風撰「松島眺望集」にある『それ松島は日本第一の佳境なり』『けだし松島は天下第一の好風景』などとあるのを指す、とある。

「三里」約一一・八キロメートル。この数値は恐らく最初に上陸した雄島から東の宮戸乃尖端である萱野崎辺りまでの直線距離(地図上で一一・七キロメートル)を指しているように思われる。

「浙江の潮」景勝地浙江省西湖の傍を流れる銭塘江(せんとうこう)。河口では潮波が垂直の壁となって激しく河を逆流する海嘯(かいしょう)現象が発生することで知られるが、松島湾の潮汐は特異ではない。寧ろ芭蕉はここで永年の潮汐現象によって奇岩奇石が生じたことを言わんとしているのであろう。

「兒孫愛すがごとし」杜甫の七律「望岳」(岳を望む)の首聯、

 西嶽崚嶒竦處尊

 諸峰羅立似兒孫

  西岳 崚嶒(りようそう)として 竦處(しようしよ)すること尊し

  諸峰 羅立して 児孫(じそん)に似たり

――五岳の名峰西岳たる華山は高く嶮しく、そして、その聳えてどっしりとしているさまはまことに尊い。それに比べれば、他の視界にある諸峰は、確かに連なり突っ立ってはいるものの、所詮、華山という祖の子どもか孫のようなものである。――というのに基づく。

「窅然」恍惚として見とれること。

「顏」「かんばせ」と読む。

「大山ずみ」「大山祇」(正しく「おおやまづみ」)で山を掌る神名。

「雲居禪師」「うんご」と読む。土佐生まれの臨済宗妙心寺派禅僧。寛永一三(一六三六)年の第二代藩主伊達忠宗に招かれて瑞巌寺に入り、伊達氏の保護もあって瑞巌寺中興の祖となった。瑞巌寺の七堂伽藍の整備は彼の手に成る。芭蕉来訪の三十年前の万治二(一六五九)年に七十八で没している。

「別室」雲居禅師個人の座禅堂。把不住軒(はふじゅうけん)と号した。

「坐禪■」「石」は右に行間に添えてあるが、「■」の部分には小さな「ハ」に似た何かが書かれている。但しこれは、行間で補った文字がここに入ることを示すためのただの記号であるのかもしれない。識者の御教授を乞うものである。

「草の庵」先に示した三千風の「松島眺望集」にここには先の把不住軒の他に、『また松吟庵とて道心者の室あり』とあり、また「曾良随行日記」にも『御嶋、雲居の坐禪堂有。その南に寧一山の碑之文有。北に庵有。道心者住す。』と記す。

「江上に歸りて宿を求むれば、窓を開き、二階を作りて風雲の中に旅寢するこそあやしきまてたへなる心地はせらるれ」芭蕉が泊まったのは、「曾良随行日記」によって、やはりかの仙台の加右衛門の紹介による久之助と称する者の旅宿であった。瑞巌寺総門付近にあったものと推定されている。絶景一等地のロケーションである。

   ――――――

★「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」この句、何故か、曾良の「随行日記」や「俳諧書留」に載らず、二年後の「猿蓑」に出現する(他に「陸奥鵆」「続雪丸げ」)。

   *   *   *

   松嶋一見の時、千鳥もかるや鶴の毛衣とよめりければ、

 松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良

   *   *   *

一応、この前書が作句の下敷きをばらしてはいる。則ちこれは、鴨長明の「無明抄」の「千鳥鶴の毛衣を着ること」の、

   *   *   *

俊惠(しゆんゑ)法師が家をば歌林苑と名づけて、月ごとに會しはべりしに、祐盛法師、其會宿にて、寒夜千鳥と云ふ題に、「千鳥も着けり鶴の毛衣」といふ歌を詠みたりければ、人々珍しなどいふほどに、素覺といひし人、たびたび是を詠じて、「面白く侍り。但、寸法や合はず侍らん」と、言ひ出でたりけるに、とよみ(響)になりて笑ひののしりければ、事冷めて止みにけり。「いみじき秀句なれど、かやうになりぬれば甲斐なきものなり」となん、祐盛、語り侍りし。すべては此歌の難心得ず侍るなり。鳥はみな毛を衣とするものなれば、程につけて千鳥も毛皮着ずはあるべき。

   *   *   *

とある一節に基づく(本文は安東次男「古典を読む おくのほそ道」のものを参考に正字化して読み易くした。但し、これは最後は省略されている模様である)。頴原・尾形訳注「おくのほそ道」の発句評釈には、この祐盛法師の和歌は「猿蓑さがし」(空然著・文政一二(一八二九)年)に、

   *   *   *

 身にぞ知る眞野の入江に冬の來て千鳥もかるや鶴の毛衣

   *   *   *

とするも『何の集に出ているのか知らない』とする。

 私はこの「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」という句、実は芭蕉の作ではないかと疑っている。詠んだものの、「嶋々や千々にくだけて夏の海」よりはひねりが利いているがどうも観念的で芭蕉の気に入らず、曾良に与えたのではなかったか? わざわざ句の直後に「予は口を閉ぢて」と句を詠まなかったことを暗示させているのも如何にもなポーズではないか? なお、後の「松島の詩」の注も是非、参照されたい。

 最後に。本句にはしかし、「奥の細道」全体での構造上の妙味が別にある(それは安東次男氏も前掲書で以下に示すように指摘しておられるが、私自身、高校の古典の授業でそれに気づき、はっとし、その「対(つい)」の心憎さに思わず呻ったのを決して忘れないのである)。それは、この「松島」の段に対して後に『恨むが如く』絶妙の観音開き、対称絶景として立ち現れることになる「象潟」の段で、芭蕉が詠んだ二句目、

 

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

 

が、まさにこの同行の弟子曾良の句(とされる)、

 

松島や鶴に身をかれほとゝぎす

 

と美事な鏡像を成しているからである。安東氏は「象潟」の段のこの「汐越や」の句注で、『象潟(芭蕉)の「鶴脛」は、松島(曾良)の「鶴に身をかれ(ほととぎす)」の写しだというのが何ともしゃれた、同行俳諧である。こういうところを見落とすと俳諧紀行は無意味になる』と述べておられる。……これ何だか、田舎のしょぼくれた高校生の「僕」が安東さんに褒められたようで、ちょっと嬉しいのである……。……駄目押しだ……因みにその授業を受けた富山県立伏木高等学校の学び舎が立っている丘は……その古えの名を「如意が丘」というのだ……知らない?……「義経記」をお読みなさいな……「義経記」ではね、まさにここの近くの「如意の渡し」こそが、あの「安宅」関のエピソードに設定されているんだよ……芭蕉の好きな義経のね……もう一つ、言おうか?……その高校の近くには氷見線の越中国分という駅があるんだが……芭蕉の「奥の細道」の知られた名句――「わせの香や分入右は有磯海」――のロケーションと完全に一致するのはね、ここをおいて他にはないんだよ……

   ――――――

「旧庵」深川芭蕉庵。

「素堂」芭蕉の俳友山口素堂。芭蕉より二歳年長。芭蕉と知り合う前に芭蕉所縁の北村季吟との接触があり、同流の系統で句も蕉風に近いが、終生、あくまでよき友人であった。

「松島の詩」は以下。芭蕉は特に素堂の漢詩の才を推賞したという。

 夏初松島自淸幽

 雲外杜鵑聲未同

 眺望洗心都似水

 可憐蒼翠對靑眸

  夏初(かしよ)の松島 自(おのづか)ら淸幽

  雲外の杜鵑(とけん) 聲 未だ同じからず

  眺望 心を洗ふ 都(すべ)て水に似たり

  憐れむべし 蒼翠の靑眸に對するを

因みに、この二句目はそれこそ「千鳥もかるや鶴の毛衣」を思い出す前に「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」の作句の動機となっているように思われないか?(これについて言及する諸注は管見限り見当たらない) とすれば、これをつまびらいているのは曾良ではなく、芭蕉である。前の句の作句者はやはり曾良ではなく、芭蕉なのではあるまいか?

「原安適」(生没年未詳)医師で歌人。晩年は阿波徳島藩主蜂須賀綱矩(つなのり)に仕えたとされ、享保(一七一六年~一七三六年)の初め頃、七十三歳で死去したともいう。江戸の地下歌壇の第一人者で芭蕉だけでなく、曾良とも親しかったらしい(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「松がうらしまの和歌」餞別の和歌は不明。「松がうらしま」は古典集成富山氏の注によれば、『宮城県七ヶ浜(しちがはま)。歌枕』とある。個人サイトと思われる「宮城県ナビ」の「東北の歌枕の地を訪ねて」の「七ヶ浜町」「松ヶ浦島(まつがうらしま)/御殿崎(ごてんざき)」に、『御殿崎は平安時代には松ヶ浦島と呼ばれ、当時の和歌の枕言葉として、その名は京の都まで知られていました。松ヶ浦島は、松ヶ浜地方の総称で、その中心が御殿崎だったのです。実際に、平安の大宮人(おおみやびと)(京都の宮中に住まう人々)は、松ヶ浦島を歌会の歌題としました』。『藩政時代になると、仙台藩主伊達家の遊覧地となりました。その中心となったのが、伊達政宗が松ヶ浜でもっとも眺めのよい鴻ヶ崎(こうがさき)に建てさせた仮館でした。その後、鴻ヶ崎は、お殿様の仮館が建つところという意味から御殿崎と呼ばれるようになり、その地名が今も残されています』として、写真の下にここを詠った古歌が並ぶ。この歌枕についての諸本の記載は乏しく、大変有り難かった。

「濁子」中川甚五兵衛。江戸詰めの大垣藩士で江戸蕉門の一人。]

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