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2014/06/18

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺

本日二〇一四年六月 十八日(陰暦では二〇一四年五月二十一日)

   元禄二年五月  二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 十八日

である。【その一】四月二十九日に乙字ヶ滝を見た芭蕉は、そのまま等躬の誂えた馬で小作田を経由して磐城街道の守山宿へ着き、そこで問屋善兵衛の饗応を受け、同所の神宮寺大元明王及び善法寺に参詣の後、また善兵衛の用意した馬に乗って、その日のうちに岩城街道を北へ向かい、阿武隈川を舟で渡って、日の入り前に郡山の旅宿に到着しているが、「曾良随行日記」は最後に『宿ムサカリシ』と記している。翌五月一日(同年の四月は小の月)日の出とともに出立、歌枕の安積の里を経、かの安達が原の黒塚を見た。その日の宿である福島には日の入りより少し前に到着している。「曾良随行日記」は前日と対称的に最後に『宿キレイ也』と記す(この二つの宿評の間に安達ヶ原が入っているのは私には興味深い。「キレイ」な宿こそ実は鬼婆の宿りの表の様子であり、「ムサ」き部屋こそカニバルの魔の空間だから。芭蕉はこの逆の体験に却ってせっかくの幻想を萎ませてしまったのかもしれないなどと勝手に夢想もするのである)。この五月一日の実動距離は実に四十九キロメートルに及んでいる(ここまでで最長)。翌二日、快晴の中を出立、すぐに信夫(しのぶ)の里(現在の福島市北東部の山口地区。旧信夫郡岡山村山口)の文知摺(もじずり)観音境内にある信夫文知摺の石を見たものと思われる。

 

早苗(さなへ)とる手もとや昔しのぶ摺(ずり)

 

  忍ぶもぢ摺の石は、陸奥(みちのく)福島

  の驛にありて、往來(ゆきき)の人の麥草(む

  ぎくさ)を取(とり)て、この石を試みけ

  るを、里人ども心憂く思ひて、此谷に轉(こ

  ろば)し落しぬ。石の面(おもて)は下樣(し

  たざま)に伏したれば、今はさするわざす

  る事もなく、風雅の昔に替はれるを嘆きて

早苗つかむ手もとやむかししのぶ摺

 

  しのぶの郡しのぶ摺の石は、茅(ちがや)

  の下に埋れ果て、いまは其(その)わざも

  なかりければ、風流のむかしにおとろふる

  事ほいなくて

五月乙女(さをとめ)にしかた望(のぞま)んしのぶ摺

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「卯辰集」(楚常編・北枝補・元禄四年奥書)の、第三句目は「曾良俳諧書留」の句形。第三句目には、

 

加衞門加之ニ遣ス

 

とある。これは「奥の細道」にも出る、この句を作った後日に就いた仙台宮城野で知り合った画工北野加右衛門で俳号を和風軒加之(かし)といった。その出逢った後にこの既に作った句を彼に送った、それを曾良が書き留めておいたのであろう。それ故に「俳諧書留」では俳句の順列の齟齬が生じているように見えるのである。

 本句はまずは、百人一首で知られる河原左大臣源融の、

 

みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに亂れそめにし我ならなくに

 

に代表される信夫の里の面影である。「しのぶもぢずり」は、福島県伊達郡川俣町字寺前の「本田絹」本田 語氏のサイト「絹の工場」の「しのぶ もちづり」をご覧戴くに若くはない。何故ならここでは実際に石を用いた古式の「文知摺染の再現」のところでその行程と出来上がった染物が写真で一目瞭然だからである。その解説によれば、『「しのぶもちずり」とは、山繭をつむいで織り、天然染料で後染めする絹織物』で、『奈良時代からの養蚕と絹織物の産地であったこの地方で、自然の石(綾形石)を利用した摺り染めの絹織物が、「信夫絹」・「しのぶもちずり」として宮中に献上され、おおいに好評を博し、その「みだれ染め」といわれる紋様から、「乱れ心」を意味する枕詞』さえ生まれたとする。この何か不思議な響きを持つ名については『綾形石の自然の石紋と菱形、しのぶ草の草の葉形を摺り込んだ風雅な模様が、信夫もちずり絹と言う説。また一説には、「もじ」とは真っ直ぐでなく、もじゃもじゃしたという意味らしく、いろいろな色彩が入り乱れて染められ、その乱れた模様がなんとも優雅であったという説』が伝わっているとある。以下、「石の伝説」の部分の「信夫文知摺保勝会」の掲示板より転記したものを掲げさせて頂くと(一部記号を追加・除去し、空欄を詰めた)、

   《引用開始》

 貞観年中(九世紀半ば)の頃、陸奥国按察使(あせち・巡察官)源融(みなもとのとほる)公が、このあたりで道に迷い、この里(山口村)の長者と出会う。その娘虎女と恋仲になるが、都からの使いにより、公は再会を約して都に戻ることになった。

 再会を待ちわびた虎女は、「もちずり観音」に百日詣りの願をかけ、満願の日に、観音様のお告げをいただく。文知摺石を磨きあげると、愛しい人が現れるとのこと。毎日、心と祈りを込めて磨いていると、公の面影が浮かんで見えた、しかしそれは一瞬のことで、思慕の情は益々つのり、嘆き、悲しんだ虎女は、ついに病の床につくことになってしまった。

 病がいよいよ重くなり、明日をも知れずという時に、都から公の虎女にあてた歌が届けられた。

   みちのくの 忍ぶもちずり 誰ゆえに みだれそめにし 我ならなくに

 この悲恋を伝え聞いた近々の子女たちが、自分の恋しい殿方の面影に出逢う為に、競って文知摺石を磨きに押し寄せたため、田畑を荒らされる農民が、怒って山から石を落としたために、現在の位置に鎮座したとされている。またこの石を「鏡石」と別名で呼ばれるのは、このことがあってからだそうである。

   《引用終了》

このサイトだけで私は国文学的な先行作の諸引用をする必要を感じていない。何より『あらかじめ湿した羽二重を敷き、藍の生葉を摺り込む』及び『水洗いした紅花を摺り込む』とある画像の仕草を見て頂きたい。これはまるで田植えの手つきとそっくりだと私は思うのである。

 既に述べてきたように、一句を感ずるためには私は何よりも実際の想起出来る映像へのヒントこそが必ずや必要条件なのであって、故実や古歌といった文芸作品の飽き飽きした堆積は十分条件(それもやや退屈な)でしかないと考える口なのである(事実、この句がインスパイアしたと思しい和歌は諸本が出す参考歌には全く見当たらない)。そうして芭蕉のこの句の魂も、私は実は、それに尽きると心得ているのである。

 芭蕉は――稲霊(いなだま)を招ずるところの巫女の末裔である早乙女たちの幽かに艶っぽい、その、苗代用の田の苗を取って実際の本当の田に植え替える(恐らくは後者の田植えにそれを代表させているとしてよい)仕草に、古代染めをした古えの神聖な織姫たちの「しのぶ摺り」の手捌きを重ね合わせて、遙かに古き代の神女の面影を「偲んで」いるのである。初案と思われる第三句は早乙女を出してそれをあからさまにあつらえ望む形で(ここにはしかし恋の色に染めておくれという、芭蕉の早乙女への恋句の雰囲気が濃厚にあるように私には思われる)、あまりに如何にもであると感じたに違いなく、早乙女を字背に送ったものの、「つかむ」では艶やか感じが出ず、また字余りが野暮な野夫の腕のようなごっつさを呼んでしまい、何より下五「しのぶ摺」の「する」の連想動作とも微妙に食い違う。自ずと選ばれたのが「とる」であったと考えると、私は実に腑に落ちるのである。そうしてその見えない早乙女こそが、遙かに前の影の早乙女の登場たる「田一植ゑて立ち去る柳かな」と美しい額縁をなし、その額の中には「風流の初めやおくの田植うた」という一枚の絵、否、一曲の艶やかな早乙女たちの田植え唄が美しく嵌め込まれているのである。

 以下、「奥の細道」を引く。

   *

等窮か宅を出て五里計檜皮

の宿を離れてあさか山有道より

近し此あたり沼多しかつみ刈比

もやゝちかふなれはいつれの草を花

かつみとは云そと人々に尋侍れとも

更知人なし沼を尋人にとひかつみ

かつみと尋ありきて日は山の端にかゝりぬ

二本松より右にきれて黑塚の岩屋

一見し 福嶋に泊るあくれはしの

ふもと摺りの石を尋て忍ふのさとに行

はるか山陰の小里に石の半土に埋てあり

里の童への來りてをしへけるむかしは

この山の上に侍しを往來の人の麥艸を

あらしてこの石を試侍をにくみて

この谷につき落せは石のおもて下

さまにふしたりと云さもあるへき事もや

  早苗とる手もとやむかししのふ摺

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇福嶋に泊る     → ●福島に宿る

○さもあるへき事もや → ●さもあるべきことにや

■やぶちゃんの呟き

「五里計」「ごりばかり」と読む。凡そ一九・六キロメートル。

「檜皮の宿」「ひはだのしゆく(ひわだのしゅく)」と読む。現在の福島県郡山市日和田町。

「あさか山」現行流布本では「淺香山」とする。安積(あさか)山。現在の郡山市日和田町字安積の安積山公園がある小さな丘に同定されている。歌枕。

「此あたり沼多し」古歌で「安積(あつみ)の沼」は次の故事に基づく歌枕。

「かつみ」本文にもあるように、すでに正体不詳の花の名である。藤原実方の故事に基づく。「無名抄」等によれば、長徳元(九九五)年に一条天皇の面前で藤原行成と歌について口論となって怒った藤原実方が、行成の冠を奪って投げ捨てて天子の怒りを買い、歌枕を見て参れと命ぜられ、陸奥守に左遷された(実際には清少納言との三角関係によるスキャンダルが喧嘩の原因という説もある)。彼はこの地で端午の節句(芭蕉がここを過ぎたのもまさに直近の五月一日であった)を迎えたが、人々が節句にもかかわらず菖蒲(しょうぶ)を葺かないのを見、国府の役人に質すと、そのような習慣はなく、この地にはその菖蒲(しょうぶ)なるものがないと答えたことから、その代わりとして「安積の沼」に咲く花「かつみ」という花を刈り取って軒に葺かせるようにした、とする。この「かつみ」は真菰(まこも)とも菖蒲(あやめ)とも蘆(あし)の花とも言われるものの、現在でも正体不明である。なお、郡山市では単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒメシャガ Iris gracilipes をこの「カツミ」として「市の花」としているが、沼で刈るという表現から考えると、ヒメシャガではないと私は思う。この異様に長々しい部分――「かつみ刈るころもやや近」いからと、どの花を「花がつみ」というのかと逢う人ごとに狂人のように訊ねるが、「さらに知る人もな」い。それでも遂には自ら沼を訪れ、またしても人に問い、ついには「かつみかつみ」と狂ったようにつぶやきつつ、可憐な幻の花「かつみ」を探し求める老いたる芭蕉の異常なる姿――は非常に気になる。それを綴ったのも大いに気になるのである。則ち、これに基づく「新古今和歌集」の「恋四」のよみ人しらずの六七七番歌、

 みちのくのあさかの沼の花かつみかつ見る人に戀ひやわたらむ

を念頭においていることを考えれば、この和歌が――時々わずかに垣間見るだけ、だからこそ、こうしていつまでもその人への恋しい気持ちが、永遠に続いてしまうのであろうか――という微妙な恋句であることから、この時、芭蕉はまさに私が先に挙げた謡曲「恋重荷」や「綾鼓」の、老いらくの恋に身を焦がして遂にはそれを命と引き換える主人公と自身を重ねているのではないか? そうしてその恋の相手はずっと以前に登場していた。――「かつみかつみ」と「かつみ」を「かさね」ねるそれは実は「かさねかさね」の謂いではなかったか?……早乙女のエロチシズムが芭蕉の永遠の少女への恋に再び火を熾したといってもよい……さてさてこれも……私の勝手な妄想ではあるが……

「二本松」現在の福島県二本松市。日和田の約十キロメートル北に位置する。

「黒塚の岩屋」現在の二本松市安達ヶ原にある観世寺境内にある。サイト「巨石巡礼」の安達原・観世が解説もあって、何よりモノクロームの写真が秀抜である。それにしても芭蕉は何故、黒塚で句をものさなかったのか? 芭蕉が謡曲「黒塚」をどう料理したかと想像するだけでもわくわくするのであるが、以上のように「奥の細道」本文では何故か異様にそっけない(「かつみかつみ」がファナティクに長いのに)。これは恐らく「黒塚」の持つ強烈な猟奇性を、結局は連句的で流暢な構成を志向する「奥の細道」に遂に投げ込み得なかったからだと私は推理している。芭蕉はここで「恋」を選ぶためにあえて「鬼趣」を捨てたのである。存外、鬼趣を好んだ芭蕉が「奥の細道」では敢えてそれを意識的に避けている感じがする。これはまたどこかで再説してみたい。

「石半土に埋てあり」「いし、なかば、つちにうずもれてあり」と読む。

「さもあるべき事もや」「さもあるべきことにや」孰れも、本当にそんなことがあるものだろうか? いや、そんな酷いことは決してあるまい。という歌枕の衝撃的な無風流でプラグマティクな理由による衰亡に対する、芭蕉のそうした酷い原因の否定を含んだ反語的疑問文であると私はとる。原案の係助詞「も」だと、土地の人々が田畑を荒らされることに業を煮やし、遂には伝説の石を突き落とした、という破廉恥極まりない行いに対して、いや、そんな残酷なことも世にはあろうかも知れぬ(もしかすると芭蕉はここで僅かに斬り捨てたこの直近の黒塚の鬼婆の余香(残臭)を利かせたものかも知れない)というニュアンスを私は強く感じる。寧ろ、そんなこと、あろうはずはない、というのが決定稿ではないか。芭蕉は「奥の細道」で意に反した深い失望や刺すような批難は決して表現していないからである。そんな口を尖らしたような指弾が孕んでいたら、何より、直後の句の拭い難い疵がつくからである。]

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