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2014/06/07

北條九代記 卷第六  京方式將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑(3) 承久の乱【二十九】――天皇及び雲客諸将、配流処刑され、承久の乱終わる

佐々木山城守廣綱、同彌太郎判官高重も生捕られ、舍弟信綱に預けられ六條河原にて切れたり。熊野法印も故郷より追出だされ、道にて搦(からめ)取られつゝ、首をぞ刎ねられける。坊門大納言忠信卿をば千葉介胤綱預り、關東にくだり給ふべきにて、打立たれける所に、その比西八條〔の〕禪尼と申すは、大納言の妹にて鎌倉故右大臣實朝公の後室なり、鎌倉の二位〔の〕禪尼、右京大夫義時へまうされける旨ありければ、「さらば助け奉れ」とて、遠江國舞坂より、忠信卿は都へ歸上り給ふ。籠中(ろうちう)の鳥の雲に翔り、俎上(そじやう)の魚の海に歸りけん。めでたかりける御事なり。中御門〔の〕前中納言宗行卿は、小山新左衞臨門尉倶し奉りて下りけるが、浮島ヶ原にて切(きら)れ給ふべしと聞き給ひ、いとゞ心細思しければ、木瀨河(きせがは)の宿(しゆく)の亭(てい)の柱にかくぞ付け給ひける。

  今日過ぐる身をうき島が原にてぞ露の命は捨て定めける

其日の暮方に、大澤にてぞ切り奉りける。その外の人々も、みな六波羅に渡され、關東に下り給ふ道々にて、失ひ參らせけり。其後(そのあと)の有樣、宿所々々は燒拂はれ、姫君北〔の〕方と云はれて、日比は人にも見えじと奥深く籠りて住み給ひしも、情なく寄邊(よるべ)を失ひ、山野の嵐に身を任せ、心ならぬ月を詠め、只悲(かなしみ)の涙に沈みて、世にだに栖むならば、千里の雲は隔つとも、又見る由もあるべきを、冥途如何なる境ぞや、便(たより)に通(かよ)ふ事もなく、黄泉(くわいせん)、如何なる旅なれば、歸來(かへりく)るに由ぞなき、僅(わづか)に殘るものとては、主(ぬし)を離れし面影なり。見るも中々悲(なかし)きは、書き荒(すさ)びたる筆の跡、形見となるぞ心憂き、北〔の〕方、女房達、餘(あまり)ことの堪(たへ)難さに、髮を剃(けづ)り世を逃(のが)れ、苔(こけ)の衣に身をなして、亡夫(ばうふ)の後世を弔ひ給ふ。哀なりし事共なり。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十九】――天皇及び雲客諸将、配流処刑され、承久の乱終わる〉後段総論部は「承久記」の具体的な処刑の実態を微細に記す痛切な叙述を、頭と終わりにある「方丈記」風の無常観の一見如何にもな総論説教を繫ぎ合わせて全面カットしている。「北條九代記」という幕府方からの取り敢えずの視座からはだらだらとは綴れなかったし、それでも「承久記」の筆者の悲痛と同情とを僅かなりとも残したのは相応に評価してよい引用であると思う。

「熊野法印」先に注した田辺別当家の快実のこと。

「坊門大納言忠信卿」坊門忠信(承元元(一一八七)年 ~?)。当時三十四歳。ここに記されるように妹で故源実朝(先に見たように実朝暗殺の現場にもいた)の室であった信子(承久の乱の年で未だ二十八歳)の嘆願により助命され、遠江国より都へ戻って、同年七月に出家したが、その後、幕府によって越後国へ流罪となったが、まもなく赦免されて帰京、太秦辺に籠居した(寛喜二(一二三〇)年春には都へ戻って一条大宮に居住している)。没年は不明だが、暦仁元(一二三八)年までは存命が確認されている(以上はウィキの「坊門忠信」に拠った)。

「舞阪」旧静岡県浜名郡舞阪町、現在の浜松市西区舞阪町。

「中御門前中納言宗行卿」葉室(藤原)宗行(はむろむねゆき 承安四(一一七四)年~承久三年七月十四日(一二二一年八月三日))。漢詩文優れた。

「木瀨河」静岡県を流れる黄瀬川の別名。

「浮島」浮島沼。現在の静岡県沼津市と富士市に跨る湿地帯にあった湖沼群の総称。次の藍沢庄への当時の鎌倉へのルート上にある。

「今日過ぐる身をうき島が原にてぞ露の命は捨て定めける」……今日というたった一日をさえ過ぐすのにも浮島のように心が激しく揺れ動いているこの憂いに満ちた私……その私も、このまさに憂き島という響きを持った浮島の地にてこのはかない命を捨てる時がやってきたと今日確かに聴いたことだ……。

「大澤」駿河国駿河郡藍沢庄。現在の静岡県駿東郡小山町で別名、合沢ヶ原ともいい、曽我兄弟仇討で知られる頼朝の牧狩りの地として知られる。

 以下、「承久記」の記載(底本と通し番号93の末から100まで)。

 

 佐々木山城守廣綱・同彌太郎判官高重、被搦出テ、弟信網ニ被ㇾ預。後、六條河原ニテ被ㇾ切ニケリ。熊野法師田邊法印モ落行ケルヲ、被搦取テ被ㇾ切ヌ。

 

 去程ニ武藏守・駿河守ハ、院ノ御所へ參ラントテ、巳ニ打立ンズル由、一院被聞召テ、下家司御前ヲ出、「ナ參ソ、上品ニ於ハ、ケウミヤウヲ證シ可ㇾ被ㇾ下」ト被仰下ケリ。上ノ者ヲ以テ重テ此樣ヲ被ㇾ仰ケレバ、「御所ニ武士ヤアル。見テ參レ」トテ、力者ヲ一人進ラセケレバ、走歸テ、「一人モ不ㇾ候」ト申ケレバ、「サラバ」トテ不ㇾ參。公卿六人ノ交名ヲシルシ被ㇾ下。坊門大納言忠信卿・中御門中納言宗行・佐々木野前中納言有雅・按察前中納言光親・甲斐宰相中將範義・一條宰相中將信氏等也。何レモ六原へ被ㇾ渡ケレバ、坊門大納言ヲ千葉介胤網ニ被ㇾ預。中御門前中納言ハ小山新左衞門尉朝長ニ被ㇾ頭。接察前中納言ハ武田五郎信光ニ被ㇾ預。佐々木野前中納言ハ小笠〔原〕次郎長淸ニ被ㇾ預。甲斐守宰相中將ハ式部丞朝時ニ被ㇾ預。一條次郎〔宰〕相中將ハ遠山左衞門尉景村ニ預ケリ。

 此人々ノ蹟ノ嘆、譬ン方モ無ケリ。座ヲ雙べ袖ヲ連ネシ月卿雲客ニモ遠ザカリ、枕ヲカハシ會ヲ重ネシ妻妾・子弟ニモ分レツヽ、里ハアレ共人モナク、宿所々々ハ被燒拂ヌ。徒ラニ山野ノ嵐ニ身ヲ任セ、心ナラヌ月ヲナガメテ、故郷ノ空ハ遠カリ、被ㇾ切事ハ近ナレバ、只悲ノ涙ヲ流テゾ被ㇾ下ケル。

●「ケウミヤウ」交名・校名・夾名などと書き、多くの名を書きつらねた文書。連名書。ここは京方首謀者の交名で、これによって公式に後鳥羽院は乱自体が自分の与り知らぬことだと騙ったのであった。恐るべき裏切りである。

 

 其比、西八條ノ尼御前ト申ハ、坊門大納言ノ妹ト、鎌倉ノ故大臣殿ノ後室也。是ニ依テ、二位殿へモ武藏守ニモ被ㇾ申ケルハ、「尼ガ身ニテ、京・鎌倉何レヲワキテ思ニハ侍ネ共、二ニ取レバ、角テ侍モソナタノ御ハゴクミニテコソ候へ。其上、故大臣ノ御事ヲ思進ラスレバ、鎌倉ノ傾カン事ヲバ一人ノ嘆卜覺へテ、光季ガ被ㇾ討シ朝ヨリ、宇治ノ落シ夕迄、袖ノ下ニテヌカヲツキ、神佛ニ祈精申、其ニハヨリ候ハザレ共、鎌倉ノ穩シキ事ト承ハレバ、身一ノ悦ニテ侍ラフ。其ニ付テ彼大納言、一方ノ大將ナレバ、其罪難ㇾ遁覺候へ共、サセル弓矢取身ニテモ不ㇾ候。故大臣ノシヤウリヤウニ被ㇾ宥候テ、此度ノ命助ケサセ可レ給候覽」ト被ㇾ申ケレバ、二位殿憐テ、「サラバ坊門大納言ヲバ助ケ奉レ」ト云フ。御使、遠江ノ舞嵯峨ニテ參合フ。忠信卿、其ヨリ都へ歸給フ。同樣ニ被ㇾ下按察中納言、「御使ニテ歸ル浪コソ浦山敷ケレ」ト被ㇾ申ケレバ、忠信卿、「是モ夢ニテヤラン」ト計答へテ、互ニ分ㇾ給ヒケリ。

[やぶちゃん注:「シヤウリヤウ」精霊。故右大臣実朝の御魂。

「按察中納言」葉室光親(安元二(一一七六)年~承久三年七月十二日)。ウィキの「葉室光親」によれば、後鳥羽院の側近として承久の乱では北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなどしたが、実際には『倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言』するも、『後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった』封建道徳下に於ける良心的忠臣であったというのが事実であった。『光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという』(この叙述は本「承久記」流布本に基づくものかと思われる)。『戦後、君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂(山梨県南都留郡)処刑され』た。享年四十六。『北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという』(後掲する「吾妻鏡」承久三年七月十二日の条も参照。なお、ウィキは処刑の日を七月二十三日とするがこれはおかしい)。以下に続く彼の死の場面は圧巻である。]

 

 中御門前中納言宗行ハ、小山新左衞門尉具奉リテ下ケルガ、遠江ノ菊河ニ著給フ。「麥ヲバ何卜云フゾ」ト問給へバ、「菊河」ト申。「前ニ流ルヽ、ソレカ」。「サン候」ト申ケレバ、硯乞出テ、宿ノ柱ニ書付給フ。

  昔南陽縣之菊水 汲下流延ㇾ齡

  今東海道之菊河 宿西岸失レ命

ト書テ過給へバ、行合旅人、空キ筆ノ蹟ヲ見ツヽ、涙ヲ流ヌハ無ケリ。次ノ日、浮島原ヲ通ラセ給ニ、御供ナル侍、「最後ノ御事、今日ノ夕方ナドニハ過サセ給ハジ」ト申ケレバ、打諾キ、殊ニ心細計ニテ、木瀨河ノ宿ニ御手水ノ爲ニ立寄給フ樣ニテ、角ゾ書付給ケル。

  今日過身ヲ浮島ガ原ニテゾ露ノ命ハ捨定メケル

某日ノ暮方ニ、アフ澤ニテ被ㇾ切給ヌ。

●「菊河」旧静岡県榛原郡金谷町菊川、現在は島田市菊川。大井川の東側を流れる菊川の名にも残る。

●漢詩を書き下しておく。

  昔 南陽縣の菊水 下流を汲みて齢ひを延ぶ

  今 東海道の菊川 西岸に宿りて命を失ふ

「南陽縣の菊水」河南省内郷県にある白河の支流。古名は鞠水。この川の崖上にある菊の露がこの川に滴り落ち、その水はすこぶる甘く、水辺に住む者がその水を飲めば長命すると伝えた。同じ「菊」の名を持つ場で、命を落とすという皮肉に聞こえるのであるが、後の「吾妻鏡」を見ると、彼はこの詩を書きつけるまえに法華経を読誦しているから、「西岸」には自身がこれから西方浄土へと向かうという確信が潜ませてあるようには見える。しかし、この漢詩、乱の翌年の鎌倉への旅の記録「海道記」では、

  彼の南陽縣の菊水 下流を汲んで齢ひを延ぶ

  此の東海道の菊河 西涯に宿りて命を全くせんことを

となっている。「海道記」のこの場面は宗行への切々たる哀悼の念が綴られた優れた箇所で、乱直後の記載でもあり、同「海道記」の本文中では寧ろ、この詩の方が自然でさえある。当該箇所と和歌に纏わる部分を引用しておく(底本は日本古典全書版に拠った。注も同書を参考にした)。

   *

 時に鴇馬(はうば)、蹄(ひづめ)つかれて、日烏(にちう)、翅(つばさ)さがりぬれば、草命を養はんが爲に菊川の宿にとどまりぬ。ある家の柱に、中御門中納言(宗行卿)かく書きつけられたり。

   彼の南陽縣の菊水、下流を汲んで齡を延ぶ、

   此の東海道の菊河、西涯に宿りて命を全くせんことを。

まことにあはれにこそ覺ゆれ。その身、累葉のかしこき枝に生れ、その官は黄門の高き階(はし)に昇る。雲上の月の前には、玉の冠、光を交へ、仙洞の花の下には、錦の袖、色を爭ふ。才、身に足り、榮、分に餘りて、時の花と匂ひしかば、人それをかざして、近きも從ひ遠きも靡き、かかるうき目をみんとは思ひやはよるべき。さてもあさましや承久三年六月中旬、天下、風あれて、海内、波さかへりき。鬪亂の亂將は花域(くわゐき)より飛びて合戰の戰士は夷國より戰ふ。暴雷、雲を響かして、日月、光を覆はれ、軍虜(ぐんりよ)、地を動かして、弓劔、威を振ふ。その間、萬歳の山の聲、風忘れて枝を鳴らし、一清の河の色、波あやまつて濁りを立つ。茨山汾水(しざんふんすゐ)の源流、高く流れて、遙かに西海の西に下り、卿相羽林の花の族(やから)、落ちて遠く束關の東に散りぬ。これのみにあらず、別離宮の月光、ところどころにうつりぬ。雲井を隔てて旅の空に住み、鷄籠山(けいろうざん)の竹聲、かたがたに憂へたり。風、便りを絶えて外土にさまよふ。夢かうつつか、昔も未だ聞かず。錦帳玉璫(きんちやうぎよくたう)の床は主を失ひて武客の宿となり、麗水蜀川の貢(みつぎ)は、數を盡して邊民の財(たから)となりき。夜晝に戯れて衿(えり)を重ねし鴛鴦(ゑんあう)は、千歳比翼(せんざいひよく)の契(ちぎり)、生きながら絶え、朝夕に敬ひて袖を収めし童僕も、多年知恩の志、思ひながら忘れぬ。げに會者定離(ゑしやぢやうり)の習ひ、目の前に見ゆ。刹利(せつり)も首陀(しゆだ)も變らぬ奈落の底の有樣、今は哀れにこそ覺ゆれ。今は歎くとも助くべき人もなし。涙を先だてて心よわく打出でぬ。その身に從ふ者は甲冑のつはもの、心を一騎の客にかく。その目に立つ者は劔戟の刄(つるぎ)、魂を寸神の胸に消す。せめて命の惜しさに、かく書きつけられけむこそ、するすみならぬ袖の上もあらはれぬべく覺ゆれ。

   心あらばさぞなあはれとみづくきの

        あとかきわくる宿の旅人

★「鴇馬」葦毛の馬。

★「日烏、翅さがり」日が低く落ちる。日烏は三つの足を持った鴉、三足烏(さんそくう)で、中国神話に登場する太陽に住むとされる鴉。太陽のこと。

★「草命」露の命で後掲される宗行の辞世に対応させたもの。

★「人それをかざして」人々はこの方の御威光や恩沢を受けんものと。

★「花域」都。

★「夷國」鎌倉。

★「軍虜」「虜」は下卒。軍兵。

★「茨山汾水……」ともに中国文明を支えた地や河川。ここは君子を指し、以下で乱後に後鳥羽上皇が隠岐へ配流なったことをいう。

★「別離宮」同じく後鳥羽院皇子の雅成・頼仁親王らが乱後に各所に移されたことをいう。

★「鷄籠山の竹聲……」「鷄籠山」は南朝宋の文帝に重用された学者雷次宗が建てた儒学館であるがここは次の「竹聲」の枕。「竹聲」は竹園で皇族のこと(漢の文帝の子の梁の孝王が庭園に竹を多く植えたという故事による)。多くの皇族たちが各所に移されて、そこで悲痛な日々を送ったことを指す。

★「錦帳玉璫の床」錦のとばりと玉の飾りを垂らした貴族の館。

★「麗水蜀川の貢」「麗水」は荊南地方(現在の湖北省)の金の産地。「蜀川」は揚子江上流の一部で蜀(現在の四川省の成都付近)を流れる川。この一帯は錦の産地であった。諸国から貴族へ捧げられた貢ぎ物。

★「袖を収めし」襟を正して仕えた。

★「刹利」刹帝利。王族。原義は所謂、インドのバルナ(四種姓)でバラモンに次ぐ第二位の身分とされる王族(本来は武士も含む)であるクシャトリヤのこと。

★「首陀」首陀羅。最下位の賤民。原義は所謂、バルナの第三身分である隷属民シュードラのこと。

★「心を一騎の客にかく」捕縛した宗行一人に厳重なる監視の眼を向ける。

★「魂を寸神の胸に消す」その護衛の持つ剣が時に抜かれる時の一閃には生きた心地がしなかったことをいうのであろう。次の引用の「魂は生きてよりさこそは消えにけめ」も同じである。

★「するすみならぬ袖の上もあらはれぬべく覺ゆれ」底本の玉井幸助氏の注に『「するすみ」は身に一物の貯のないことをいふ。これを墨染の袖にかけ、墨が洗はれることの意につづけたので、涙に袖をしぼるここちがしたの意』とある。

★「心あらばさぞなあはれとみづくきのあとかきわくる宿の旅人」……心あるひとならば、さぞや哀れと感じずにはおられぬ……この悲劇の雲客の漢詩の筆の跡、その数奇なる運命を訪ね偲ぶ宿の旅人は……

   *

 以上は底本の「一〇 池田より菊川」の後半部。以下は「一三 蒲原より木瀨川」の末尾。

   *

 木瀨川の宿に泊りて萱屋の下に休す。ある家の柱に、またかの納言(宗行卿の御事なり)和歌一首をよみて一筆の跡をとどめられたり。

   今日すぐる身を浮島が原に來て

        つひの道をぞきき定めつる

 これを見る人、心あればみな袖をうるほす。それ北州の千年は限を知りて壽を歎く。南州の不定は期(ご)を知らずして壽を樂しむ。まことに今日ばかりと思ひけむ心の中を推(すゐ)すべし。おほかたは昔語りにだにも哀れなる涙をのごふ。いかにいはんや我も人も見し世の夢なれば驚かすにつきて哀れにこそ覺ゆれ。さても峯の梢を拂ひし嵐の響に、思はぬ谷の下草まで吹きしぼれて、數ならぬ露の身も置き所なくなりてしより、かくさまよひて命を惜みて失せにし人の言葉を、生けるを厭ふ身は、今までありてよそに見るこそあはれなれ。さてもこの歌の心を尋ぬれば、納言、浮島が原を過ぐるとて、物を肩にかけて上る者あひたりけり。問へば按察使(あぜち)光親卿の僮僕、主君の遺骨を拾ひて都に歸ると泣く泣くいひけり。それを見るは身の上の事なれば、魂は生きてよりさこそは消えにけめ。もとより遁るまじと知りながら、おのづから虎の口より出でて龜の毛の命もや得ると、なほ待たれけん心に、命はつひにと聞き定めて、げに浮島が原より我にもあらず馬の行くにまかせてこの宿に落ちつきぬ。今日ばかりの命、枕の下のきりぎりすと共に泣きあかして、かく書きとどめて出でられけんこそ、あはれを殘すのみに非ず、亡きあとまで心も深く見ゆれ。

   さぞなげに命もをしの劔羽(つるぎは)に

        かかる別れを浮島が原

★「萱屋」は「かやや」と読む。

★「北州」玉井氏の注によれば、古代インドの神話上の仮想国で、この国に住む人は千年の寿命を持つとされる(対する生死不定我々の世界が南州)。長寿であるが故に北州の人はその千年の寿の限りあることを歎く、対する我々は老少不定なればこそ『うかうかと樂しんであるが、宗行卿は』この時、まさに確かに『最期と知って、如何に悲しく思われたであろう』、その悲しみの核心は凡夫の我々には分からぬといった意味である。

★「いかにいはんや我も人も見し世の夢なれば驚かすにつきて哀れにこそ覺ゆれ」承久の乱の一年後の嘱目なれば、強烈なリアリズムが感じられる感懐である。以下に続く、宗行のその気持ちを真には理解出来ない、しかし内心忸怩たる思いで一杯だという深い自己洞察に基づく述懐は非常に重い。

★「按察使光親卿の僮僕……」既に注でも示し、最後に掲げる「吾妻鏡」でも分かるように、葉室光親はこの前日に甲斐の加古坂(山梨県南都留郡)で梟首となった。

★「龜の毛」極めて珍しいものの譬え。

★「さぞなげに命もをしの劔羽にかかる別れを浮島が原」「さぞな」は「さぞ」の感動表現。……さぞや、かくもまっこと、命を惜しく思われたことであろうよ、宗行卿は……剣の刃にかかって、かくも無惨なる別れをお遂げになられた、この憂いに満ちた浮島ヶ原にて……

 

以下、「承久記」の続きに戻る。

 

 又、接察卿ハ、武田五郎信光相具奉リテ下ケルガ、富士ノスソ、加胡坂ト云所ニヲロシ奉リ、鎌倉ヨリノ狀ニ任セテ、「最後ノ御事、只今候」ト申ケレバ、兼テヨリ思儲ラレケレ共、時ニ臨デハ流石今生ノ名殘、只今計ト思ケレバ、イカ計心細クモ被ㇾ思ケン、「出家セバヤ」トアレバ、「子細有間敷候」トテ、僧一人尋出テソリ落シ奉ル。其後時程暇乞、年比信ジ給ヘル法華經一部取出シ、一部迄ハ遲カリナントテ、一ノ卷ヲヒラキ、一見シ渡シテ後、一向稱名ニ住シ候ハヾ他念モ無ケリ。太刀取ハ武田五郎郎等ニ内藤也。居給所、山ノソワニテ片サガリナルニ、知識ノ僧ノ衣ヲ脱デ著セ奉ル。數多ノ僧共、首ノ後ロニ立ヲホヒ、座敷モカタサガリニ物打所ワロク見へケレバ、太刀取後ロニ近付テ、「角テハ御宮ヅカヒ、惡ク候ヌ」ト申ケレバ、念佛ヲ留メ見返テ、「汝思へカシ、幼少ヨリ君ニ仕へ、死罪・流罪ヲモ多奉行セシゾカシ。サレ共今カヽルベシトハ、爭デカ兼テ辨フベキ。サレバ存知ノ旨ニ任セテ申」ト有ケレバ、太刀取モ目昏テ覺ケレ共、「トコソ能候へ」ト申ケレバ、其言葉ニ隨テ、ソウガウヲモ押除、膝ヲ立直シ首ヲ延、念佛ノ聲不ㇾ怠、殊勝ニ被ㇾ切給ヒニケリ。見人感嘆カヌ者無ケリ。

●「角テハ御宮ヅカヒ、惡ク候ヌ」この状態ではうまく首を落とせないかも知れないことを、婉曲に「宮仕ひ」と称したのであろう。

 

 佐佐木野前中納言ハ、小笠原次郎具奉リテ、甲斐國板垣庄ノ内、古瀨村ト云所ニテ切ントス。中納言、「二位殿へ申旨有。其使、今日歸候ハンズ覽。暫ク待ルべウモヤ候哉覽」ト宣ケレ共、「只切レ」トテ被ㇾ切ニケリ。其後半時計有テ、「助奉レ」ト云フ左右有シカ共、力不ㇾ及。定業ト乍ㇾ云、無レ情ゾ覺へシ。

●「佐佐木野前中納言」源有雅安元源有雅(安元二(一一七六)年~承元三(一二二一)年。ウィキの「源有雅」によれば、『有雅は後鳥羽上皇の寵臣、藤原範光の娘であり、順徳天皇の乳母であった憲子を妻に迎えたことから上皇の近臣となっており、その縁から上皇側の将として宇治にて戦うが敗退。出家して恭順の意を示すが鎌倉に送られる。甲斐国の武将・小笠原長清の預かりとなり、護送の途中で甲斐国に下着。ここで有雅は長清に、少しの縁故があり、二品禅尼(北条政子)に助命を懇願するのでしばらく死刑の執行を待ってほしい、と長清に願い出るが受け入れられず』、七月二十九日『に同国稲積庄小瀬にて斬られた』。『政子はこの有雅の懇願を受け入れ、斬首後しばらくして死刑を免除するべきとのの手紙が届いたという』(最後に示す「吾妻鏡」も参照されたい)。『有雅の処刑された小瀬(現在の山梨県甲府市小瀬町)に残る富士塚は有雅の霊を祀るものだとい』、また、明治一〇(一八七七年)に『高杉太一郎らが新橋村(現静岡県御殿場市新橋)に創建した藍澤神社は、有雅と、同じく承久の乱で処刑された葉室宗行・藤原光親・藤原範茂・一条信能ら五卿を祀っている』とある。

●「小笠原次郎」小笠原長清。

 

 一條宰相中將ハ、遠山左衞門尉景村具足シ、美濃國遠山へ下リテ切奉ラントス。此宰相中將、元來、西方ニ心ヲ懸クル人ニテ御座ケレバ、都ヲ出シ日ヨリ、殊ニ念佛不ㇾ怠。付奉ル靑侍モ、猶猶稱名ヲ進奉ル。中ニモ此文ヲ誦シキカス。

  種々法門皆解脱 無過念佛往西方 上盡一形至十念

  三念五念佛來迎 乃至一念無疑心

心得タル體ニテ、三度誦シテ念佛不ㇾ怠、今ハノ時ニ臨テ、紫雲タナビキ、異香薰ジ、音樂空ニ奏スト人々モ聞ケル程ニ被ㇾ切給フ。諸人感涙難ㇾ押、有ㇾ心モ無ㇾ心モ袖ヲシボラヌハ無ケリ。

●「一條宰相中將」一条信能(建久元(一一九〇)年~承久三年七月五日(一二二一年七月二十五日))。実朝暗殺後は一時、親幕派とも見做されたが、後に後鳥羽上皇の側近に復帰し、承久の乱では首謀者の一人となった。ウィキの「一条信能」によれば、『鎌倉へと護送される途中、遠山景朝の手によって美濃国岩村において処刑された』。『現在、岐阜県恵那市岩村町には『一条信能終焉の地』の史跡があり、また同地にある岩村神社は、信能の霊を弔うために建てられた祠を発祥とすると言われている』とある。

●「種々法門皆解脱 無過念佛往西方 上盡一形至十念 三念五念佛來迎 乃至一念無疑心」「種々の法門、皆、解脱すれども、念佛して西方に往くに過ぎたるはなし。上一形を盡くし十念に至り、三念・五念まで佛來迎したまふ。乃至(ないし)の一念、無疑心なり。」は七祖善導の「法事讃」「礼讃」に基づく偈。

 

 甲斐宰相中將ヲバ式部丞朝時相具シテ下ケルニ、「五體不具ノ者ハ往生ニサハリアンナリ。自水セバヤ」ト宣ケレバ、「何レニテモ御計ヒニテ」ト申テ、足柄山越テ關ノモトノ宿ニ至ヌ。彼宿ノ後ロノ面ニ、細谷河流タリ。名ヲ晴河ト云。深淵ヲ尋ケレ共、山河ノ習淺ケレバ、居長ノ程アラバヨカリナントテ、石ヲ聚メテ堤ヲ築、流ル一水ヲセキ懸ケレバ、無ㇾ程淵ヲナス。「サテ出家セバヤ」ト宣ケレバ、「安候」トテ、宿ヨリ僧二人尋出ス。丹後坊・式部坊トゾ云ケル。丹後、髮ヲソリ、式部、戒ヲ授ク。籠ヲクミ石ヲ疊ミテ、其上ニスへ奉リ、左右ノ膝ヲアミ付テ、沈奉ラントス。觀念佛ヲ留メテ、泣々角ゾ被ㇾ詠ケル。

  思ヒキヤ苔ノ下水セキ留テ月ナラヌ身ノ宿ルべシトハ

トテ入給ヌ。夕日ニ過テ、念佛スルカト口ノハタラキテ見へシ。「ウン」ト云テ、築タル堤ヲ蹈破テ淺所ニ至給へバ、左右ノ足アミ付タル差繩キレタリ。大息ツキテ、「エシナヌゾ」ト宣へバ、又堤ヲ築直、此度ハ指繩二スヂニテ膝ヲ結付テ、又暫ク念佛シテ、七八人頭ヲ押へテ終ラセ奉ル。

 サテモ六人ノ公卿ノ跡ノ嘆共、申モ中々疎也。身ヲ萬里ノ外ニヤドシ、詞千年ノ間傳へズ共、同世ニ栖ナラバ、見ルヨシモナドカ無ラン。冥途如何ナル境ゾヤ、使モ通ズル事不ㇾ叶。黄泉如何ナル旅ナレバ、歸ル事ヲ不ㇾ得覽。ホノカニ殘ル者トテハ、主ヲ放レシ面影、見テモ彌悲キハ、スサミシ筆ノ跡計也。

●改行部はママ。章段しての番号はないので続けた。

●藤原範茂(のりもち/のりしげ 文治元(一一八五)年~承久三年六月十八日(一二二一年七月九日))。ウィキの「藤原範茂」によれば、『後鳥羽天皇の寵臣として仕え、後鳥羽天皇と姉・重子(修明門院)の子である順徳天皇の近臣でもあった』。『承久の乱では倒幕の密議に深く関与し、自ら宇治川の戦いに出陣した。上皇方が敗北したのち、六波羅に拘禁され、乱の首謀者として斬罪が定められた。都での処刑を避けるため、北条朝時に東国へ護送される道中で、足柄山の麓の早川の底に沈められて処刑された。これは、範茂が五体不具では往生に障りがあるため、自ら入水を希望したという。子の範継は北条泰時の意向により、助命されている』。『南足柄市怒田に、室町時代前期の作で範茂の墓と伝えられる宝篋印塔があり、範茂史跡公園となっている』とある「神奈川県」公式サイトの「あしがらの里観光情報」の「藤原範茂卿の墓[範茂史跡公園](南足柄市)」にはしかし、『範茂は部下と一緒に鎌倉へ送られ取調べのあと処刑されるはずでした。京都から幾日もかかって足柄峠を越え関本に着き、あと』一日で『鎌倉へ着くという日、範茂を連れて来る役目の北条朝時から鎌倉へ行けばどうせ殺される身だからここで自殺したのが武士として立派だと諭され、範茂はそばを流れる清川へ身を投げ自殺しました』(本文の「晴川」。「南足柄市」公式サイトの範茂史跡公園には、現在の南足柄市怒田(ぬだ)を流れる『今の貝沢川といわれている』とあるが、何と、こちらでは本文通りの入水の顛末が語られている。県と市のこの違い、何だか面白い)。『堂内にある兜抜毘沙門天は北方守護、北方鎮護の神様として平安時代から民衆の信仰が厚く、そのため都と東国を分ける足柄峠を越えたこの地に建立されました』。『亡骸は丁重に弔われ、近くの丘陵地に埋葬されました。そこに建てられた宝篋印塔が範茂の墓と言われています』とある。

●「思ヒキヤ苔ノ下水セキ留テ月ナラヌ身ノ宿ルべシトハ」……ああ、思いもしなかったことよ……苔の下を流るる川水を堰き止めて……水に映す月でもない我が身を宿すことになろうとは……。さて……それにしても「承久記」の伝えるこの死に様(なかなか堰き止めた水が水没するに至らずに再度無理矢理に顔を水没させてこと切れている)や辞世……これ、なかなかに悲惨悲傷と私には思われるのだが。如何?

 

 最後に「吾妻鏡」を引く。六月の後半は、論功行賞の交名や捕縛記事なので略し、本「雲客死刑」関連の承久三 (一二二一) 年七月五日の記事からとする。

 

五日丁亥。小雨降。一條宰相中將信能相具于遠山左衞門尉景朝。下著美濃國。即於當國遠山庄刎首云々。凡今度張本至卿相以上。皆於洛中可處斬罪之趣。雖有關東命。今城外儀可宜之由。武州計云々。

○やぶちゃんの書き下し文

五日丁亥。小雨、降る。一條宰相中將信能、遠山左衞門尉景朝に相具し、美濃國へ下著す。即ち、當國遠山庄にて首を刎(は)ぬと云々。

凡そ今度の張本、卿相以上に至りては、皆、洛中に於て斬罪に處すべきの趣き、關東の命有ると雖も、今、城外の儀、宜しかるべきの由、武州の計りと云々。

●京の人々の心理的衝撃を慮っての名将泰時の配慮であろう。

 

六日戊子。上皇自四辻仙洞。遷幸鳥羽殿被。大宮中納言〔實氏〕。左宰相中將〔信成〕。左衞門少尉〔能茂〕以上三人。各騎馬供奉御車之後。洛中蓬戸。失主閉扉。離宮芝砌。以兵爲墻。君臣共後悔斷腸者歟。

○やぶちゃんの書き下し文

六日戊子。上皇、四辻の仙洞より、鳥羽殿へ遷幸せらる。大宮中納言〔實氏。〕、左宰相中將〔信成。〕、左衞門少尉〔能茂〕以上の三人、各々騎馬にて御車の後に供奉す。洛中の蓬戸(ほうこ)、主を失ひ扉を閉ぢ、離宮の芝の砌り、兵を以つて墻(かき)と爲す。君臣共に後悔、腸を斷つ者か。

●「蓬戸」草を編んで作った戸の意で粗末で貧しい家であるが、ここは戦乱によって焼きこぼたれた庶民の家々の謂いであろう。

 

八日庚寅。持明院入道親王〔守貞〕可有御治世云々。又止攝政〔道家〕。前關白〔家實〕被蒙攝政詔云々。今日。上皇御落飾。御戒師御室。〔道助〕先之。召信實朝臣。被摸御影。七條院誘警固勇士御幸。雖有御面謁兮。只抑悲涙還御云々。

○やぶちゃんの書き下し文

八日庚寅。持明院入道親王〔守貞。〕御治世有るべきと云々。

又、攝政〔道家。〕を止め、前關白〔家實。〕攝政の詔りを蒙むらると云々。

今日、上皇御落飾。御戒師は御室(おむろ)〔道助(だうじよ)。〕。之に先んじ、信實朝臣を召し、御影を摸(うつ)さる。

七條院警固の勇士を誘へて御幸す。御面謁有りと雖も、只、悲涙を抑へて還御と云々。

●「持明院入道親王守貞」後堀河天皇。幕府による裁定。

●「道家」九条道家。彼は討幕計画には加わっていなかったが、形の上で摂政を罷免されたものの、後に三男の頼経が鎌倉幕府第四代征夷大将軍となり、朝廷の最大権力者として君臨する。しかし後の宮騒動で頼経が執権北条時頼によって将軍職を廃されて失脚することとなる。

●「家實」近衛家実。ウィキの「近衛家実」によれば、就任後は『鎌倉幕府に協調して後鳥羽院政を否定すべく復古的・消極的な政治を敷き、訴訟では公卿の議定を復活させ、財政難には成功で対処しようとするも、綱紀は弛緩するばかりで』、安貞二(一二二八)年十二月には西園寺公経(道長岳父)と『組んだ道家の工作により、関白を辞任させられる。以後、近衛家と九条家とが交替で摂関を務めるのが慣例化し』てしまうことになる。

●「御室〔道助。〕」道助入道親王(建久七(一一九六)年~宝治三(一二四九)年)は後鳥羽天皇の第二皇子で俗名は長仁(ながひと)。法親王。真言宗仁和寺で出家。仁和寺門跡。光台院御室と称された。藤原定家に和歌を学ぶ(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

●「七条院」上皇の母の坊門殖子(しょくし/たねこ)。当時、六十四歳。

 

九日辛夘。今日踐祚也。先帝於高陽院皇居遜位。密々行幸九條院。戌尅。新帝〔持明院二宮。春秋十歳。〕自持明院殿。被還御閑院。〔御輦車。〕其間自持明院。迄至于禁裏。軍兵警衛路次云々

○やぶちゃんの書き下し文

九日辛夘。今日踐祚(せんそ)なり。先帝、高陽院皇居に於て位を遜(ゆづ)り、密々に九條院へ行幸す。戌の尅、新帝〔持明院の二宮。春秋十歳。〕持明院殿より、御閑院〔御輦車。〕へ還御せらる。其の間、持明院より、禁裏に至る迄、軍兵、路次(ろし)を警衛すと云々。

●「先帝」仲恭天皇。当時満三歳。ウィキの「仲恭天皇」によれば、承久の乱の後、わずか七十八日間で廃され、『即位も認められていなかったため諡号・追号がつけられず、九条廃帝(くじょうはいてい)、半帝、後廃帝と呼ばれていた。ちなみに、歴代の天皇の中で、在位期間が最短な天皇である』とある。この幕府による裁定は仲恭天皇が未だ『幼児で将軍九條頼経の従兄弟であることからその廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府を非難して仲恭復位を願う願文を納めている』とある。『まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に渡御』したが、天福二(一二三四)年に満十六歳の若さで亡くなっている。

 

十日壬辰。中御門入道前中納言宗行相伴小山新左衞門尉朝長下向。今日。宿于遠江國菊河驛。終夜不能眠。獨向閑窓。讀誦法花經。又有書付旅店之柱事。

  昔南陽縣菊水。汲下流而延齡。今東海道菊河。宿西岸而失命。

○やぶちゃんの書き下し文

十日壬辰。中御門入道前中納言宗行、小山新左衞門尉朝長に相ひ伴ひ、下向す。今日、遠江國菊河驛に宿す。終夜、眠るに能はず。獨り閑窓に向ひて、法花經を讀誦す。又、旅店の柱に書き付くる事有り。

  昔 南陽縣の菊水 下流を汲みて齡ひを延ぶ

  今 東海道の菊河 西岸に宿りて命を失ふ

 

十一日癸巳。相州以下被行勸賞。是參院中。順逆德輩所領也。今日。山城守廣綱子息小童〔號勢多伽丸〕自仁和寺。召出六波羅。是御室〔道助〕御寵童也。仍被副芝築地上座。眞昭被申武州云。於廣綱重科者。雖不能左右。此童爲門弟。久相馴之間。殊以不便。十餘才單孤無賴者。可有何惡行哉。可預置歟之由云々。其母又周章之餘。行向六波羅。武州相逢御使云。依奉優嚴命。暫所宥也。又云。顏色之花麗。與悲母愁緒。共以堪憐愍云々。仍皈參之處。勢多伽叔父佐々木四郎右衞門尉信綱依令鬱訴之。更召返。賜信綱之間梟首云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十一日癸巳。相州以下、勸賞(けんじやう)を行はる。是れ、院中に參じ、逆德に順ふ輩の所領なり。今日、山城守廣綱が子息小童〔勢多伽丸(せいたかまる)と號す。〕仁和寺より、六波羅へ召し出す。是れ、御室〔道助。〕が御寵童なり。仍つて芝築地の上座眞昭を副へらる。武州に申さえて云はく、

「廣綱に於ては重科の者、左右(さう)に能はずと雖も、此の童門、弟と爲し、久しく相ひ馴るるの間、殊に以つて不便(ふびん)。十餘才の單孤、賴みなき者、何の惡行有るべけんや。預り置くべきか。」

の由と云々。

其の母、又、周章の餘りに、六波羅へ行き向ふ。武州、御使に相ひ逢うて云はく、

「嚴命を優(いう)じ奉るに依つて、暫く宥(なだ)める所なり。」

又、云はく、

「顏色の花麗と、悲母の愁緒(しうしよ)と、共に以つて憐愍(れんびん)に堪へず。」

と云々。

仍つて皈(かへ)り參るの處、勢多伽が叔父佐々木四郎右衞門尉信綱、之を鬱訴せしむるに依つて、更に召し返して、信綱に賜ふの間、梟首すと云々。

 

十二日甲午。按察卿〔光親。去月出家。法名西親。〕者。爲武田五郎信光之預下向。而鎌倉使相逢于駿河國車返邊。依觸可誅之由。於加古坂梟首訖。時年四十六云々。此卿爲無雙寵臣。又家門貫首。宏才優長也。今度次第。殊成兢々戰々思。頻奉匡君於正慮之處。諫議之趣。頗背叡慮之間。雖進退惟谷。書下追討宣旨。忠臣法。諫而隨之謂歟。其諷諫申狀數十通。殘留仙洞。後日披露之時。武州後悔惱丹府云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十二日甲午。按察卿〔光親。去月出家す。法名は西親〕は、武田五郎信光が預りと爲(し)て下向す。而るに鎌倉の使、駿河國車返(くるまがへし)の邊に相ひ逢うて、誅すべきの由、觸れるに依つて、加古坂(かこざか)に於いて梟首し訖んぬ。時に年四十六と云々。

此の卿、無雙の寵臣たり。又、家門の貫首(かんじゆ)、宏才優長なり。今度の次第、殊に兢々戰々の思ひを成す。頻に君を正慮に匡(ただ)し奉らんとする處、諫議の趣き、頗る叡慮に背くの間、進退(しんだい)惟(こ)れ谷(きは)まれりと雖も、追討の宣旨を書き下す。忠臣の法、諫めて隨ふの謂(い)ひか。其の諷諫の申狀數十通、仙洞に殘留す。後日披露するの時、武州の後悔、丹府を惱すと云々。

●「車返」車返宿。沼津宿の古形の一つ。現在の静岡県沼津市三枚橋附近で、往古は車ここより先は荷車は通れなかったことに由来するという。

 

十三日乙未。上皇自鳥羽行宮遷御隱岐國。甲冑勇士圍御輿前後。御共。女房兩三輩。内藏頭淸範入道也。但彼入道。自路次俄被召返之間。施藥院使長成入道。左衞門尉能茂入道等。追令參上云々。」今日。入道中納言宗行過駿河國浮嶋原。荷負疋夫一人。泣相逢于途中。黄門問之。按察卿僮僕也。昨日梟首之間。拾主君遺骨。皈洛之由答。浮生之悲非他上。彌消魂。不可遁死罪事者。兼以雖插存中。若出於虎口。有龜毛命乎之由。猶殆恃之處。同過人已定訖之間。只如亡。察其意。尤可憐事也。休息黄瀨河宿之程。依有筆硯之次註付傍。

 今日スクル身ヲ浮嶋ノ原ニテモツ井ノ道ヲハ聞サタメツル

於菊河驛書佳句。留萬代之口遊。至黄瀨河詠和歌。慰一旦之愁緒云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十三日乙未。上皇、鳥羽行宮より隱岐國へ遷御す。甲冑の勇士、御輿の前後を圍む。御共は、女房兩三輩、内藏頭淸範入道なり。但し、彼の入道、路次より俄かに召返さるるの間、 施藥院使長成入道、左衞門尉能茂入道等、追つて參上せしむと云々。

今日、入道中納言宗行、駿河國浮嶋原を過ぎ、荷負ふ疋夫一人、泣く泣く途中に相ひ逢ふ。黄門、之を問ふに、按察卿が僮僕なり。昨日、梟首の間、主君の遺骨を拾ひ、皈洛するの由、答ふ。浮生(ふせい)の悲しみ、他の上に非ず。彌々(いよいよ)魂を消す。死罪を遁(のが)るべからざる事は、兼ねて以つて存中を插(さしはさ)むと雖も、若し、虎口を出でなば、龜毛(きもう)の命有るかの由、猶ほ殆んど恃(たの)むの處、同じき過人(とがびと)、已に定まり訖んぬるの間、只、亡(ぼう)ずるがごとし。其の意を察するに、尤も憐むべき事なり。黄瀨河の宿に休息するの程、筆・硯の次(つい)で有るに依つて、傍らに註(しる)し付く。

  今日すぐる身を浮嶋の原にてもつひの道をば聞きさだめつる

菊河の驛に於いて佳句を書きて、萬代の口遊(くちずさみ)を留め、黄瀨河に至りて、和歌を詠じ、一旦の愁緒を慰むと云々。

●「黄門」中納言の唐名で葉室宗行のこと。

●「按察卿」葉室光親。

●「つひの道」正しい歴史的仮名遣に訂して示した。

 

十四日丙申。於藍澤原。黄門宗行遂以不遁白刄之所侵云々。年四十七。至最期之刻。念誦讀經更不怠云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十四日丙申。藍澤(あゐざは)原に於いて、黄門宗行、遂に以つて白刄の侵す所を遁れずと云々。

年四十七。最期の刻に至り、念誦讀經、更に怠らずと云々。

 

十八日庚子。甲斐宰相中將範茂。爲式部丞朝時之預。於足柄山之麓。沈于早河底。是五體不具者。可爲最後生障碍。可入水由依所望也。

○やぶちゃんの書き下し文

十八日庚子。甲斐宰相中將範茂。式部丞朝時の預りとして、足柄山の麓に於いて、早河の底に沈む。是れ、

「五體不具は、最も後生(ごしやう)の障碍(しやうげ)たるべし。水に入るべし。」

の由、所望に依つてなり。

●「甲斐宰相中將範茂」藤原範茂。

●「爲式部丞朝時」北条朝時。

 

●以下、順徳院・六条宮雅成親王・冷泉宮頼仁親王の遷座記事が続くが、二十七日の後鳥羽院出雲大浜湊到着の記事の中にある和歌のみ読み易く書き直して示しておく。

  たらちめの消えやらでまつ露の身を風よりさきにいかでとはまし

  しるらめや憂きめをみをの浦千鳥嶋々(しまじま)しぼる袖のけしきを

●「たらちめの」は「垂乳女の」で「たらちねの」に同じい。前者は、

……消えてしまいそうな儚い身の母上が消え去ることなくひたすら待って下さっている――その母上を、無常の風が吹き散らしてしまう前に、なんとしもお訪ねしたいものです……

という意で悪くない(後鳥羽院は人格的に問題があるが、確かに和歌は上手いと和歌嫌いの私でも思う。私は実際に隠岐に行ってみて、歌人としての彼には個人的に好意を抱くようになったのである)。後者は「嶋々」を「泣く泣く」ともする。

……知っているのだろうか――この私が深い悲しみに沈んでいるこの船路の果てに辿り着いた、この淋しい浦の無心の小鳥たちよ――散れる遠き島々で泣く泣く袖を絞っては眺める、この淋しい景色を……

●続いて源有雅の誅殺の記事で七月小は終わる。

 

廿九日壬子。入道二位兵衞督。〔有雅。去月出家。年四十六。〕爲小笠原次郎長淸之預。下著甲斐國。而依有聊因緣。可被救露命之由。申二品禪尼間。暫抑死罪。可相待彼左右之由。雖令懇望。長淸不及許容。於當國稻積庄小瀬村令誅畢。須臾可宥刑罰之旨。二品書狀到來云々。楚忽之爲體。定有亡魂之恨者歟。

○やぶちゃんの書き下し文

廿九日壬子。入道二位兵衞督〔有雅。去ぬる月、出家す。年四十六。〕小笠原次郎長淸が預りとして、甲斐國に下著す。而るに聊さか因緣有るに依つて、露命を救けらるべきの由、二品禪尼に申すの間、暫く死罪を抑へ、彼の左右(さう)を相待つべきの由、懇望せしむと雖も、長淸、許容に及ばず、當國稻積庄小瀨村に於いて誅せしめ畢んぬ。須臾(しゆゆ)にして刑罰を宥(なだ)むべきの旨、二品の書狀到來すと云々。

楚忽(そこつ)の體爲(ていたらく)、定めて亡魂の恨み有る者か。

●「壬子」干支誤り。辛亥。

●ここまで来ると印象はもう余談の体(てい)となるが、八月の一日と二日を引いて終わりとする。

 

一日壬子。坊門大納言〔忠信。〕自遠江國舞澤皈京。是依爲今度合戰大將軍。千葉介胤綱預之下向。而妹西八條禪尼者。右府將軍後室也。就彼舊好申二品禪尼之間。所宥也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

一日壬子。坊門大納言〔忠信。〕、遠江國舞澤より皈京す。是れ、今度の合戰の大將軍たるに依つて、千葉介胤綱、之を預り、下向す。而るに妹西八條禪尼は、右府將軍が後室なり。彼の舊好に就き、二品禪尼、申すの間、宥むる所也と云々。

●「右府將軍」源実朝。

 

二日癸丑。大監物光行者。淸久五郎行盛相具之下向。今日巳剋。着金洗澤。先以子息太郎。通案内於右京兆。早於其所。可誅戮旨。有其命。是乍浴關東數箇所恩澤。參院中。注進東士交名。書宣旨副文。罪科異他之故也。于時光行嫡男源民部大夫親行。本自在關東積功也。漏聞此事。可被宥死罪之由。泣雖愁申。無許容。重屬申伊豫中將。羽林傳達之。仍不可誅之旨。與書狀。親行帶之馳向金洗澤。救父命訖。自淸久之手。召渡小山左衞門尉方。光行往年依報慈父〔豊前守光秀與平家。右幕下咎之。光行令下向愁訴。仍免許。〕之恩徳。今日逢孝子之扶持也。」及黄昏。陸奥六郎有時以下上洛人々多以下著云々。

○やぶちゃんの書き下し文

二日癸丑。大監物光行は、淸久五郎行盛、之を相具し、下向す。今日、巳の剋、金洗澤(かねあらひざは)に着く。先づ以つて子息太郎、案内を右京兆に通ず。早く其の所に於いて、誅戮すべきの旨、其の命有り。是れ、關東の數箇所を恩澤に浴し乍ら、院中に參り、東士の交名を注進し、宣旨の副文を書く。罪科、他に異なるの故なり。時に光行が嫡男源民部大夫親行、本より關東に在りて功を積む。此の事を漏れ聞き、死罪を宥めらるべきの由、泣く泣く愁へ申すと雖も、許容無し。重ねて伊豫中將に屬し申す。羽林、之を傳達す。仍つて誅すべからずの旨、書狀を與ふ。親行、之を帶して金洗澤へ馳せ向ひ、父の命を救い訖んぬ。淸久が手より、小山左衞門尉方へ召し渡す。光行、往年の慈父〔豊前守光秀平家に與し、右幕下、之れを咎む。光行、下向して愁訴せしめ、仍つて免許す。〕の恩德を報ずるに依つて、今日孝子の扶持に逢ふなり。黄昏に及び、陸奥六郎有時以下、上洛の人々、多く以つて下著すと云々。

●「大監物光行」源光行(長寛元(一一六三)年~寛元二(一二四四)年)。既注。没年を見て分かる通り、彼は正しく助命された。

●「金洗澤」七里ヶ浜の行合川の西。鎌倉の直近。なればこそ救い得た。

●「右京兆」北条義時。

●「親行」源実朝・藤原頼経・宗尊親王の三代に仕えて歴代の和歌奉行となった父譲りの学者肌であった。

●「伊豫中將」「羽林」後の伊賀氏の変で失脚、配流変死する公卿一条実雅。一条能保の子で、当時は藤原頼経の補佐役として鎌倉にあった。「羽林」は彼の職名近衛中将の唐名。

●「小山左衞門尉」小山朝政。

●最後の最後の従軍兵の帰鎌はまさに承久の乱のエンディング・シーンに相応しい。]

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