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2014/06/26

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 30 石巻から一関へ

本日二〇一四年六月二十六日(陰暦では二〇一四年五月二十九日)

   元禄二年五月  十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月二十六日

である。この日、松島を発った芭蕉は曾良の慫慂によるものか、石巻へ向かっている。翌十一日は登米(とめ:現在の宮城県北部にある登米市。岩手県との県境にある。)、十二日は増水により馬上ながら悪路の山越えをしてようよう平泉の足掛かりとなる一関へ到着している。以下、「奥の細道」の「石の巻の段」をしめす。

   *

十二日平和泉と心指あねはの松

緒たえの橋なと聞傳えて人跡

稀に雉兎蒭-蕘の往かふ道そこ

ともわかす終に路ふみたかえて石

の卷といふ湊に出こかね花咲と

よみて奉たる金花山海上に見渡

數百の廻船入江につとひ人家地をあらそ

ひて竈のけふり立つゝけたりおもひ

かけすかゝる處にも來れる哉と宿からん

とすれと更宿かす人なし漸々

まとしき小家に一夜を明して

明れは又しらぬ道まよひ行袖の

わたり尾ふちの牧まのゝかやはら

なとよそめにみてはるかなる

堤を行心ほそき長沼にそふて

戸伊摩と云所に一宿して平泉に

至る其間廿餘里程とゝ覺ゆ

   *

■やぶちゃんの呟き

「十二日、平泉と心指し」事実は五月十日。これは虚構というより、瑞巌寺を参拝した日を五月九日から十一日に虚構したのに合わせると、こうするしかなかったのである。それにしても道に迷って石巻へ行くはずもなく、この松島を発った五月十日の「曾良随行日記」の、喉の渇きに水を求めんとした二人に対し、『家毎に湯乞共不ㇾ與』という村人の反応といい、これら、前後全体が私には頗る怪しげなものに見えるのである。

「あねはの松」奥州の名松の一つである姉歯の松。歌枕。

「緒だえの橋」現在の宮城県北部の大崎市(旧古川市)を流れる緒絶川に架かる橋。悲恋絡みの歌枕。

「雉兎蒭-蕘」「ちとすうぜう(ちとすうじょう)」で、「雉兎」は雉や兎を追うその猟師、「蒭蕘」の「蒭」は「芻」で草刈る人を、「蕘」は樵を指す。

『「こがね花咲」とよみて奉たる金花山』「万葉集」巻十八の大伴家持が聖武天皇に奉った奥羽産の金が初めて発見された(東大寺盧舎那仏を塗るため)ことを言祝ぐ四〇九七番歌(長歌四〇九四の反歌三首の三句目)、

 天皇(すめろき)の御代榮えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く

に基づく。

「金花山海上に見渡シ」「海上」は「かいしやう(かいしょう)」。牡鹿半島東南端にある島である金華山。古く俗伝で金の産地として誤称されていたらしい。なお、芭蕉が辿り着いた石巻の湊からでは金華山は見えないので、田代島若しくはその南東にある網地(あじ)島の孰れか又は重なって見えた両方を誤認したものと思われる(それとも実は何らかの理由で金華山まで行ったのか?)。

「宿からんとすれど更に宿かす人なし」当日の難渋振りを示すために、当日の「曾良随行日記」から全文を引いておく。

 

十日 快晴。松島立(馬次ニテナシ。間廿丁計)。馬次、高城(キ)村、小野(是ヨリ桃生郡。弐里半)、小野(四里餘)、石卷、仙台ヨリ十三里餘。小野ト石ノ卷(牡鹿郡)ノ間、矢本新田ト云町ニテ咽乾、家毎ニ湯乞共不ㇾ與。刀サシタル道行人、年五十七、八、此躰ヲ憐テ、知人ノ方ヘ壱町程立歸、同道シテ湯エオ可ㇾ與由ヲ賴。又、石ノ卷ニテ新田町四兵ヘト尋、宿可ㇾ借之由云テ去ル。名ヲ問、 ねこ村、コンノ源太左衞門殿。如ㇾ教、四兵ヘヲ尋テ宿ス。着ノ後、小雨ス。頓テ止ム。日和山と云ヘ上ル。石の卷中不ㇾ殘見ゆる。奥の海(今ワタノハト云)・遠島・尾駮の牧山眼前也。眞野萱原も少見ゆル。歸ニ住吉ノ社參詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。

 

「水」でなく「湯」であるのは、水当たり(食中毒)を用心したためである。この親切な武士のことは「奥の細道」には出ないが、芭蕉にはよほど強く印象に残ったものらしく、後年の曾良宛書簡の中でこの時のことを如何にも懐かしそうに思い出している。因みにこの親切な武士は今野源太左衛門といい、岩波文庫萩原恭男校注版「おくのほそ道」(一九七九年刊)の「曾良随行日記」の注によれば小野郷根古邑(ねこむら)五百石伊東重良の家臣と推定されている。

「まどしき」「貧(まど)し」である。

「袖のわたり・尾ぶちの牧・眞のゝ萱原」孰れも現在の石巻市の北上川沿いにあった歌枕。 「戸伊摩」「といま」。現在の宮城県登米(とめ)市にあった旧登米町(とよままち)の古名。

「其間廿餘里」「間」は「あひ(あい)」。松島を起点として平泉までの合算実動距離。二十里は七八・五、二六里で一〇二・二キロメートル。この二十六日から前日の二十八日の一関までの山本胥氏の作成された距離移動表から計算すると、徒歩八十六、馬十七キロメートルで、計一〇三キロメートルになるので「餘」は六里強を指して自然である。]

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