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2014/07/31

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 15 北上川舟下りⅢ

M442

図―442


M443

図―443

 

 翌朝我々は元気よく、夙く起き、そして気持のよい景色や、河に沿うた興味のある事物を、うれしく眺めた。馬の背中や人力車の上で、この上もなく酷い目にあった我々にとっては、こづかれることも心配することもなく漂い下り、舟夫達や、河や、岸や、その向うの景色を見て時間をつぶすことは、実に愉快であった。間もなく薬鑵の湯がたぎり、我々は米と新しい鱒とで、うまい朝飯を食った。図442は船上の我々の炉、図443は舟夫の二人が飯を食っている光景を髣髴(ほうふつ)たらしめんとしたもの。

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図―444


M445

図―445


M446

図―446

 

 河上の景色は美しかった。一日中南部富士が見えた(図444)。我々は筵の下でうつらうつらして、出来るだけ暑い太陽の直射を避けた。飲料水とては河から汲むものばかりで、生ぬるくて非常にきたなかった。図445は船尾から見た我々の舟である。帆は上述した通り、かなりな間隙をおいて布の条片をかがったものであること、写生図の如くである。この河の船頭の歌は、函館の船歌によく似ている。図446は、フェノロサ教授が、その歌を私の為に書いてくれたもので、最初の歌は函館の歌、次の節は北上川の舟夫が歌う、その同質異形物である。時々舟乗が魚を売りに来たが、取引きをしながら、我々は一緒に、下流へ押し流される。図447は我々の舟の舟夫が漕いだり、竿で押したりしている所である。図448は、航行三日目における舟夫の一人を写生したもの。丁髷(ちょんまげ)が乱れて了い、彼はそれを、頭のてっぺんで束にして結んだ。剃った脳天と顎とには、新しい毛がとげのように生え、鼻は日に焼けて非常に赤い。彼は上陸すると先ず床屋を見つけ出し、剃刀を当てて貰い、丁髷の復興建築を行うことであろう。図449は河舟の別の型式で、底が平く、船尾は広い荷船である。この舟は遡行中で、船尾の下にいる男は、舟を砂洲から押し出しているのである。

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図―447

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図―448


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図―449

 

[やぶちゃん注:図446の楽譜を楽譜演奏ソフトに打ち込んで聴いてみたが、孰れも私の耳に馴染みがない。もし現存するか類似に舟唄があれば、是非とも御教授を乞うものである。

「フェノロサ」既注であるが再掲しておく。東洋美術史学者で、モースが招聘した当時の東京大学文学部政治学及び理財学教授アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa 一八五三年~一九〇八年) はアメリカ合衆国マサチューセッツ州セーラム生まれ。ハーバード大学で哲学を学び、一八七四年に首席で卒業、二年後に同大学院修了後、一八七七年にボストン美術館付属美術学校で油絵を学んでいた。モースの推薦で明治一一(一八七八)年八月九日附で東京大学に迎えられた彼は、二年後の明治十三年度からは哲学・理財学・論理学担当に変わった。彼の政治学講義は社会有機体説を提唱したハーバート・スペンサーの学説が中心で、当時の自由民権運動の思想的支柱として少なからぬ影響を及ぼし、哲学講義ではヘーゲルなどのドイツ哲学を初めて本邦に紹介した功績が挙げられる。また、来日後間もなく、彼は日本美術に並々ならぬ関心を寄せ、その収集と研究を開始(以前にも注したが、これもモースの陶器収集に触発されたものともいう)、狩野友信・狩野永悳(えいとく)に師事して鑑定法を学んだ。フェノロサの鑑定力は人々に大きな驚きを与えたようであり、後に永悳から「狩野永探理信」という画名をも受けている。一方、日本美術の復興を唱え、明治一五(一八八二)年に龍池会(財団法人日本美術協会の前身)で「美術真説」という講演を行い、日本画と洋画の特色を比較する中で日本画の優秀性を説いて日本美術界に大きな影響を及ぼしてもいる。明治十七年には自ら鑑画会を結成、狩野芳崖・橋本雅邦らとともに新日本画の創造を図った(これらの作品はフェノロサ自身の収集によって現在ボストン美術館・フィラデルフィア美術館・フリーア美術館などに収蔵されている)。 同年に図画調査会委員となって以降、美術教育制度の確立にも尽力、明治二〇(一八八七)年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)を設立(開校は明治二十二年)、同校では美術史の講義を行い、これが本邦初の美術史研究の濫觴となった。古美術保護にも尽力する一方、仏教にも傾倒、明治一八(一八八五)年にはビゲローとともに天台宗法明院(三井寺北院)で桜井敬徳師により受戒、「諦信」の法号も受けている。明治二三(一八九〇)年に帰国してボストン美術館中国日本美術部主任となったが、六年後に辞任、その後も数度来日している。一九〇八(明治四十一)年、ロンドンの大英博物館での調査中に心臓発作で客死した。当初、英国国教会の手によりハイゲート墓地に埋葬されたが、フェノロサの遺志によって火葬された後に日本に送られ、大津の法明院(三井寺(園城寺)寺塔頭で滋賀県大津市園城寺町にある)に改めて葬られた。近代日本での華々しい功績とは裏腹に、フェノロサの後半生は必ずしも恵まれたものではなかった(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「アーネスト・フェノロサ」とを比較参照しつつ、より正確と思われる記載を探り、それに「磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」のデータを加えたものである)。しかしこの譜面、どう考えても、東京に戻ったモースが思い出して唄ったものを、フェノロサが採譜した以外にはちょっと考えられないわけで、原曲とは――モース先生の声楽の才を疑う訳ではないのですが――かなり違っているのではないでしょうか?……]

M450

図―450


M451

図―451

 

 ある場所で我々は絶壁の下で太陽が照りつけるのもかまわず、陸産の螺(にし)をさがす為に上陸し、そして短い間に、我々がそれ迄に採集したことのない新種を八つ見つけた。このような絶壁に、漁師は屯所を設ける。この屯所に使用する小舎(図450)は、河から三十フィート向い所にあり、漁夫は長い繩で網を引上げ、魚が入っているか否かを見る。実にお粗末極まる小舎にまで、梯子(はしご)がかけてある。図451は網の一つの形式を示す。河の全長にわたって、このような漁屯所が見られる。

[やぶちゃん注:「陸産の螺」原文“land snails”。基本的には海産・淡水産を除く腹足類の、有肺類・カタツムリ・キセルガイ・ナメクジ等を広範に含む謂いである。

「三十フィート」九メートル強。

「屯所」「漁屯所」原文は“station”と“fishing stations”。魚群を探るためのそれならば魚見台であるが、これは図から明らかなようにそれではなく、そこで四手網を操作して直に魚を釣る施設である。岡山県南部の児島湾沿岸に今も残る四手網漁ではこの小屋を四手網小屋と呼んでいる(きよくらならみ氏のブログ「きよくらの備忘録」の「児島湾岸の夏の風物詩、四手網」を参照)。他に鳥取県東伯(とうはく)郡湯梨浜町(ゆりはまちょう)の汽水湖東郷湖にも残るが、このような断崖絶壁タイプのそれではなく、海や湖に張り出した小屋である。ただ私はこのようなタイプのものをかつて何処かで見た記憶があり、それは確かに東北南部(但し、海岸線であったように思う)であったように記憶する。識者の御教授を乞うものである。]


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図―452

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図―453

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図―454

 

 仙台湾に近づくにつれて、河幅は広くなり、流れはゆるく、きたならしくなった。航行の最後の日には、水を飲むことが容易でなかった。沈渣(おり)が一杯入っていたからである、河岸では人々が、布や、自分等の身体やを洗っていた。鳥が如何に人に馴れているかを示す、小さな写生図が一つある。女が一人、舷によって、見受けるところ魚を洗っていたが、そこから数フィートはなれた所に鳥が一羽、舷にとまって、女のすることを見ていた(図452)。河口に近づくと、風が吹き上げ始め、舟夫は岸へ上って数マイル間舟を曳いた(図453)。これをやるのに彼等は檣(マスト)を立てそのてっぺんに繩を結ひつけ、そして舟を引張った。舟夫の一人は舟に居残り、長い竿を使用して、舟が岸にぶつかるのを防いだ。三日間も船中に立て籠り、その間の多くを居眠りしたり寝たりしたというのは、まことに懶惰なことであった。写生図454では、一行中の一人が、蚊をよける為に、顔に紙をかぶせている。

[やぶちゃん注:図453はちょっと分かり難い。陸に上がった船頭らが引く曳き繩の線が三本ともちょっと向こうへ向いているように見えてしまうからである。老婆心乍ら、一言いっておくと、この途切れた曳き繩の先は画面の手前にある描いているモースが載った船の画面右手前に存在する当の舟の帆柱の先に実は繋がっているのである。]

 

 このような緩慢な河旅を数時間続けた後に、我々は時間を節約するため、最初の村で上陸し、仙台まで人力車で行くことに決定した。これは結局よいことであった、というのは、我々が入り込んだ村では、外国人を見る――もしそれ迄に外国人が来たとすれば――ことが非常に珍しいに違いなかった。人々は、老幼を問わず、大群をなして我々の周囲に集り、我我が立ち寄った旅籠屋では、庭を充し、塀に登り、まるで月の世界からでも来た男を見るように、私を凝視した。時に私は彼等に向って突撃した。これは勿論何等悪意あってやったのではないが、彼等は悪鬼に追われるように、下駄をガラガラいわせて四散した。我々が人力車で出立した時、彼等は両側に従って、しばらくの間、最大の好奇心と興味とを以て私を眺めながら、ついて来た。

[やぶちゃん注:「最初の村」現在の宮城県石巻市鹿又。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 14 北上川舟下りⅡ

M439

図―439

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図―340

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図―341

 

 河岸には釣をしている人々がいた。日本人は如何なる仕事をするにも、遊ぶにも、脚を折って坐る癖がついているので、これ等の漁夫もまた、軽い竹製の卓子(テーブル)を持っていて、岸や川の中でその上に胡坐(あぐら)をかき、我々は彼等がこの卓子の上にいたり、それを背負って水中を歩いていたりするのを見た。彼等の釣糸には釣針が二つついていて、その一つには囮(おとり)に使う生魚がつけてある。彼等は魚を市場で生きたまま売るので、釣った魚を入れる浮き箱を持っている。図439は漁夫達のこの上もなく粗末な写生図である。夜の十一時迄我々は、まことにゆるやかではあったが、とにかく水流に流されて行ったが、前方に危険な早瀬があり、かつまだ月が出ないので、舟夫たちはどうしても前進しようとしない。そこで我々は小さな村の傍に舟をつけ、辛棒強く月の出るのを待った。月は二時に登り、我々はまた動き出した。私は早瀬を過ぎる迄起きていたが、そこで日本の枕を首にあてて固い床に横たわり、翌日明るくなる迄熟睡した。図440は舟夫の一人が、布をボネットのように頭にまきつけて、煙草を吸っている所である。ここで私は、蝦夷では、最も暑い日にあっても、田舎の女が青い木綿の布で頭と顔とを包み、時に鼻だけしか見えぬという事実を書いて置こうと思う。図441は別の舟夫である。

[やぶちゃん注:前半の川釣りは、鮎の友釣りの様子である。

「月は二時に登り」当日の月の出は二十二時二分で、正中は翌日の五時五十分であるが、内陸の沼宮内では日付が変わった午前二時頃(出航は矢田部日誌に零時半とある)でないと、中天に月は昇らあなかったのである。因みに明治一一(一八七八)年八月二十一日の月はまさに下弦の月であった(「こよみのページ」の当月の月齢カレンダーを参照されたい)。

「ボネット」原文“a bonnet”。底本では直下に石川氏による『〔婦人帽の一種〕』という割注が入る。ボンネット 。婦人や小児用の帽子で付紐を頤の下で結ぶタイプのもの。グーグル画像検索「bonnet

「蝦夷では、最も暑い日にあっても、田舎の女が青い木綿の布で頭と顔とを包み、時に鼻だけしか見えぬ」とあるが、これは「蝦夷」ではなく、「東北地方」のモースの誤りであろう。東北地方南部で農作業時に顔に被る「ハンコタンナ(袢衣手綱)」のことである(グーグル画像検索「ハンコタンナ」)。浮遊人氏のブログ「きままな山と旅の徒然話」の秋田・山形の黒覆面美女?」によれば、私の知っている「ハンコタンナ」以外にも、東北地方各地域で形状の異なるそれらがあり(これらは東北地方特有のものである)、名称も以下のように違うことが記されてある。

 フロシキ       (青森六ヶ所村)

 ナガテヌゲ      (秋田市仁井田)

 タナカブリ/ズキン  (秋田由利郡大内村)

 ヒロタナ       (秋田県本荘)

 ハナガオ       (秋田由利郡子吉川)

 サントク       (秋田鳥海村)

 ハンコタンナ     (山形遊佐町吹浦)

 カガボシ       (山形鮑海郡一体から温海町)

 ツノボシ/サンカクボシ(新潟岩船郡山北町)

 ドモコモ/オカブリ  (新潟村上市)

浮遊人氏は『潮風や日焼けから肌を守る習慣から』とプラグマティックな理由を掲げておられるが、『日本民俗文化体系14「技術と民俗」(下)』(小学館一九八六年刊)から引用されて、『覆面の由来は定説はないが、北前船が江戸で流行したトモコモ頭巾がそれぞれの港に伝わり一般に普及』、『またこの地方の女性が肌の白さを保つため日焼け防止として、覆面が生活のなかに融合と推察』、『また秋田角館の侍が被ったドウモッコと呼ばれた絹の頭巾が江戸のキママ頭巾の名残と見られることから参勤交代の武士の手で伝えられたものと考えられる』とあるとし、同書『では1977年の農繁期に羽越沿線を調査し、1,800名の女性(農業従事者)の80%が覆面をしていたと書かれて』おり、『本はむすびに黒覆面の将来と題し、「覆面は過去の野良着に似合っても、飛躍的発展をとげた今日の農村の服装(トレーパンなど)野良着には黒覆面は調和しない……日焼け防止に効果ある野良帽子の出現で黒覆面はしだいに消滅する運命をたどっている」』ともあって、『覆面の型は様々で、種類にして十数種類、名称も二十種以上とか。そのほか江戸時代、この地方には雪から目を守る黒いメッシュ状の「目すだれ」もある』と附記、『確かに黒覆面、黒頭巾は絣のモンペによく似合う』と感想を述べておられる。私も同感で、私はこのハンコタンナに対して実は不思議な魅力を感じており、この「くの一」のような黒覆面には、もっと別な民俗学的呪術的意味が隠されているように無性に思われてならないのである。リンク先は同書に載る地域差の写真も載る。必見である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 13 北上川舟下りⅠ

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図―437

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図―438

 

 我々は狭い町を通って、大きな、そして繁華な盛岡の町へ入った。町通の両側には、どっちかというと、くつつき合った人家と、庭とが並んでいる。蜀葵(たちあおい)が咲き乱れて、清楚な竹の垣根越しに覗く。家はすべて破風の側を道路に向け、重々しく葺いた屋根を持ち、町全体に勤倹の空気が漂っていた。この町へ行く途中でエワタヤマ又はそれが富士山に似ていて、ナムボーといわれる地方に聳ゆるが故に「ナムボー・フジ」と呼ばれる山がよく見えた(図437)。盛岡では河が大いに広く、ここで我々は舟に乗らなくてはならなかったが、舟をやとうのに我々は、河岸にある製材所へ行けと教えられた。事務所は二階建で、部屋やすべての衛生設備は、この上もなく清潔であった。而もこれが、何でもない製材所なのである! 舟と船頭とを雇う相談をしている最中に、実に可愛らしい皿に盛った、ちょっとした昼飯とお茶とが提供された。我々は、盛岡には、ほんの短時間止まり、果実と菓子とを買い込んで、正午、北上川を百二十五マイル下って仙台へ出る、舟旅にのぼった。我々が雇った舟は、去年利根川で見た物とは違い、船尾が四角で高く、舳は長くてとがっていた。図438は舟を写生したもので、一人がこぎ、二人が竿を使い、乗組の四人目は熟睡している。舵は奇蹟によってその位置に支えられる。すくなくとも軸承(じくうけ)は幅僅か三インチで、見受ける所、何にも無いものにひっかかっている。舟の中央部には、藁の筵を敷いた四角な場所があり、ここで我々は数日間食事をしたり、睡眠したりしなくてはならなかった。我々の頭上には、厚い藺(い)の筵が、屋根を形づくつていた。河は遅緩で、流れも大して役に立たず、おまけに舟夫たちは、気はいいが怠者のそろいで、しよつ中急ぎ立てねばならなかった。

[やぶちゃん注:この前後の矢田部日誌を再掲しておく。

〇二十一日 「朝四時二十分渋民發、八時前盛岡着。九時四十分盛岡發、但シ川船ニテ北上川ヲ下ルナリ。午後七時半黑澤尻着。……午後十二時半頃黑澤尻發、但シ十二時後ニ至り発セシハ、川ニ急流アルガ故、月光ヲ待テ發セシナリ」

○二十二日 「終日船中ニ在リ」

○二十三日 「船中ニ在リ。十一時カノマタニ達ス(鹿又村ナリ)。南風強クシテ船行カズ。故ニ此處ヨリ人力車四兩、馬壱疋ヲ雇フ……午後十二時十分鹿又發……六時半松島着」

○二十四日 「五時半松島發、九時半仙臺着」

「エワタヤマ」底本では直下に石川氏による、『〔岩手山〕』という割注が入る。現在は「いわてさん」と呼ぶ。

「ナムボーといわれる地方」原文“a region called Namboo”。南部地方。南部とは方位ではなく氏族名。中世以来の旧族居付大名南部氏が近世初頭に陸奥国岩手郡盛岡に城を構え、陸奧国北部諸郡(岩手県北上市から青森県下北半島まで)を領有したことに由来する。

「ナムボー・フジ」底本では直下に石川氏による、『〔南部富士〕』という割注が入る。岩手山。奥羽山脈北部の山で標高二〇三八メートル。二つの外輪山からなる複成火山で岩手県の最高峰。ウィキ岩手山」によれば、『別名に巌鷲山(がんじゅさん)があるが、本来「いわわしやま」と呼ばれていたものが「岩手」の音読み「がんしゅ」と似ていることから、転訛したものだとも言われる。春、表岩手山には雪解けの形が飛来する鷲の形に見えるため、これが山名の由来になったとも伝えられる。静岡県側から見た富士山に似ており、その片側が削げているように見えることから「南部片富士」とも呼ばれる。古名に「霧山岳」「大勝寺山」。俗称に「お山」。「子富士」とペアで「親富士」と表現することもある』とある。

「百二十五マイル」約二〇一キロメートル強。現在の盛岡市内の北上川畔から北上川を鹿又まで下り(最後の部分は旧北上川で計測)、そこから陸路で松島まで計測してみると約二〇〇キロ強あるから、この実測も非常に正確である。

「三インチ」七・六二センチメートル。

「見受ける所、何にも無いものにひっかかっている」原文は“apparently hangs on nothing”一見したところでは、全く引っ掛かっているようには見えない、ただ舵は船尾にちょこんと置かれているだけのように見える、の意。

「数日間」矢田部日誌を読むに、二十一日の午前九時四十分に盛岡を発って、午後七時半に黒沢尻(現在の北上市中心部)に着くも、下流に急流があるために、月の出を待って、日が変わった午前零時半に黒沢尻を発っている。二十二日は丸一日川下りで、翌二十三日午前十一時に鹿又村に到着した。ところがそこから南風があまりに強いために舟下りが不可能になってしまったため、急遽、人力車四台と馬一匹を雇って、夕刻六時半に松島着した。厳密には延べ三日で実船時間は四十九時間二十分に及んだ。この小さな船に四人+船頭四人、計八名は如何にもきつい。がたいのでかいモースにとっては結構、しんどかったのではなかろうかと同情するのだが、モース先生は実は人力車や馬でしたたかに尻を痛めつけられてきたせいで、意外なことに、この三日間を愉快に「懶惰」に過ごしたのであった(後の段に出る)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 12 東北スケッチⅥ 浪打峠の交叉層

M436

図―436

 

 福岡を出てから我々は、急に登りにさしかかった。事実、我々は高い山脈の頂に達するのに、けわしい阪を登ったのであるが、遂に頂上に来た。ここには傾斜を緩和するために、深い切通(きりどおし)が出来ている。岩はこの山を構成している、軽い砂岩らしく思われた。切通の写生は国436に示す。岩層は僅か西に傾下し、私が津軽海峡で曳網した「種」と全く同じに見える、見や腕足類の破片で充ちていた。この堆積は、地質学的には非常に新しいに違いなく、この島の北部で起った変化が、如何に新しく、且つ深甚であったかを示している。この地方は、化石から判断すると、かつて水面下三十尋(ひろ)、あるいはそれ以上の所にあったので、近い頃の地質学的時代に二、三千フィートも、もち上げられたものである。

[やぶちゃん注:ここは時間的に巻戻って描写されている。「福岡」、現在の二戸を出たのは八月二十日であるが、その日は前に注したように渋民に泊まっている。次の段の頭は「盛岡の町へ入った」と始まるが、渋民を発ったのは八月二十一日の朝四時二十分、盛岡着は約三時間半後の午前八時前だからである。

「けわしい阪」岩手県二戸郡一戸町から同県二戸市にかけてある旧奥州街道、山越えの街道(現在の国道四号線の奥州街道より東西直線距離で二・五キロメートルほど離れた東方にある)の最高地点である浪打峠。標高は三百二メートル。ウィキの「浪打峠」によれば、『旧奥州街道が通り、一戸町側の峠手前には浪打峠一里塚がある』とし、『また、峠両側の崖は浪打峠の交叉層と呼ばれ、粗粒砂岩層に「偽層」(クロスラミナ[やぶちゃん注:地層が斜めに交叉する小規模な地層のことで、流動する水中又は空気中に於いて砂や細礫などが堆積することで生じた地層様の現象をいう。])が堆積して縞模様となっている。交叉の様子もはっきりし、外見が美しく、その規模も大きい』とある。この地層は現在、国の天然記念物に指定されており、地層は荒い砂岩で、ホタテガイなどの化石の砕屑物が層になって点在し、それが美しい縞模様をなしている。この浪打峠地層は「末の松山層」とも呼ばれ、今から七百万年前のものと推定されている(最後のリンク先を見るとこの地層の最下層の堆積は今から千五百万年前まで遡るらしい)。グーグル画像検索「浪打峠の交叉層」を見ると、現在のそこ(私は行ったことはない)がまさにモースのスケッチと百三十六年経った今も一致することがよく分かる。個人サイト「ウチノメ屋敷 レンズの目」内の一戸町・浪打峠の交叉層ページ(こちらには貝の化石の現場の写真が出る。そのキャプションに『ここ浪打峠の地層は、第三紀中新世門の沢層とその上部末の松山層からなり、二枚貝、巻貝、腕足類等の浅海性軟体動物化石を多く含んでいる。』とあり、本文を読む上で必見必読と言える。

「水面下三十尋」水深五四・九メートル。

「近い頃の地質学的時代」三陸海岸は第四紀(二百五十八万八千年前から現在に至るまでの地質時代の期間)後期に隆起している。

「二、三千フィート」六〇九・六~九一四・四メートル。浪打峠の現在の標高が三〇二メートルであるから、それに「水面下三十尋、あるいはそれ以上の」水深を加えても三六〇メートルほどにしかならないが、これは恐らく採取した腕足類やホタテガイが浅海性であるからその砂浜海岸の最も浅い数値を示したまでで、実際にはもっと遙かに水深の深い位置からの隆起を想定していたからに他ならない。しかも現在、三陸北部では過去約一〇〇万年間の継続的隆起傾向(現在も進行中)が平均隆起速度で年〇・三ミリメートルと測定されおり、一〇〇万年で三〇〇メートル、二〇〇万年なら六〇〇メートルとなり、実にモースのここでの二千フィートの謂いが実に的を射ていることが分かるのである。恐るべし、モース!]

橋本多佳子句集「紅絲」 露

  

 

鶏頭起きる野分の地より艶然と

 

伏目に読む睫毛幼し露育つ

 

露の中つむじ二つを子が戴く

 

人の背をふと恃みたる穂草の野

 

白露や鋼の如き香をもてり

 

露けき中竈火胸にもえつゞけ

 

虫鳴く中露置く中夫(つま)死なせし

 

[やぶちゃん注:既注乍ら、夫豊次郎の逝去は、本句集刊行(昭和二六(一九五一)年六月一日)の十四年前の昭和一二(一九三七)年九月三十日、享年五十であった。この句集刊行当時、多佳子五十二歳、夫の年を既に越えていた。]

 

露霜や死まで黒髪大切に

 

露万朶幼きピアノの音が飛ぶ飛ぶ

 

椎の実の見えざれど竿うてば落つ

 

  淡路島

 

一夜の島月下の石蕗(つは)の花聚まる

 

海より雨激しくよせる石蕗の花

 

海彦の答へず霧笛かけめぐる

 

[やぶちゃん注:「海彦」単に海の比喩であるが、言わずもがな乍ら、淡路島は記紀の国産み神話に於いて伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が最初に創造した島である。同じ記紀に載る山幸彦と海幸彦自体の伝承の内、彼らの誕生地や背景は現在の宮崎県の宮崎市を中心とした宮崎平野に集中しているが、これから派生した浦島太郎伝承は四国にあり、淡路島と海彦の取り合わせは必ずしも場違いではない。]

 

舟虫の背に負ふ瑠璃の砲塁亡し

 

[やぶちゃん注:甲殻綱等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目フナムシ科フナムシ Ligia exotica は一般には背中側の体色は鈍い光沢のある黒色であるが、淡黄色の斑(まだら)模様や褐色の広い縁取りがある個体もあり、成体の大型個体の中にはまさに多佳子のいうように「瑠璃」の虹色を帯びた個体もいる。「砲塁」跡が何処かは不明。太平洋戦争末期の本土防衛のために日本各地で海岸直近に砲塁は建てられたが、幕末のそれらも多くあり必ずしも直近のそれとも断定は出来ない(寧ろ、幕末期のそれの可能性の方が高いか。とすると福岡か)。ロケーションの分かる方は御教授下さると嬉しい。]

 

高まりつゝ野分濤来るはや砕けよ

 

野分濤群れ来る歓喜生き継ぐべき

杉田久女句集 263 花衣 ⅩⅩⅩⅠ 春晝や坐ればねむき文机

 

  花衣時代 一句

 

春晝や坐ればねむき文机

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では、昭和七(一九三二)年のパートに同じく『花衣時代』の前書で六句載るその冒頭の句である。因みに他の五句は直ぐ後に出る『蒲生にて 五句』と同一である。本句集でこの一句を独立させたところに、久女の本句に対するなみなみならぬ自信のほどが見てとれる。久女を知る人には言わずもがなであるが、ここで一応注しておくと、俳誌『花衣』は、久女が昭和七(一九三二)年三月に主宰誌として創刊した女性だけの俳誌『花衣』を創刊し主宰となったが、この『花衣』は同年九月の五号を以って廃刊となった。長女石昌子氏編の底本年譜によれば『家事の多忙と雑務に追われ作品の低下するのをおそれたのが理由だった』とある。続く同年の記載には『この頃より久女は俳句作者として生涯を打ち込む決意を』したとあり、また、『句集出版の志を持ち、序文を虚子に願うも承諾されなかった』のもこの時であったとある。――気怠い春昼……文机に前屈みに凭れる……春愁に沈む麗人……それが俳人久女その人の絵姿であったのである……]

にこにこ正月   山之口貘

[やぶちゃん注:以下、本ブログ・カテゴリ「山之口貘」で示す五篇は思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の「その他の既刊詩集未収録詩篇」に載る、初出の確認が出来なかった残されていた原稿の中で定稿或いは清書原稿に近いと編者松下博文氏によって判断され選択された作品である。これは、そうした判断や選択から除外された草稿類が多く残存することを意味するのであるが、それらは同新全集第四巻(二〇一四年七月現在未刊)で公開されるものと思われる。

 注が容易と思われる詩から順に選んだ関係上、ブログ版では以下の詩篇の順列は底本とした上記新全集の順列とは異なる。上記新全集の順列は、

 

 沖縄舞踊

 にこにこ正月

[やぶちゃん補注:この間に「坂」という詩が入るが、これは底本製本終了後にバクさんの詩友淵上毛錢(本名、喬)の詩であることが判明、「訂正とお詫び」の投げ入れが入る。バクさんは彼の詩集の序詩(昭和一八(一九四三)年一月詩文学研究会(東京市麻布区霞町)発行の「淵上喬詩集 誕生」の序文が初出。詩集「鮪に鰯」に収録された例の「チェロ」である)も書いている。思潮社の投げ入れによれば、この詩稿は不思議なことにバクさんの自作自筆原稿の中に作者を記さずに混入していたためにこのような事態が出来した旨の記載がある。既に昭和四七(一九七二)年に国文社から刊行された「淵上毛銭全集」の拾遺詩篇に「坂」として全く同一の詩篇が載っているとある。正直言うと、新全集を手にした際に一番吃驚したのはこの大きなミスであった。]

 お金の種類

 龍舌蘭

 (いつもは……)

[やぶちゃん補注:最後の『(いつもは……)』は説明がないが、詩題がないために、一行目の詩句にリーダを配して丸括弧で括って仮に示したものと思われる。私は無題とした。]

 

である。この順列については解題に説明がないが、底本の配列全体に細心の緻密な配慮をなさっておられる松下氏のことであるから、バクさんの癖である逆編年順列を考証しての配置であると私は思っている。]

 

 にこにこ正月

 

あけまして おめでとう

どの子も にこにこ

おめでとう

 

ひろ子ちやんも おめでとう

みゝ子ちやんも おめでとう

はねをついて にこにこ

まりをついて にこにこ

 

まことちやんも にこにこ

凧々あがれ おめでとう

天まであがれ おめでとう

 

みずえちやんも にこにこ

小さな おてゝに

大きな

みかんのお正月 おめでとう。

 

[やぶちゃん注:拗音表記がないのはママ。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題では『掲載紙不明』とし、『原稿は一枚のみ』で『(正月の朝)に類する』と注記する。正月朝」は底本の「既刊詩集未収録詩篇」(旧全集は「児童詩」)のパートに所収するもので、初出は昭和三一(一九五六)年新年特大号「小学五年生」である。そこではミミコ(泉)さんが登場し、年齢を言うシーンが出ることから私は『これはシチュエーションとしては実に正しく前年昭和三十年のお正月の景であることを表わしている。バクさんは満五十一歳』と注した。「にこにこ」というリフレインという共通性、「みゝ子ちやん」の登場からも、この「おめでとう」は「正月の朝」と同一時期でしかも同一シチュエーションを素材とした創作のようには思われる。バクさんが有意に年月をおいて似たフレーズを詩篇で濫用することはあまりないように思われるからでもある。問題は拗音表記の有無で、「正月の朝」は拗音が表記されてあり(「いった」二箇所と「ちょっと」二箇所)、そこから遡って「既刊詩集未収録詩篇」を調べると、拗音表記がない詩篇は「古びた教科書」(児童詩。松下博文氏の解題によれば昭和三〇(一九五五)年頃の創作と推定される)である。しかし、この「古びた教科書」での松下氏の推定が正しいとするなら、やはり本詩「おめでとう」が昭和三十年の創作である可能性が結果として高くなるのである。]

2014/07/30

飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 秋

〈昭和十二年・秋〉

 

山川は鳴り禽たけく胡桃(くるみ)熟る

 

露の瀬にかゝりて螻蛄(けら)のながれけり

 

露さむや娘がほそ腰の力業

 

藷堀りの小童(こわつぱ)のせて片畚

 

[やぶちゃん注:「片畚」は恐らくは「かたもつこ(かたもっこ)」と訓じていよう。「畚」は通常は「ふご」と読み、竹・藁・縄などを網状に編んで四隅に吊り紐を附けた物や土砂などを入れて運ぶ用具のことであろう。これはこれから芋掘りに向かおうという農夫が天秤棒の先にもっこを提げそこにその子を乗せて悠々と行く景と私は採った。]

 

落穗簸(ひ)る身重の妻女歳老けぬ

 

[やぶちゃん注:「簸る」は、箕(み)で穀物を煽って籾殻や塵芥を除き去るの意。]

 

野みちゆく秋の跫音したがへり

 

零餘子おつ土の香日々にひそまりぬ

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「零餘子」は「むかご」である。]

 

霧さぶくこずゑに禽はあらざりき

 

蔬菜園矮鷄(ちやぼ)鳴く霧に日ざしけり

 

黍熟れて刈敷(かりしき)の萱穗にいでぬ

 

[やぶちゃん注:「刈敷」は伝統的な施肥法の一つで、春先から初夏にかけて山林から刈り取った柴草・雑木の若葉・若芽や稲藁・麦藁などを水田に敷き込むことをいう。ここは来年のそれになる「萱」(かや)が「穗」となって出初めたというのであろう。]

 

露の香にしんじつ赤き曼珠沙華

 

草川のそよりともせぬ曼珠沙華

 

初栗に山土の香もすこしほど

 

蘡蔓(えびづる)のここだく踏まれ荼毘の徑

 

[やぶちゃん注:「蘡蔓」はバラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅル Vitis ficifolia 。蔓(つる)性落葉木本で雌雄異株。古名は ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiaeとともに「葡萄蔓」(エビカズラ)と呼んだ。「ここだく」は「幾許」で「ここだ」とも読み、副詞で程度の甚だしいさま。]

 

歸燕とび雲ゆく大嶺秋花滿つ

 

牧婦織り歸燕すずろになきにけり

 

  甲府郊外朝氣

 

菩薩嶺は獄(ごく)はるかにて歸燕ゆく

 

[やぶちゃん注:「菩薩嶺」大菩薩峠。]

 

  郡内吉田宿

 

天澄みて火祭畢へぬ秋つばめ

 

[やぶちゃん注:「吉田宿」現在の山梨県富士吉田市。富士山の山仕舞の時期に当たる八月下旬に催される日本三奇祭の一つ、「吉田の火祭」で知られる。]

 

乳牛鳴き秋燕は迅く花卉越えぬ

 

卵とる人影かこつ秋の雞

 

秋果つむ荷船の景もときあげぬ

 

雌は噎(む)せて粟はみたてる軍雞の雄

 

軍雞乳むみぎりの荏の香ながれけり

 

[やぶちゃん注:「乳む」は本文ルビ既出で「つるむ」。「荏」はエゴマ。既注。ここは「ごま」と訓じているか。]

 

芙蓉咲き風邪ひく山羊の風情かな

 

秋の苑花卉日月をはるかにす

 

鑛山のひぐらし遠くなりにけり

 

屍室の扉梧(きり)の蜩ひびきけり

 

[やぶちゃん注:単なる直感だが、鉱山附属の病院の霊安室か。]

橋本多佳子句集「紅絲」 忌月Ⅲ

 

秋燕となりて一日(いちにち)天にばかり

 

秋の蝶吾過ぐるとき翅ゆるめよ

 

霧中にみな隠れゆく燈(ひ)も隠る

 

いなづまに誘はれ飛びて蝶はづかし

 

頭(づ)あぐればかなしさ集ふ野分あと

 

白露やわが在りし椅子あたゝかに

 

荒百舌鳥や涙たまれば泣きにけり

 

百舌鳥の下みな雨ぬれし墓ばかり

 

墓と共に花野に隠れゐたかりし

 

傘いつも前風ふせぎ雨の百舌鳥

 

秋風や鶺鴒二つ飛びたる白

 

断崖や激しき百舌鳥に支へられ

 

叫びても翅濡る雨のの百舌鳥なれば

 

老いよとや赤き林檎を掌に享くる

杉田久女句集 262 花衣 ⅩⅩⅩ

 櫻の句

 

  一 延命寺(小倉郊外) 三句

 

釣舟の漕ぎ現はれし花の上

 

花の寺登つて海を見しばかり

 

花の坂船現はれて海蒼し

 

[やぶちゃん注:「延命寺」現在の福岡県北九州市小倉北区上富四丁目にある黄檗宗東北山延命寺。恒武帝の延暦二一(八〇二)年に最澄入唐の前に一夜霊夢に感じて開山したという古刹であるが、慶応二(一八六六)年の小倉戦争で長州軍により火をかけられて焼失、その後、明治元(一八六八)年に現在の寺として再興された。ネット上の記載によれば、ここは本州との海路の玄関口でもあり、寺の高台からは関門海峡が臨めるとある。]

 

 

  二 阿部山五重櫻(花衣所載) 四句

 

傘をうつ牡丹櫻の雫かな

 

[やぶちゃん注:「牡丹櫻」八重桜のこと。グーグル画像検索「牡丹。]

 

うす墨をふくみてさみし雨の花

 

[やぶちゃん注:「うす墨」次の句にも出る淡墨桜は狭義には岐阜県本巣市の淡墨公園にある樹齢千五百年以上のエドヒガンザクラの古木を指し、蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわに特異な淡い墨色になり、名はこの散りぎわの花びらの色に因む(ウィキ淡墨桜」に拠る。グーグル画像検索「淡墨桜)。一重。これを分けたものか。]

 

雨ふくむ淡墨櫻みどりがち

 

花の坂海現はれて凪ぎにけり

 

[やぶちゃん注:「阿部山五重櫻」これは安部山の誤りではあるまいか? 安部山公園ならば、現在の福岡県北九州市小倉南区安部山にある。小倉南区北端部の足立山(標高五九七・八メートル)の南麓にある公園で、敷地は小倉南区安部山と湯川四丁目及び大字葛原に跨る。参照したウィキの「安部山公園によれば、安部山の地名は、明治三八(一九〇五)年に『この地を開墾し果樹や桜を植えて公開した小倉市生まれの農業指導者である安部熊之輔に由来し』、『園内には約700本の桜が植えられており、花見の名所となっている』とある。しかし前書の「五重櫻」の意が不詳。八重ほどでないということか。しかし薄墨桜は一重であるから解せない。識者の御教授を乞う。]

 

  三 八幡公會クラブにて 六句

 

掃きよせてある花屑も貴妃櫻

 

[やぶちゃん注:「貴妃櫻」楊貴妃桜。サトザクラ(グーグル画像検索「サトザクラ」)の一品種で花は大きく淡紅色の八重咲き。グーグル画像検索「楊貴妃桜。]

 

風に落つ楊貴妃櫻房のまゝ

 

花房の吹かれまろべる露臺かな

 

むれ落ちて楊貴妃櫻房のまゝ

 

むれ落ちて楊貴妃櫻尚あせず

 

きざはしを降りる沓なし貴妃櫻

 

[やぶちゃん注:坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、六句とも八幡製鉄所の迎賓館であった八幡公餘倶楽部(現在は新日鐡の研修所である高見倶楽部)とする。するとこの前書の「八幡公會クラブ」(底本表記は「八幡公会クラブ」)の「會」は「餘」の誤りとも考えられる。]

石神井東中学校々歌   山之口貘作詞(案) ★注意:不採用

 石神井東中学校々歌   山之口貘作詞(案)

[やぶちゃん注:「山之口貘作詞(案)」は私が附した。この校歌は不採用となったものである。後注参照。]

 

むかしをしのぶ     武蔵野の

緑の原に        そゝり立つ

甍(いらか)がもとに  つどひ来て

われらは学ぶ      若人ぞ

 

秩父の山脈(なみ)に  胸を張り

はるかに富士を     ながめつゝ

四季の色彩(いろどり) めぐまれて

そだつわれらは     若人ぞ

 

文化日本を       背負ひ立つ

われらの肩に      力あり

いざ若人よ       もろともに

理想を高く       掲げなん。

 

[やぶちゃん注:所収する思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、創作は昭和三三(一九五八)年頃。現在の練馬区立石神井東中学校の校歌は草野心平の作詞(渡辺浦人作曲。同校公式サイトで確認。新全集解題は「渡辺浦」とするが脱字か)で、昭和三三(一九五八)年三月一日に校歌として制定されているとある(採用された草野心平のそれは二番の頭で「秩父山脈(ちちぶやまなみ)」を詠んでいる以外は、詩句も構造(草野版は二番まで)も似ていない)。但し、草野心平はバクさんと同い年の詩友でもある。あくまで推測であるが、依頼されて作ったものの、何らかの注文がつけられて厭になり、草野心平に頼って、結局、譲ったものなのかも知れない。]

彦根市立西中学校々歌   山之口貘

 彦根市立西中学校々歌

 

むかしも文(ふみ)の  華(はな)さきし

城のふもとに      つどいきて

学ぶわれらは      西中健児

「おのこの瞳(ひとみ) 陽(ひ)にもえて」

「み空の星か      おとめの瞳」

われらがひこね     西中の

夢はうるはし      もろともに。

 

伊吹の山        琵琶の水

四季のながめに     めぐまれて

そだつわれらは     西中健児

「おのこの瞳      陽にもえて」

「み空の星か      おとめの瞳」

われらがひこね     西中の

こころはつよし     もろともに。

 

ひこねの要(かなめ)  金亀(きんき)の城に

われらは文化の     要ぞと

西中健児の       意気映(は)ゆる

「おのこの瞳      陽にもえて」

「み空の星か      おとめの瞳」

われらがひこね     西中の

希望はたかし      もろともに。

 

 *昭和二十七年四月二十八日 日本独立の日に

  彦根市立西中学校の前途に幸多からんことを祈りつゝ

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年十一月に滋賀県彦根市立西中学校校歌として正式に制定されたもの(作曲は静岡県浜松市出身の音楽家市川都志春氏)。「滋賀県彦市立西中学校の校歌」で男女混声二部合唱(詩中の鍵括弧部分男声女声個別パート。但し、以下のリンク先を見て戴くと分かるように、「おのこの瞳/陽にもえて」は女声パート、「み空の星か/おとめの瞳」は男声パートなので注意されたい)の本歌を聴くことが出来る。男女混声二部合唱の校歌というのは恐らく極めて珍しいものと思われる(リンク先では『全国唯一の』とある。因みに私の母校である富山県高岡市立伏木中学校は「伏木中学校の歌」であって校歌ではない。これが校歌の代わりなのである。校歌のない学校というのもやはり珍しいと思う。以下の私のブログ僕の中学校――「伏木中学校の歌」――記事内の下の方の『この「歌」』の同中学公式サイトのリンク先で、伏木の出身で同中学校卒業生でもある作家堀田善衛氏の作詞になる詞本文と歌曲自体(作曲は団伊玖磨氏)を聴くことが出来る)。

「昭和二十七年四月二十八日 日本独立の日に」とは第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約「日本国との平和条約」(Treaty of Peace with Japan:昭和二七年条約第五号。別名「サンフランシスコ条約」「サンフランシスコ平和条約」「サンフランシスコ講和条約」)が発効した日である。参照したウィキ「日本国との平和条約」によれば、前年の昭和二六(一九五一)年九月八日にサンフランシスコに於いて『全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された』。『この条約によって正式に、連合国は日本国の主権を承認』、『国際法上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。条約に参加しなかった国との戦争状態は個別の合意によって終了している』とある。]

うちのしろ   山之口貘

 うちのしろ

 

わんわん わんわん

わんわん ほえるのが

わんわんくんの

やくめだ

 

わんわん わんわん

しろが ほえたてた

でっかい トラックに

ほえたてた

 

わんわん わんわん

わんわん ほえるのが

わんわんくんの

やくめだ

 

わんわん わんわん

しろが ほえたてた

みみずが うごいたら

ほえたてた

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三八(一九六三)年二月発行の『児童ブック ことり』(東京都渋谷区上通(かみどおり)の国際情報社発行)。現在、砕身の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の「既刊詩集未収録詩篇」の中で最も新しい、則ち、最後のバクさんの詩である。「鮪に鰯」の冒頭と二番目にある「ひそかた対決」(昭和三八(一九六三)年三月号『小説新潮』初出)]と「弾を浴びた島」(昭和三八(一九六三)年三月号『文藝春秋』初出)の直前、三番目にある「桃の花」(昭和三八(一九六三)年二月二十一日附『家庭信販』初出)と同時期か若しくは先の発行になり、これら、現存するバクさんの最後の詩篇群の一篇である。]

りんね   山之口貘

 りんね

 

朝になつたり

夜になつたりして

その日その日が廻つて

 

朝になつたり

夜になつたりして

その月その月が廻つて

 

朝になつたり

夜になつたりして

その年その年が廻つて

 

どの人もどの人も

起きては地球を廻して

地球を廻してはまた寝て

 

窓の上では

誰だか

タクトを振りつ放し

 

[やぶちゃん注:標題の平仮名書きと最終行の「振りつ放し」はママ。昭和三七(一九六二)年二月頃から翌昭和三八(一九六三)年二月頃の創作と推定される一篇(根拠は底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題を参照されたい)。詩集「鮪に鰯」の編纂用詩篇原稿群の中に含まれていることから、『鮪に鰯』への収録を検討した一篇と推定される。実際には採られていない。]

吾家の歌   山之口貘

 吾家の歌

 

七坪ほどからはじまったのが

九坪になり十坪になって

いまでは十一坪の設計となったのだ

さてしかしこの吾家

どこに建つのか

いつ建つことなのか

建たないうちは夢なので

どこに建つのやら

いつ建つのやら

科学的には知る手がかりもないのだが

生きてゐるうちには

建てるつもりで

どんなに遅くなるにしても

棺桶よりは先に吾家を

どこかに建てるつもりなのだ

 

[やぶちゃん注:初出未詳。未発表かも知れない。昭和三七(一九六二)年二月頃から翌昭和三八(一九六三)年二月頃の創作と推定される一篇(根拠は底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題を参照されたい)。詩集「鮪に鰯」の編纂用詩篇原稿群の中に含まれていることから、『鮪に鰯』への収録を検討した一篇と推定される。実際には採られていない。]

あわてんぼう   山之口貘

 あわてんぼう

 

朝のごはんのとき あわてて

あついみそしるで したをやけどした

「おお あつい」とさけんだら

おかあさんが しかめっつらをして

「なにを そんなにあわてるんです」

といった。

 

駅まえの ふみきりのところで

しゃだん機が おりかけたとき

いそいで 通りぬけようとしたら

横から おとうさんが

ぎゆつと えりくびをつかんで

「おっとあぶない あわてるな」といった。

 

節分の夜 大きな声をはりあげて

ぼくが まめまきをしていると

うしろのほうで みんなのわらい声がした

ふりかえると にいさんが

「あわてんぼうだなあ

ふくは外 おには内じゃないんだよ

ふくは内 おには外だ」といった。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三七(一九六二)年二月号『小学四年生』。]

物の表情   山之口貘

 物の表情

 

生れたついでに

生きて

生きるついでに

結婚したのか

ついではそこでまた腰をあげるのだが

もうなんにもいふな

金を借りに行くのも

これまた結婚の

ついでなのだ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三四(一九五九)年五月四日附『読売新聞』。詩集「鮪に鰯」の編纂用詩篇原稿群の中に含まれていることから、『鮪に鰯』への収録を検討した一篇と推定される。実際には採られていない。]

丸いうで時計   山之口貘

 丸いうで時計

 

おじさんの時計

 四角だねと ぼくがいうと、

それじゃ おじさんの

 この顔みたいだ、

と おじさんは 自分で そういった。

おじさんは ぼくに、

 おまえも 時計がほしいか ときいた。

ぼくが こっくりをすると、

 ぼんぼん時計の

  大きなのかい といった。

ぼくは うで時計の

 丸いのがほしいんだ というと、

おやおや それじゃ

 おまえの顔みたいに

 まん丸いのかい、

と、そういった。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三三(一九五八)年六月号『小学三年生』。]

掌と人工衛星   山之口貘

 掌と人工衛星

 

わんと云へば

わんと云ひ

お坐りと云ふと

お坐りをして

懸命にしつぼを振つてゐるあなた

 

ついこの間のことあなたの仲間がひとり

夢みたいな機械のなかに閉ぢ込められて

はるか地球の彼方に旅をしたらう

そのことについて

あなたはどうおもつてゐるか

 

あなたはそこにゐてしつぽを振つてゐるが

ほくおせんべいなんか

持つてゐやしないよ

わんわん云つても無駄なんだよ

これこの通りだ

なんにも持つてゐやしないよ。

 

[やぶちゃん注:初出未詳。未発表か。内容から昭和三二(一九五七)年十一月三日以後、それからほど遠からぬ頃の創作と推定される。

 ウィキスプートニク(ロシア語“Спутник-2”:「スプートニク」は「付属するもの」の意から「衛星」「人工衛星」の意となったもの)によれば、ソビエト連邦が一九五七年十一月三日に打ち上げた人工衛星で世界初の宇宙船(イヌを乗せたことから)で、『この成功により有人宇宙船の可能性が開けるものとなった』。前月十月の『スプートニク1号に続くスプートニク計画における2つめの機体である。円錐の形状をしており、ライカという名称で知られるイヌ』(メスの野良犬であった)『が乗せられていた』(「ライカ」は犬のニックネームで犬種ではない。後述)『スプートニク2号はライカを乗せるために宇宙船として気密が保てるようになっており、内部に生命維持装置が付けられていた。地上への帰還は当初より考慮されず、大気圏に再突入し安全に着陸するための装備はなかった。計画では必要な酸素が尽きる10日後にライカは死ぬだろうと考えられていた』。『衛星は無事に軌道に投入されたものの、ロケットから正常に分離されず、結合したままとなった。これに加え断熱材も一部損傷し、熱制御が妨げられた。船内の温度は40℃にまで上昇した』。『ライカが実際にどれだけ生きながらえたかは正確には分かっていない。初期のデータではライカが動揺しつつも食事を取る様子が伺われた。その後は上記の熱制御の問題で異常な高温に晒されたため、1日か2日程度しか持たなかったと考えられている』。『スプートニク2号からの通信は11月10日に途絶え、更に打ち上げ162日後の1958年4月14日に大気圏に再突入し消滅した』とある。

 ウィキライカ」によれば、実はこの時この衛星に載せた犬の「ライカ」というのはその雌の野良犬に実験者たちがつけた名前であるとする。私も今日まで誤解していたのだが、これは犬種名ではないそうである。西側で「ロシアン・ライカ」と呼ばれるロシア原産のスピッツ・タイプの犬種は存在するものの、スプートニクに載せた犬はスピッツ・タイプではあったが、「ロシアン・ライカ」種ではないそうである(この部分についてはウィキロシアン・ライカに拠る)。

 以下、重複する部分もあるが、ウィキライカ」の記載も引用しておく。『1957年11月3日、ライカを乗せたソ連のスプートニク2号はバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、地球軌道に到達した。それ以前にも米ソが動物を宇宙に送り出していたが、弾道飛行のみで軌道を周回するまでは至っていなかった』。『実験にオスではなくメスの犬が選ばれたのは、排泄姿勢の問題からである』。『スプートニク2号は大気圏再突入が不可能な設計だったため、1958年4月14日、大気圏再突入の際に崩壊した。ライカは打ち上げから10日後に薬入りの餌を与えられて安楽死させられた、とされていた』。『しかし、1999年の複数のロシア政府筋の情報によると、「ライカはキャビンの欠陥による過熱で、打ち上げの4日後に死んでいた」という。さらに2002年10月、スプートニク2号の計画にかかわったディミトリ・マラシェンコフは、ライカは打ち上げ数時間後に過熱とストレスにより死んでいた、と論文で発表した。ライカに取り付けられたセンサーは、打ち上げ時に脈拍数が安静時の3倍にまで上昇したことを示した。無重力状態になった後に脈拍数は減少するも、地上実験時の3倍の時間を要しストレスを受けている兆候が見られた。この間、断熱材の一部損傷のため、船内の気温は摂氏15度から41度に上昇し、飛行開始のおよそ5~7時間後以降、ライカが生きている気配は送られてこなくなったという。結論としては“正確なところはわからない”ということである』とある。

 本詩は詩句表現からは中学生向けの少年詩のように見えるが、私には何かひどく強い衝撃を感じさせる大人への詩のように感じられてならない。……

……小さな頃、私と同じ年の「ライカ」ちゃんは「むごたらしく」安楽死させられたのだと、私もその報道を残酷だなあと思いながら信じきっていた……いいや、事実は、もっといい加減で、もっと残酷だったのだ……バクさんは、この時、もうそれを、敏感に嗅ぎとっておられたのかも知れないなぁ…………


Laika

もうすぐ冬だ   山之口貘

 もうすぐ冬だ

 

木ぎの葉っぱを

ふり落しながら

つめたい風が ふいて来る。

森や 林をふきぬけて

風は 急いで 冬を運んで来る。

ふるえて立っている

はだかの かきの木たち、

ふるえて立っている

はだかの くりの木たち。

ぼくは はなの頭を

まっかにしながら

風を切って 急いでいる。

はなを すすって

学校の門に とびこむと、

はだかの 大きな いちょうの木が

風にたえて 立っている。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三二(一九五七)年十二月号『小学三年生』。]

みどりの五月   山之口貘

 みどりの五月

 

みどりの季節

こころのおどる五月

庭や林にみどりがあふれ

山にも森にもみどりがあふれ

絵筆をにぎつて

立っている人の

こころもそこでおどってか

カンバスにあふれた

みどりの五月

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三二(一九五七年五月号『小学五年生』。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 11 東北スケッチⅤ 鮎挿し(弁慶) / 卵苞

 一番主な旅籠屋へ行って見たら、部屋は一つ残らず満員で、おまけに村中の、大小いろいろな旅館を、一時間もかかってさがしたが、どこも泊まることが出来なかった。たった数時間前、二百名の兵士の一隊が到着したばかりで、将校や兵士の多くが旅館に満ちていた。で我々は、-人の村人が村の有力者をさがし出し、我々の苦衷を説明し、何等かの私人的の便宜を見つけて貰う可く努める間、極度に空いた腹をかかえ、疲れ果てて暗闇の中に坐っていた。日本には、外国人が個人の住宅に泊ることを禁じた法律があるので、我々は全く絶望していた。最後に我我が休息していた満員の旅館の、ほとんど向う側にある個人の住宅に、泊めて貰えることになった。美麗で清潔な大きな部屋が一つ、提供されたのである。ここには蚤が全然いなかったが、すでに身体中に無数の噛み傷を受けていた私にとって、これは実に大なる贅沢であった。我々は美味な夜食の饗応を受け、翌朝は先ずその家の主人に、この歓待に対して何物かを受取ってくれと、大きにすすめて失敗したあげく、四時に出発した。村をウロウロしている田舎者以外に、長い行軍の後でブラついている兵隊も何人かいたが、私は敵意のある目つきも、またぶしつけな態度も見受けなかった。私は米国領事から数百マイルはなれた場所に、只二人の伴随者と共にいたのである。

[やぶちゃん注:二百名もの兵士というのは尋常ではない。これは陸軍の演習であろうと思われるが、確認出来なかった。]

 

図―434

 

 我々が巡った村の一つで、私は何か新しい物はあるまいかと思って、町の後の方へ行って見たら、ある家の中央の炉の上に大きな藁の褥(クッション)がつるしてあり、それに各々小魚をつけた小さな棒が、沢山さし込んであった。これは、こうして燻製するのである。日本人は燻した鱒(ます)を好む。そして捕えるに従って、長い、細い竹の串につきさし、それを図434に示すように、褥につき立てる。

[やぶちゃん注:「大きな藁の褥」「鮎挿し」である。また、七つ道具を背負った姿に喩えて「弁慶」とも呼ぶ。]

 

 鶏卵を、輸送するために包装する、奇妙な方法を、図435で示す。卵を藁で、莢(さや)に入った豆みたいに包み、これを手にぷら下げて持ちはこぶ。

[やぶちゃん注:卵苞(たまごつと)である。グーグル画像検索「と」。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 10 東北スケッチⅣ……推理の最後のツメでこけた! クソ!……(やぶちゃんの呟き)

 河を渡船で越し、道路に横たわる恐るべき崩壊の跡を数個所歩いたあげく、我々は一つの村へ近づいた。この時はもう暗くなりかけていた。我々は、非常に多数の人々が村からやってて来るのに出会ったが、これ等の殆ど全部が酒に酔って多少陽気になっていた。私は従来、これ程多くの人が、こんな状態になっているのに逢ったことがない。彼等は十数名ずつかたまって、喋舌ったり、笑ったり、歌ったりして来たが、中にはヒョロヒョロしているのもあった。路の平坦な場所は極めて狭いので、多くの場合、我我は彼等の間を歩かねばならなかった。彼等にとっては外国人を見ることは大きに珍しいので、絶間なく私を凝視した。村に着いた時我々は、相撲の演技が行われていたことを知った。群衆がいたのは、その為である。私がこの事を書くのは、天恵多き我国のいずくに於てか、人種の異る外国人が、多少酒の影響を受け、而も相撲というような心を踊らせる演技を見たばかりの群衆の間を、何かしら侮蔑するような言葉なり、身振りなりを受けずに、通りぬけ得るやが、質問したいからである。

[やぶちゃん注:「河を渡船で越し、道路に横たわる恐るべき崩壊の跡を数個所歩いたあげく、我々は一つの村へ近づいた」「この時はもう暗くなりかけていた」という叙述から、私はこれは青森を経った三日目の七月二十日午後六時二十分に到着した渋民村(現在の岩手県盛岡市玉山区渋民)ではなかろうかと推理している(翌日の発時刻も矢田部日誌が四時二十分とし、次段でモースが四時発とするのと一致するのである)

 そこで調べてみると、旧盛岡藩は相撲が盛んであったこと、現在でも各地で奉納相撲大会が行われていることが分かった。

 次に渋民村で相撲場を持ち、奉納相撲が行われていたであろう渋民村村民から厚く信仰されていた古い神社を調べるてみると、火伏せの守護神とされる岩手県盛岡市玉山区渋民字愛宕の愛宕神社に相撲場を確認出来た(安倍冨士男氏のサイト「奥州街道探訪の旅」の同神社の写真)。個人ブログ「石田道場」の愛宕神社(盛岡市玉山区渋民)の上から九枚目も同じものと思われる土俵跡が確認出来る。「石田道場」氏の記事は同神社の入口にある説明版の写真がある。電子化する。

   *

   愛宕の森

 この森の上に、愛宕神社が祀られている

総本社京都の愛宕神社の支社として、およそ

三百年前に建立された。防火の守護神として

村人に信仰され、毎年旧暦の六月と八月の

二十四日に例祭が催される。

 啄木は、ここを「命の森」と呼び、好んで

散策しては詩想を練った。この森の下に、

啄木が代用教員として教鞭をとった、渋民尋

常小学校があった。

   昭和四十八年三月

          玉  山  村

          玉山村観光協会

   *

 ここで奉納相撲が行われたのであれば、これは私の好きな啄木所縁でもあり、思わず小躍りしたくなるところなのであるが、実はそうは上手くいかない。問題なのは祭日で、モースが到着した明治一一(一八七八)年八月二十日は旧暦の七月二十二日で合致しないのである。非力な私ではここまで、である。別な神社か? そもそも渋民ではないのか?

 まことに残念であるが、ともかくも調べただけのことは記しておきたい。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 9 東北スケッチⅢ 436年前の日本でモース先生が無人販売所にびっくらこいた事

M433
図―433

 

 日本の北方の各地で、私は路の両側に、村から相当離れた場所に、大きな老木を頂に持つ大きな塚があるのに気がついた。これ等は村や町の境界を示すのだそうである。また路の所々に、瓜を売る小舎(図433)が建ててあった。瓜は我国のカンテロープ〔其桑瓜の一種〕 に似ていない事もないが、繊維がかたく、水分を吸う丈の役にしか立たぬ。もっとも東京附近にある同じ果実は、美味である。これ等の小舎に関する面白い点は、その殆ど全部に人がいないで、値段を瓜に書きつけ、小銭を入れた筋が横に置かれ、人々は勝手に瓜を買い、そして釣銭を持って行くことが出来る! 私は見知らぬ土地を、付き添う人なしで歩く自由と愉快とを味いつつ、仲間から遙か前方を進んでいた。非常に渇を覚えたので、これ等の小舎の一つで立止り、瓜を一つ買い求めようと思ったが、店番をする者もいないし、また近所に人も見えぬので、矢田部が来る迄待っていなくてはならなかった。やがてやって来た彼は、店番は朝、瓜とお釣を入れた箱とをそこに置いた儘、田へ仕事に行って了ったのだと説明した。私はこれが我国だったら、瓜や釣銭のことはいう迄もなし、このこわれそうな小舎が、どれ程の間こわされずに立っているだろうかと、疑わざるを得なかった。

[やぶちゃん注:「村や町の境界を示す」「大きな塚」境塚などと呼ばれるものである。江戸時代に公的に作られた藩境塚とは別に、村単位で作られたものがもとから存在した。

明治一一(一八七八)年から実に百三十六年も経った今も、私の日々の犬の散歩道(藤沢市内。但し、私の居住地は鎌倉市である)に幾らも当たり前に無人販売所がありますが……モース先生、きっと信じないよね?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 9 東北スケッチⅢ 436年前の日本でモース先生が無人販売所にびっくらこいた事

M433
図―433

 

 日本の北方の各地で、私は路の両側に、村から相当離れた場所に、大きな老木を頂に持つ大きな塚があるのに気がついた。これ等は村や町の境界を示すのだそうである。また路の所々に、瓜を売る小舎(図433)が建ててあった。瓜は我国のカンテロープ〔其桑瓜の一種〕 に似ていない事もないが、繊維がかたく、水分を吸う丈の役にしか立たぬ。もっとも東京附近にある同じ果実は、美味である。これ等の小舎に関する面白い点は、その殆ど全部に人がいないで、値段を瓜に書きつけ、小銭を入れた筋が横に置かれ、人々は勝手に瓜を買い、そして釣銭を持って行くことが出来る! 私は見知らぬ土地を、付き添う人なしで歩く自由と愉快とを味いつつ、仲間から遙か前方を進んでいた。非常に渇を覚えたので、これ等の小舎の一つで立止り、瓜を一つ買い求めようと思ったが、店番をする者もいないし、また近所に人も見えぬので、矢田部が来る迄待っていなくてはならなかった。やがてやって来た彼は、店番は朝、瓜とお釣を入れた箱とをそこに置いた儘、田へ仕事に行って了ったのだと説明した。私はこれが我国だったら、瓜や釣銭のことはいう迄もなし、このこわれそうな小舎が、どれ程の間こわされずに立っているだろうかと、疑わざるを得なかった。

[やぶちゃん注:「村や町の境界を示す」「大きな塚」境塚などと呼ばれるものである。江戸時代に公的に作られた藩境塚とは別に、村単位で作られたものがもとから存在した。

明治一一(一八七八)年から実に百三十六年も経った今も、私の日々の犬の散歩道(藤沢市内。但し、私の居住地は鎌倉市である)に幾らも当たり前に無人販売所がありますが……モース先生、きっと信じないよね?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 8 東北スケッチⅡ 明治11年当時の東北の正真正銘の電信柱

M432

図―432

 

 道路に添うて政府は、日本の全長にわたるべく電信を敷いている。この仕事を徹底的に行うやり方は、興味が深かった。電柱になる木は、地上、一、二フィートの場所で伐らず、根に近く伐るので、底部は非常に広く、そしてこの部分は長持ちさせる為に火で焦す。この広い底部は大地に入って、しつかりと電柱を立て支える。柱の頂点には、雨を流し散らす為に角錐形の樫の木片を取りつける(図432)。

[やぶちゃん注:「電柱になる木は、地上、一、二フィートの場所で伐らず、根に近く伐るので、底部は非常に広く、そしてこの部分は長持ちさせる為に火で焦す。この広い底部は大地に入って、しつかりと電柱を立て支える。」ちょっと意味をとりにくい。原文は“The trees to make the poles, instead of being cut a foot or two above the ground, were cut close to the roots, so that the base was very wide, and this part was charred to preserve it. This wide base gives it a much firmer hold in the ground.”で、これは通常ならば、電柱に用いる木は上下の太さが大きく異ならないように、根元から「一、二フィート」(約三十一~六十一センチメートル)の箇所を伐ってそこから上を用材とするところだが、そうせずに、有意に幅の広い根元近くから木を伐って使用している(だから埋設する部分が上部より有意に幅広で安定感が生ずる、ということを言っているもののように私には受け取れる。老婆心乍ら、この図は地下に埋設されている部分を含めて描かれた透視図である。左右に電線のように出ている(実は私は当初、こんな低い位置に電線を張るのか! とビビった)のは地面であって、これには電信線は描かれていない。個人ブログ「ふるさとの礎 なかしべつ伝成館」の丸太の電信柱さがしで北海道根室管内標津郡中標津町に現存するこのスケッチに近い丸太の電柱を見ることが出来る。必見。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 7 東北スケッチⅠ

M430
図―430

 

 北日本の家屋の屋根梁の多くは、赤い百合で覆われている。村を通過しながら、家の頂が赤い花で燃えるようになっているのを見ると、中々美しい。東京附近では、青い鳶尾(いちはつ)がこの装飾に好んで用いられるらしい。高くて広い、堂々たる古い萱葺の屋根が素晴しい斜面をなして軒に達し、その上に赤い百合が風にそよいで並ぶこれ等の屋根が、如何に美しいかは、見たことのない人には見当もつかない。これ等の萱葺屋根の軒には、厚さ三フィートに達するものもよくある。人々の趣味は、屋根を葺くのに、濃色の藁と淡色の藁とを交互に使用することに現れる。軒を平らに刈り込むと、濃淡二色の藁の帯が、かわるがわるに見える(図430)。

[やぶちゃん注:「赤い百合」不詳。この時期(八月中旬)に咲く赤い百合に似た花で、屋根の上の強い陽光にもよく堪え、乾燥に強く、立ち上がりがよくてよく根を強く張る植物(藁葺屋根の棟の上という条件はこれらを満たす必要がある。「鳶尾(いちはつ)」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum が好まれるのは、その根が棟部分を強くするからであるし、そもそも根をしっかり張れないものは簡単に吹き飛んでしまう)というとアオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea を思い浮かべたが、梅雨明けには開花が終わるからやや時期が遅過ぎる(但し、後段の盛岡の段で「蜀葵(たちあおい)が咲き乱れて」いるという描写が出る)。「百合」というところからは北方系のヒメユリであるユリ科ユリ属ミチノクヒメユリ Lilium concolor  var. mutsuanum か。しかしこれも七月上旬に開花が始まるから、やはりやや遅過ぎるように思える。ネット上の複数ワード検索や画像検索をかけたが、最早、藁葺屋根が失われつつある現在、モースや後に小泉八雲が感動した(「日本その日その日 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 初めての一時間の汽車の旅」の私の注を参照されたい)屋根(棟)菖蒲の画像すら覚束ない。齋藤優子氏のブログ「徒然日記」の「ジャーマンアイリス」にこのイチハツの学名について、『この学名は命名者の Maximowicz が日本の藁葺き屋根に植えてあるのを見て命名したそうで、 tectorum というのはラテン語で「屋根の」という意味。英語では Roof iris と言うそうです』。『イチハツが植えられたのは乾燥に強く、根がしっかり張ることで藁を押さえ、強風で家の棟が取られないようにする為とのことですが、目にも美しく何とも風情があります』とあり、牧野富太郎「随筆 植物一日一題」(東洋書館昭和二八(一九五三)年刊)から以下の一節も引用されておられる。『昔の東海道筋にあたる武蔵程ヶ谷(保土ヶ谷)の藁葺の家には、その家根の棟にイチハツが栽えてあって、花時にはその花があわれにも咲いてなお昔の面影をとどめている。もしも時の進みでこの藁葺の家がなくなれば、この風景が見られなく、きのうはきょうの物語りになるのであろう』。私も三十五年前に最後に鎌倉の光触寺前の藁葺の古民家の棟上に見た青々としたイチハツを思い出す。齋藤氏の記事のずっと下を見られたい。「川崎市の日本民家園で撮影されたもの」というキャプションの写真が辛うじて見られる。

「三フィート」九十センチメートル強。

「屋根を葺くのに、濃色の藁と淡色の藁とを交互に使用する」藁を葺く工程では基本は三層構造である。monmo 氏のブログ「茅葺き(かやぶき) 屋根」に図入りで解説が載る。ただ、確かに私も古式の神社の手の込んだ藁葺で、モースの描くような何層にもかなり詰って堅くなったそれが濃淡を繰り返しているのを何度も見たことがある。]

 

 昨年私は日誌に、百姓が屋根梁の末端に彼の一字記号をきざみ、それを黒く塗ることを記録した。これはこの優雅に書かれた漢字を見て、自然に推定したことであった。我々が旅行しつつある地方で、同じ字が見られる。矢田部教授は、これが水を意味する支那語であると語った。彼はこの文字が、火事を遠ざけるという、迷信があるのだろうと考えた。これは或は莫迦気(ばかげ)ているかも知れぬが、理解のある人が、ある種のことをいった後で木材を叩いたり、戸の上に蹄鉄を打ちつけたりすることだって、同様に莫迦げている。

[やぶちゃん注:「日誌」は本書ではなく、まさにモースの私的な日記を指す。私の記憶ではこれ以前にここに書かれているような記載はない。

「支那語」底本では直下に石川氏の『〔漢字〕』という割注がある。「水を意味する」について水の象形文字はこの画像を参照されたい(中文サイトから)。本邦では屋敷や土蔵の梁の端の部分や瓦の軒先部分・壁面の装飾(妻飾り・丑鼻などと呼ぶ)に火除けの呪(まじな)いとして、「水」や「龍」の字を書いたり、家紋や吉祥文様などが鏝絵などで描かれたりした。この火除けの呪いについての「水」の民俗学的論文としては江川隆進・池田俊彦共著「住まいと水の縁」(PDFファイル)が詳しい。

「理解のある人が、ある種のことをいった後で木材を叩いたり、戸の上に蹄鉄を打ちつけたりすることだって、同様に莫迦げている。」原文は“but no more ridiculous than to see an intelligent man rap wood after some statement or to nail a horseshoe over the door.”。これは欧米の呪(まじな)いと思われる。前者はよく分からないので識者の御教授を乞いたいが、後者はウィキの「蹄鉄」に、「魔除けとしての蹄鉄」の項があり、以下のように解説されてある。『扉に蹄鉄をぶら下げると魔除けになると信じられている文化圏があり、多くの国では幸運のお守りとも見なされている。一般的な迷信として蹄鉄の鉄尾(末端部分)が扉に留められていれば、幸運が舞い込むというものがある。しかし、両端が下に向いていると不運が舞い込むともいう。このあたりは文化圏によって異なり、2つの鉄尾が下を向いていれば幸運が舞い込むというものもある。むろん、蹄鉄が普及しなかった国ではこういった風習は見られない。ただし、日本でも自動車のフロントグリルに蹄鉄を模したアクセサリーを付けることが流行った時期がある。さらにそれは、馬は人間を踏まないということから、交通安全のお守りとして蹄鉄を自動車に付けたという説がある』。『蹄鉄による幸運も悪運も、それを掛けた人ではなく、その所有者に降りかかると信じられている地域もある。従って盗んだり、借りたりした蹄鉄からはどんな幸運も得ることは出来ないといわれている。ある地域では蹄鉄は人目に付くように留められておかないと何の効果もないといわれている』。『このような風習の起源は諸説ある。ケルト人がダーナ神族を鉄器と騎馬で打ち倒した事から、邪鬼などの異界の住人は鉄を嫌うという伝承が起こり、本来の民話や伝説が持つ意味は忘れ去られ、ただ幸運をもたらすという風習だけが残ったという説。後にカンタベリー大司教となった鍛冶屋の聖ダンステンが 悪魔から馬の蹄鉄を修理するよう頼まれた際、悪魔の足に蹄鉄を打ち付け、痛がる悪魔に、扉に蹄鉄が留められているときは絶対中に入らないという約束を取り付けようやく蹄鉄を取り外してやったことから悪魔除けとされた説。女性器の象徴を家の外壁に飾ることで悪魔の目をそらせ家への侵入を防ぐという風習が古くからあり、馬蹄が女性器を象徴したためこの悪魔除けの力が幸運のシンボルとなったという説。蹄鉄に打つ鋲の数が7(ラッキーセブン)だったためという説などがある』とある。いや、実に面白い。]

 

 馬に安慰を与える為の注意には、絶えず気がつく。我々も真似をしてよい簡単な仕掛は、馬の腹の下に広い布をさげることである。この布はしょっ中パタパタと上下して、最も届き難い身体の部分から、蠅を追い払う。

[やぶちゃん注:これは「障泥・泥障」と書いて「あおり」と読む本邦の馬具の付属具。鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)、即ち、鞍左右両側に結び垂らして、馬の腹の両脇を保護すると同時に、騎者を蹴上げた際の泥跳ねや馬の汗から防ぐためのもの。下鞍(したぐら)の小さい大和鞍や水干鞍に用い、毛皮や皺革(しぼかわ)で円形に作るのを例とするが、武官は方形として、「尺(さく)の障泥(あおり)」と呼んで用いた。モースが言う実用性とはちょっと主旨が異なる。]

M431

図―431

 

 我々が通りがけに見た漆の樹の幹には、面白く切口がついていた(図431)。人々はここから液を搔いて集めるのであるが、まるで態々(わざわざ)入墨で飾ったように見える。

[やぶちゃん注:長野県塩尻市木曽平沢「まる又漆器店」公式サイト内の漆の採集や「漆を科学する会事務局」の「うるしとうるしのうつわホームページ」のうるしの採取などを参照されたい。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 48 酒田 暑き日を海にいれたり最上川

本日二〇一四年七月三十日(陰暦では二〇一四年七月四日)

   元禄二年六月十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月三十日

である。この前日の十三日、芭蕉は鶴岡から赤川を行く川舟で発ち、酒田に着いた。翌日の十四日、酒田湊の豪商御城米浦役人(東西廻船の要所に配された城米輸送船の荷の積み替えや監視・管理を掌っていた幕府の米置場役人。ここ酒田湊は西廻廻船の要衝として幕命を受けた豪商河村瑞賢が設置した)寺島彦助安種(やすたね:号は詮道。)邸に招かれて、七吟連句(恐らくは歌仙)興行が行われた。

 

暑き日を海にいれたり最上川

 

  安種亭より袖の浦を見渡して

涼しさや海に入(いれ)たる最上川

 

涼しさを海に入たりもがみ川

 

暑き日を海に入ㇾたる最上川

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「継尾集」(つぎおしゅう・不玉編・元禄五年刊)で「曾良俳諧書留」も同句形で、そこでは、

 

  六月十五日、寺島彦助亭にて

涼しさや海に入れたる最上川    芭蕉

  寺島

  月を搖りなす浪のうき見る   詮道

 

と亭主が脇を付けている。日附が十五日となっているが、同じ曾良の「随行日記」の、

 

〇十四日 寺島彦助亭ヘ 被ㇾ招。俳有。夜ニ入歸ル。暑甚シ。

 

によって十四日の誤りと推定される。これによってこの「涼しさや」が初案と分かるが、これは既に決定稿とは印象が全く異なり、別稿・改案というより全くの別句としたくなるものである。所謂、芭蕉にしばしば見られる、有意に乖離した二様の創作時心情の併存という稀有の心的状態である(私は実はここにこそ芭蕉に対する深い魅力を感じている)。なお、この七吟連句は「曾良俳諧書留」には七句を並べただけで『末略ス』とあり、満尾したものが残されていない。

 第三句は「奥の細道菅菰抄(すがごもしょう)附録」=「奥細道附録菅菰後考」(梨一著・文政一二(一八二九)年少波写本)の、第四句目は「奥の細道曾良本」の初稿である。

 

 さて、頴原・尾形氏訳注の角川文庫「おくのほそ道」の発句評釈では、この日を「暑き夏の一日」とし、「暑き日」を直ちに水平線に沈む「太陽」を指すという解釈は、『芭蕉当時の句としては、そうした見かたや考え方はふさわしくない』とし、夕陽の海に沈む実景を知ることによって鑑賞を確かなものにするのは『少しもさしつかえない』、『しかし、「暑き日」の』(底本では傍点)『は、やっぱり直接太陽をさしたものではない』と、異常なまでに【「日」≠「陽」説】を否定する。

 ところが山本健吉氏の講談社学術文庫「芭蕉全句」では、逆に「日」を即物的な『沖に今しがた沈もうとする赤い大きな夕陽の景観と、最上川の押し流す力との間に、一つの対応を作り上げている。最上川が夕陽を水平線の彼方に押し入れようとしているものとして、表現している。「暑き日」を「暑き太陽」と取らず、「暑き一日」と取る解釈もあるが、句の味わいが落ちる。太陽と大河と、あたかも自然のエネルギーとエネルギーのが相搏(う)ような壮観であり、大景によって得た感動の句である』、と全く真逆の【「日」=「陽」限定説】を宣明する評釈が載る。

 個人的には、前者のような観念上の「暑き一日」を象徴する海に没する夕陽の実景として私は印象してきた。

 そもそも前者には、当時の詩人の観念には即物的な夕陽の物理的直截詠や包括的象徴的手法はなかったという肝心のその証左が挙げられておらず、何より、「暑き一日」鑑賞の一助とするに『少しもさしつかえない』がしかしその印象は全くの誤りであるということを知れ、というこの意味不明の、国文学者の人を食った非論理的な謂いが、すこぶる附きで不快である。

 かといって後者の山本氏のように、ジリジリと焼けつくような往年の日活映画みたような「太陽」でなくてはだめ! 「太陽」が「青春」そのものを短絡的にドラマライズする如きシャウト一点張りの主張も、ちょとついて行けない。

 加藤楸邨は「芭蕉の山河」でこの議論の多い問題に触れるが、『それにこだわらない方がよいであろう。自分の相伴ってきたこの最上川の流れを、今海に入れて涼しさが萌してきた。甚だしいこの暑き日』(楸邨氏の謂いなら「(陽)」と追記したくなる)『も海に入れてしまって、今眼前には最上川だけが涼しく海に流れこんでいるという気持ち』を詠んだものであり、『芭蕉の発想は横から眺めるというのでなく、対象とする物の中に入り立って、そこから機微の真実を把握してくるゆき方』をとる。この句の場合も『単なる眼前の景と限定するのでなく、最上川そのももの中に入り立ってゆくことを大切にしてみたいと思うのである』と美事、中庸の【「日」∨「陽」説】で記される。如何にも元国語教師然とした心地よい解説ではある(私も似たようなもってまわった言い方をしばしば教師時代にしたことを思い出すのである)。両説をいなすのではなく、体をくいっと捻ってかわした上に、分かったような分からないような禅語染みたオチをつけるである。両者の包括的相互象徴的共時認識と言わないところがミソである。それともやっぱり芭蕉の時代にこうした複合的比喩象徴やアウフヘーベンに似た観念はタブーだとでもいうのであろうか?

 安東節ではどうなるか、やっぱり最後はそこを楽しみにしていたのであるが、これが思ったより案外にしょぼいのである。安東次男は曾良の「随行日記」を披見してみたら当日の最後に『暑甚シ』とあるので、芭蕉が「涼しさや」から改稿した思い付きが分かった、と言うのみである。即ち、『甚暑にかさねて「暑き日」を持出したらかえって涼意をつよめるだろう、というところに滑稽の』それがある、と評するだけなのである。

 敢えて私の立ち位置に近いものを選ぶとすれば、凡そ教師時代の私とは対極乍ら、やはり根性ドラマ風の熱血系山本健吉先生のそれを最終的には支持する。インキ臭い輩は惟然坊風に、

 日を海にじゆつと入れたり最上川

とでもやらかさない限り、梗塞した頭脳には十七音が響かぬものらしい。これは冗談ではない。私はその音が確かに聴こえると本気で言っているのである。それは本段の直前にその音が聴こえるように芭蕉がちゃんおセットしていると考えているからである。前段、標高の高い羽黒山から月山・湯殿山は、登攀の大苦行はあったものの、「雪をかほらす」地であり、「ふり積む雪の下に埋もれて遲ざくら」が「かほる」地であり、「涼しさ」と「月の山」「ぬらす袂」の山行であった。「炎天(の梅花)」などは比喩の彼方へ去って涼風に冷感さえ添えている。しかしここで考えてみると、何故に芭蕉は、

 谷の傍らに鍛冶小屋と云ふ有り。此の國の鍛冶、靈水を撰みて、爰に潔齋して劔を打つ。終ひに月山と銘を切りて世に賞せらるる。彼の龍泉に劔を淬(にら)ぐとかや。

という考証をわざわざ挟み込んだのか? それはこの三山詣前から始まって体感し始めていた下界の「甚暑シ」(『曾良随行日記』にしばしば出る)という自然を捕らまえているからに他ならない。そうしてその直後、饒舌さを反転させて、「羽黒を立」ち「川舟に乘」って「酒田の湊に下る」までの急ぎに急いで削ぎに削いだ(これは「五月雨を」の句のような最上川の速さではなく、私はその川風の向こうにある、実は炎熱をこそ暗示させるものだと思っている)の文の後にあるのは「あつみ山や吹浦かけて夕すゝみ」の炎暑の昼間を表象する句であり、その次に本句「暑き日を海に入れたり最上川」が現われれば、それはまさに直前で鍛えに鍛え抜いた真っ赤になった「日」=「陽」の「劔」を最上川が「龍泉」たる海(「龍」と「海」とこれほどぴったり合致する語彙があろうか)にぐいっ! と差し入れて「淬(にら)ぐ」と読まない方が、私は鈍感だと断ずるものである。

 ともかくも私は――本句が大好き、なのである。

 以下、「奥の細道」の鶴岡・酒田の段を示すが、そこに出る「あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ」という句は、この後、象潟へ行って再び酒田へ戻ってから創られた句で、時系列上の操作が加えられている。従って象潟の句の後に再掲して評する。

   *

羽黑を立て鶴か岡の城下長山氏

重行と云ものゝふの家にむかへられて

俳諧一卷有左吉も共に送りぬ

川舟に乘て酒田のみなとに下ル

渕庵不玉と云醫師の許を宿とす

  あつみ山や吹浦かけて夕すゝみ

  暑き日を海に入ㇾたる最上川

   *

■やぶちゃんの呟き

 

「渕庵不玉」「えんあんふぎよく(えんあんふぎょく)」と読む。伊東玄順(慶安元(一六四八)年~元禄一〇(一六九二)年)。淵庵が医号で不玉は俳号。既出の大淀三千風が天和三(一六八三)年が酒田を訪れた際にその脇を付けている。この時、芭蕉に昵懇して蕉門に入った。現在の酒田市中町一丁目に不玉宅跡が残る以外、事蹟はあまり知られていない(以上はムーミンパパのサイト「旅のあれこれ」内の『奥の細道』ゆかりの俳人 伊東不玉を参照させて頂いた。不玉の脇句なども読める)。「醫師」は「くすし」。]

2014/07/29

北條九代記 卷第六 優曇花の説 付 下部女房三子を生む

      ○優曇花の説  下部女房三子を生む

同七月に、鎌倉藥師堂の谷(やつ)の邊(ほとり)に、淨密法師とて、獨り住みける僧あり。庵の前に、優曇花(うどんげ)の咲きたりとて、遠近に風聞す、謙倉中は申すに及ばす。近國の在々所々聞流(ききつた)へ聞流へ、貴賤男女群集して是を見ること夥し。二位禪尼この由を聞き給ひ、「優曇花とやらんは、世に希なる事に喩へて侍るよし、この比如何なる謂(いはれ)に依て、咲くべしとも思はれず」とて、近弘(こんぐ)上人を召して、優曇花の事を尋ねらる。上人、申されけるは、「抑(そもそも)優曇花と申すは、この世界の人の壽(いのち)、八萬歳の時に當りて轉輪聖王(てんりんしゃうわう)とて、須彌(しゆみ)の四洲を領じ給ふ威德不思議の大王、世に出給ふ。一千人の皇子(わうじ)を持ち給ひ、七寶を身に帶し、不足なる事一つもなし。國、豐に、民、賑ひ、風、枝を鳴(なら)さず、雨、塊(つちくれ)を破らず、五穀は耕作せざるに、自(おのづから)地より生じて、糠糟なし。衣裳は樹(うゑき)の枝に現れて、裁縫(たちぬふ)といこともなし。輪王、即ち車に召されて、須彌の四洲を廻り給ふに、大海の渚、黄金の沙(いさご)の上に、三千年催して、優曇花の開(ひらき)出でて、盛(さかり)はいとゞ久しからず。干潮(ひしほ)に咲きて、滿潮(みつしほ)に散り候。かゝる子細は、此比(このごろ)の生學匠(なまがくしやう)は知る事にても候はず、然るに、只今、乞丐(こつがい)法師が庵の前なんどに咲くべき花にては候はず。只賣僧(まいす)の結構なり」と、傍若無人にいひ散らされたり。二位禪尼は「誠にかゝる子細は始て聞き候。さて其優曇華は如何なる花の形(なり)にて候らん。木にて候か、草にて候か」と問(とは)れしに、上人、屹(きつ)となりて「其までは覺ず候」とて御前を立て歸られけり。當座にありける人々、さて麁末(そまつ)なる學者かなと笑(わらひ)合ひ給ひけり。二位禪尼は遠藤左近將監を召(めさ)れ、「善く見屆(みとどけ)て參れ」とて遣さる。歸(かへり)參りて申しけるは、「さしもなき事にて候、芭蕉の花の咲きたるにて、今は大方、散果(ちりはて)たり」とぞ言上しける。「昔より今に至る迄芭蕉の花は咲く事、希(まれ)なれば、世の人、是を優曇華の花と云習(いひならは)す。貴賤群集して見に來るも理(ことわり)なり」とて、何の御沙汰もなかりけり。同九月五日、大倉谷(おほくらがやつ)の横町(よこまち)に、ある下部(しもべ)の女房一度に三子を産みたり。兩子(ふたご)は世にあれども、三子(し)まで生む事は希有の例(ためし)なり。然れ共、先規(せんき)あればにや、三子を産めるには、官倉(くわんさう)の衣食を賜ひて、養育すといふ事、國史に載せられたり。其期(ご)九十日なりと、有職(いうそく)の人、申すに依て、二位禪尼より雜色(ざふしき)三人を彼(か)の家に付けて、養育すべき由、仰含(おほせふく)められ、子母(しぼ)の衣食を賜りける所に、三子ながら夭殤(えうしやう)すとぞ聞えし。是も鎌倉の珍事なりと人々、申し合はれけり。

 

[やぶちゃん注:優曇華の花の話は「吾妻鏡」巻二十六の貞応二(一二二三)年七月九日の条、三つ子誕生の話は同巻同二年九月五日・六日の記事に基づくが、特に前者は元は優曇華の花が咲いたと騒いでいるので、遠藤為俊に見に行かせたところ、芭蕉の花であったという単なる事実記載のみであるのに対して、こちらは遙かにシチュエーションを膨らましてあり、話柄として楽しめるように創られてある。因みに、政子による三つ子の養育は五日に即刻命ぜられたが、翌六日には三人とも亡くなったと「吾妻鏡」にはある(後掲)。

「優曇花」仏教経典で三千年に一度花が咲くという伝説上の花で、本文で近弘上人が述べる如く、その際に金輪王(転輪王の一人で金の宝輪を感得して須弥山の四州を統治する王。金輪聖王)が現世に顕現するという。本文では「八萬年」と異なる。

「藥師堂の谷」大倉薬師堂(現在の覚園寺)のある谷戸。

「近弘上人」不詳。鎌倉時代史をいろいろ学んできたが、聴いたことがない。筆者が仮想した、それこそ自身が「生學匠」でしかなかったピエロ的人物と思われる。

「糠糟なし」米糠や酒粕を貪るような貧窮の生活に喘ぐことがなくなる。

「乞丐法師」乞食坊主。「丐」も物乞いするの意。

「生學匠」有名無実の浅学の僧侶。

「芭蕉の花」は優曇華の花に擬せられ、そう呼ばれることがあった。

「三子を産めるには、官倉の衣食を賜ひて、養育すといふ事、國史に載せられたり」律令の令に記されてある。

 

 以下、「吾妻鏡」の貞應二 (一二二三) 年七月九日の記事。

○原文

九日庚戌。藥師堂谷邊有獨住僧。號淨密。於件坊前庭。優曇花開敷之由風聞。鎌倉中男女爲觀之成群。自二品遣遠藤左近將監爲俊。被見之處。芭蕉花歟之由申之云々。

○やぶちゃんの書き下し文

九日庚戌。藥師堂が谷(やつ)の邊りに獨住せる僧有り。淨密と號す。件(くだん)の坊の前庭に於いて、優曇花開敷(かいふ)するの由、風聞す。鎌倉中の男女、之を觀んが爲に群を成す。二品より遠藤左近將監爲俊を遣はして、見らるるの處、芭蕉の花か、の由、之を申すと云々。

 

 次に同九月五日及び六日の条。

○原文

五日甲辰。天晴。横町邊下女生三子云々。女人生三子。自官庫賜衣食。養育。是被載國史之由。有識申之。仍二品差國雜色三人。各可養育之旨被仰含。其上。母衣食同可被下行云々。」午刻。和賀江邊有火。」今日可被行御祈禱之由。於奥州御方。内々有其沙汰。藤内所兼佐爲奉行。是近日連夜天變出現之故也。

六日乙巳。下女所生三子皆殤死。

○やぶちゃんの書き下し文

五日甲辰。天、晴る。横町の邊りの下女、三子を生むと云々。

女人、三子を生めば、官庫より衣食を賜はりて、養育す。是れ、國史に載せらるるの由、有識(いうそく)、之を申す。仍つて二品、國の雜色(ざうしき)三人を差し、各々養育すべきの旨、仰せ含めらる。其の上、母の衣食、同じく下行(げぎやう)せらるべしと云々。」

午の刻。和賀江邊に火有り。」

今日、御祈禱を行らるべきの由、奥州の御方に於いて、内々に其の沙汰有り。藤内所兼佐(とうないところのかねすけ)、奉行たり。是れ、近日、連夜、天變出現するが故なり。

六日乙巳。下女生む所の三子、皆、殤死(しようし)す。

・「奥州の御方」北条義時。

・「藤内所」本来は藤原氏から任ぜられた内舎人(うどねり:供奉雑使・駕行時の護衛と天皇の身辺警護を担当)を藤内と呼称するが、これはその中務省に属する内舎人「所」の単なる勤務経験者を指していよう。

・「殤死」「殤」は若死にの意で、二十未満で死ぬ場合をいう。]

耳嚢 巻之八 入定の僧を掘出せし事

 入定の僧を掘出せし事

 

 寛政十一年の頃の八王子千人頭(せんにんがしら)萩原賴母(たのも)組千人同心某(なにがし)が、墓所の地面くへ候て餘程の穴ありける故、驚(おどろき)て内へ人を入れ見しに、巾(はば)六七尺其餘(そのよ)も四角に掘りたる所ありて、燈にて見れば鳧鐘(ふしよう)一つありて、一人の僧形、其邊(そのあたり)に結迦扶座の體(てい)なり。いかなる者よと、大勢松明(たいまつ)など入(いれ)て立寄(たちより)見しに、形は粉然と碎けて、たゞ伏せ鐘のみ殘りしゆゑ、僧を請じ伏鐘も其所に埋(うづみ)て跡を祭りしと。これ右萩原が親族、前の是雲語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:情報屋是雲二連発。この僧、八王子所縁の僧らしいが、どうも、私には信用におけぬ。なお、本話は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では巻之十に所収するが、標題も「入定の僧」で、以下の叙述も有意に異なるため、ここに全文を正字化して示しおくこととする(読みは歴史的仮名遣に直し、一部を省略・追加した)。

   *

    入定の僧の事

 

 寛政十年の八王子萩原賴母組同心組頭なりける栗原次郎右衞門、墓所俄(にはか)に窪むに付(つき)、怪しみて掘(ほり)ける處、八疊敷(じき)程廣く穴室(けつしつ)有り。其内に人坐(すはり)候樣成(やうなる)形見えし故立寄見ければ、無程(ほどなく)崩れて塵灰の如し。其脇に鉦(かね)一つ殘り其外調度あるやうなれど、委く腐れて其形わかるは右の鉦のみなり。右鉦などには年号などもありつらんを、其の祟りを恐れて其まゝに埋み、其處に印など建候よし。

   *

「委く」は、底本では校注の長谷川強氏によって「悉」の訂正注が右にある。

 こうした入定僧奇譚・怪談の類は私の得意とする分野で、既に、

章花堂「金玉ねじぶくさ 讃州雨鐘の事 附やぶちゃん訳注」

三坂春編(はるよし)「老媼茶話 入定の執念 附やぶちゃん訳注」

小幡宗左衞門定より出てふたゝび世に交はりし事 附やぶちゃん訳注」

上田秋成春雨物語 二世の縁 附やぶちゃん訳注

といった「耳嚢」の前後にある類話について電子化とオリジナル訳注を試みている。未読の方は、是非、お読みあれかし。この「耳嚢」よりもそれらは遙かに面白いことを請け合うものである。

・「八王子千人頭」八王子千人同心の総統括者。八王子千人同心は江戸幕府の職制の一つで、武蔵国多摩郡八王子(現在の八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団で、その任務は武蔵・甲斐国境である甲州口の警備と治安維持にあった。以下、参照したウィキの「八王子千人同心」によれば、徳川家康の江戸入府に伴い、慶長五(一六〇〇)年に発足し、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などによって組織されたものであった。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためであったが、甲斐が天領に編入、太平が続いて国境警備としての役割が薄れ、承応元・慶安五(一六五二)年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となっていた。江戸中期以降は文武に励むものが多く、優秀な経済官僚や昌平坂学問所で「新編武蔵風土記稿」の執筆に携わった人々(私の電子テクスト「鎌倉攬勝考」の作者植田孟縉もその一人)、天然理心流の剣士などを輩出した。千人同心の配置された多摩郡は特に徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は、同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされ、それが幕末に、千人同心の中から新撰組に参加するものが複数名現れるに至ったとも考えられている。十組・各百名で編成、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭(本話の主人公の役職)によって統率され、槍奉行の支配を受けた。千人頭は二〇〇~五〇〇石取の旗本として、組頭は御家人として遇された。千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。この事から、無為徒食の普通の武士に比べて生業を持っているということで、太宰春台等の儒者からは武士の理想像として賞賛の対象となった。八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられており、現在の八王子市千人町には千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。なお、寛政一二(一八〇〇)年に集団(一部が?)で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市の基礎を作った、とある。

・「萩原賴母組千人同心某」前に見る通り、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では名が示されてある。但し、この場合は八王子千人同心である萩原賴母の組の統括者である組頭とあって、ひらの同心ではない。名前の明記、入定僧の周囲の様子が本底本よりリアルであること(特に鉦の年号や祟りを恐れてなどとわざわざ書き入れてある)から、本底本をもとに更に後人(恐らくは色気のある筆写した人物辺りが)が都市伝説として補強するために書き直した疑いが濃厚であると私は思う。

・「寛政十一年」西暦一七九九年。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、九年前で比較的新しい都市伝説である。

・「巾六七尺其餘」一・八二~二・一二メートル余り。

・「鳧鐘」鉦鼓。叩き鉦(かね)。

・「結迦扶座」ママ。結跏趺坐。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 入定の僧を掘り出だいた事

 

 寛政十一年の頃の八王子千人頭(せんにんがしら)であられた萩原賴母(たのも)殿の組の、千人同心の一人で御座った某(ぼう)が、自家の墓所の地所が突然、陥没致いたによって、従者にそこを覗いて見させたところが、よほど大きなる穴が続いておることが判明致いたによって、驚き、ともかくもと、その穴の内へと人を入れさせてみたところが、幅六、七尺余りも、これ、正しく四角に掘りたる場所がその奥に御座ったれば、さらに燈を点して探らせたところ、叩き鉦が一つあり、一人の僧形を成した人の形と思しい「もの」が、その辺りに結跏趺坐の体(てい)にて、おるように見えたと申す。

 さればそれを聴いたる某、

「……そは、如何なる者ならん!……とくと検分致そうぞ!」

と、大勢にて松明なんどまで用意させて入り、その怪しい「もの」の近くまで寄って見たところが、

――突如!

――その形、粉々に砕け

――ただ、先の伏せ鉦ばかり残ったと申す。……

……されば、某、僧を請じ、その伏せ鉦も、その僧の座って御座った場所に埋め、跡を弔ろうて御座った、と。

 これ、当時、某の上司で御座った萩原殿の親族が、前話に出でたる僧是雲に直かに語った、ということで御座る。

耳嚢 巻之八 桑の都西行歌の事

 桑の都西行歌の事

 

 八王子を、桑の都と土俗申(まうし)習はしけるは、玉川を越してあざ川と云ふ小さき川ある邊なる由。絶景の土地なり。富士をもよく見る所なり。西行の歌なりとて、故老の申傳へしは、

 字(あざ)川をわたれば富士の雪白く桑の都に靑嵐たつ

いかにも氣性ある歌なれど、いづれの集にも見へずと、是雲といへる法師の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。西行伝承譚。和歌嫌いの私には退屈である。ウィキの「八王子市」に、『後北条氏および徳川氏から軍事拠点として位置づけられ、戦国時代には城下町、江戸時代には宿場町(八王子宿)として栄えた。明治時代には南多摩郡の郡役所所在地となり、多摩地域内で最も早く市制施行した。かつて絹織物産業・養蚕業が盛んであった為に「桑の都」及び「桑都(そうと)」という美称があり』、『西行の歌と伝えられてきた「浅川を渡れば富士の影清く桑の都に青嵐吹く」という歌もある』とある。

・「あざ川」「字川」浅川。現在の東京都八王子市及び日野市を流れる多摩川の支流の一つ。

・「是雲」耳嚢 巻之八 雀軍の事の法螺話に出る。比較的新しい根岸の情報屋である。

■やぶちゃん現代語訳

 

 桑の都西行の歌の事

 

 八王子を「桑の都」と土俗が言い習わすのは、多摩川を越して「あざ川」(浅川)という小さなる川がある辺りを狭義には指す由。

 絶景の土地で、富士をもよく見える所である。

 西行の歌であるとして、故老の申し伝えている和歌には、

 

 字(あざ)川をわたれば富士の雪白く桑の都に青嵐たつ

 

とある。

「……まあ、いかにも西行らしい和歌では御座るが、孰れの集にもこれ、見えませぬ。」

と、是雲と申す知れる法師が語って御座った。

飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 夏

〈昭和十二年・夏〉

 

楡がくり初夏の厨房朝燒けす

 

アカシヤに衷甸(ばしや)驅る初夏の港路

 

はしり出て藻を刈る雨に鳴く鵜かな

 

虹に啼きき雲にうつろひ夏雲雀

 

槻の南風飛燕の十字かたむけり

 

[やぶちゃん注:「槻」欅(けやき)。上句は「つきのはえ」と訓じていよう。この句、個人的に好きである。]

 

朝日夙く麓家の桐花闌けぬ

 

[やぶちゃん注:「あさひとく/ふもとやのきり/はなたけぬ」と訓ずるか。]

 

はつ蟬に忌中の泉汲みにけり

 

褸(る)のごとく女人のこゑや蚊ふすべす

 

軍雞乳(つる)み蕗の絮とびて夕映えぬ

 

[やぶちゃん注:「軍雞」は「しやも(しゃも)」、「絮」は「じよ(じょ)」でフキの花の綿毛様の種子のこと。]

 

ほとびては山草を這ふ梅雨の雲

 

梅雨風に楡がくれゆく戎克かな

 

[やぶちゃん注:「戎克」じゃ「ジヤンク(ジャンク)」“junk”(元来はジャワ語で船の意)。中国の沿岸や河川などで用いられている伝統的な木造帆船の総称。多数の水密隔壁により船内が縦横に仕切られ、角形の船首と蛇腹式の帆を持つ。この光景は一体どこでの嘱目吟であろうか? それとも想像吟か?]

 

   反古燒却、ひそかに生靈もろもろの供養をとて 二句

 

茂山に反古の煙たつ供養かな

 

奥嶺より郭公啼きて反古供養

 

[やぶちゃん注:前書「もろもろ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

橋本多佳子句集「紅絲」 忌月Ⅱ 仏足に一本の曼珠沙華を横たふ

  唐招提寺金堂に首なき美しい仏像あり

 

仏足に一本の曼珠沙華を横たふ

 

[やぶちゃん注:「首なき美しい仏像」「如来形立像」(にょらいぎょうりゅうぞう)と呼ばれるもの。頭部及び両手・両足首が破損している。実際には元の尊名も分からず、如来に同定する物証があるわけではないが、装飾品をつけていない点から如来と推定されてかく呼称されている。「唐招提寺のトルソー」という異称の方でよく知られる。木心乾漆で漆箔(うるしはく)、像高百五十四センチメートルでほぼ等身大の榧(かや)材製一木造。全体に均整がよくとれており、理想的肉体の表現という点では奈良様式であるが(唐招提寺公式サイトでは奈良時代八世紀とする)、衣文の表現法や大腿部の強調などは平安前期の特徴とされる。参照した『朝日新聞デジタル』「探訪 古き仏たち」の二〇一三年十二月二十一日附沖真治氏の記事によれば、『脚の長い、腰高のスマートな体形だが、大腿(だいたい)部は盛り上がって、がっしりしている。胴体部は、豊満な胸、衣を通して表される膨らんだ腹、引き締まった腰が抑揚に富む。衣のひだ(衣文(えもん))が整然とした波形の曲線を描く。翻波(ほんぱ)式衣文と呼ばれる様式で、腹部、そで、大腿部に浅く、鋭く、洗練された彫り口で刻まれ、リズム感をつくっている』とある。重要文化財。グーグル画像検索「如来形立像も参照されたい(二〇一四年七月二十九日現在では最上部一列は一つを除いて当該仏像である)。]

杉田久女句集 261 花衣 ⅩⅩⅨ 八幡製鐵所起業祭 三句 

  八幡製鐵所起業祭 三句

 

かき時雨れ鎔炉は聳(た)てり嶺近く

 

群衆も鎔炉の旗もかき時雨れ

 

おでん賣る夫人の天幕訪ひ寄れる

 

[やぶちゃん注:「炉」は勘案の末、ママとした。「八幡製鐵所起業祭」福岡県北九州市八幡東区で行われる祭り。毎年十一月三日付近の三日間で開催される。正式名称は「まつり起業祭八幡」。もとは官営八幡製鐵所(現在の新日鐵住金八幡製鐵所)の創業を記念した祭りで、明治三四(一九〇一)年十一月に「作業開始式」が行われたのを始まりとする。当初は八幡製鐵所主催の企業の祭りで、八幡製鐵所が操業を開始した十一月十八日から三日間に亙って行われていた。当時の十一月は寒く、たびたび霙や霰が降ったという(昭和六〇(一九八五)年より、「まつり起業祭八幡実行委員会」主催になる市民祭となり開催日時も現在の十一月三日前後に移動、現在では八幡の秋の風物詩として定着している。会場は八幡製鐵所の企業城下町として発展してきた八幡東区中央、八幡製鐵所の福利厚生施設が立ち並ぶ大谷、そして八幡製鐵所発祥の地である東田と広範囲に及び、製鐵所の一般公開も行われている。以上はウィキ起業祭に拠った)。]

でんしやごつこ   山之口貘

 でんしやごつこ

 

 ぼうやが おおきな

 こゑを はりあげる

やまたかせんが

まいりまあす

やまてせんだよ

 と おしえたら

 みむきも しないで

 こゑを はりあげる

やまたかせんの

はっしやですう

 

[やぶちゃん注:初「ごつこ」はママ。出未詳(発表されている可能性は有り)。昭和三二(一九五七)年頃の創作と推定される。根拠は底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題を参照されたい。

 因みに亡き母によれば、私は二歳頃、裏山から見える東海道線の「こだま」を見ては「こまだ」「こまだ」と叫び、好きな「葡萄」は「どぶう」「どぶう」と読んでいたそうだ。]

桜並木   山之口貘

 桜並木

 

むかしからあまりに

有名な花だ

ぼくといえどもその花が

桜の花だとは知つているのだが

バラ科の木だとは

ついぞ知らなかつたのだ

いいかいよくおぼえておきな

かれはそう言いながら

桜並木の花を仰いだ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三二(一九五七)年四月号『中学生の友 3年』。

 桜は被子植物門双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属 subg. Cerasus のサクラ節 sect. Cargentiella・ミザクラ節 sect. Cerasus・ミヤマザクラ節 sect. Phyllomahaleb・ロボペタルム節 sect. Lobopetalum に属する落葉広葉樹の総称である。参照したウィキの「サクラ」によれば、『園芸品種が多く、花弁の数や色、花のつけかたなどを改良しようと』『多くの園芸品種が作られた。日本では固有種・交配種を含め600種以上の品種が確認されて』おり、『とくに江戸末期に出現したソメイヨシノ(染井吉野)』(subg. Cerasus 若しくはサクラ属 Cerasus 品種ソメイヨシノ Cerasus × yedoensis (Matsum.) A.V.Vassil. ‘Somei-yoshino’)『は、明治以降、日本全国各地に広まり、サクラの中で最も多く植えられた品種となった』。『サクラ属 Prunus は約400種からなるが、主に果実の特徴から5から7の亜属に分類される。サクラ亜属 subg. Cerasus はその1つである。これらの亜属を属とする説もあり、その場合、サクラ亜属はサクラ属 Cerasus となる』。『サクラ亜属は節に分かれ、それらは非公式な8群に分かれる』(但し、最後の部分には要出典要請がかけられてある)とある。因みに、よく授業で言ったが、世界中のソメイヨシノは総てがたった一本の木の同一体、クローンである。種子で増殖させても親の形質を必ずしも継承しないため、総ては挿し木か接ぎ木で増やすからである。造り出した人間の手が入らないと生存出来ない品種であるところも如何にもクローンらしいとは言えるのである。「クローンは桜に限る」――]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 5 二戸辺り

 山地から我々は長い平地で、いくらかアイオワ州の起伏した草原に似た場所へ出た。世界地図で見ると、日本は非常に小さいが、而もこの草原を越すには、まる一日かかった。村はすくなく、離れ離れに立っていた。我々が通過した部落は、それぞれ特徴を持っていて、ある物は貧弱で、見すぼらしく、他のものは非常にきちんとしていて、裕福らしかった。我々はまた一つの山脈に近づいたが、そこの村の人々は、急な渓流が主要道路の中央を流れるようにしていた。町は奇麗に掃いてあり、所々に美しい花のかたまりや、変った形をした矮生樹が川に臨み、ここかしこには、鄙(ひな)びた可愛らしい歩橋が架けてあった。平原には高さ十フィートの、電信柱みたいな棒が立っていたが、針金がなく、そして電信柱にしてはすこし間がひらきすぎていた。聞いてみると、これ等は冬、旅人が道路に添うて行くことが出来る為に建てたので、冬には路のしるしがすべて、深い雪の下に埋って了うのである。これは米国でも、場所によって真似してよい思いつきである。最近あった暴風雨が、大部ひどい害をしている。あちらこちらで橋が押流され、地辷りで街道が埋っていた。我々もいくつかの地辷りの鼻を、避けて廻った。ある所では、一部分崩壊した家が、小さな流れと見えるものの真中に建っていた。前にはこれが、烈しい激流だったのである。

[やぶちゃん注:これは現在の金田一温泉辺りまで下った印象であろう。

「アイオワ州」同州高地地域はプレーリーとサバンナであるが、前者の様態との類似を指すか。

「一つの山脈」進行方向左手に現われた北上高地のことかと思われる。

「急な渓流」馬淵川。二戸(福岡)附近では町を貫流し、この西岸を奥州街道(現在の国道四号線)が並走する。

「十フィート」約三メートル強。

「電信柱みたいな棒」現在は視線誘導標(デリネーター。デリニエーター。英語の区切り文字の意の“delimiter”(デリミター)に基づくか)の一種(若しくは兼用)、特に北方の積雪地域ではスノー・ポールと呼ぶ。積雪時の路肩の誘導標。当時からあったそれを何と呼んだのか、識者の御教授を乞うものである。]

 

 朝から夜遅く迄旅行していて疲れたので、あまり沢山写生をすることが出来なかった。福岡という村は広い主要街の中央に小さな庭園がいくつも並び、そして町が清掃してあって、極めて美しかったことを覚えている。この地方の人々は、目が淡褐色で、南方の人々よりもいい顔をしている。子供は、僅かな例外を除いて、可愛らしくない。路に沿うて、多くの場所では、美味な冷水が岩から湧(あふ)れ出し、馬や牛の慰楽のためにその水を受ける、さっぱりした、小さな石槽(いしぶね)が置いてある。この地方に外国人が珍しいことは、我々と行き違う馬が、側切れしたり、蹴ったりすることによって、それと知られる。古い習慣が、いまだに継続しているものも多い。一例として、我々と出合う人は如何なる場合にも馬に乗った儘で行き過ぎはせず、必ず下馬して、我々が行き過る迄待つのである。最初これに気がついた時、私は馬が恐れるので、騎手は馬を押えているために下馬するのだろうと思ったが、後から、低い階級の人々は決して馬に乗った儘で、より高い階級の人とすれちがわないという、古い習慣があることを聞いた。何人かの人が、路の向うから姿を現すと共に、早速高い荷鞍から下り、そして私が遠か遠くへ去る迄、馬に乗らぬのには、いささかてれざるを得なかった。また私は、只芝居に於てのみ見受けるような、古式の服装をした人も、路上で見た。

[やぶちゃん注:「てれ」は底本では傍点「ヽ」。]

M428

図―428

 

 稲田を濯漑する奇妙な装置は、図428に示す所のものである。流れの速い川の岸に、水車を仕掛け、それは流れによってゆっくりゆっくり廻転する。車の側面についている四角い木の桶は、流れの中にズブリとつかって水で一杯になり、車が回転すると共に水は桶から、それを向うの水田へ導く溝の中へと、こぼし入れられる。

[やぶちゃん注:アメリカに水車がないわけではないが、稲作の水田灌漑用の、こうした低い位置で稼働して水を送り込むための装置としての水車はモースには極めて珍しかったのである。]

M429

図―429

 

 昼間通過した村は、いつでも無人の境の観があった。少数の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いずれも田畑で働くか、あるいは家の中で忙しくしていた。これはこの国民が如何に一般的に勤勉であるかを、示している。人々は一人残らず働き、みんな貧乏しているように見えるが、窮民はいない。我国では、大工場で行われる多くの産業が、ここでは家庭で行われる。我々が工場で大規模旨うことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蠟の製造、その他の多くが行われているのを見る。これ等は家族の全員、赤坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁、考婆に至る迄が行う。私は京都の陶器業者に、殊にこの点を気づいた。一軒の家の前を通った時、木の槌を叩く大きな音が私の注意を引いた。この家の人人は、ぬるでの一種の種子から取得する、植物蠟をつくりつつあった。この蠟で日本人は蠟燭をつくり、また弾薬筒製造のため、米国へ何トンと輸出する。昨年国へ帰っていた時、私はコネテイカット州ブリッジポートの弾薬筒工場を訪れた所が、工場長のホップス氏が、同工場ではロシア、トルコ両国の陸軍の為に、何百万という弾薬筒をつくっているが、その全部に日本産の植物蠟を塗ると話した。ここ、北日本でも、同国の他の地方と同じように、この蠟をつくる。先ず種子を集め、反鎚(そりづち)で粉末にし、それを竈(かまど)に入れて熱し、竹の小割板でつくった丈夫な袋に入れ、この袋を巨大な材木にある四角い穴の中に置く。次に袋の両側に楔(くさび)を入れ、二人の男が柄の長い槌を力まかせに振って楔を打ち込んで、袋から液体蠟をしぼり出す。すると蠟は穴の下の桶に流れ込むこと、図429に示す如くである。

[やぶちゃん注:「植物蠟」木蠟(もくろう。生蠟(きろう)とも呼ぶ)は当時は主にハゼ蠟で、他にウルシ蠟があった。ウィキ蝋」によれば、ハゼ蠟はムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum の果実から作られる蠟で、『主として果肉に含まれるものであるが、果肉と種子を分離せずに抽出したものでは種子に含まれるものとの混合物となる。伝統的には蒸篭で蒸して加熱した果実を大きな鉄球とこれがはまり込む鉄製容器の間で圧搾する玉締め法が、近代工業的には溶剤抽出法が用いられる。日本では主に島原半島などの九州北部や四国で生産されている。和蝋燭や木製品のつや出しに用いられる。日本以外では“Japan wax”と呼ばれ、明治・大正時代には有力な輸出品であった』が本邦での生産は衰退した。二十一世紀初頭の現在においては『海外で人気が復活しているが、日本国内での生産量は減少の一途で、特に良質の製品が得られる玉締め法を行っている生産者は長崎県島原市にわずかに残るのみである。木蝋の主成分はワックス・エステルではなく、化学的には中性脂肪である』。主成分はパルミチン酸のトリグリセリドである。一方のウルシ蠟はハゼノキと近縁なウルシ科ウルシ Toxicodendron vernicifluum の果実から採取するハゼ蝋と性質のよく似た木蠟であるが、ハゼ蠟に押され、『現在の日本ではほとんど生産されていない』。主成分はハゼ蝋と同じ、とある。この図429に相当する装置をネット上で探したが見当たらない。モースのスケッチはもはや失われた蠟造りの実際を伝える貴重なものと言える。

「弾薬筒」原文“the cartridge”。明らかに薬莢であるが、ここでモースが詳述するような事実と本邦産のそれが、明治の初めから、多量に、殺人兵器の必要原料として、多量に輸出され続けていたという事実を私は初めて知った。]

耳嚢 巻之八 實心盜賊を令感伏事

 實心盜賊を令感伏事

 

 八王子に布屋權三郎迚、有德なる富家(ふけ)あり。此家に若き年より勤(つとめ)たる手代に次兵衞と云(いへ)る有(あり)。生得貞實なる生れにて、厚恩に成りし主人へ是迄さしたる忠儀も不盡(つくさず)、人間一生其功もなさず相果(はて)んも無慙なり、しかれども何も是ぞ主人の爲になる事もなければとて、いか成(なる)所存ありしや、給金の内にて金子二三十兩もたくわへて、其内には如何なる了簡にや、五百疋三百疋の目錄包(づつみ)をこしらへ置(おき)ける。或日夜盜三人忍入(しのびいり)て、まづ次兵衞が上にまたがりて、前後より刀を拔(ぬき)て金子の合力(かふりよく)を乞ひけるにぞ、金の合力も可致(いたすべ)けれど、かくおさへ居(をり)候ては事調はず、しかれども聲をたてゝ汝らを捕へんとするにもあらず、主人は老人又は若年なれば、我だに取計(とりはから)はゞいか樣にも可成(なるべし)、御身たちも、いかなればかゝる業(わざ)をやなせる、某(それがし)殺さるゝとも、また不殺(ころさず)とも、盜惡事(ぬすみあくじ)なさんもの助かるべきいわれなし、近くは某殺さるゝを不厭(いとはず)、大聲をあげ御身と命がけに取合(とりあは)ば、起合(おきあふ)者も有て、おん身を捕へん、是まのあたりの災(わざわひ)なり、主人へ申聞(まうしきき)、多(おほく)の金遣しなばよかるべけれど、左(さ)なさば大勢の人、やわか起出(おきいで)ざる事や有べき、しかれば御身のためならず、某主人より貰ひ請(うけ)候目録、爰元(ここもと)にあり、外に手元に金なし、是を參らする也とて、側にある簞笥の引出しより、五百疋包みを壹つ宛三人へあたへ、くれぐれも、かゝるあやうき渡世はやめ給へと、しみじみ異見なしければ、さすが本心の善もありけるや、彼(かの)盜賊も金を請取立歸(うけとりたちかへ)りぬ。其翌年右盜賊の内、兩人白晝に來りて治兵衞を尋(たづね)、對面して、我々は去年(こぞ)來りて合力を受(うけ)し盜賊なり、さるにても其節御身の異見に感伏して其後は盜(ぬすみ)を止めて、合力の金子を元手として渡世なしぬれど、惡業故や今に貧窮にて日雇などとりて暮しぬ、さるにても御身の異見今に忘れず、貧(まづし)けれど心は安しなど、禮を述(のべ)けるゆゑ、今壹人は如何(いかが)成しやと尋ければ、是も惡業は止(やめ)て、此節上方へ稼(かせぐ)事ありてまかりぬといゝければ、次郎兵衞是を聞て、志あら玉(たま)りぬる上はとて、金三兩宛三包出して相渡し、是にていか樣(さま)にも元手を拵(こしらへ)て良民となれよとあたへけり。厚く禮を述て歸りぬ。是を聞(きく)輩(やから)あり、兩人志をあらためしといへば迚、實事とも思はれず、又々ゆすり取られたるなりと笑ひ嘲けりけるが、其あくる年、三人とも次兵衞を尋(たづね)來りて、兩度にあたへし金子を不殘持參(のこらずもちまゐ)り、其外禮謝の品をももちて次兵衞に對面し厚く禮を述けるとぞ。かの三人も、どこどこに今は宿(やど)をもちて、渡世なしぬと語りしとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:誠意から出た言が人心を感動せしめた例で連関。

・「忠儀」底本では右に『(義)』と訂正注を附す。

・「疋」当時の銭を数える単位。二十五文を一疋としたから、「五百疋」は一万二千五百文で凡そ三両相当、「三百疋」だと七千五百文で二両に少し足りない額に相当する。

・「治兵衞」ママ。訳では訂した。

・「次郎兵衞是を聞て」底本では名の部分の右にママ注記。訳では訂した。

・「志あら玉りぬる」底本では「あら玉」の右に『(改まり)』と注する。

・「やわか起出ざる事や有べき」の「やわか」はママ。「やはか」が正しい。副詞(副詞「やわ」+係助詞「か」)で反語の意を表わす。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠心が盜賊を感伏せしめたる事

 

 八王子に布屋権三郎とて、有徳なる富家(ふけ)があった。

 この家に若き年より勤めておった手代に、次兵衛と申す者がおる。

 生得、貞実なる生れにして、

「……厚恩を蒙ったるご主人さまへ、これまでさしたる忠義も尽くさず、人間一生、そうした恩義への報恩の一節(ひとふし)さえなすことのぅ相い果てんも、これ、如何にも恥ずかしことじゃ。……しかれども、我ら無才なれば、何もこれといって、ご主人さまのために出来得ること、これ、なければのぅ……」

と、如何なる所存のあったものか、主人から戴く給金の内より少しずつ残しおき、金子これ二、三十両も貯え、またその中(なか)には、これまた如何なる了簡か、五百疋・三百疋に小分け致いて、それを書き記したる目録包みを拵えておいた。

 さて、ある日の夜、押し込み強盗が三人、布屋に忍び入り、まずは手代部屋で独り寝ておった次兵衛の上に一人跨り、残る二人が前後よりだんびらを抜いて構え、

「……おぅ!……一つ、金子の合力(こうりょく)を、願いてぇんだがなぁ……」

と押し殺した声で威しつけた。

 と、次兵衛は、

「……金の合力もしてやろうとは思う。……思うがの、このように無体に押さえつけられたのでは、どうにもならん。……しかし、かく申したからといって、別段、隙を見て大声を挙げ人を呼び、お前さんらを捕えてもらおうなんどと思うておるわけではない。……大旦那さまと若旦那さまは、これ、老人と未だ若き者なればこそ、まあ、何なく、如何様(いかよう)にも我らがうまく取り計ろうこと、これ、容易に出来申す。……しかしな。おん身たちも、これ、如何なれば、かかる業(わざ)をばなさるるのじゃ?……儂(わし)が殺さるるとも、また殺されずとも、盜み悪事をばなさんとする者が、これ、何時までも無事に助かるべき謂われは、これ、ない。……今にも、例えば……儂が殺さるるを厭わず、御主人さまのために大声を挙げ、おん身と命懸けで取っ組み合ったとすれば、その物音に起きて来る者もあって、必ずやおん身を捕えるであろう。……これは、実に今、おん身の目前に迫った確かな災いじゃ。……儂がこっそりと大旦那さまへ申し開きを致いて、多分の金子を遣すことは、これ、出来得るならば、やってもよい。……が……そうすると本家は使用人も多ければこそ、変事を聴きつける者、これ、必ず、ある。……どうして大勢の人が起き出して来ぬことがあろうか。……しかればこそ、それはおん身らのためには勧めぬ。……じゃが……ここに、儂がご主人さまより特に請い貰い受け、何かの折りのためにと貯めおきたる五百疋の目録包み、これ、都合丁度、三包み、ある。……外には手元に金はない。一つ、これをそなたらに差し上げようと存ずる。――」

と、側にあった簞笥の引き出しより、五百疋の包みをやおら出だすと、一つ宛(ずつ)三人に与え、

「――くれぐれも、このような危うき渡世は、これにて、おやめになされい。」

と、終始静かにしみじみと三人に異見なした。

 すると、流石に両三人の盗賊、その心底(しんてい)には善へ向いたるところもあったものか、金子を受け取ると、しおらしくいとも速やかに且つ静かに立ち去っていった。

 

 その翌年のことである。

 白昼のこと、かの折りの盜賊のうちの二人が如何にもむさ苦しい賤民の形(なり)で、突然、布屋の店先へとやって参り、丁稚へ次兵衛を訪ね、出て参った次兵衛と店の前の道端にて対面した。

「……お恥ずかしながら、我らは去年、夜分に参りまして合力を受けましたる盜賊でごぜえやす。……それに致しましても、その節はお身のご異見に感伏致しまして……その後(のち)は盜みをきっぱりやめ、合力に戴いた金子を元手として渡世致しましたれど、先(せん)の悪業(あくぎょう)の報いゆえか……今は二人、かくも貧窮となりはて、日雇いなんどをよすがとして暮しておりまする。……何はともあれ、おん身のありがたきご異見、これ、今に忘れずにおりますれば。……貧しけれど、あのお諭しのお蔭にて、心は安うごぜえやす。まっこと、ありがとう存じやした。」

などと、礼を述べた。次兵衛が、

「今、一人おられたが、あのお方は如何なされた?」

と訊ねたところ、

「へえ。あ奴も悪業から足を洗いまして、同じく貧しいながらも、ちょっとした商いを細々と続け、今は上方でその稼ぎごとのこれ、ごせえまして、出でておりやす。」

と応え、二人はそこで深く礼を致いて、踵を返さんとした。

 すると次兵衛、それを押し止め、

「志しの、かくも改まったからには――の――」

とて、そこへ二人を待たせておき、急ぎ手代部屋へ戻ると、簞笥の引き出しの奥の隠しから、例の別の金子を取り出だすと、金三両ずつ三包に包んで、店先へと走り出て、二人にそれを渡し、

「――これにて、いかようにも再度、元手を拵え、良民となられよ!」

と、またしても金子を与えた。

 二人は涙を流して恐縮しつつ、二度までもと、しきりに辞退致いたものの、次兵衛が強いて渡いたれば、厚く礼を述べて帰っていった。

 

 この一部始終を見聞きしておった店内の者がおった。

 満足げに笑顔で戻った次兵衛に、

「……そんなことがあったんですか?……その前の一件というも、これ、如何にも奇特(きとく)なことでは御座いますなあ!?……しかし、なんですな、かの両人、志しを改めたと言うても、これ、とてものこと、まことのこととは思われませんぜ。……まんず、それは、またまた、心お優しいあなたが、ゆすりたかられたんでは御座いませんかねぇ?……へっつへへへ!」

と他の店の連中に、かの元盗賊の貧民のおじけた際の真似までして、面白おかしく語っては、皆して笑い嘲った。

 それでも次兵衛は黙って、かくも相好を崩したままに、逆に一緒になって笑っておった。

 

 そのまた翌年のことである。

 かの元盗賊三人、ともにすっかり町人の粋な姿と相い成って次兵衛を再び訪ね来たり、次兵衛に対面すると、

「――二度に及びましたる御高恩、まっこと、ありがたく、ここに御礼申し上げたく存じまする――」

と口上を述ぶるや、両度与えたる金子千五百疋と九両、これ、耳を揃えて持ち参り、その外にも豪華なる謝礼の品をも持って厚く礼を述た。

 この三人、それぞれまっとうなる仕事につき、どこそこに相応の一家を持って、安穏に暮らしておりますと、次兵衛に礼方々述べたとか、いうことである。

2014/07/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 4 青森から二戸へ

M426

図―426

 

 所々で我々は、北日本に特有と思われる、奇妙な看板の前を通った(図426)。これは樅(もみ)か杉の枝を結んで、直径二フィートの大きな球にしたもので、酒屋の看板である。「よき酒は樹枝(ブッシュ)を必要とせず」という諺言は、この国でも同様の意味を持っているかも知れぬ。第一日は岩の出た山路を越して行くので、我々は屢屢人力車夫の負担を軽くする為下りて、急な阪を登った。景色は非常によく、大きな入江や、面白い形をした山々がよく見えた。二日目は、夜に近くなってから、急な山脈を越す為、駄馬に乗った。この距離は十五マイルであった。我々の馬子は老人達で、十五マイルの間、絶間なく仲間同志、ひやかし合ったり、口喧嘩をしたりしていた。これ等の男の耐久力には、東京の労働者のそれよりも、更に驚く可きものがある。彼等はすくなくとも、五、六十歳であつたが、最も急な阪路を、ある場合には馬を引張って上りながら、絶えず冗談をいったり、ひやかしたりする程、息が続くのであった。峠の頂上で私は下馬し、素晴しい景色を楽しむために長い間歩いた。ある場所で我々は、底部から八百フィート、あるいは千フィートあるといわれる断崖の上に立った。正面は河によってえぐられ、その河の堂々たる屈曲線は、つき出した絶壁の辺で、我々の足の下にかくされている。我々は凸凹激しく、曲りくねり、場所によっては恐しく急な小径を、馬を引いて下りて来る老盲人に逢った。彼はこの路を、隅から隅まで知っているらしかった。

[やぶちゃん注:最初に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」から矢田部日誌の帰京までの記載紹介を見ておく。

   《引用開始》[やぶちゃん注:日誌本文と最後の文部省宛報告書は例によって正字化した。[ ]は磯野先生の割注。「……」は磯野先生の省略と思われる。]

○十八日 「朝六時靑森發、十一時小湊着、午後七時七ノ戸着」

○十九日 「朝六時十五分七ノ戸発、午前十時四十五分五ノ戸着、晝食ス。道中広原[三本木原]ヲ過グ。五ノ戸ニテ車ヲ換へ、十二時十五分発、三時半三戸着。午後三時二十分三戸發。人力車出切リニ出タル二付、馬ニテ行ク。七時半福岡[二戸]ニ達ス」[やぶちゃん注:底本では『三時半三戸着。午後三時二十分三戸發』の両時刻の右には孰れも磯野先生によってママ注記が附されてある。]

〇二十日 「朝六時福岡發、七時五十分三戸着。……午後二時沼宮内着……六時二十分渋民着」福岡出発後、浪打峠の切通しで貝や竪類の化石を採集したと、矢田部もモースも記録。

〇二十一日 「朝四時二十分渋民發、八時前盛岡着。九時四十分盛岡發、但シ川船ニテ北上川ヲ下ルナリ。午後七時半黑澤尻着。……午後十二時半頃黑澤尻發、但シ十二時後ニ至り発セシハ、川ニ急流アルガ故、月光ヲ待テ發セシナリ」

〇二十二日 「終日船中ニ在リ」  

〇二十三日 「船中ニ在リ。十一時カノマタニ達ス(鹿又村ナリ)。南風強クシテ船行カズ。故二此處ヨリ人力車四兩、馬壱疋ヲ雇フ……午後十二時十分鹿又發……六時半松島着」

〇二十四日 「五時半松島發、九時半仙臺着」佐々木と内山は松島に残して採集させ、松島以降はモースと矢田部の二人旅だった。二人は仙台で東京に電信を打とうとして、私人の電信使用が禁止されていることを知り驚くが、のちに東京竹橋兵営で反乱が起きたためと知る。一行は仙台からまた人力車で、長町、岩沼、大河原、白石を経て、「九時十五分藤田[現国見]着」

〇二十五日 「五時半藤田發、七時半福島着、十一時四十分二本松着……四時半郡山着……十時十五分白川[白河]發」

〇二十六日 「五時半白川發。十二時大田原着、三時十五分前喜連川着、六時宇津宮[宇都宮]着」

〇二十七日 「五時宇津宮發、馬車ニテ行クナリ……午後六時四十五分淺草着」

 人力車と船の旅はやっと終わった。青森を出てから丸十日。六時間ほどで上野に着く今では、その苦労は想像もつかない。

 このとき大学から文部省に宛てた報告が残っている。最後にそれを引用する。

「動物見本採集幷學術研究ノ爲メ七月十三日發程、徃復五十日間ノ期限ヲ以テ横濱ヨリ海路渡島國函館ニ到リ上陸、該地近傍ヲ經廻シ、尋デ後志胆石狩國ノ各郡ヲ廻歷シ、順路函館ニ歸リ、同所ヨリ陸奧國靑森ニ渡リ、夫ヨリ盛岡ニ出テ北上川ヲ下リ、鹿又村ヨリ上陸シテ順路陸前國仙臺ニ到リ、奧州街道ヲ經テ歸京」

   《引用終了》

二十四日の条の磯野先生の解説にある『東京竹橋兵営で反乱』とは前日の明治一一(一八七八)年八月二十三日に発生した、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件、竹橋事件を指す。以下、ウィキの「竹橋事件」によれば、『反乱は、鎮台予備砲隊隊長岡本柳之助大尉、松尾三代太郎騎兵中尉、近衛歩兵第二連隊第二大隊第二中隊兵卒三添卯之助、近衛砲兵大隊第一小隊小隊馭卒小川弥蔵、同第二小隊馭卒長島竹四郎、同じく小島萬助らを中心に決起の計画が練られた。 旗を用いて合図を送ったり、「龍」→「龍起」、「偶日」→「奇日」等の合言葉を作成する等、計画的なもので』、『午後11時、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し、騒ぎを聞いて駆けつけた大隊長宇都宮茂敏少佐、続いて週番士官深沢巳吉大尉を殺害』、『砲兵隊の門前を出ると、既に近衛歩兵第一、第二連隊が出動しており、これと銃撃戦になった。戦闘に紛れて反乱軍は大蔵卿大隈重信公邸に銃撃を加え、営内の厩や周辺住居数軒に放火。この一時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された』。『この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を捕らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ』。『正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た軍曹は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これをしおに、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった』。『同日午前8時、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が始められ、10月15日に判決が下された。 騒乱に加わった者のうち、岡本は発狂したとして官職剥奪で除隊、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑に処せられている。事件に直接参加していない者を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった』。『動機は、過重な兵役制度や西南戦争の行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである』。『内務省の判任官西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方に神田橋で叛乱計画の謀議を知り、内務省に立ち戻り書記官に急を知らせた。この通報により蹶起計画は事前に漏れていたのだが、阻止することはできなかった』。『のちに日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。太平洋戦争後まで真相が明らかになることはなかった。 近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている』とある。

「直径二フィートの大きな球」直径約六十一センチメートル。無論、杉玉である。ウィキの「杉玉」によれば、『スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。「搾りを始めました」という意味である』。『吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語る』。『今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる』。『起源は、酒神・大神神社の三輪山のスギにあやかったという。俗に一休の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものである』。『スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある』。作り方は『針金で芯となるボール(できあがりの半分ぐらいの大きさ)を造り、杉の葉を下方から順に差し込んで固定していく。上まで刺したら、球状になるようにきれいに刈り揃えてできあがり』となるとある。但し、全国で見られ、モースの「北日本に特有と思われる」というのは当たっていない。

『「よき酒は樹枝(ブッシュ)を必要とせず」という諺言は、この国でも同様の意味を持っているかも知れぬ』底本ではこの一文の最後に石川氏による『〔樹枝は西洋でも酒屋の看板になった〕』という割注が入る。諺の原文は“" Good wine needs no bush,"”。これはイギリスの諺で、昔、英国でワインを造っていた旅館や個人の家ではブドウの蔓(bush)をドアや窓の外に掛け、そこでワインやビールが飲めることを旅人に示したという。Bushivy:セイヨウキヅタ。イングリッシュ・アイビー。ツタのこと。) これは酒神 Bacchus の象徴であり、ブドウの蔓が看板(宣伝)の代わりに使用されていたことに基づくもであるが、既に良い味の酒を置いていることで知られていた旅宿や家では旅人が必ずそこに寄るので、蔓を戸外に垂らしておく必要はなかったことから、「良酒に看板は要らぬ」(「桃李もの言わずとも下自ずから蹊を成す」と同義。元来は、徳のある者は弁舌を弄するまでもなく、人はその徳を慕って集まり帰服するものであるの謂い)の謂いとなった(ここは「宮代翻訳工房」の「宮代翻訳工房の標語について」を参考にさせて戴いた)。

「第一日」八月十八日。朝六時に経って午前十一時に小湊(現在の青森県東津軽郡平内町大字小湊)に着き、夜七時に七戸(しちのへ)に到着している。

「岩の出た山路を越して行く」夏泊半島の根元を東に越して小湊へ出るルートを指すものと思われる。

「大きな入江」陸奥湾。

「面白い形をした山々」入り江を述べた後に記しているところからは、陸奥湾を隔てた下北半島の釜臥山から朝比奈岳の山容であろう。特に前者は名前の通り、独特の形をしている。

「二日目」八月十九日は朝六時十五分に七戸を出発、午前十時四十五分五戸着でここで昼食を摂り、三本木原を経て五戸、ここで人力車を乗り換えて十二時十五分に発ち、三戸で一本取ってここで人力車を乗り換えようとした。ところが人力車が出払っていたために、急遽、馬にかえて夜の七時半にようやっと二戸へ到着したとある。この「夜に近くなってから」越した「急な山脈」とは青森県南東部にある標高六一五・四メートルの名久井岳(なくいだけ)の西麓を越えてゆくルートか。

「十五マイル」は約二十四キロメートル。この距離は私は、最後に長い休息をとった三戸からの騎馬による距離と考える。私が考えるルートを採った場合、なるべく奥州街道(現在の国道四号)沿いに計測した三戸―二戸間の結果は二二キロメートル強となった。二戸側に下りると川幅の広い馬淵川畔を南下するが、この川の上流部は有意な河岸段丘が展開していることがネット情報によって分かる。以下のような断崖があってもおかしくないと思われるが如何であろう。私は現地を知らない。識者の御教授を乞うものである。

「百フィート」三〇・四八メートル。

「千フィート」三〇四・八メートル。]


M427

図―427

 

 通り過ぎた家に、奇妙な籠揺籃(ゆりかご)かあるのに気がついた(図427)。これは厚ぼったい、藁製の、丸い籠で、赤坊は温かそうにその内へ詰め込まれていた。

[やぶちゃん注:これは、平凡社の「世界大百科事典」に載る「つぐら」である。藁製の保育用具で「イヅミ」「エジコ」などとも呼び、大小いろいろに作って冬期には飯の保温用にも使う(「イヅミ」は「飯詰」の意である)。秋田では「イヅミ」、青森や岩手で「イヅコ」「エジコ」、信州北部から越後にかけては「ツグラ」「フゴ」、佐渡では「コシキ」、東海地方では「エジメ」「クルミ」、三重県では「ヨサフゴ」と呼ぶ。「イヅミ」は多く中部地方から東北地方の寒い地方で使われていたもので、ところによって製法や形が少しずつ異なっているが、多くは藁製で臼型に作り、底に藁を敷き、その上に籾殻や木炭灰などを厚く敷いて子どもの着物を捲くっておむつのままで座らせて布団で包む、とある。ウィキエジコ」には、『エジコ(嬰児籠)は藁などで筒状にしたもので他には木や竹製のものもあり、世話が出来ないときに赤ん坊が這い回らないようにする育児用の篭。地域によりエヅメ・イジコ・イズミ・イブミ・ツブラ・ツグラ・コシキ・エジメ・イヅミキともよばれる。

農作業などのとき長時間離れなければならない時に家または作業場近くに据え置くための道具として使われていた。 そのため、お漏らしをしても』幼児が不快にならぬように『工夫がなされている。 大まかには、底に灰・藁・籾殻・海藻・木炭などを敷き詰めその上に、 尿などを吸収しやすいように、オシメや軟らかくしたわら・い草で出来たシッツキなどを敷き、汚れた場合にはそのつど洗って使い、子どもが勝手に動かない様に布団や布切れなどで包み固定していた。そのため発育が妨げられたり、 不潔などの理由で衰退することとなり、 現在では従来の藁でエジコを作れる人がいなくなったのも含めて、新たに入手することはほとんど出来ず、どの地方でもエジコを使用する習慣はほぼ見られ無くなっている』とある。当該物を「こけし」化したものが多く出るが、グーグル画像検索「えこ」を参照されたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 3 函館にて(Ⅲ) モースがドレッジに使った青函航路蒸気船は実は前の年に西南戦争で薩摩軍を砲撃した船だった?!

M425
図―425

 

 蝦夷島を検断して帰って来てから、我々は目ざましい曳網を数回やって、腕足類を沢山集め、その生きた物に就て興味のある研究をした。最終日の曳網には、当局者が大部大きな汽船(図425)を準備してくれ、我々は津軽海峡の、今までよりも遙か深い場所まで出かけた。何から何まで当局者がやって呉れたので、採集に関する我々の成功は、すべて彼等の配慮に原因する。陸路東京へ帰るに際して、私は矢田部教授、佐々木氏、及び矢田部氏の植木屋が私と一緒に来、ナニヤ、高嶺両氏は新潟で曳網するために日本の西海岸を行き、種田氏、私の従者、及び大学の小使は採集した物を持って、汽船へ帰ることにきめた。面白いことに、これ等の異る目的に行く三艘の汽船が、いずれも八月十七日に出帆した。我々は気持よく海峡を越して、大きな入江へ入った。ここへ入る前に、もう一つの大きな入江の入口を過ぎたが、その上端では更に陸地が見えなかった。海は完全に平穏で、我々は函館から青森までの七十マイルを、一日中航行した。この町は長くて、低くて、ひらべったい。これ等以外に、我々は何も気がつかなかった。翌朝六時、我々は四台の人力車をつらねて、五百マイル以上もある東京へ向けて出発した。十五日はかかると聞いたが、十日間で目的地へ着き度いというのが、我々の希望であった。

[やぶちゃん注:前段で注したように、八月四日にモースは函館に着いたが、『それから二週間近く、連日のように函館周辺でドレッジを試み、腕足類を得て研究に専念し』(磯野氏前掲書)ている。先の引用と前後するが、磯野氏前掲書の矢田部日誌紹介の八月九日と十日の記事には、

   《引用開始》[やぶちゃん注:日誌本文部分は恣意的に正字化した。]

〇九日 「朝八時頃モース氏ト共ニ時任氏ヲ訪フ。同氏青森ヨリ陸路ニテ歸ルコトヲ[旅行]免状ニ加入スルコトニ付、加藤君[加藤弘之東大綜理]ニ電信ヲイダセリ。時任氏モ此件ニ付キ外務省へ電信ヲ出セリ」当初は海路で直接帰京するつもりだったらしい。

○十日 「朝八時過石狩丸卜云フ小汽船ニテ有川村へ行キ……佐々木海底動物ヲ採集シ、モース氏ハ高嶺ト共ニ上陸シ海岸ニ沿ツテ行ケリ。汽船兩人ノ行ク處迄至ル筈ノ処、風高クシテ途中ヨリ歸レリ故、高嶺モースハ陸ヲ戻リ大イニ失望セリ」

   《引用終了》

とあり、以下、先に示した十二日と十四日記事を挟んで、

   《引用開始》[やぶちゃん注:日誌本文部分は同前で、波江の記事(『波江元吉動物学雑誌』第九巻・五五~六一頁・一八九七年発行)も準じて正字化した。]

○十五日 「朝八時矯龍丸ニテ沖ニ探底ニ出ツ。午後六時帰港」後年波江元吉が、「或日箱館靑森間ヲ定期航海セル小汽船ヲ雇ヒ、箱館ノ湾口ニ至リ八十尋ノ所ニ Boat dredge ヲ用ヒテ曳網ヲ試ミシコトアリシ。……本邦ニ於テ汽船ニテ八十尋ノ所ニどれじヲ使用セシハ蓋シ之ヲ嚆矢トスベシ」と記したのは、このときのことらしい。

○十七日 「朝十時半函館ヲ發シ靑森ニ向フ。船ハ三菱ノ靑龍丸ナリ……午後六時半靑森着」この日、モース、矢田部、佐々木、内山の四名は、日誌どおり青森へ、高嶺と波江はドレッジを試みに新潟へ、種田と菊地は標本を持参して直接横浜へ、ほとんど同時にそれぞれ出発した。

 モース・矢田部組は青森から東京まで、北上川の舟下りを別にすれば、後はほとんど人力車の旅であった。

   《引用終了》

と記されておられる。

「大部大きな汽船」これは何と、北海道大学名誉教授理学博士角皆静男(つのがいしずお)氏のサイト内の「新函館物語(ハイカラ都市、函館の外国人)」の「函館物語(2):エドワード・モースと日本最初のドレッジ」によれば、『青函連絡船を雇い、函館港外水深150mのところで、日本初の船によるドレッジ(海底上に降ろした篭を曳く)を行った』とある。一研究者のために青函連絡船が恐らくは貸切で使用されたのである(前に注で記したが、角皆先生は海上自衛隊函館基地本部をラボの同定地とされておられるが、採らない)。前注の矢田部日誌十五日の記事の「矯龍丸」が、まさにこの角皆氏の言う『青函連絡船』(厳密には我々に馴染みのこの呼称は後の日本国有鉄道(国鉄)と北海道旅客鉄道(現在のJR北海道)との鉄道連絡船の固有名詞で明治四一(一九〇八)年以降のもので、正確には開拓使の青函航路連絡船である。以下の引用を参照のこと)に相当するものである。「函館市史 デジタル版」の「函館支庁付属船」によれば、『開拓使は主要幹線の定期航路とは別に、不定期航路として札幌本庁や各支庁に付属船を所轄させて、用途に応じて道内各港間へ就航させている。所轄船は年次で異動があったが、明治11年当初には大幅な交替があった。同年1月7日付の函館新聞にその報道がなされている。それによれば、函館支庁所管として函館丸、矯龍丸、弘明丸、鞆絵丸、石明丸、白峰丸、辛未丸、札幌本庁が稲川丸、豊平丸、空知丸、乗風丸、根室支庁が沖鷹丸、択捉丸、千島丸、そして東京出張所が玄武丸となった。なお4月2日付の「函館新聞」には、函館支庁の管轄となり、函館港を定繋港とするこれらの船舶によって近県へ運輸を盛んに乗客輸送などの便宜を図る趣旨について連絡をしたところ近県からは、それに同意し実地取調べのうえ回漕の依頼などをする旨の回答があったと報道されている。12年には開拓使の青函航路が取りやめられたので、弘明丸は他へ所管替えとなり、その他の船舶も一部所管が変わった。函館丸、辛未丸、矯龍丸の3艘となり、翌年には函館丸、矯龍丸、白峰丸が函館支庁所管となっている』とあり(下線やぶちゃん)、矯龍丸が青函航路の函館支庁所管船であったことが分かる。しかも、この船、前年の明治一〇(一八七七)年の西南戦争勃発に際して錦江湾海上から薩摩軍を砲撃した矯龍丸と同一かと思われ、とすればこの船は元は軍用船であったことになる。

「植木屋」底本では直下に石川氏による『〔植物園の園丁〕』という割注がある。小石川植物園園丁を勤めていた内山富次郎。既注

「ナニヤ」底本では直下に石川氏による『〔?〕』という不詳を示す割注があるが、随行していた教育博物館動物掛の波江元吉のこと。既注

「我々は気持よく海峡を越して、大きな入江へ入った。ここへ入る前に、もう一つの大きな入江の入口を過ぎたが、その上端では更に陸地が見えなかった」前者が青森湾、後者が平館海峡を抜けた陸奥湾のことであろう。

「七十マイル」約一一二・七キロメートル。地図上で函館―青森航路を計測すると一一〇キロメートル弱であるから概算表としてはおかしくない。

「五百マイル」約八〇五キロメートル。

青森―東京間は直線ならば約五八〇キロメートルであるが、これは実際の行程距離を示したものであろう。この後の矢田部日誌(後掲する)を見ると、その行程は、

 

青森―小湊―七戸―五戸―三戸―二戸―一戸―沼宮内(ぬまくない:現在の岩手県岩手郡岩手町大字江刈内(えかりない)沼宮内)―渋民―盛岡―(川船による北上川下りで玄沢尻から船中泊二泊)―鹿又(かのまた。現在の宮城県石巻市鹿又)―松島―仙台―長町―岩沼―大河原―白石―国見―福島―二本松―郡山―白河―大田原―喜連川―宇都宮―上野

 

であった。この行程を凡そ旧奥州街道添いに小まめに実測してみたが、青森からは凡そ八〇〇キロメートルになった。モースの計算は実に正確である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 2 函館にて(Ⅱ)

M423
図―423

M424

図―424

 

 図423は前面から見た我々の実験所の、又別の写生図である。我々は、海峡を越え、青森から東京迄十二日かかる長い旅に出る準備として、今や荷物をまとめつつある。図424は私が函館へ来てから住んでいる家を示す。隣にはお寺の門がある。人々が礼拝のために門を入ったり、あるいは入口の前を通る人が、礼拝のために頭を下げたりするのを見ては、興味深く感じた。今日私は娘達や子供達がいい着物を着、沢山の花、殊に螢袋(ほたるぶくろ)の一種が町へ運び込まれるのに気がついた。夕方には多くの人が、お寺に入って行った。私も寺の庭に入り、人々が広い段々を登るのを見た。老人や若い人が、先ず荷厄介な木の履物を、段段の下で脱いで上って行くのは、気持がよかった。上へ登り切ると、美しい着物を着た彼等の姿が、寺院内部の暗黒に対して、非常にハッキリ見られた。この光景を楽しみつつ家へ帰るとデンマーク領事のディーン氏が廊下から私に向って、まだまだ見るものは残っている、寺院の裏の丘にある墓地まで行って見給えと叫んだ。寺の構内をぬけて上の方の、高い杉の壮厳な林の中にある墓地までの路は面白かった。ここで人々は死者にお供物を捧げていた。先ず墓石の前の地面を平にし、持って来た奇麗な砂を撒きひろげ、その上に、小さな花生けのように立つ竹筒に、花を入れた物を置くと共に、赤味がかった煎餅若干も置くのだが、中にはとても素敵な御馳走もあった。一人の老婆が祈禱をつぶやきながら、石碑の周囲を平にし、花をいくつか、趣深く配置するのに没頭している。巨木の静寂な影、四角くて意匠の上品な灰色の石、奇怪麗な蝶々のように飛び廻る美装の子供何百人……それはまこと匠心を魅するような景色であった。これ等の人々もまた彼等の宗教を持っており、彼等が天主教徒と同様に熱心に祈り、その信仰の程度は天主教徒よりも深くさえあることを発見するのは、興味があった。朝、五時と六時との間に、必ず礼拝が一回行われ、この早朝の弥撒(ミサ)は、老いさらばえた男女が、頑丈な親類の者に背負われて来る。往来では、寺院の前を過ぎると、人々は常に非常に低くお辞儀をし、祈りを唱える人も多い。

[やぶちゃん注:「我々の実験所」その後のネット検索によってモースが実験所を置いたのは、函館市中央図書館公式サイト内の「はこだて人物誌」の「エドワード・シルベスター・モース」に、『函館における博士の生物学研究は、当時の「函館船改所(現・函館市臨海研究所)」の一部を借用して行われた』(現在の函館市大町13番1号)とあり、同研究所の紹介記事(PDFファイル)によれば、ここの二階にラボがあったことが分かった(一部情報では四百メートルほど東北方向にある現在の海上自衛隊函館基地隊本部のある北海道函館市大町10番3号であったとするが採らない)。

「私が函館へ来てから住んでいる家」既に本文でも函館到着後に滞在中の世話をした役人が、『西洋館に住んでいるデンマーク領事の所で、我々のために二部屋を手に入れたと報告した』と出るように、後に『家へ帰るとデンマーク領事のディーン』が誘いをかけるとあるようにここはこの『ディーン』の家である(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」でも『ディーン』とするが、事実は「デュース」が正しい。彼については後注する)。問題はこれが何処にあったかであるが、ネット検索ではよく分からない。そこで一つの推論を立ててみた。彼が当初、イギリス人扱いであり、しかもイギリス領事ヴァイスが詳細な報告の中に彼のことを記しているとすれば、彼の常勤先は当時のイギリス領事館の一室ではなかったか、そうしてそこに併設する形かすぐ近くに、モースの言う『西洋館』はあったのではないか? 函館市旧イギリス領事館(現在の開港記念館)は現在の函館市元町3314にあった(引き続き、次注を参照されたい)。

「隣にはお寺」函館ホテル旅館協同組合の「はこだて幕末・開港マップ」を見ると、函館山の麓にある浄玄寺(現在の東本願寺函館別院)安政四(一八五七)年にアメリカ貿易事務官ライスの仮止宿所となったとあり、その西に隣接する称名寺という寺は二年後の安政六年にイギリス領事館として貸与されたとある(イギリス領事はフランス領事も兼ねたと記す点に注意)。大谷派函館別院船見支院は現在の函館市船見町1820、称名寺は同船見町1814である。ここだとまさに本文の叙述によく一致するし、少なくとも来日した頃のデュースはこの両寺の孰れか(称名寺か?)に隣接する場所に居住していたと考えてよいであろう。因みに北海道大学付属図書館の「北方関係資料総合目録」に「イギリス商人(?)J.H.デュースへ箱館港の地所145坪貸渡証書(和文原本) / 箱館奉行小出大和守」という文書を見出せるが、私の能力ではよく判読が出来ず、場所がよく分からない。これはずっと後の慶応四(一八六八)年四月のものでもあり、住居ではなく、商業用施設なのかも知れない(無論、これがモースが滞在した当の場所である可能性もある)。郷土史研究家のご援助を切に乞うものである。因みにもうおわかりのことと思われるが、モースの二度目の函館での滞在は八月四日夜から十七日の朝までであった。モースが見た驚くべき数の人々の墓参りはまさに盂蘭盆の中日の光景だったのである。

「デンマーク領事のディーン氏」原文は“Mr. Dean, the Danish consul,”であるが彼の名は“John H. Duus”で「デュース」が正しい。「函館市史 デジタル版」のイギリスとの通商についての記載中に以下のようにある(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

在函のイギリス領事が各年の報告の中で個々の動向を報告している。断片的なものではあるが、これまであまり知られていないことなのでそれを中心にみてみよう。

 まず居留商社の動きに関する記事としては文久元(1861)年のエンスリーの報告にデント商会とリンゼー商会が安政6年の終わりから上海に向けて大量に木材輸出したが損失を被ったことを伝えている。リンゼー商会は先に述べたようにアストンが代理人であったが、文久元年にJ・H・デュースがアストンに変わって代理人となった(文久元年「各国書翰留」道文蔵)。ちなみにデュースはデンマーク国籍であるが来函時にはイギリス人の扱いとなっている。これはデンマークとの通商条約が締結されていなかったためである。文久2年に関するヴァイス[やぶちゃん注:当時の英国領事ヴァイス(Francis Howard Vyse)。]の報告では同年にクニッフラー商会と呼ばれているプロシアの商社の代表者C・ゲルトナーが貿易の目的のために来函したとある。ちなみにこのゲルトナーとは日本側史料にガルトネルとある人物であり、その後プロシア領事となる。R・ゲルトナーはその兄弟である。クニッフラー商会は『横浜毎日新聞資料集』によれば日本における最初のドイツ商社の1つであり、安政6年に拠点のバタビアから長崎に進出し、横浜には文久元年に出店するに至った。同商会は明治13年にイリス商会(C.Illis & co)と改称して今日に至っている。ちなみにイリス商会は明治20年代の函館の水道工事用資材の受注している。慶応元(1865)年のヴァイスの報告には清国において多くの商社が失敗し、それは函館の外国商社にも少なからず影響を与えたにもかかわらず函館の輸出は増加をみせたが、そのなかでもリンゼー商会が大量に輸出したことを述べている。

   《引用終了》

則ち、彼は領事とはいうものの、その実態はやり手の商人でもあったことが分かるのである。同じ「函館市史」の前ページの「表6-23 幕末から明治初期の外国居留人(商業関係)」では、彼を一貫して肩書を『貿易商』『貿易業』と記している。

 

 因みに、「函館市公式観光情報」の「あさり坂」に『1878(明治11)年に来函したイギリスの地震学者ジョン・ミルンと、アメリカの動物学者エドワード・モースらが、函館在住のイギリス商人トーマス・ブラキストンと協力し、市中で貝塚を発掘しました。貝塚からは古代人が食べたと思われるアサリの殻が多く見つかったため、この付近を通っていた坂の名前に「あさり」を取り入れた』とある。この「あさり坂」は現在の函館市宝来町にあり、ここは函館でも西方に位置する。この事蹟は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には載らないが、モースが函館で成した考古学上の大きな業績の一つと考えねばならないが、何故か、モースは一言も述べていない(これはもしかすると以前に日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 23 丘からの眺めの注で記したようにミルンとの間にあった大森貝塚人論叢のしこり(後年、本書刊行の前に和解はしているが)が記憶の底にあったからではなかろうか? ミルンの事蹟についてもリンク先を参照されたい)。そこで矢田部日誌を見ると、一つ、引っ掛かる以下の記載を見出せるのである。八月四日にモースは函館に着いたが、『それから二週間近く、連日のように函館周辺でドレッジを試み、腕足類を得て研究に専念した』(磯野氏前掲書)。その八月十二日と十四日の記載である。

   《引用開始》[やぶちゃん注:例によって恣意的に正字化してある。]

○十二日 「函館山ノ西方ヘマリイス氏ト共上ル。又同氏案内二テ古土器ノ出ル処こ至ル。モース氏高嶺掘テ土器ノ片ヲ多ク得タリ。昨日他ノ一所ニテモース高嶺余ト共ニ土器ノ片、鹿骨ナドヲ掘リ出セリ。此皆介殼丘ナリ」

○十四日 「モース其外土器ヲ掘リニ出ツ」

   《引用終了》

これによって、十一日と十二日は別な場所で土器の発掘を行ったことが分かるが、そこでは矢田部と高嶺の他に「マリイス氏」なる人物が同行している。『函館山ノ西方』というのが、現在の「あさり坂」の位置と完全に一致すること、「マリイス氏」という表記が何となく、ジョン・ミルン(John Milne)の姓と似ていることから、私はこの十二日にモース・ミルン・矢田部・高嶺の四人が「あさり坂」附近で有意の数の土器片を発掘、それに気をよくしたモースは、ミルンの他に当地で既に博物学研究家として知られていたブラキストン(Thomas Wright Blakiston:言うまでもなく津軽海峡における動物学的分布境界線ブラキストン・ラインを指摘した彼である。彼は当初は木材貿易のために函館に来、友人とともに設立したブラキストン・マル商会で貿易商として働いていた。ここはウィキトーマス・ブレーキストンを参照した)を誘ってこの八月十四日に再度、「あさり坂」貝塚を発掘したのではなかったか? 矢田部日誌の『モース其外土器ヲ掘リニ出ツ』の『其外』がまさにミルンとブラキストン(二人はイギリス人)で、『出ツ』から矢田部は同行していないことが分かる。ミルンとブラキストンの二人はイギリス人で、しかもブラキストンは長く函館に滞在しているから土地勘も十分にある。日本人を気にせず、英語で気楽に会話で来る三名(発掘品を運ぶための人夫はいたかも知れない)だけで行ったとしても不自然ではない。矢田部の日誌はそうした印象を十分に与えるもののように私には読めるのである。]

2014/07/27

杉田久女句集 260 花衣 ⅩⅩⅧ 

  タラバ蟹を貰ふ 二句

 

大釜の湯鳴りたのしみ蟹うでん

 

大鍋をはみ出す脚よ蟹うでる

 

  或家の初盆に 四句

 

うつしゑの笑めるが如し魂迎へ

 

美しき蓮華燈籠も灯を入るゝ

 

[やぶちゃん注:「燈籠」「灯」は底本の用字。次句も同じ。]

 

玄關を入るより燈籠灯りゐし

 

露の灯にまみゆる機なく逝きませり

 

  出生地鹿児島 五句

 

朱欒咲く五月となれば日の光り

 

朱欒咲く五月の空は瑠璃のごと

 

天碧し盧橘(ろきつ)は軒をうづめ咲く

 

[やぶちゃん注:「盧橘」はミカン属ナツミカン Citrus natsudaidai 又はミカン科キンカン属 Fortunella のキンカン類の別名で、食用柑橘類を広く総称する語としても用いられる。ここでは五月の初夏の句で季語は「天碧し」(「盧橘」は実のつく秋の季語)、「うづめ咲く」とあるから初夏に白い花をつけるキンカンである。]

 

花朱欒こぼれ咲く戸にすむ樂し

 

風かほり香欒(ざぼん)咲く戸を訪ふは誰ぞ

 

南國の五月はたのし花朱欒

 

  琉球をよめる句 十三句

 

常夏の碧き潮あびわがそだつ

 

爪ぐれに指そめ交はし戀稚く

 

栴檀の花散る那覇に入學す

 

島の子と花芭蕉の蜜の甘き吸ふ

 

砂糖黍かぢりし頃の童女髮

 

[やぶちゃん注:「童女髮」は「うなゐがみ(うないがみ)」と読んでいよう。]

 

榕樹鹿毛(かげ)飯匙倩(ハブ)捕の子と遊びもつ

 

[やぶちゃん注:「飯匙倩」の三文字に「ハブ」とルビする。これは有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科 Protobothrops 属及び Trimeresurus 属に属するするハブの三角形の頭部が飯を掬う匙に似ることに由来するらしい(英名では西洋の騎士が用いた槍(ランス)に擬えて“lance-head snake”と呼ぶ)が、「倩」の意は不詳(「倩」には「愛らしい口元」とか「はやい」という意があり、この辺りが関係するか? 因みに「飯匙倩」音読みすると「はんし(又は「じ」又は「ひ」)せい」である)。「鹿毛」は本来は馬の毛色の名で、全体にシカの毛色のように茶褐色で鬣と尾及び四肢下部が黒色のものをいうが、ここは蔭に同音のこれを当てて、熱帯の異国風俗を強調したものであろう。]

 

ひとでふみ蟹とたはむれ磯あそび

 

紫の雲の上なる手毬唄

 

海ほうづき口にふくめば潮の香

 

海ほうづき流れよる木にひしと生え

 

海ほうづき鳴らせば遠し乙女の日

 

吹き習ふ麥笛の音はおもしろや

 

潮の香のぐんぐんかわく貝拾ひ

 

[やぶちゃん注:これらの句は久女六~八歳の頃の追想吟である。底本年譜によれば、久女は三、四歳までは鹿児島に住み、明治二九(一八九六)年六歳の時、父(鹿児島県県庁の官吏)が沖縄郡那覇県庁へ転勤(他県の県庁職員を転々と転勤するという、こうした人事があったのは少し私には意外である)したのに伴い、一家で那覇に移り、翌明治三十年四月に那覇の小学校に入学したものの、五月には父がまた転勤で当時の日本領であった台湾の南西の嘉義(現在の中華民国嘉義市)に転住、翌明治三十一年には台北に移ってここで久女は明治三十六年に小学校を卒業、上京して東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)附属お茶水高等女学校を受験して合格、入学した(一家は明治三九(一九〇六)年、久女十六歳の時に父が内地転勤となって東京に戻った)。]

杉田久女句集 259 花衣 ⅩⅩⅦ 

  タラバ蟹を貰ふ 二句

 

大釜の湯鳴りたのしみ蟹うでん

 

大鍋をはみ出す脚よ蟹うでる

 

  或家の初盆に 四句

 

うつしゑの笑めるが如し魂迎へ

 

美しき蓮華燈籠も灯を入るゝ

 

[やぶちゃん注:「燈籠」「灯」は底本の用字。次句も同じ。]

 

玄關を入るより燈籠灯りゐし

 

露の灯にまみゆる機なく逝きませり

 

  出生地鹿児島 五句

 

朱欒咲く五月となれば日の光り

 

朱欒咲く五月の空は瑠璃のごと

 

天碧し盧橘(ろきつ)は軒をうづめ咲く

 

[やぶちゃん注:「盧橘」はミカン属ナツミカン Citrus natsudaidai 又はミカン科キンカン属 Fortunella のキンカン類の別名で、食用柑橘類を広く総称する語としても用いられる。ここでは五月の初夏の句で季語は「天碧し」(「盧橘」は実のつく秋の季語)、「うづめ咲く」とあるから初夏に白い花をつけるキンカンである。]

 

花朱欒こぼれ咲く戸にすむ樂し

 

風かほり香欒(ざぼん)咲く戸を訪ふは誰ぞ

 

南國の五月はたのし花朱欒

飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 春

   昭和十二年

 

〈昭和十二年・春〉

 

庭竈家山の雪に燈らしぬ

 

[やぶちゃん注:「家山」故郷。漢語。]

 

獏枕わりなきなかのおとろへず

 

[やぶちゃん注:「獏枕」獏を描いた絵を下に敷いた枕。こうして寝ると悪夢をみることがないという俗信に基づく。新年の人事の季語。]

 

粉黛のかほおぼめきて玉の春

 

[やぶちゃん注:「粉黛」は「ふんたい」と読み、白粉と黛(まゆずみ)・化粧、ここでは美人の謂いであろう。]

 

喫茶房支那樂かけて松の内

 

落飾の深窓にしてはつ日記

 

   久遠寺

身延山雲ひく町の睦月かな

 

サーカスの身を賭(かく)る娘が春衣裝

 

   古墳發掘 二句

 

上古より日輪炎えて土の春

 

春佛石棺の朱に枕しぬ

 

花薊露珊々と葉をのべぬ

 

[やぶちゃん注:「珊々」は「さんさん」で輝いて美しいさま。]

 

死火山の夜をさむきまで二月空

 

樹々芽立つさなかの獵家午過ぎぬ

 

百千鳥酣にして榛の栗鼠

 

[やぶちゃん注:「酣」は「たけなは(たけなわ)」、「榛」「榛」は音「ハン」、落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。この光景はシチュエーションから見て後者と思われる。]

 

雲ふかき厚朴一と株の芽立ちかな

 

[やぶちゃん注:「厚朴」は「こうぼく」で本来は生薬の名。この生薬はモクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキMagnolia obovata)又はシナホオノキ Magnolia officinalis の樹皮を指すが、ここでは樹木本体で、前者であろう。]

 

雹やみて雲ゆく甌窶蘭咲けり

 

[やぶちゃん注:「甌窶」は「おうる」と読ませているらしい。諸注は高台の狭い土地とする。「甌」は原義が小さな平たい鉢、「窶」は小さな塚や岡を指す。通常は「おうろう」であるが、小丘の謂いの場合、「ル」という音を持っている。]

 

歯朶もえて岩瀧かける雉子かな

 

[やぶちゃん注:「雉子」は「きぎす」と訓じていよう。次の句では「きじ」かも知れないが、私は字余りでやはり「きぎす」と読みたい。]

 

雉子なけり火山湖の春いぬる雨

 

[やぶちゃん注:「火山湖」蛇笏の居住地山梨県東八代郡五成村(後に境川村となり、現在は笛吹市)の近辺とすれば、富士五湖か。]

 

   山蘆庭前

蔦の芽の風日にきざす地温かな

 

[やぶちゃん注:「地温」は「ちをん(ちおん)」で土の温度。]

 

暮の春奥嶺の裸形ただ藍(あを)し

 

[やぶちゃん注:「奥嶺」は「おうれい」と読むか。]

 

   赤の浦大嶽山

雹まろぶ大山祇(おほやまつみ)の春祭

 

[やぶちゃん注:「赤の浦大嶽山」は現在の山梨県山梨市三富上釜口赤の浦にある大嶽山那賀都(だいたけさんながと)神社。人皇十二代景行天皇の頃、日本武尊の東征の際、甲武信の国境を越える折りに神助を受けたことから、神恩奉謝の印として国司ヶ岳の天狗尾根に佩剣を留め置いて三神を祀った(現在の同神社奥宮)ことを起源とし、天武天皇の頃、役行者小角が当山(現在の社地)の霊験あらたかなるを以って修験道場として開山した。その際、山が昼夜連日鳴動して止まなかったことから、「大嶽山鳴渡(なると)ヶ崎」と呼ぶようになった。 天平七(七三五)年には行基が観世音像(昭和二五(一九五〇)年に流失して現存しない)を刻し、「赤の浦鳴渡ヶ崎に那留(なる)神のみゐづや高く那賀都とは祈る」という神歌を奉じて、是より「那賀都神社」と称するようになったと伝えられている。養老元(七一七)年には最澄が、天長八(八三一)年には空海が相次いで来たって、清浄(しょうじょう)ヶ滝・座禅岩、下流川浦に絵書石等の行跡(ぎょうせき)を残した。江戸初期に一時、大破して小祠となったが、元文五(一七四〇)年に再建のために羽黒派修験東叡山支配となり、社殿が建立された(以上は大嶽山那賀都神社」公式サイトの由緒に拠る)。]

 

   山廬端午

軒菖蒲庭松花をそろへけり

はだかのきゅうぴい   山之口貘

 はだかのきゅうぴい

 

 きょうは どようびな

ので、ただしちゃんは、

いつもより はやく、

がっこうから かえりま

した。さむい かぜが

ふいている まちを、

ただしちゃんは、はなも

ほっぺたも まっかにし

て かけだしました。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三二(一九五七)年二月号『小学一年生』。底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題に、『「詩」というより、「お話」。掲載誌の性格上、「児童詩」として』扱った旨の記載がある。標題と話柄の関連性が見えないが、解題にある渡辺三郎氏の絵がその意味を繫げているのであろうか?

 因みに、私藪野直史は昭和三二(一九五七)年二月十五日生まれで名は「ただし」と読む。]

学校への道で   山之口貘

 学校への道で

 

たべても たべても

たりないみたいで、

けさも また

ごはんをたべすぎた。

 

いつもの道を歩いてきて、

ふと 見あげた

カキの木。

すきとおるような

空の青、

うまそうに赤い

カキの実。

 

けさは こんなに

おなかがいっぱいなのに、

もう また ぼくはたべたくて

カキの実のあまみが

したにつたわってきた。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年十一月号『小学四年生』。]

まつかさ 山之口貘

 まつかさ

 

お友だちの 家へ

遊びに 行くとちゅう

イチョウの 黄いろい落ち葉が

カサッ コソッ

と ささやいたよ

ヒバの かきねのところを

まがる時

モミジの 赤い落ち葉が

カサッ コソッ

と ささやいたよ

門のところで ふいに

ポンと 頭を たたかれて

びっくりすると

まつかさだよ

お友だちの名を よぼうとしたら

ポンと また落ちたよ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年十一月号『小学三年生』。]

2014/07/26

橋本多佳子句集「紅絲」 忌月

 忌月

 

[やぶちゃん注:これは「九月」と三句目にあることから、亡き夫豊次郎(昭和一二(一九三七)年九月三十日逝去。享年五十歳)の忌月である。句の順列から考えると、この句は昭和二五(一九五〇)年の作と私は推定するが、とすれば十四回忌、節目となる十三回忌の翌年なればこそのある淋しさが「忌月」という標題に現われているように思われる。]

 

忌日眼に見ゆるちかさに青野分

 

忌日ある九月に入りぬ蝶燕

 

麻衾暁の手足を裹み余さず

 

[やぶちゃん注:「麻衾」は「あさぶすま」で麻布で作った粗末な夜具のこと。これは実際に粗末なのではなく(残暑も残るから薄いものではあったであろう)、多佳子の孤独感の表象である。]

 

くらがりに傷つき匂ふかりんの実

 

蟬声や吾を睡らし吾を急(せ)き

 

日の中にゐて露冷えに迫らるゝ

 

曼珠沙華咲けば悲願の如く折る

 

曼珠沙華からむ蘂より指をぬく

 

昏くして雨ふりかゝる曼珠沙華

 

瀬を流るゝとき曼珠沙華のもつれとけず

 

[やぶちゃん注:参考までに。単子葉植物綱クサスギカズラ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ Lycoris radiata (別名の「マンジュシャゲ」又は「マンジュシャカ」はサンスクリット語“manjusaka”の音写。仏典に載る天界に咲ていて瑞兆を示すために天から降ってくる赤い花を指す。属名“Lycoris”はギリシャ神話に登場する海のニンフ(ネレイス或いはネレイドと呼ばれる)の一人、金髪の “Lycorias”(リコリアス)に由来するものと思われる)。種小名“radiata”は「放射状」の意である。ここまでは主にウィキヒガンバナその他のネット情報に拠った)の花言葉は「情熱」「独立」「再会」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」……「悲しい思い出」……そして「あきらめ」である……]

杉田久女句集 258 花衣 ⅩⅩⅥ 和布刈の鼻枕潮閣にて 二句

  和布刈の鼻枕潮閣にて 二句

 

新船卸す瀨戸の春潮とこしなへ

 

新艘おろす東風の彩旗へんぽんと

 

[やぶちゃん注:「和布刈の鼻枕潮閣」枕潮閣(ちんちょうかく)は現在の福岡県北九州市門司区門司にある百年以上の歴史を持つ河豚(ふぐ)料理専門の料亭。先に注した和布刈(めかり)神社(初凪げる和布刈の磴に下りたてりなどの注を参照)の境内から関門海峡に突き出した形で社務所の前に建つ。参照したMAC&JOY氏の「九州旅倶楽部」の枕潮閣と源平小菊で現在の画像が見られる。

「新船」「新艘」は恐らく「しんぞ」と読んでいると思われる。「新造下ろし」「新艘下ろし」は「しんざう(しんぞうおろし)」で新造の船を初めて水上に浮かべること、ふなおろしのことを言うが、これには別に他人の妻の敬称として「御新造(ごしんぞう)」(古くは武家の妻、後に富裕な町家の妻の敬称。特に新妻や若女房に用いた)があり、さらに音変化した「ごしんぞ」(これはさらに近世遊郭用語として、遊里で姉女郎の後見つきで客をとり始めた若い遊女の呼称ともなった。語源は遊女を舟に見立てたものともいうが不詳)がある。音数からも、この「しんぞ」の方が(それでも字余りではあるが)しっくりくるように思われる。]

杉田久女句集 257      花衣 ⅩⅩⅤ 馬關春帆樓 三句

  馬關春帆樓 三句

 

薰風や釣舟絶えず並びかへ

 

釣舟の並びかはりし籐椅子かな

 

晩涼や釣舟並ぶ樓の前

 

[やぶちゃん注:「馬關春帆樓」赤間神宮・安徳天皇御陵に隣接する関門海峡を望む高台(現在は山口県下関市阿弥陀寺町)に現在もある割烹旅館春帆楼(しゅんぱんろう)。明治二八(一八九五)年四月十七日に日清戦争後の日清講和条約(下関条約・馬関条約)が締結された場所として知られる。ウィキの「春帆楼」によれば、『敷地内に日清講和記念館(登録有形文化財)、伊藤博文・陸奥宗光の胸像、講和条約時、李鴻章が宿泊した引接寺へは、敷地内より李鴻章道が続く』とある。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「うすら日」(3) けふのうた(全) /「ソライロノハナ」短歌部全電子化終了

 けふのうた

 

すさみたる女の顏の白粉か

酒に醉ひたるのちのこゝろか

 

われは尚生きて居たりき氣まぐれに

折から歌を詠みいでしため

 

むくむくと煙たちのぼり玉手箱

わがたのめごと消えはてにけり

 

[やぶちゃん注:原本では上句が「むくむくと煙たりのぼり玉手箱」であるが、意味が取れない。校訂本文を採る。]

 

一(ぴん)となげよ兔にも角にもすてばちの

このさいころを轉がしてみよ

 

        こゝろ惱ましく狂ほし

とんがらしくるりくるりとめぐる日は

眼にいたいたし泣け泣け咲二

 

[やぶちゃん注:前書は原本は「こゝろ腦ましく狂ほし」。誤字と断じて訂した。校訂本文も「惱」とする。「くるりくるり」及び「いたいたし」の「いたいた」の後半は原本では踊り字「〱」。この踊り字使用は「ソライロノハナ」の中で特異点で、しかも同一歌の中に二箇所使われている点でもこれは確信犯で、この時の朔太郎にとってはこのスラーのような踊り字が、「こゝろ惱ましく狂ほし」の内在律を示すための音楽記号のようなものででもあったのかも知れない。

「咲二」は萩原朔太郎が二十二~二十六歳頃に盛んに作歌していた頃の雅号。]

 

かへろかへろ山(さん)しよ太夫の赤面か

やんまとんぼか飛べ飛べきちがひ

 

きちがひのうすら笑ひに茜(あかね)さし

いなごの如く鳳仙花とぶ

 

ひとゝこを見つめて居れよ日は照れよ

くるりくるりとめぐれひぐるま

 

[やぶちゃん注:いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「めぐれひぐるま」の「め」の左位置から下方に向って、最後に以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、「けふのうた」歌群の終了を示している。

 本歌群を以って「ソライロノハナ」全巻が終了する。]



 私は既に「ソライロノハナ」の内、
をブログにて電子化しているので参照されたい。

これより「ソライロノハナ」総ての電子化に向けて、残るわずかな箇所を電子化、最終的にサイトに完全版「ソライロノハナ」を公開する作業に入る。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 47 鶴岡 めづらしや山を出羽の初茄子

本日二〇一四年七月二十六日(陰暦では二〇一四年六月三十日)

   元禄二年六月  十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十六日

である。この日、芭蕉は遅く午後三時頃に羽黒山を後にし、鶴岡へ夕刻五時頃に着いた。鶴岡では先の図司左吉(露丸。彼はここまで芭蕉らと同道している)の縁者であった庄内藩(鶴岡藩とも呼ぶ)士長山五郎衛門重行(しげゆき)亭に泊まり、その日から三日がかりで本句を発句とする歌仙「めづらしや」の巻が巻かれた。

 

  羽黑山を出(いで)て鶴が岡重行亭

めづらしや山を出羽(いでは)の初茄子(はつなすび)

 

[やぶちゃん注:「初茄子」(呉天編・享保一三(一七二八)年跋)。「曾良俳諧書留」に歌仙が載る。そこでは、

 

  元祿二年六月十日

    七日羽黑に參籠して

めづらしや山を出羽の初茄子    芭蕉

  蟬に車の音添(そふ)る井戸  重行

 

という前書に発句、脇を亭主が付けている(他に曾良と露丸)。

 「山を出羽(いでは)」は、羽黒山をというよりも、山また山の奥羽山脈を越えて遂に日本海側へと下ったといった感慨に「出で端(は)」山家から出てすぐにの意を掛けて、亭主が饗応した膳に盛られた初茄子を詠み込んで謝意の挨拶句とした。加藤楸邨は「芭蕉の山河」(講談社学術文庫一九九三年)で、この茄子は鶴岡近くで産する小粒の珍しい民田(みんでん)茄子と呼ばれるもので『非常にうまい』と記しておられる。山形県農林水産部六次産業推進課の「やまがた伝統野菜」によれば、民田茄子は『皮が堅く、果肉のしまりが良』く、『手のひらに乗るくらいに成長したところで収穫、卵型で果皮が堅く、果肉のしまりが良い。江戸時代、民田地域の八幡神社の社殿を作る際に京都の宮大工が種を持ち込んだと言われている』。『浅漬け、からし漬け、味噌漬け、一夜漬けなど漬物として食べられる』とある。]

2014/07/25

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (1)

     三 局部の別

 

 以上述べた通り外形では雌雄の別のわからぬやうな動物でも、腹の内には必ず卵巣か睾丸があつて、何らかの方法によつて卵と精蟲とを出遇はしめる。即ち或る者は體外で受精が行はれ、或る者は雌の體内に精蟲が移し入れられるが、雄が直接に雌の體内に精蟲を入れる場合には、これを確實に行ふために特殊の器官を具へて居る者も少くない。例へば普通の鳥類にはかやうな交接器はないが、「がん」・鴨の如き水鳥類の雄には生殖の出口に肉質の突起があつて、交接する時これを雌の肛門内插し入れる。駝鳥では雄の交接器が特に大きくて長さが三十糎以上もある。かやうな交接器が體外へ突出して居るときには一目してその雄なることが知れるが、平常はこれを體内に收め入れて居るため、外から見ては雌雄の局部の相違が少しもわからぬ。

[やぶちゃん注:『「がん」・鴨の如き水鳥類の雄には生殖の出口に肉質の突起があつて、交接する時これを雌の肛門内插し入れる』鳥類には疎い私はここで初めてそうした事実を知ったが、永く実際のそれを見たことがなかった。今回、科学記事を発信する「ワイアード」でカモの驚くべきペニス:螺旋型が「爆発」動画)」という記事を発見、イェール大学の進化生物学者 Patricia Brennan 氏が、カモの仲間であるバリケン(カモ目カモ科 Cairina 属ノバリケン Cairina moschataの家畜化されたもの。ウィキノバリケン」によれば、バリケンは『食用家禽として日本に持ち込まれたが、あまり普及していない。飛行能力が残っており日本各地で逃げ出したものが散見される』とある)オスが約二十センチメートルのドリル(螺旋)型のペニスを三分の一秒(!)ほどで伸ばしきる瞬間を高速度カメラで記録することに成功したとあり、動画も見られる。

「駝鳥では雄の交接器が特に大きくて長さが三十糎以上もある」なかなか見つからなかったが「Ostrich sex」という画像で確認出来る。なかなかに交尾中の♂の羽と雌雄の首の上下運動が美しい。二十五秒のところで交尾を終わって♂が離れる際に螺旋状のかなり大きなペニスが見える。なお、これらの鳥類の中に稀に存在するペニスはヒトと同じような海綿体組織から成るものの、その勃起は血液ではなくリンパ液によって行われていることが最近分かったようである。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「うすら日」(2) はつはる(全) 

 はつはる

 

ぎたあるのあの糸の切れしをつぐ如し

しづかにくるゝ春のゆうべは

 

[やぶちゃん注:「ゆうべ」はママ。]

 

ほのかにもケレオソートのにほひして

はつはるの日はくれて行くかな

 

[やぶちゃん注:「ケレオソート」クレオソート。ブナなどの木タールから得られる無色又は黄色がかった油状の液体で、グアヤコールなど種々のフェノール類の混合物。刺激臭があり、防腐薬・鎮痛薬などに用いる。現在の正式呼称は木(もく)クレオソート。所謂、正露丸の臭いである。]

 

春あさき若草山のふもとにて

しづこゝろなく吸ふ煙草かな

 

すつぽんと花火の玉の破れしとき

さくらさくらはあめいろに咲く

 

薄葉(すすやう)に口紅すこしにぢむほど

月の出よしやくちづけのあと

 

[やぶちゃん注:「すすよう」のルビ及び「にぢむ」はママ。「薄葉」は「薄樣(様)」とも書き、読みは「うすえふ(うすよう)」が正しい。薄手の鳥の子紙・雁皮紙又は一般に薄手の和紙を指す。]

 

思ふどち語りつかれて息らへる

藤椅子(といす)の影の靑きくちなし

 

[やぶちゃん注:「藤椅子」はママ(「籐椅子」が正しい)。ルビもママで、萩原朔太郎は詩篇交歡記誌(大正三(一九一四)年七月号『創作』。リンク先はこの注のために急遽作った私の電子テクスト)でも「藤椅子」と書き、しかも「といす」とルビを振っているから、朔太郎は普段も「籐椅子」を「藤椅子」と書き、しかも「といす」と発音していたと考えてよく、これは朔太郎にしばしば見られる一種の確信犯的誤用であるからママとした。]

 

なにかしてうき身をきつくし死ぬばかり

ひと戀ふすべをおぼへたきかな

 

[やぶちゃん注:「おぼへ」はママ。]

 

ふきあげのみづのこぼれをいのちにて

そよぎて咲けるひやしんすかな

 

[やぶちゃん注:朔太郎満二十六歳の時、『朱欒』第三巻第五号(大正二(一九一三)年五月発行)に掲載された、

 ふきあげの水のこぼれを命にてそよぎて咲けるひやしんすの花

の標記違いの相同歌である。]

 

きのふ心ひとつに咲くばかり

ろべりやばかり悲しきはなし

 

[やぶちゃん注:「ろべりや」キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ(溝隠)属 Lobeliaのロベリア・エリヌス Lobelia erinus、和名ルリチョウソウ(瑠璃蝶草)及びその園芸品種。歌群「ろべりや」他で既注。

 本歌は前と同じ『朱欒』に掲載された、

 きのふけふ心ひとつに咲くばかりろべりやばかりかなしきはなし

の標記違いの相同歌である。]

 

たち別れひとつひとつに葉柳の

しづくに濡れて行く俥かな

 

[やぶちゃん注:本歌も前と同じ『朱欒』に掲載された、

 たちわかれひとつひとつに葉柳のしづくに濡れて行く俥かな

の標記違いの相同歌。]

 

しのゝめのまだきに起きて人妻と

滊車の窓より見たるひるがほ

 

[やぶちゃん注:底本では「滊車」の「滊」は(「米」+「氣」)であるが表示出来ないし、意味は明らかに汽車であるから、かく訂した。因みに校訂本文は「汽車」としている。「滊」は「汽」の異体字である。以前から申し上げている通り、意味に変化がなく、誤用でないにも拘らず、異体字まで『校訂』してしまっている底本にはやや疑義がある。何故なら異体字を総て正字化する根拠とその徹底可能性には明らかに限界があるからであり、それが絶対の定本とされること自体に疑問を持つからである。

 本歌は、前と同じ『朱欒』所収の、

 しののめのまだきに起きて人妻と汽車の窓よりみたるひるがほ

の標記違いの相同歌。]

 

ちりほこり散らばふ黄なる木の葉など

むしろのうへの名所繪圖など

 

あさはかの女ごゝろにちらちらと

酒のこぼれて嘆く夜かな

 

[やぶちゃん注:いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「嘆く夜かな」の「く」の左位置から下方に向って、最後に以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、「はつはる」歌群の終了を示している。]

交歡記誌   萩原朔太郎

 交歡記誌

 

みどりに深き手を泳がせ

凉しきところに齒をかくせ

いま風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすゐのほとりに家畜を先導し

きみは舞妓たちを配列し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

夫人よ、おんみらはまた

とく水色の藤椅子(といす)に酒をそそぎてよ

みよ、ひとびときたる

遠方より魚を光らし

先頭にある指もて十字を切るごとし

女は左に素脚ひからし

男は右にならびて杖をとがらす

みよ愛は行列のしりへに跳躍し

淫樂の戲奴は靴先に鈴を鳴らせり。

ああ、ともがらはしんあいなり

遊樂は祈禱の沒落

靈肉の音の交歡

いま新らしき遊戲は行はれ

遠望の海さんさんたるに

われ諸君とゆびさし

眺望してながく塔下に演説す。

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年七月号『創作』。底本筑摩版全集第三巻の「拾遺詩篇」に所収する。

「戲奴」は「わけ」と読む。これは二種の用法がある万葉以来の古語で、一つは一人称の人称代名詞で自身を謙遜していう、「わたくしめ」で、今一つは二人称の人称代名詞。目下の相手を親しみを込めて、半ばののしるようにいう「おまえ」「そち」の意である。ここは標題と詩想、及び後に一人称の「われ」が出ることから、二人称代名詞と私は採る。

 但し、底本の校訂本文では、著者の削除と追加の書き入れのある掲載誌によって校訂本文が載る。以下に示す。但し、底本では一行目の「深き」を「深く」に、二行目の「凉しき」を「涼しき」に、九行目の「藤椅子」を「籐椅子」に『校訂』してしまっているのでこれらは元に復した。

 

 交歡記誌

 

みどりに深き手を泳がせ

涼しきところに齒をかくせ

いま風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすゐのほとりに家畜を先導し

きみは舞妓たちを配列し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

夫人よ、おんみらはまた

とく水色の藤椅子(といす)に酒をそそぎてよ

みよ、ひとびときたる

遠方より魚を光らし

淫樂の戲奴は靴先に鈴を鳴らせり。

ああ、いま新らしき遊戲は行はれ

遠望の海さんさんたるに

われ諸君とゆびさし

眺望してながく塔下に演説す。

 

 個人的には初出のままの詩の方がずっとよいと感ずる。]

橋本多佳子句集「紅絲」 月明

 月明

 

一燈なく唐招提寺月明に

 

野の猫が月の伽藍をぬけとほる

 

百姓や月の白壁惜しみなく

 

  薬師寺

 

月天へ塔は裳階(もこし)をかさねゆく

 

月光に朱(あけ)うばはれず柱立つ

 

月光のいまも黒髪老いつゝあらむ

杉田久女句集 256 花衣 ⅩⅩⅣ 廣壽山の老僧林隆照氏遷化 四句

  廣壽山の老僧林隆照氏遷化 四句

 

木の實降る石に座れば雲去來

 

蕗味噌や代替りなる寺の厨

 

櫻咲く廣壽の僧も住み替り

 

お茶古びし花見の緣も代替り

 

[やぶちゃん注:「廣壽山の老僧林隆照氏」小倉北区寿山町にある黄檗宗の名刹広寿山福聚寺(こうじゅさんふくじゅじ)の住持で、坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、林隆照『禅師は漢詩に造詣が深く、久女のよき理解者であり親交が深かった』とある。]

飯田蛇笏句集 山響集 電子化始動 / 昭和十一年(全)

飯田蛇笏句集「山響集」の電子化を開始する。

 

[やぶちゃん注:「山響集」は「こだましふ(こだましゅう)」と読む。飯田蛇笏が先に電子化した第二句集「靈芝」に次いで昭和一五(一九四〇)年十月三十一日に河出書房より刊行した第三句集である。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリー版を視認したが、ポイントの違いは原則、無視した。ルビは( )で示した。底本では上部左(右)頁でそれぞれ左(右)インデントで年号と季節が示される(右書き)という変わった趣向を持つ。それぞれの頁の頭にあるが、変化する頁の最初の句の前にそれを〈 〉で配しておいた。]

 

句集

山響集

飯田蛇笏

 

河出書房

 

[やぶちゃん注:扉。底本では右書き。「河出書房」は下インデント。次に目次が入るが省略する。]

 

句集 山響集(こだましふ)   飯田蛇笏

 

   昭和十一年

 

〈昭和十一年・春〉

 

水神をまつる日虧けて夏隣

 

〈昭和十一年・夏〉

 

つりそめて水草の香の蚊帳かな

 

かたつむり南風茱萸につよかりき

 

荼毘のあと炭いつまでも藜草

 

[やぶちゃん注:「藜草」は「あかざぐさ」と読んでいるか。ナデシコ目ヒユ科Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ Chenopodium album変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum 。春から初夏にかけて若葉や中心部の芽が赤紫色となり、初夏には淡緑・紅紫の小花を房状につける。]

 

聖母(マドンナ)に灯し紫陽花こゝだ插す

 

[やぶちゃん注:「こゝだ」副詞。沢山。大層。甚だしく。漢字では「幾許」と書く。「ここば」とも。万葉以来の古語。]

 

空梅雨に衷甸(ばしや)みどりなる耶蘇詣で

 

[やぶちゃん注:「衷甸」は二頭立ての馬車を意味する漢語。音は「チュウデン」で「甸」は「乗」と同義(そのせいか「チュウジョウ」と誤読する表記を見かける)、「衷」は中央の意か。元は貴人の乗る馬車を指す。]

 

   御嶽昇仙峽

 

打水す娘に翠巒の雲ゆけり

 

[やぶちゃん注:「御嶽昇仙峽」秩父多摩甲斐国立公園に属する名勝昇仙峡の正式名。甲府盆地北側山梨県甲府市の富士川支流である荒川上流に位置する渓谷。長潭橋(ながとろばし)から仙娥滝までの全長約五キロメートルに亘る渓谷で奇岩多く、特に十一月頃の紅葉が美しいことで知られる(ウィキの「昇仙峡」に拠った)。]

 

〈昭和十一年・秋〉

 

毬栗のはぜかゞりゐる八重葎

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「はぜ」は「爆(は)ず」で]草木の実などが熟しきって裂け飛び散る、はじけるの意の「爆(は)ぜる」の文語。]

 

秋雞が搏ちまろがせる狗(こいぬ)かな

 

秋雷に首さしのべて塒雞

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「塒雞」は「ねぐらどり」と読む。]

 

夜も撞いて江湖の鐘や鰯(いわし)雲

 

    註――江湖會

 

[やぶちゃん注:「江湖」=「江湖會」は「がうこゑ(ごうこえ)」と読み、禅宗寺院で修学参禅の僧を集め、夏安居(げあんご:単に「安居」という。元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺院。)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。因みに安居の開始は結夏(けつげ)、終了は解夏(げげ)と称する。雨安居(うあんご)ともいう。ここは平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした。)を行うことをいう。]

 

   箱根賽の河原にて

 

曾我の子はこゝにねむりて鰯雲

 

[やぶちゃん注:「箱根賽の河原」現在、双子山山麓箱根神社の芦ノ湖畔元箱根の入口に建つ一の鳥居の傍らにある。この地は神仏習合の江戸時代まで地蔵信仰の聖地として信仰を集め、かつての芦ノ湖畔には至るところに供養のための夥しい石仏や石塔が並んでいたというが、明治の廃仏毀釈によって現在のように纏められ、矮小化されてしまった。箱根町史跡とされ、伝曽我兄弟の墓と伝える日本最古とも言われる五輪塔二基があるものの、同神社(曽我神社として後掲する曽我兄弟を祀っているにも拘わらずである。但し、同神社の曽我兄弟祭祀は江戸の正保四(一六四七)年、小田原城主稲葉美濃守正則の造営になる新しいものである)の公式サイトにさえ記されていない。

「曾我の子」仇討ちで知られる曽我兄弟。弟の曽我五郎時致(ときむね)が箱根権現(箱根神社の旧称)の稚児であった関係から、賽の河原伝兄弟の墓とするものが現存する。傍らにやや小さな同形の五輪塔があり、こちらは兄の曽我十郎祐成の思い人であった虎御前の墓とも伝える(グループ東海道53コム制作のサイト「夢出あい旅 サイバー五十三次」の「曽我兄弟の墓と賽の河原」で写真が見られる)。但し、伝承に過ぎず、供養塔の可能性はあるが墳墓とは思われない。彼らの墓地としては千葉県匝瑳(そうさ)市匝瑳地区山桑に伝わる曽我兄弟の墓の方がまだ信憑性がある(リンク先は匝瑳市公式サイト内)。但し、ネット上の情報では賽の河原に現在残っている石仏石塔群の中には鎌倉後期までは遡れるものが認められるようである。]

 

艇庫閉づ秋寒き陽は波がくれ

 

  北巨摩古戦場耳塚原 二句

 

巖温くむら雨はじく秋日かな

 

[やぶちゃん注:「北巨摩古戰場」「耳塚原」ともに不詳。個人サイト「城と古戦場」の「山梨県の城」には、谷戸城(北巨摩郡大泉村谷戸。武田氏滅亡後に徳川家康と北条氏直との覇権争いに利用される)・若神子城(北巨摩郡須玉町若神子。武田信玄が佐久進軍の際に、幾度もここに宿を置いた)・獅子吼城(北巨摩郡須玉町江草。武田信虎の甲斐統一の仕上げの山城)の三つが北巨摩郡としては載る。リンク先の各解説を読むと、獅子吼城のそれが凄絶な戦場の雰囲気を伝える。「耳塚原」も固有名詞と思われるが、検索に掛からない。用年研究家の御教授を乞うものである。

 老婆心乍ら、「温く」は「ぬくく」と読む。]

 

雷遠く雲照る樺に葛咲けり

 

   信濃白骨行

 

温泉(でゆ)ちかき霽れ間の樺に秋の蟬

 

〈昭和十一年・冬〉

 

花金剛纂(はなやつで)焚火に燻(く)べて魚香あり

 

[やぶちゃん注:「花金剛纂」セリ目ウコギ科 Aralioideae 亜科ヤツデ Fatsia japonica の枝分かれした小さな毬状の白い花を指す。「金剛纂」は漢名。熟した実は堅いことからの命名か。ヤツデの花を燃やすと魚臭いのか? 今度、やってみようと思う。実験後に結果を追記する。]

 

マスクしてしろぎぬの喪の夫人かな

 

   靑森港

 

ペチカ燃え牕(まど)の寒潮鷗とべり

 

うす日して震災堂の玉あられ

 

[やぶちゃん注:「震災堂」現在の東京都墨田区横網の横網町公園内にある東京都慰霊堂。昭和五(一九三〇)年に関東大震災の身元不明遺骨を納め、死者の霊を祀る震災記念堂として創建され、昭和二三(一九四八)年より東京大空襲の身元不明遺骨をも納め、死亡者の霊を合祀して、昭和二六(一九五一)年に東京都慰霊堂となった。東京都の施設であるが仏教各宗により祭祀されている。ここは元陸軍被服廠があった場所であったが、大正八(一九一九)年に赤羽に移転してその後公園予定地として更地にされて被服廠跡と呼ばれたが、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災では多くの罹災者の避難場所となっていた。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災がこの家財道具に燃え移り、更に火災による旋風が起こったためにこの場所だけで推定東京市全体の死亡者の半数以上、訳三万八千人もの市民が死亡したとされる。震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって昭和五(一九三〇)年九月に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付された。昭和六(一九三一)年には震災復興記念館が建てられている。本堂は築地本願寺の設計でしられる名建築家伊東忠太の手になる(ここまではウィキ東京都慰霊堂に拠る)。Sohsuke Suga 氏の震災慰霊堂で昭和五創建当時の写真が見られる。]

 

聖樹灯り水のごとくに月夜かな

 

どんぐり   山之口貘

 どんぐり

 

どんぐり

どんぐり

どんぐりさん

むこうの お山へ

いきたくて

おいけの なかに

ざんぶりこ

どんぐり

どんぐり

どんぐりさん

おみずが

つめたい

はっくつしょん

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年十一月号『小学一年生』。]

金魚   山之口貘

 金魚

 

笑いなさんなと さも言いたげな

おどけ顔の

くろんぼデメキン

 

白に黄に黒や青などの

色とりどりを身に染めて

すまし顔のシュブンキン

ながい尾びれもあでやかに

夢追い顔のリユーキン

 

一度はお目にかかってみたいのが

オランダシシガシラにランチエウで

今夜は顔見知りの金魚ばかりだ

 

みんな口をぱくぱくなので

アイスクリームが

ほしいんじゃないのかいと

そばの弟に言ってみるのだが

自分がほしいんじゃないのかいと

金魚のかわりに弟が笑った。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年七月号『中学生活』(小学館発行)。以下、一応、グーグル画像検索を掲げておく。

『くろんぼデメキン」』→出目金」(クロデメキンで掛けるよりもこちらの方が生体個体写真が多いため)

シュブンキン

「リユーキン」→リュウキン」

オランダシシガシラ

ランチュウ

 個人的にはどうも金魚は好きになれない。特に最後の二品種などは私には奇形にしか思われない。因みに金魚が出る名詩といえば、

 

 水中花   伊東靜雄

 

水中花と言つて夏の夜店に子供達のために賣る品がある。木のうすいうすい削片を細く壓搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の變哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤靑紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都會そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。

 

今歳水無月のなどかくは美しき。

軒端を見れば息吹のごとく

萌えいでにける釣しのぶ

忍ぶべき昔はなくて

何をか吾の嘆きてあらむ。

六月の夜と晝のあはひに

萬象のこれは自ら光る明るさの時刻。

遂ひ逢はざりし人の面影

一莖の葵の花の前に立て。

堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

金魚の影もそこに閃きつ。

すべてのものは吾にむかひて

死ねといふ、

わが水無月のなどかくはうつくしき。

 

これに尽きる。]

ウォター・シュート   山之口貘

 ウォター・シュート

 

 スル スル すべって

 バシャーン。

 

水が びっくり

しぶきは 高く とびあがる

はずんだ ボートが

大きく ゆれる

しぶきに ぬれて

みんなも ゆれている

ぼうやは おどおど

パパの 首を だいている

ぼくらは へいちゃら

そうかいだよ。

スルスルすべって

バッシャーン

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年七月号『小学三年生』。ウォター・シュートはお若い方には分からないかも知れない。個人サイト「T. Kanehira & TEXAS COMPANY」の小学生時代の風景に「豊島園のウォーターシュート」に写真がある。私(昭和三二(一九五七)年生。幼稚園と小学一年生まで練馬の大泉学園にいた。リンク先に作成者の方は私より十歳年上であるが、どの写真もひどく懐かしい感じがするんである)はまさにこれに乗った時のことを未だに覚えいる。舳先のお兄さんのジャンプがとってもカッコよかったんだ……]

阿蘇の春   山之口貘

 阿蘇の春

 

ながいながい冬のねむりから

カエルやトカゲの

目のさめるころ

空には高く

ヒバリのさえずるころ

ツバメがまちにやってくるころ

ヒガンザクラやモモの木に

アネモネやチューリップや

モクレンに

きれいな花のひらくころ

山はむねをはっていきづいてくるのだ

おお 阿蘇の高原の

みわたすかぎりのうすみどりよ

四月のあたたかい陽をあびて

みんな希望にもえたつのだ

見よ

むこうでウシがたちあがり

こちらのウシもたちあがった。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年四月号『五年の学習(進級お祝い号)』(学習研究社発行)。]

アリスは52位だった

しばしば僕の少女趣味と勘違いされるんであるが、うちのアリスは先代のアリスの血統書の正真正銘の名前がAliceで、それを引き継がせたもので、今のアリスの血統書上の本当の名前はアメジスト(奇しくも僕の好きな僕の誕生石。……「奇しくも」でも何でもないか……)なんだが、これは如何にも呼びづらいので、亡き母と話して、アリスにしたんである。
因みにあまり知られていないようだが、血統書の名前は、母親の1回目の出産の場合をA胎と呼び、出来た子供には総ての子にAで始まる名前をつけるんである。先代のアリスの父は「アーサー」だったが、母親は「ジャバリン」であったから、先代アリスのおばあちゃんは10回も出産した肝っ玉母さんだったことが分かるんである。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 46 涼しさやほの三か月の羽黑山

本日二〇一四年七月二十五日(陰暦では二〇一四年六月二十九日)

   元禄二年六月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十五日

である。この日は羽黒山滞在の最後の夜であった。

 

涼しさやほの三か月の羽黑山

 

涼風やほの三ケ月の羽黑山

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「曾良俳諧書留」の句形(元は「涼風」を「掠風」と誤る。訂した)。後者は真蹟短冊もあり、これが初案である。底本(岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」)では六月九日の作かとある。句柄や状況からも実際には私もこの日の作であったと思いたい(この日の月の山形での南中は六時十二分。但し、月齢から見ると、確かな「三か月」の形であるためにはその六月八日(南中は五時二十九分)の方がよりよいが、ここは三山順礼の間の月が三日月であったその名残を詠んだとすれば問題ない)。

 夕景である。しかし、この句、ただの写生ではない。

 本句は意外にも「奥の細道」旅立ち以後の初めての月の句であるが、安東次男氏は「古典を読む おくのほそ道」でこの点に着目し、芭蕉が冒頭「松島の月まづ心にかかりて」と述懐しておきながら、結局、『松島で月の句を詠まなかったのは』、『羽黒の月(法(のり)の月)』(仏法の真如を写す明鏡としての月の謂いであろう)『を大切に思う心が既にその時点』(松島での意)『であったからだ、と覚らせる作りだ。「ほの三か月」に仄見を掛け、前文の「他言する事を禁ず」と呼応させて、私にも修行者の真如の月がいくらか見え初めたと言っているのだ。三日の新月に合わせて羽黒入したのは、どうやら予定の行動だった。ここまでくると先に見咎めた「日和待」』(最上川大石田の段で天気はそう悪くないのに日和を待ったとあり、事実、滞留している)『の意味がほぐれる』とある。頗る同感する分析である。]

2014/07/24

私は

そんな感懷が私にもあつたといふことをあなただけに自白します。

君は思わないか……

君は思わないか?……宮澤賢治が福島第一の致命的現実をどう詩に読むかを……それを感じず、宮澤賢治の研究者であるなどという輩は――賢治の研究者では――ない。

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「うすら日」(1) ひとづま(全)

 うすら日 

 

うすら日はやゝ來て這へる露臺など

紅き花など咲けるこのごろ

 

[やぶちゃん注:「うすら日」の標題の裏に一首のみ配されたもの。因みに筑摩書房版「萩原朔太郎全集」第十五巻(昭和五三(一九七八)年刊)の校訂本文では「やや来て」となっているが、この「来」は明らかに誤植である。]

 

 ひとづま

 

なにごとも花あかしやの木影にて

きみ待つ春の夜にしくはなし

 

[やぶちゃん注:本歌は、朔太郎満二十六歳の時、『朱欒』第三巻第四号(大正二(一九一三)年四月発行)に載った、

なにごとも花あかしやの木影にて君まつ春の夜にしくはなし

の標記違いの相同歌である。]

 

あいりすのにほひぶくろの身にしみて

忘れかねたる夜のあひゞき

 

[やぶちゃん注:本歌は、朔太郎満二十六歳の時、大正二(一九一三)年十月二日附『上毛新聞』に載った、

あいりすのにほひぶくろの身(み)にしみて忘(わす)れかねたる夜(よる)のあひゞき

の標記違いの相同歌(太字「あいりす」は底本では傍点「ヽ」)。]

 

夏くれば君が矢ぐるまみづいろの

浴衣の肩ににほふにひづき

 

[やぶちゃん注:本歌は同じく朔太郎満二十六歳の時、大正二(一九一三)年十月二日附『上毛新聞』に載った、

夏(なつ)くれば君(きみ)が矢車(やぐるま)みづいろの浴衣(ゆかた)の肩(かた)ににほふ新月(にひづき)

の標記違いの相同歌。]

 

しなだれてはにかみぐさも物はいへ

このもかのも逢曳のそら

 

[やぶちゃん注:前歌と同じ初出の、

しなだれてはにかみぐさも物(もの)は言(い)へこのもかのものあひゞきのそら

の標記違いの相同歌。]

 

おん肩へ月は傾むき煙草の灯

ひかれる途のほたるぐさ哉

 

[やぶちゃん注:底本校訂本文では「傾むき」を「傾き」に、「灯」を「火」と『訂』する。採らない。特に後者は明らかな捏造である。]

 

なにを蒔く姫ひぐるまの種をまく

君を思へと涙してまく

 

[やぶちゃん注:本歌は、朔太郎満二十六歳の時、『朱欒』第三巻第四号(大正二(一九一三)年四月発行)に載った、

なにを蒔くひめひぐるまの種を蒔く君を思へと涙してまく

の標記違いの相同歌である。]

 

あひゞきの絶間ひさしき此の頃を

かたばみぐさのうちよりて泣く

 

うち侘びてはこべをつむも淡雪の

消(け)なまく人を思ふものゆへ

 

[やぶちゃん注:「ゆへ」はママ。朔太郎満二十六歳の時、『朱欒』第三巻第四号(大正二(一九一三)年四月発行)に載った、

うちわびてはこべを摘むも淡雪の消なまく人を思ふものゆゑ

の標記違いの相同歌である。]

 

かくばかりひとづま思ひ遠方の

きやべつの畑の香にしみてなく

 

いかばかり芥子の花びら指さきに

しみて光るがさびしかるらむ

 

[やぶちゃん注:「芥子」は原本では「艾」(よもぎ)の右払いの左の起筆箇所に左下向きの点が入った字体。後掲する先行する歌形に従い、「芥子」と訂した。本歌は朔太郎満二十六歳の時、大正二(一九一三)年十月二日附『上毛新聞』に載った、

 

いかばかり芥子(けし)の花(はな)びら指(ゆび)さきに泌(し)みて光(ひか)るがさびしかるらむ

 

の標記違いの相同歌である。]

橋本多佳子句集「紅絲」 北を見る

 北を見る

 

いなびかり遅れて沼の光りけり

 

いなびかり北よりすれば北を見る

 

地(つち)の窪すぐにあふるゝいなびかり

 

わが行方いなづましては闢きけり

 

いなづまの触れざりしかば覚めまじを

 

双の掌をこぼれて了ふいなびかり

 

いなづまのあとにて衿をかきあはす

 

いなびかりひとの言葉の切れ切れて

 

いなづまの息つく間なし妬心もつ

 

燈の消えて野にあるごときいなびかり

耳嚢 巻之八 一言人心を令感動事

 一言人心を令感動事

 

 文化四五年加州金澤城燒亡(しやうまう)、僅に出丸(でまる)やうの所殘(のこり)て、加賀守も右の處に假住居(かりずまひ)ありけるに、領分の内ある百姓の、此度の燒亡にて國主難儀の儀を歎き、牛蒡(ごばう)二把(は)を持參、獻じ度(たき)由申(まうし)けるを、重き家來其外其事に拘(かかは)る役人、志は奇特なから百姓より直(ぢき)に領主へ右體(てい)の品獻上と申(まうす)儀、例は勿論聞不及(ききおよばざる)事など各(おのおの)申合(まうしあひ)、彼是(かれこれ)論議有(あり)しを加賀守聞(きき)て、夫(それ)は奇特なる事なり、非常の折柄は常の取計ひには難成(なりがたし)、志の處過分至極なり、早く調味せよとて、料理申付(まうしつけ)て其身も食し、殘りあらば有合(ありあ)ふもの寄り集り候ものへもあたへよとありければ、其事を聞(きき)、灰片付(はひかたづけ)に集りし者まで難有(ありがたし)とて給(たまひ)けるが、あけの日より右の趣(おもむき)承(うけたまはり)及び、百廿萬石の村々百姓共、銘々(めいめい)收納物の儀申立(まうしたて)、彼是取集りたる金十七萬兩の由。且領分の内いづれの村なるか、兼て非常の備(そなへ)とて、城築(しろつき)其外(そのほか)異變格別の時は斗枡(とます)にて小判小粒一枡宛(づつ)約候事の由。是等は僞説にも有(ある)べけれど、大家に候得ばあるまじき事にもあらざらん歟。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「文化四五年」西暦一八〇七~一八〇八年。「卷之八」の執筆推定下限は文化五年夏。

・「出丸」本城から張り出して設けられた城の外衛とする曲輪(くるわ)。出曲輪(でぐるわ)。

・「加賀守」底本鈴木氏注に、『加賀中将斉広が正しい。前田氏百二万二千七百石』とある。前田斉広(なりなが 天明二(一七八二)年~文政七(一八二四)年)は加賀藩第十一代藩主。金沢にて生まれ、父重教が弟の治脩(はるなが:第十代藩主。)に家督を譲って隠居した後、生まれた息子であった。寛政七(一七九五)年に実兄斉敬(なりたか)が夭逝したため、代わって藩主治脩の養子となる。寛政九年、将軍徳川家斉より偏諱を授かって斉広に改名、正四位下左近衛権少将・筑前守に任ぜられた後、享和二(一八〇二)年に治脩の隠居により家督を継いで加賀守を称し、同年六月に左近衛権中将に任ぜられた。治世の当初は藩の政治改革を試みたが、大きな効果を挙げず挫折、文政五(一八二二)年に嫡男斉泰に家督を譲って隠居、肥前守を称した。参照したウィキの「前田斉広」には、芥川龍之介の短編小説「煙管」(大正五(一九一六)年発表)では、『金無垢の煙管をモチーフとして、坊主たちと役人たちと斉広(作中では名を「なりひろ」と読んでいる)との心理的駆け引きがユーモラスに描かれている』とある。芥川龍之介フリークの私としては特に附しおきたい。

・「二把」後の分配するシーンから見て、一把が相当な分量であったものと思われる。

・「奇特なから」ママ。

・「斗枡」一斗枡。一斗=十升=百合で現在の一八・〇三九リットル。

・「小粒」岩波版長谷川氏注に『江戸では一歩・二朱などの小型金貨をいう(上方は豆粒状の銀貨)』とある。加賀は関西圏であるから後者の可能性の方が高いか。

・「約候事」底本では右に『(尊經閣本「納候事」)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 一言(いちごん)が人心を感動せしむる事

 

 文化四、五年のこと、加賀国金沢城が焼亡(しょうぼう)、僅かに出丸(でまる)のような所ばかりが焼け残って、藩主加賀中将斉広(かがのちゅうじょうなりなが)殿も右の所に仮住居いなされておられたところが、領分の内の、とある百姓、

「……このたびの焼亡にて、国主様、御難儀の儀を嘆き悲しみ、牛蒡(ごぼう)二把(わ)を持参致し、これ、お畏れながら、献じとう御座いまする――」

との由、申し出でたるを、重臣・家来その外、献上等の申し出を掌れる役人ども皆、

「……志しは奇特(きどく)乍ら……」

「……その……百姓より直(ぢか)に御領主へと申すは……」

「……そうそう。……しかもまあ、その……かようなる品をば、献上致いすと申す儀は、これ……」

「……如何にも。過ぎし例には勿論のこと……凡そ牛蒡は……聞いたことが御座らぬ……」

なんどと、おのおの申し合い、牛蒡二把に議論白熱して御座ったところが、加賀中将殿御自身のお耳へも入った。

 すると、加賀中将殿、

「それは奇特なることじゃ! 非常の折からは、常の取り計い方では万事は成り難きもの! かの百姓の志しのあるところ、これ、過分至極! 早(はよ)う、調味せよ!」

というご下知なれば、早速に受け入れ、料理申し付け、加賀中将殿も食され、

「残りあらば、この場におる者は申すに及ばず、これより出丸周辺に来ったる者らへも、めいめい与えよ。」

との仰せが御座ったによって、それを聞いて、お城の火事場整理に参じて御座った下々の者も、この有り難き御下賜の牛蒡を食したと申す。

 ところが、その翌日より、この牛蒡献上の一部始終を聴き及んだる、加賀百万石の村々の百姓どもが、一人残らず、めいめいの分に応じたる収納品を上納致したき儀を、これ、申し立てて来たった。その、かれこれ取り集めたる品々、ざっと金子に換算致いても、実に金十七万両に相当する驚くべきものとなって御座ったと申す。

 なお且つ、聴いた話にては、加賀領分の内には――孰れの豊かなる村なるかは存ぜねど――城築(じょうちく)大修理その他御領内に格別の異変のある折りには、かねてよりの非常の備えとしてあったものをおのおのの家が出だいて、一斗枡にて小判・小粒一枡ずつ当村方より納めることを、その村の掟(おきて)として取り決めて御座る由。

 これらは総て偽説のようにも思わるるが、かの加賀百万石の大家にあらるればこそ、必ずしもあり得ぬこととも断ずることは出来ぬことと、言えようか。

ひなまつり   山之口貘

 ひなまつり

 

ミミコの

ひなだんかざりは

ボール紙だ。

だいりびなもボール紙

三人官女もボール紙

五人ばやしもボール紙

右大臣も左大臣も

みんなボール紙。

おかあさんが

はさみでちょきちょき

おねえさんは

おけしょうのかかりで

みごとにできあがった

ひなだんかざりだ。

ヒロキチくんも

あそびにきて

すてきだなあ と目を見はった。

ミミコは もうすぐ五年生だ。

ひなだんかざりだって いまに

じぶんの手で

つくるのだと

おもった。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年三月号『小学四年生』。

「おねえさん」ミミコ(泉)さんは長女であるから、これは実の姉の謂いではない。近所の年上の「おねえさん」であろう。

 発表当時は泉さんは既に十二歳であるから、画面の彼女は前年の彼女としてもあり得ない感じがする。寧ろ、掲載誌に合わせたものであれば、泉さんが小学四年生、九歳以前(昭和二十八年以前)の景を元にしているか。……小学生のミミコさんの雛人形を化粧する「おねえさん」とは……中学生になった泉さん自身なのかも知れない。……

 児童しとしても何とも特異である。この当時、小学館の『小学四年生』を買って貰える家庭の女の子がこれを読んでどう思ったろうか。雛人形を激しく偏愛する私(「忘れ得ぬ人々 9 Mariaなどを参照されたい)には、この一篇、何か、ぐっときてしまうんである。]

杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句

  英彦(えひこ)山 六句

 

谺して山ほととぎすほしいまゝ

 

[やぶちゃん注:大阪毎日新聞社及び東京日日新聞社共主催になる「日本新名勝俳句」の「山岳の部英彦山」で帝国風景院賞(金賞)に選ばれた久女の代表作とされる名吟である(同受賞作は全二十句)。久女三十歳。

「英彦山」は通常「ひこさん」と読み、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨る山で標高は一一九九メートル。耶馬日田英彦山国定公園の一部を成す。ウィキの「英彦山」によれば、『日本百景・日本二百名山の一つ。また、弥彦山(新潟県)・雪彦山(兵庫県)とともに日本三彦山に数えられる』。古くは「彦山」という表記であったが、享保一四(一七二九)年、霊元法皇の院宣により「英」の字をつけたという。『英彦山は羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残る。山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたという』とある。坂本宮尾氏の「杉田久女」には、『江戸時代には英彦山参りの講が組織されて多くの参拝者があったが、明治維新の神仏分離令や修験道廃止令で霊山の参拝は衰退し、山伏の多くは還俗した。最盛期には三千八百あった宿坊も百ほどになっていた、と久女の日記にある』とある。山の中腹五百メートルほどの位置に英彦山神宮(ひこさんじんぐう:通称、彦山権現。現在の福岡県田川郡添田町内)があり、ウィキの「英彦山神宮」によれば、天忍穂耳尊(アメノオシホミミ:高天原でのアマテラスとスサノオとの神生み比べの誓約の際にスサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の一柱。葦原中国平定の折りには天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるも、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。後、タケミカヅチらによって大国主から国譲りがなされ、再びオシホミミに降臨の命が下ったが、オシホミミは息子のニニギに行かせるように進言し、ニニギが天下ることとなるという、天孫降臨でも重要な役柄を担っている。オシホミミは「忍穂耳」で生命力に満ちた稲穂の神の意で、後、稲穂の神、農業神として信仰されるようになる。ここはウィキの「オシホミミ」に拠った)を主祭神とし、伊佐奈伎尊・伊佐奈美尊を配祀する』。『英彦山は、北岳・中岳・南岳の三峰からなり、中央にある中岳の山頂に当社の本社である「上宮」があり、英彦山全域に摂末社が点在する』とある。

 本句を総て現代仮名遣のでローマ字化してみる。

 

Kodama site yanahototogisu hosiimama

 

十七音中、“a”音が六音(その内、子音の“ma”音が三音を占める)、“o”五音(その内、子音の“ho”音が二音、“to”音が二音を占める)で、この優勢音がまさに不如帰の音(ね)の木霊となって霊性に満ちた幽邃な英彦山全山を領しつつ、その絶対の静謐と広角景観を余すところなく響かせ、映し出している。句柄は豪放にして磊落にして自然の持つ神秘の力を伝える男性的な霊力を孕むものの、以上の音律の与えるものは極めて女性的で限りなく優しい。寧ろそれは私には老子の称した玄牝やユングの原母(グレート・マザー)に通じるもののさえ感じられ、それがまた、久女という熱情の詩人に相応しいとも感ずるのである。]

 

橡(とち)の實のつぶて颪や豐前坊

 

[やぶちゃん注:同じく「日本新名勝俳句」で帝国風景院銀賞に選ばれた句。

「豐前坊」はこの時は既に前注に示した明治の廃仏毀釈によって英彦山神宮摂社高住(たかすみ)神社となっていた。英彦山神宮銅の鳥居から更に約五キロメートル東へ入った英彦山北東中腹に鎮座する(前句の注も参照されたい)。ウィキの「英彦山」によれば、『彦山豊前坊という天狗が住むという伝承がある。豊前坊大天狗は九州の天狗の頭領であり、信仰心篤い者を助け、不心得者には罰を下すと言われている。英彦山北東に建てられている高住神社には御神木・天狗杉が祀られている。また古くからの修験道の霊地で、全盛期には多くの山伏が修行に明け暮れた』とあり、まさにこの「橡の實のつぶて颪」はそうした天狗の石礫(いしつぶて:主に江戸時代以降、明治期まで記録されている怪異の一つ。凡そ自然現象や人為とは思われない、石や当該物質などが存在しない場所(屋内を含む)に、どこから飛んで来たのか分からない物が投げ込まれる(若しくは投げつける・投げ落とす音のみがして投げた対象物体が存在しない)怪奇現象を言う。ウィキの「天狗礫」(てんぐつぶて)によれば、『天狗が投げた石つぶてではないかなどと言われる。天狗が人々に素行の悪さを悔い改めさせようとしているともいい、狐狸の仕業ともいわれる』とある。)を直ちに想起させる久女としてはちょっと珍しい、おかしみの諧謔をも含ませた益荒男振りの句である。]

 

六助のさび鐵砲や秋の宮

 

[やぶちゃん注:「六助のさび鐵砲」戦国期の毛野村出身の毛野村六助(木田孫兵衛)に纏わる。福岡県添田町公式サイト内の毛野村六助伝説から引用させて戴く。

   《引用開始》

 英彦山高住神社から東へ行き、野峠から大分県側に四キロほど下った東側山中に槻の木の人家があり、その中に「木田孫兵衛墓」と彫った石塔があって、毛谷村六助の墓だといわれる。六助の父は広島の人で佐竹勘兵衛といい、九州の緒方氏を討つために京都郡今井にやって来て、そこで知り合った園部与兵衛の娘との間に生まれたのが六助だという。当時浪人は人家には住めなかったので、犬ヶ岳に登りケヤキのほら穴で夜を明かし、それから六四町下った現在地に村を開いた。毛谷村の名はケヤキからついたといわれる。

 六助は正直で親孝行な男で、きこりをし薪を背負って小倉の町(彦山の町だともいう。)に売りに行った。大変な力持ちで馬の四本足を両手で持って差しあげたという。その力は彦山権現に祈願してさずかり、彦山豊前坊の窟で天狗から剣術を授けられたといわれる。

 そのころ、広島藩の剣術師範に微塵流の京極内匠という者がいて、同じ藩の師範八重垣流の達人吉岡一味斎の娘お園に思いを寄せていた。ところが、お園も一味斎も受けつけないので、内匠は一味斎をやみ討ちして豊前へ逃げた。

 内匠は小倉藩に仕官するために、藩主の前で試合をすることになるが、その前に相手である六助をたずね「老いた母への孝養のために勝たせてもらえまいか」と頼んだ。六助は、その親を思う気持に感激して内匠に勝をゆずった。後になって六助はそれがまったくの偽りであると知り、烈火のごとく怒った。

 ちょうどそのとき、お園は母親と彦山に参詣に来て、六助の家に立ち寄り、あだ討ちの助太刀を頼むので、六助は承諾した。その後、小倉城下でめざす相手の内匠を見つけ、首尾よくかたき討ちを果たせることができた。これが縁で六助はお園と結婚した。

 上津野の高木神社より今川のずっと上流にお園の妹お菊の墓というのがある。父のあだを討つために六助を頼って毛谷村に行く途中、かたきによって殺された。むら人はその悲運をあわれみ、墓石をたてて供養したといわれる。側に大きな松があって、この松に提灯をかけて姉のお園を待ったというので提灯掛の松といわれたが、残念なことに今は枯れてないし、その跡もわからなくなっている。

 六助は後に、豊臣秀吉の前で相撲をとり、三五人に勝ったが、三六人目の木村又蔵に負けたので(三六人抜きしたという話もある。)加藤清正の家臣になり、木田孫兵衛と名乗り、秀吉の朝鮮出兵に従軍して戦死したといわれる。また無事帰国して六二歳で没したという話もある。

   《引用終了》

 以下を示すと引用許容を越えるので、要約させて戴くと、この六助の仇討ちは江戸時代の軍記物「豊臣鎮西軍記」(成立年代未詳・作者未詳)に天正十四(一五八六)年の事実と記されてあるが、天明六(一七八六)年に大阪道頓堀で人形浄瑠璃として上演された「彦山権現誓助劔」(ひこさんごんげんちかいのすけだち:梅野下風・近松保蔵作)が大当りとなったのが巷間流布の元とされる(但し、浄瑠璃の特性で原話からの有意な改変が行われてある)。その後、寛政二(一七九〇)年には大坂で歌舞伎化され、人形浄瑠璃とともに人気狂言として上演されることで、六助伝承は大いに広まることとなったとある。二〇一一年の大阪松竹座公演「通し狂言 彦山権現誓助劔」のパンフレットによれば『六助は、英彦山麓の毛谷村、いまの大分県中津市の山中に住んでいたが、六助の墓が土地に伝わり、福岡県側の英彦山神社には六助が使ったという刀、鉄砲が残っている。郷土の英雄ということだ』とある(やま爺氏の「お気楽庵」の二月大歌舞伎 松竹座 行ってきました。から孫引きさせて戴いた)。また、毛谷村六助と同一人物として載せるウィキの「貴田孫兵衛」には、『貴田 孫兵衛(きだ まごべえ、生没年不詳)は、 戦国時代の武将で、加藤清正の家臣。実名は「統治」ともされるが不詳』。『俗に「加藤十六将」の一人とされる。九百余石を知行していたといい、文禄・慶長の役には鉄炮衆四十名を率いて従軍した。『清正記』は加藤軍のオランカイ(満州)攻めの際に討死したとしているが、その後も清正の書状に貴田孫兵衛の名があるためこれは誤伝らしい。その最期は不明であるが、孫兵衛の一族は、加藤家改易後細川藩士となっている。後述するように、孫兵衛は毛谷村六助の名で有名であるが、史実と伝説との区別が必要である』とし、『江戸時代の軍記本『豊臣鎮西軍記』に、貴田孫兵衛は前名を毛谷村六助といい、女の仇討ちを助太刀したという物語が載せられ、これが天明年間に人形浄瑠璃『彦山権現誓助剣』として上演されて人気を博し、後には歌舞伎の演目にもなり、大正時代には映画化もされている。更に1960年代に韓国の民間伝承論介伝説と結び付けられ、晋州城で殺されたことにされたが、もちろん史実ではない。大分県中津市には木田孫兵衛(毛谷村六助)の墓なるものがあり地元ではこの地で62歳で亡くなったと伝えているが、歌舞伎等で有名になった後に作られたものである可能性もある』とある。因みに、この「論介」(?~一五九三年)とは朝鮮李朝時代の妓生(キーセン)で、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の義妓として知られる人物。全羅道長水生まれ。一五九三年六月に慶尚道の晋州城を占領した日本軍が城の南側を流れる南江の畔りの矗石(ちくせき)楼で酒宴を開いたが、その席に侍らせられた論介は日本の一武将(朝鮮では毛谷村六助とされる)を岩の上に誘い出して抱き抱えたままともに南江に身を投じたという。以来、この岩を義岩として矗石楼の奥に論介祠堂を建て、毎年六月に祭事が行われる、朝鮮では知らぬ人のいない義女である(以上の論介の事蹟は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 

秋晴や由布にゐ向ふ高嶺茶屋

 

坊毎に春水はしる筧かな

 

[やぶちゃん注:現在の英彦山詣でをされた坂本宮尾氏(「杉田久女」)によれば、『鳥居から奉幣殿まで一キロにおよぶ長い長い石畳の参道』『の両側に宿坊跡と記した立て札が並び、人が住んでいる宿坊がいくつか残っているばかりである。久女が〈坊毎に春水はしる筧かなと〉詠んだ、坊から坊へ竹の樋を渡した光景も見られない』と記しておられる。]

 

三山の高嶺づたひや紅葉狩

 

[やぶちゃん注:「三山」英彦山は北岳・中岳・南岳の三峰から成り、中央にある中岳山頂に英彦山神宮本社である上宮がある(ウィキの「英彦山」に拠る)。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 45 月か花かとへど四睡の鼾哉

本日二〇一四年七月二十四日(陰暦では二〇一四年六月二十八日)

   元禄二年六月  八日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十四日

である。以下の句、羽黒山滞在中の句ではあるが、この日に同定出来る資料はない。しかし三山礼拝を終えて困憊して休んだその翌日(会覚自らが芭蕉を別院に訪ねている)にこの禅味に満ちた句を配するのは強ち不自然とは思われないのである(この翌日には「曾良随行日記」によって歌仙「有難や」が満尾していることが分かる)。

 

月か花かとへど四睡(しすい)の鼾(いびき)哉

 

  天宥法印の贊

月か花歟(か)問へば四睡の眠り哉

 

[やぶちゃん注:第一句目は真蹟画賛の、第二句目は「芭蕉翁句解参考」(何丸著・文政一〇(一八二七)年刊)の句形。第二句目の前書は「天宥」を「天看」と誤る。訂した。天宥筆の「四睡図」への画賛の句である。会覚に請われたものであろう。

「四睡図」とは中国天台山国清寺(こくせいじ)の僧であった豊干・寒山・拾得の三人が虎とともに睡る姿が描かれた禅画の画題。禅の悟りの境地を示すものとされる。参照したウィキの「四睡図」によれば、『構図としては豊干を画面中央に大きく描き、その左右にトラと寒山及び拾得とを小さく配し、不等辺三角形をなす。 画題にふさわしく静粛と安定のある図相である点で、諸作品はほぼ一致する』とある。グーグル画像検索「四睡図

「月か花か」と風狂人芭蕉が大上段に問うのが面白い。芭蕉は既にして自らは鈴(りん)を振られる身と、わざと俗物丸出しで問う。さすれば四睡は鈴の代わりにいや増しの高鼾で応えるのである。]

2014/07/23

はつゆめ   山之口貘

 はつゆめ

 

そこは見おぼえのない教室だ。

先生の問いにひとりずつ立ち上がって

みんなはきはきと答えて言った

「私はバスの車掌さんになって

お客さんには親切ていねいにします」

「私は原子病になやんでいる人たちや

鼻のひくい人たちのために

整形外科の女医さんになります」

「私はよいおかあさんになつて

ふたごをうみたいとおもいます

ひとりつ子はかわいそうですから」

先生はそこでつぎと言った

ぼくはちょっと頭をかいたのだが

えいっとばかりにこえはりあげ

「人間のためまぐろのため

地球のために詩人になつて

平和を絶叫します」と叫んだ

そのときぼくの目があいた

母はぼくの肩をこずきながら

「お正月早々なんの夢見て

とんきょうなこえを出すんだよ」とわらった。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年新年特大号「小学六年生」。

 これは最早、児童詩ではない。バクさんの数少ない本格の絶唱の詩である。私はこの詩なら、バクさんの反戦詩と名づけて何の躊躇も感じない。]

正月の朝   山之口貘

 正月の朝

 

みんなして にこにこ

お正月の朝だ

おじいさんも元気でうれしそう

おとそをのんで赤い顔して

おぞうにのおかわりをぺろりたいらげて

「さあまた こんねんも一つづつ

みんなの年がふえたわい」といった

 

ところがそれはかぞえ年なので

むかしのお正月のならわしなのだが

いまはあいにくとみんな

満で年をかぞえるのだ

三月生まれのミミコもにこにこ

「十年と九か月ちょっとだわ」といった

すると おじいさんが「おやおや

九か月ちょっとのはんぱなんだ

年にもおまけが

あるのかい!」とにこにこ

 

[やぶちゃん注:「一つづつ」はママ。初出は昭和三一(一九五六)年新年特大号「小学五年生」。ミミコ(泉)さんは昭和一九(一九四四)年三月生まれであるから、発表当時は十一歳と九ヶ月である。従ってこれはシチュエーションとしては実に正しく前年昭和三十年のお正月の景であることを表わしている。バクさんは満五十一歳、登場するおじいさんは妻静江さんの父であろう。バクさんの父重珍は昭和二八(一九五三)年四月、遙か日本の南端の与那国島で既に亡くなっている。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 44 湯殿山 語られぬ湯殿にぬらす袂かな

本日二〇一四年七月二十三日(陰暦では二〇一四年六月二十七日)

   元禄二年六月  七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十三日

である。この日、月山頂上で目醒めた芭蕉は西の尾根を下って湯殿山を踏破、麓の湯殿権現に参った。その後、再び月山を昼頃に経由し(この月山と湯殿山御神体のルートは出羽三山参拝の最難所とされ、梯子や鎖場を配した急斜面の岩場が一・五キロほども続く)、日暮れになってようよう羽黒山へと帰還したのであった。

 

語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな

 

  湯殿

語られぬゆどのにぬるゝ袂哉

 

[やぶちゃん注:第一句は「奥の細道」の、第二句は「花摘」の句形。

 山本健吉氏は『三山順礼の三句の中で、最も感銘の乏しい句』と斬って捨てるが……どうもそんな気には私はなれない……この句は……昔から気になっていた……

……「語られぬ」は無論、「惣(そうじ)て此の山中の微細(みさい)、行者の法式(ほつしき)として他言(たごん)する事を禁ず。仍(よつ)て筆をとゞめてしるさ」ざるという禁忌を受けた語ではある。……

……「湯殿」と「ぬらす」は縁語で、「ぬらす」は容易に「袂」を引き出す。それは確かに一見、神域に至ったその感涙の涙とはとれる。……

……が……どうもそればかりではない気がする……何か「語られぬ」対象の中に幽かな隠微なるものが漂う……その隠微が実は同じく隠微な響きで「ぬらす」を引き出し、「ぬらす袂」は女人禁制の霊域に……意外にも……仄暗い山中の水迸る岩影に……鏡花の「高野聖」の艶なる妖女のイメージさえ誘い出だしているようには思われまいか?……

――「猥雑なるやぶちゃん!」――と指弾するなかれ!……

……確かに――そうした自分の感懐の中にあるところの猥雑なる詩想を持った己れを痛切に感じて慚愧の念に堪えないことは確かな事実ではある――ある――が……

……さて。この句について、かの安東次男氏は以下のように述べておられるのである。引用して終わりと致そう。

   《引用開始》

○語られぬ湯殿にぬらす袂かな――湯殿詣は『時勢粧(いまようすがた)』(維舟編、寛文一年)の「夏」の部に「湯殿行(ぎょう)」として収め、「垢離(こり)かけば如来肌(にょらいはだ)也湯殿行 中井正成」という例句を挙げている。『桜川』(風虎編、延宝二年)などにも見える。

 修験道の四季の入峰(にゅうぶ)修行のうち夏の峰は、豊年祈願と身心鍛練法を兼ねて、近世に入ると広く一般に行われるようになった。湯殿詣もその一つだが、たまたまこれは三山祭(六月十五日、今は七月十五日)の時分と重り、一方、湯殿の御神体が女陰の形をした巨大な自然岩でその円丘を絶間なく涌湯が洗っているところから、とくに有名になったようだ。湯殿が三山の奥の院とされたのは、性器崇拝に因んでいる。古歌から名を借りて「恋の山」とも呼ぶ。

 他言を封じた御山とはいえ、湯殿の御神体を拝んだらさすがに語りたくなった。だがやはりそれはできない、と読まなければ面白みはない。俳諧師なら、秘法の山をただ有難がって袂を濡したわけはない。

   《引用終了》

■やぶちゃんの呟き

 「曾良随行日記」の三山参拝から帰還するまでの三日間(五日は羽黒山参詣と精進潔斎のさまを確認するため)の記録を見ておきたい(ひらがなの読みは私が附したもの)。

 

○五日 朝の間、小雨ス。晝ヨリ晴ル。晝迄斷食シテ註連(しめ)カク。夕飯過テ、先、羽黑神前ニ詣。歸、俳、一折ニミチヌ。

○六日 天氣吉。登山。三リ、強淸水(こはしみづ)。二リ、平淸水(ヒラシミヅ)。二リ、高淸(たかしみづ)。是迄馬足叶(かなふ)道(人家、小ヤガケ也)。彌陀原(みだがはら)、こや有。中食ス。(是ヨリフダラ、ニゴリ澤・御濱ナドヽ云ヘカケル也。)難所成。御田有。行者戻リ、コヤ有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拜シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ來光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。

○七日 湯殿ヘ趣(おもむく)。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首(本道寺ヘモ岩根沢ヘモ行也)、コヤ有。不浄汚離、コヽニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦(たすき)カケナドシテ御前ニ下ル(御前ヨリスグニシメカケ・大日坊ヘカヽリテ鶴ケ岡ヘ出ル道有)。是 ヨリ奥ヘ持タル金銀錢持テ不ㇾ歸。惣テ取落モノ取上ル事不ㇾ成。淨衣・法冠・シメ計(ばかり)ニテ行。晝時分、月山ニ歸ル。晝食シテ下向ス。強淸水迄光明坊より辨當持せ、サカ迎(むかへ)セラル。及暮、南谷ニ歸。甚勞ル。

 △ハラヂヌギカヘ場ヨリシヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。

 △堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。方々役錢弐百文之内。散錢弐百文之内。彼是、壱歩錢不ㇾ余。

 

 月山山頂での「來光ナシ」というのは山岳での大気光学現象として知られるブロッケン現象のことを指している。陽光を背に立った際、影の側に雲や霧があると、光が散乱されて観察者自身の影の周囲に、虹に似た光の環となって現れるもの。霧や雲が観察者の近くにあると見た目の奥行きや巨大感が増大する。本邦では古来、「御来迎(ごらいごう)」「山の後(御)光」「仏の後(御)光」などと呼ばれ、「観無量寿経」などで説かれる阿弥陀如来の空中住立の御姿が現じたものと信じられた(ウィキの「ブロッケン現象を参照した)。

 特に最後の曾良の記載は当時の出羽三山での山岳修験霊場乍ら、結構、いろいろと冥加料のようなものが求められたことが分かる(私は残念なことに月山に登ったことがないのであるが、先に示した山本胥氏の「芭蕉 奥の細道事典」の現代の再現踏査でも、小屋で親切ごかして薬湯を飲ませて金を求められるシーンがあり、今も昔と変わらぬらしい)。

 この難行苦行の行程の途中、芭蕉は可憐な咲きかけた高根桜(バラ目バラ科サクラ属タカネザクラ Prunus nipponica 。別名、峰桜(みねざくら))を見出だし、それを「奥の細道」に詠み込んだ。

 ――「惣て此の山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめてしる」せなかった女陰秘蹟の山行に――淡い紅一点を――美しくもまた艶にも――仄めかしたのではあるまいか……私にははっきりと……可憐な峰桜を愛おしんで……「袂」を「露」に「ぬらし」つつこごんでいる……芭蕉が……見えるのである……]

2014/07/22

耳嚢 巻之八 文福茶釜本説の事

 文福茶釜本説の事

 

 館林の出生(しゆつしやう)のもの語りけるは、館林在上州靑柳村茂林寺といふ曹洞禪林の什物(じふもつ)なり。むかしは、參詣の者にも乞ふに任せ見せけるが、今は猥(みだ)りに見せざるよし。さし渡(わたし)三尺、高さ貮尺程の唐銅(からかね)茶釜なり。此に圖する形にて、茂林寺に江湖結齋(がうこけつさい)の時、むかし大衆に茶を出すに、煎じ足らずとて、其ころ主事たる僧守鶴といへる、是を拵へさせし由。守鶴はいつ頃より茂林寺に居けるや知(しる)ものなく、老狸(らうり)の由申(まうし)傳へしと云(いふ)。これを童謠に唱(となへ)ぬらんと云。

Bunnbukutyagama

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。先行する妖狸譚シリーズ。

・「文福茶釜」茂林寺の釜。昔話「分福茶釜」の原型とされる。ウィキの「茂林寺の釜によれば、応永年間『上州(現・群馬県)の茂林寺という寺に守鶴という優秀な僧がいた。彼の愛用している茶釜はいくら汲んでも湯が尽きないという不思議な釜で、僧侶の集まりがあるときはこの釜で茶を振舞っていた』。『あるときに守鶴が昼寝をしている様子を別の僧が覗くと、なんと守鶴の股から狸の尾が生えていた。守鶴の正体は狸、それも数千年を生きた狸であり、かつてインドで釈迦の説法を受け、中国を渡って日本へ来たのであった。不思議な茶釜も狸の術によるものであったのだ』。『正体を知られた守鶴は寺を去ることを決意した。最後の別れの日、守鶴は幻術によって源平合戦の屋島の戦いや釈迦の入滅を人々に見せたという』。そこでは松浦静山の「甲子夜話」に登場する化け狸の話とするが、「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜とされるから、根岸の本話の記載(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)の方が早い。底本の鈴木氏注に『三村翁注「文福元来文武久、誤言文福化茶釜、請看一日爐開会、自有陰嚢八畳鋪、旦那山人芸舎集。」』とある。これは我流で書き下すと、

文福、元来は『文武久』、誤りて言ふ、『文福茶釜と化す』、請う、看よ、一日の爐開(ろびらき)の会(ゑ)、自から陰嚢八畳鋪は有りと。「旦那山人芸舎集」

「旦那山人芸舎集」は大田南畝の稀少本。ウィキ分福茶釜には、『「分福」という名の由来については諸説ある。この茶釜はいくつもの良い力を持っていたが中でも福を分ける力が特に強くかったことに由来し、「福を分ける茶釜」という意味から分福茶釜と呼ばれるようになったという説や水を入れると突然「ぶくぶく」と沸騰することから「ぶんぶく」となったのではないかという説もあるが、どれが本当かははっきりしていない』とある。深夜特急氏のブログ「夢の旅人」の分福茶釜 茂林寺で写真が見られるが、この附図とは全く異なるようである。

・「上州靑柳村茂林寺」現在の群馬県館林市堀工町(ほりくちょう)にある曹洞宗青竜山茂林寺。応永三三(一四二六)年(室町中期)、上野国青柳城主赤井正光を開基とするとし、大林正通禅師が開山。「靑柳」は館林の大字名。

・「さし渡三尺、高さ貮尺程」直径九十センチメートル、高さ約六十センチメートル。かなり大きい。

・「唐銅」青銅。

・「江湖結齋」岩波版長谷川氏注に、『曹洞宗で、雲水僧が一堂に集まり、座禅修行をすること』とある。

・「主事」禅宗で僧職の監寺(かんす:寺内事務を監督する。)・維那(いな:寺僧に関する庶務及び指揮を掌る。)・典座(てんぞ:厨房全般を職掌とする。)・直歳(しっすい:伽藍修理や寺領の山林・田畑などの管理及び作務(さむ)全般を管掌する。)の総称。

・「守鶴」底本鈴木氏注に、『開山大林正通禅師に従って来て茂林寺にいた。七代月舟の代、千人法要に大釜が必要になったとき、守鶴所持の茶釜を用いたところ、汲めども尽きず間に合った。その後十代月岑(げっしん)が守鶴の眠り姿を見ると古狸であったという。狸

は開山の徳に感じて僧の形にばけていたが百二十年ほどそうしていて姿を消した。後に守鶴宮という小祠を建てて寺の守護神としたという』とある。

・「童謠」昔話。ウィキ分福茶釜に、標準話として、『貧しい男が罠にかかったタヌキを見つけるが、不憫に想い解放してやる。その夜タヌキは男の家に現れると、助けてもらったお礼として茶釜に化けて自身を売ってお金に換えるように申し出る。次の日、男は和尚さんに茶釜を売った。和尚さんは寺に持ち帰って茶釜を水で満たし火に懸けたところ、タヌキは熱さに耐え切れずに半分元の姿に戻ってしまった。タヌキはそのままの姿で元の男の家に逃げ帰った。次にタヌキは、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えは成功して男は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話である』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 文福茶釜についての真説の事

 

 館林の出の者が語ったことには、文福茶釜は館林の在方、上野(こうずけの)国青柳村にある茂林寺と申す曹洞宗の禅寺の什物(じゅうもつ)なるよし。

 昔は、参詣の者にも乞うに任せて自由に見せておったが、今は濫りに見せぬとのことで御座る。

 指し渡し三尺、高さ二尺ほどの唐銅(からかね)で出来た茶釜で、ここに描いたような形を成しておる。

 その昔(かみ)、茂林寺にて大がかりな江湖結齋(ごうこけっさい)が行なわれた折り、そこに衆した雲水らに茶を出だすには、これ、並大抵の茶釜にては、とてものことに煎じ足らざるとのことなれば、その当時、同寺の主事を致いて御座った僧の守鶴(しゅかく)と申す者が、これを拵えさせたと伝えておる。

 守鶴は何時頃よりこの茂林寺に居ったものか、これ、誰(たれ)一人として知る者なく、何でも、老いたる狸の人に化けて御座ったものの由、永く言い伝えておると申す。

 これが今に伝わる、かの「文福茶釜」の御伽話として、巷(ちまた)に唱えらるるようになったと申す。

山之口貘旧全集「全詩集」全詩篇と新全集対比検証を完了

ブログ・カテゴリ「山之口貘」で、2月以降に打ち込んだ山之口貘旧全集「全詩集」全詩篇と、新たに入手した新全集との対比検証を完了した。

ひとりで……   山之口貘

 ひとりで……

 

坊やは 大きく

なつたのね。

 

ひとりで おくつも はけるわね。

ずいぶん おりこうさんに、

なつたのね。

 

おくつを はいたら のこのこと、

ママと ふたりで

散歩でしょう。

 

パパは おうちで

おるすばん。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三〇(一九五五)年十一月号『幼稚園 特集(保育テキスト おかあさんの友)』(小学館発行)。]

田園の復興   山之口貘

 田園の復興

 

かつて目をむき出した

りゅつくさっくの群れが

そこらの農家から農家をかぎ回り

米やさつまや

かぼちゃを買いあさった

りゅつくさっくは重たくふくれあがって

すぎ木立のところをまがり

たんぼ道をぬって松林を通りぬけて

もういちどたんぼ道をまがりくねり

土手の上に来てそこで一休みしたものだ

こうして毎日飢えた都会が

餌を求めて田園を踏み荒らしたのだが

おもえばそれも戦争の罪で

十年まえのことだった

ぼくはいまそこら一面に

田園の復興を見るおもいで

黄ばんだたんぼ道を歩いているのだ。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三〇(一九五五)年十月号『中学生の友』。これは最早、児童詩ではない。バクさんが大人の人間としての中学生に向けた大人の詩としてのエールである。]

赤とんぼ   山之口貘

 赤とんぼ

 

かきねの竹に 見つけた 赤とんぼ。

ぬき足さし足で そっと近づいてみると、

なるほど、にいさんに おそわったとおりだ。

 

ほそ長いおなかで、

いきをするので、

ふくらんだり

ちぢんだり

しているのだ。

 

まるい目玉を ぎょろり、

おっと どっこい

なにをするんだいとばかりに

青空に とびあがった

赤とんぼ。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三〇(一九五五)年十月号『小学三年生』。]

古びた教科書   山之口貘

 古びた教科書

 

ぼくの古びた

教科書たちよ

いつのまにやら学年末が来たのだ

毎日々々鞄のなかにおしこまれては

鞄のなかゝらひきずり出されたりして

頁をめくられてはのぞかれ

手あかでよごされ

へなへなになつたりして

みんなすつかりくたびれちやつたらう

ぼくの古びた

教科書たちよ

みんなほんとうにごくろうさんだつた

ぽくもいよいよ進級だとおもふと

おかげで少しは悧巧になつた気がするのだ

まもなくおまへたちはみんなして

押入の片隅にもぐりこみ

つかれを休める時が来るのだ。

 

[やぶちゃん注:原稿現存。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、昭和三〇(一九五五)年頃の創作と推定される。松下氏は児童詩として何処かに発表されている可能性も示唆されておられる。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 43 月山 雲の峰幾つ崩れて月の山

本日二〇一四年七月二十二日(陰暦では二〇一四年六月二十六日)

   元禄二年六月  六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十二日

である。この日、芭蕉は遂に月山(標高一九八四メートル)の頂上を踏破し(登頂は午後三時過ぎ)、山頂の角兵衛小屋に泊まった。

 

雲の峰幾つ崩(くづれ)て月の山

 

[やぶちゃん注:「奥の細道」。「曾良俳諧書留」には、

 

雲の峰幾つ崩レて月の山

 

とある。

……この句は私の亡き母が好きな句であった。童謡のようなこの句を詠ずる優しい母の声の響きが今も聴こえる……

 ここで「奥の細道」の羽黒山の段の後段総てを示しておく。

   *

五日權現に詣當山開闢能除大師は

いつれの代の人と云事をしらす

延喜式に羽州里山の神社と有書

瀉黑の字誤て里山となせるにや羽

州黑山を中略して羽黑山と云にや

月山湯殿を合て三山とす當-

-江東-叡に属して天台止觀の

月明らかに円-頓融-通の法の燈かゝけ

そひて僧坊棟をならへ修-驗行-

法を励し靈-山靈-地の校-驗人貴

且恐繁榮長(トコシナヘ)にして目出度御山

と可謂

八日月-山にのほる木綿しめ身に引かけ

-冠に頭を包強-力と云ものに

道ひかれて雲-霧山-氣の中に

-雪を蹈てのほる事八里更に

-月行-道の雲-關に入かとあやしまれ

息絶身こゝえて頂上に至れは

日没(ホツシ)て月あらはる笹を鋪篠を

枕として臥て明るを待日出て雲

消れは湯殿に下

谷の傍に鍛冶小屋と云有此國の鍛-

冶靈-水を撰て爰に潔斉して

劔を打終月山と銘を切て世に

棠せらるる彼龍-泉に劔を淬(ニラグ)とかや

[やぶちゃん字注:「棠」はママ。「賞」の誤字。]

干將莫耶のむかしをしたふ道に堪

能の執あさからぬ事しられたり

岩に腰かけてしはしやすらふ程

三尺計なる桜のつほみ半(ナカハ)にひらける

ありふり積雪の下に埋てはるをわ

すれぬ遲桜の花の心わりなし

炎天の梅-花爰にかほるかことし

行尊親王の歌の哀も增りて覺ゆ

惣此山-中の微-細行者の法式として

他言する事を禁す仍て筆をとゝめて

しるさす

坊に歸れは阿闍梨の求に仍て

-山順-礼の句々短冊に書

  涼しさやほの三か月の羽黑山

  雲の峰幾つ崩て月の山

  語られぬ湯殿にぬらす袂哉

          曾良

  湯殿山錢ふむ道のなみた哉

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇書瀉黑の字誤て里山となせるにや

 ↓

●書寫(しよしや)、「黑」の字を「里山」となせるにや

 

○×【自筆本になし】

 ↓

●出羽といへるは、「鳥の毛羽(もうう)を此國の貢(みつぎもの)に獻(たてまつ)る」と風土記に侍(はべる)とやらん。

 

○靈-山靈-地の校-

 ↓

●靈山靈地の驗效(げんかう)、

 

○目出度御山と可謂[やぶちゃん注:訓読するなら「めでたきおやまといふべし」である。]

 ↓

●めで度(たき)御山(おやま)と謂(いひ)つべし。

○三尺計なる桜のつほみ半にひらけるあり

 ↓

●三尺ばかりなる櫻のつぼみ半ばひらけるあり。

 

○行尊親王の歌の哀も爰に增りて覺ゆ

 ↓[やぶちゃん注:二箇所の相違がある(下線部)。]

●行尊僧正の歌の哀(あはれ)も爰に思ひ出て猶(なほ)まさりて覺ゆ

 

■やぶちゃんの呟き

 この部分の前半は珍しく地誌の考証の体(てい)を成している。最後に出る句のうち、「涼しさや」と「語られぬ」は別に後掲して注する。

「能除大師」「のうじよだいし(のうじょだいし)」と読む。飛鳥時代の皇族蜂子皇子(はちこのおうじ 波知乃子王 欽明天皇二三(五六二)年?~舒明天皇一三(六四一)年?)のこと。崇峻天皇の第三皇子。ウィキの「蜂子皇子」によれば、崇峻天皇五(五九二)年十一月三日、『蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、蜂子皇子は馬子から逃れるべく丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている』(羽黒山の語源説の一つ「奥羽の黒山」の元はこの話に基づく)。『羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。現在に残されている肖像画は、気味の悪いものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われている』とあるが、伝説上の比定に過ぎない。

「延喜式に羽州里山の神社と有」「延喜式」にはこうした記載はない。不詳。

「風土記」出羽国の「古風土記」は現存しない。この語源説は誤伝であろう。

「木綿しめ」「ゆふしめ(ゆうしめ)」と読み、「木綿注連」である。紙縒りを編んで作られた修験の袈裟。行者の登山装束(新潮日本古典集成「芭蕉文集」富山奏氏の注に拠る)。

「寶冠」白い木綿で出来た頭を包み巻く頭巾のこと。同じく行者の登山装束(参照元は同前)。

「日月行道の雲關」「じつげつぎやうだうのうんくわん(じつげつぎょうどうのうんかん)」と読む。太陽や月に代表される星々が永遠に運行するところの天空雲間の境域。

「彼の龍泉に劔を淬(にら)ぐとかや」は後に出る中国の名剣(或いはその剣を鍛冶した夫婦の名ともされる)「干將莫耶」(「かんしやうばくや(かんしょうばくや」と読む)の伝説に基づく。同伝説については私の電子テクスト芥川龍之介の「上海游記 十三 鄭孝胥氏の『「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平劒合誇神異。合浦珠還好祕藏」』の注を参照されたい。「晉書」の「巻三十六 列傳第六」の張華の伝に載るそれを詳述してある。「龍泉」とは干將と莫耶の夫婦が呉山で籠って鍛えた雌雄二振りの宝剣を「淬(にら)ぐ」のに使った泉水のこと。「淬ぐ」とは焼き入れをすることをいう。

「堪能の執」練達の人の厳しい執念の強烈さ。

「三尺」約九十一センチメートル。

「わりなし」いじらしい。殊勝だ。前述の富山奏氏の注に、『雪中に痛めつけられながらも咲いている花に、花としての使命に忠実な自覚があるかのごとく感じての言葉。「わりなし」は切実な心情を表明する芭蕉の慣用語』とある。

「炎天の梅花」やはり富山氏注に、「雪裡(せつり)の芭蕉は摩詰(まきつ)が畫、炎天の梅蘂(ばいずい)は簡齋が詩」という「禅林句集」の句に基づき、『稀有(けう)の状の比喩』とある。「摩詰」は盛唐の詩人で絵もよくした王維の号、「簡齋」は陳簡齋で宋の詩人陳与義の号。

「行尊親王」(天喜三(一〇五五)年~長承四(一一三五)年)は冷泉天皇第二皇子三条院の曾孫、敦明親王(小一条院)の孫。参議従二位侍従源基平の子で、保安四(一一二三)年に天台座主となった(但し、拝命直後に辞任している)。天治二 (一一二五)年、大僧正。白河・鳥羽・崇徳三天皇の護持僧で和歌をよくした。ここは「金葉和歌集」の第五二一番歌、

   大峯にて思ひもかけず櫻の花の咲きたり

   けるを見てよめる

 もろともにあはれと思へ山ざくら花よりほかにしる人もなし

 

に基づく。しばしば参考にさせて戴いているサイト「やまとうた」の行尊」で彼の和歌が読める。

「湯殿山錢ふむ道のなみた哉」前掲富山氏注に、当時は『地に落ちている物を拾わぬ山中の法で、賽銭は土砂のごとく散り敷いていたという』とある(山本胥氏の「芭蕉 奥の細道事典」での実地踏査の記録では現在はそういうことはないようである)。


  ――――――――


……昼――

月山の尾根――

微速度撮影で雲海に且つ現われ且つ消える月山……

……夜――

月山の山頂――

幻想的な雲海たゆたう下界――

見下ろす真如明鏡の月……


  ――――――――


〇芭蕉が見た月について

●1689年7月22日当日は月齢5.4

 当日の月の形は「こよみのページ」「月の朔望」の「1689年7月」を見よ。

●1689年7月22日当日の山形(酒田標準)の月出没時刻(「こよみのページ」の算出に拠る)

月の出 午前10時6分

月正中 午後 4時9分

月の入 午後10時1分


 最後に。最後に記した山本胥氏の「芭蕉 奥の細道事典」(講談社α文庫一九九四年刊)には湯殿山から逆に芭蕉のここでの足跡を辿った記録が「月山登山記」として載る(三三六頁~三四三頁。三三三頁には羽黒山・月山・湯殿山の芭蕉の登山行程を示す概念図もある)。山本氏は「奥の細道」のこの月山登頂記の部分を明治以降に爆発的に流行する近代登山とその紀行『を先取りした山岳紀行といっておかしくな』く、まさに『世界最古の山岳紀行』と称するに足る名文と讃えておられる。山本氏の芭蕉を検証したその登攀記録は、如何なるインキ臭い評釈にも勝る非常に素晴らしい記録である。是非、ご一読をお薦めする。]

2014/07/21

雷とおへそ   山之口貘

 雷とおへそ

 

むかしの人はふしぎなことをいう

うちのおばあさんがそうなのだ

ピカピカ光るとおそれをなすみたいに

雷さまが来たといい

ゴロゴロ鳴るとふるえるみたいに

くわばらくわばらととなえるのだ

暑くて暑くてたまらない日のことだった

ぼくはすっぱだかになったまゝ

いつのまにやら昼寝をしていたのだが

ゴロゴロ鳴り出したので目がさめた

するとのこのこおばあさんがやって来て

それみたことか雷さまだ

ゴロゴロ怒ってはだかん坊の

おへそをとりに来たんだというのだ

ぼくはチェッ!

雷さまがなんだいと起きあがって

電気のくせに神さまぶるな

こちらは人間さまだといばったとたんに

ピカピカゴロゴロ襲って来たので

ふたりはおもわず首をちゞめ

ふたりでくわばらくわばらだ。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三〇(一九五五)年七月号『小学五年生』。バクさん五十一歳。児童詩ながら、どこかこの主人公の少年はバクさんのような気がしてならない。遠い日の沖繩の幼少期のバクさんの思い出に繫がるもののように私には思われてならないのである。]

学年末の反省   山之口貘

 学年末の反省

 

教科書を広げるたびに

インクのよごれが気になった

僕には今でも

悪いくせがあって

夢中になるのはよいとしても

本を読めば読みっぱなしで

机の上に散らかしたまゝ

その上でなにかをしてしまうくせなのだ

あのときだって夢中になって

万年筆をいじくつているうちに

インクの瓶をひっくり返したのだ

いまは学年末でもうすぐに進級なのだ

よごれた本よごくろうさま

悪いくせよさようなら

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三〇(一九五五)年三月号『中学生の友』。因みにこの時、バクさんは五十一歳(参考までにミミコ(泉さん)は小学校五年生)。無論、これは仮想詩なのであるが、この癖、ゼッタイ、バクさんの癖、なんだろうなあ。]

腕ずもう   山之口貘

 腕ずもう

 

みんな元気な連中だ

お天気ならばきゃっちぼおるとくるのだが

きょうは雨なので

腕ずもうと来たのだ

たがいに手と手を組み合わせると

口をゆがめぎゅっと目を閉じるが

閉じたその目をぱっとひらいては

 

ひといきいれてまたぎゅっと

顔いっぱいをまっかにして力み合うのだ

やがてぼくにも番が回って来て

「こんどは詩人だ」とだれかが言った

詩人というのはぼくのあだ名で

詩人のぼくは

詩には自信があっても

腕にはさっぱり自信はないのだ

しかし負けるにしたところで

やるだけのことは

堂々とやるところに

詩人の精神が生きているのだ

そこでぼくは堂々と

じぶんのほそい腕をまくって

堂々と相手の手に組むと

ぎゅっと目をつむり

口をひきしめて

顔いっぱいを

まっかにがんばったのだが

よいしょとばかりに

ねじ伏せられたのだ。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和二八(一九五三)年九月号『中学生の友』(小学館)。]

芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である

 

       四十七 火あそび

 

 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

 

   *

 これは芥川龍之介の「或阿呆の一生」の一節である(以下、リンクは総て私のオリジナル・テクストである)。

 この章の次は、以下である。

   *

 

       四十八 死


 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里(せいさんかり)を一罎(ひとびん)渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。

 それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。

 

   *

 この「四十九」との連続性から、多くの読者はこれを芥川龍之介が自死直前に起こした平松麻素子との心中未遂事件(昭和二(一九二七)年四月七日とされる)と関連づけ、この「彼女」は妻文が相談相手として接近させた幼馴染みの平松であると無批判に信じ続けてこなかったであろうか? 少なくとも私はまさに無批判にそう思続けてきた。それは研究者の間でも日の同定すらはっきりしなかった(七日の同定は二〇〇八年刊行の新全集の宮坂覺氏による年譜による。一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄著「年表作家読本 芥川龍之介」では四月十六日の項にこの未遂事件を掲げ、『七日とする説もある』とする)平松との心中未遂という、自死完遂の二ヶ月前の事実があまりにもスキャンダラスで強烈であったからに他ならない。そうしてまた、平松と龍之介の関係が、ほぼここに語られているようなものであった事実とも一致するからでもある。

 しかし、本当にそうだろうか?――

 この「彼女」とは本当に平松麻素子なのだろうか?――

《補注:但し、私は正直言うと、この「四十八 死」は総体に於いて虚偽記載であると推定している。それは芥川龍之介の自死が一般に信じられているジャールやヴェロナールによるものではなく、青酸カリによるものだと考えているからである(宇野浩二 芥川龍之介 十一 ~(3)の私の注などで既に何度もその論理的理由は書いた)。そうしてそれはこのように関係を持っていた愛人から得たものではないとも思っているからである。そもそも自死後に青酸カリによる服毒自殺であると万一、処理された場合、この記載は極めて都合の悪い事態を招くからである。即ち、この「彼女」が一般に考えられているように平松だとすれば、彼女には立派な自殺幇助罪の嫌疑がかかることになり、それはダンディズムに徹した彼には最も忌まわしい事態となるからである(実際には芥川家の主治医で俳句を通しての友人でもあった下島勲氏によって現行の薬物と断じられて現在に至るのであるが、ここにも私は何か下島氏との間に何らかの事前の密約のようなものがあったのではないかと疑っている)。寧ろ、凡そ平松はそうしたものを入手出来得る女性では到底なく、仮に疑われても直ぐに嫌疑が晴れるような、凡そ信じがたい嘘として、龍之介はこの怪しげな虚偽の章段を創って差し挟んだのではなかったか、と私は思っている――ではどこから青酸カリを入手したか? それは山崎光夫氏の「藪の中の家-芥川自死の謎を解く」で目から鱗の推理がなされている。是非、お読みあれ。――ほんのすぐ近くにそれは――あったのである(なお、毎回ここでお茶を濁して終わるのは、偏えに、言ってしまうと山崎氏の本を読む楽しみが著しく減ぜられてしまうからであって、言わないことに実は他意はないのである。それほど「藪の中の家」はスリリングなのだ)。》

 

 とすれば――四十八の「彼女」が自殺未遂をした平松だとすれば――「四十七 火あそび」の「彼女」は『彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた』と、「四十八 死」の『彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた』の完全に同一に見える叙述内容から、この「四十七 火あそび」の「彼女」も平松であると誰もが認定するであろう。

 しかし――である。

 そもそも章段がここまで強い連関性を持って並んでいる「四十七」と「四十八」は「或阿呆の一生」の中では実は極めて異例であるという事実に私は、ふっと気づいた。

 と同時に、「プラトニツク・スウイサイドですね。」/「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」という応答が、ある疑義の余韻とともに私の鬱々たる脳内に反響し始めたのである。

 「或舊友に送る手記」とともに芥川龍之介の文学的遺書であるところの「或阿呆の一生」の冒頭、龍之介は盟友久米正雄に当てた前書の中で、『君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる』と述べているが、実はこれは龍之介特有の悪戯っぽい作為なのだと私は確信している。久米は実際には「インデキス」はつけられないのである(実際に久米は死後、龍之介の友人たちとの座談の中で本作の「月光の女」の同定を試みたりしているが、そこには現在の知見からみれば明らかな誤りが多く含まれている。宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(4)などを参照)。いや、今もって芥川龍之介の研究者の間でも本作の「インデキス」はまるで完備していないと言った方が正しいのが実情である。

 それは何故か?

 それはまさに、久米や佐藤春夫らが指摘し、私も「月光の女」の同定を試みた幾多の作業の中(『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』に主な考察のリンクを附してあるので未見の方は参照されたい)に痛感した、龍之介自身による複数の女性の合体が「月光の女」の正体であり、しかもその複数が恐るべき数に上るものであり、しかも「或阿呆の一生」の章段が意識的に時系列をシャッフルして並べ変えられているからである。その際、龍之介は、「月光の女」又は龍之介の愛した「彼女」を〈読者一人ひとりが勝手に錯誤してしまい易いように〉計算して恣意的に配置してもいるのである。

 これは龍之介が最後に我々に仕掛け残した自伝的作品への文学的虚構としての迷宮(ラビリンス)であり、自己告白に対する驚くべき少年染みたはにかみであり、そうして何より、彼が愛した数多の「彼女」たち(そこには実は「或阿呆の一生」には実際には書かれていない女性も含めてである)へのおぞましいまでの復讐であると同時に、胸掻き毟る現在形の懸恋の情のほのめかしでもあるのである。即ち、本作を読んだ、龍之介と接触し、何らかの恋愛関係にあった女性たち――肉体関係の有無を問わない――が読んだ際に「これは私のことだわ!」と思わせるような巧妙な仕掛けが施されたものであるということである。

 しかも龍之介は、それを章単位ではなく、それぞれの章のある部分が、ある特定の女性(芥川龍之介が/を愛した女性)の特徴を限定する〈かのように見えるように〉書いているのである。

 そうして、性交渉を持たなかった数多の女性にまでその感染を広げるための、恐るべき生物兵器こそが、この二章の『彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた』であり、『唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた』であったのである。それは如何にも童貞の少年ナルシスの甘い〈ほのめかし〉の連続した仕掛けなのである。

 

 そうした仕掛けである――

 とするなら――

――我々は取り敢えず、この二章は実は繋がっていない無縁なものを巧みにモンタージュしたものとして、「四十七 火あそび」と「四十八 死」の「彼女」を別人とすべきなのである。

 

 そこで「四十七 火あそび」である。今一度、掲げる。

 

       四十七 火あそび

 

 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

 

 まず、『火あそび』という標題である。

 前に述べた通り、心中未遂を起こした平松麻素子は、妻文が夫の自殺の危険を憂慮して文自身が幼馴染みの友人である平松を相談相手として龍之介に接近させたことが分かっている。しかも平松との肉体関係は事実なかったというのが関係者の見解でもあるのである。そうした如何にも特異な関係性にあった平松との関係を――無分別なその場限りの〈情事〉を指す「火あそび」――という語で、かのストーリー・テラーたる文飾彫鏤巧みな芥川龍之介が、使うはずが、ない。「火あそび」という以上、それは妻文には知り得ぬような相手であってこそ「火あそび」である。但し、それは『彼女の體には指一つ觸れずにゐ』るものでも構わない。これはその気がないという意ではない。また『戀愛は感じてゐなかつた』の『戀愛』も、それこそ肉体関係を直ちに希求するような性的欲情を主とする心理状態という意味でとることが出来、それは実際に『戀』していなかったことの証左ではないという点にこそ着目すべきであろう。

……文に知られることのない……肉体関係のない……それをどこかで躊躇させるような女性……しかし龍之介が非常に強い恋情を抱いており……出来得るならば一緒に心中したいと思う女性……

しかもそれは平松のような――一緒に死んでくれるかも知れないと思わせるような多分に感傷的で同情的なか弱い印象の女性――ではないことは明白である。そんな女性は向こうから〈英語で〉『プラトニツク・スウイサイドですね。』とは私は決して言わないと断言出来る。

 以上が、この真の「彼女」の属性である。

 

 次に『彼女はかがやかしい顏をしてゐた』という叙述である。

 既に私が誰を「彼女」と同定しているかは大方の方はお気づきであろう。

 この『彼女はかがやかしい顏をしてゐた』という表現は直ちに、「或阿呆の一生」の別の一章を直ちに連想させる。

   *

 

      三十七 越 し 人

 

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

 

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

 

   *

この『木の幹に凍つた、かゞやかしい雪』という表現である。この『かゞやかしい雪』のような『顏をしてゐ』る『彼と才力の上にも格鬪出來る』『彼女』とは、芥川龍之介が最後に胸掻き毟る恋をした相手――片山廣子――である。

 『彼女の體には指一つ觸れずにゐた』は廣子との関係に照らすと事実であると断言出来るし、その廣子が「死にたがつていらつしやるのですつてね。」と龍之介に語りかけるのも如何にも首肯出来、それに対して、龍之介が丁寧語で「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」と微妙な抑鬱的感触という訂正まで加えて答えるというのも、『才力の上にも格鬪出來る』と彼が絶賛した相手ならではの答えとして相応しい。この答えは平松のみでなく、それ以外の数多龍之介の周辺に見え隠れする如何なる女性(にょしょう)に対する台詞としても似合わしくなく、ただ片山廣子への答えだったと考えた時にのみ、私には最も自然且つ相応しい台詞として「真」であると言い得るのである。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」。

 この台詞は絶対に平松麻素子の台詞ではない。

 「ですつてね」は、そうした噂が広まって他者に知られてしまった後の伝聞に基づく「彼女」の台詞である。平松は既に述べた通り、龍之介の自殺願望を食い止めるために文に懇願されて彼の話し相手になったのであり、その彼女が文の手前からも、こんな火に油を注ぎかねない素(す)の台詞を安易に謂い掛けるというのは、それこそ却って不自然の極みなのである。

 『彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した』。この地の文を、まずは芥川龍之介と片山廣子の二人だけの秘めた会話の冗談とスル―して取り敢えず進める(実際には冗談ではなかったことの考証は最後に述べる)。

 問題は次の会話である。

 

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 

この英語の会話は無論、素人にも解る英語ではある。解るが、しかし、この二つの台詞の英語は尋常な英語表現ではない(と私は思う)。意味がというより、検索をかけてもらっても解る通り、英語としての普通一般に用いられる表現ではないということである。当時の東京帝国大学英文科卒の流行作家芥川龍之介に対して、相手の女の方が「プラトニツク・スウイサイドですね。」という異様な水を向けて来ること、それに対して極めて奇異な造語の「ダブル・プラトニツク・スウイサイド」で龍之介が応えているという、このシチュエーションを実際に想起してみてもらいたい。

 この女性は当時の平均的な一般女性ではないことがよく分かる。

 彼女は英語に堪能であるからこそ、先にすかさず「プラトニツク・スウイサイドですね。」と語りかけたのであり、その謂いの背後にある彼女の才気の理解度を分かった上で、二重の、双方向性の、肉の臭いを全く持たない男女の自殺という、異常な英語「ダブル・プラトニツク・スウイサイド」で龍之介は応酬しているのである。これは危ないが故に素敵な智の遊びに他ならない。そうしてそうした遊びをし得る芥川龍之介の知人女性というのは、これ、片山廣子をおいて他にはない、のである。

 『彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた』のは何故か。これが二人の冗談だったから――では――ない。

 これは

――この「彼女」とは実際にそうした心中をすることはない

――この「彼女」はそんな心中をする女性では多分ないから

――あるとしても

――僕はしない

――僕は出来ない

――だからこそ

――僕はこの人を愛していられる

――愛したままで

――死ねる

と龍之介が思ったからこそ、彼は彼自身、存外落ち着いていられたのだと考えれば納得がいく。

 

 片山廣子の後年の随筆に「五月と六月」(松村みね子名義・芥川龍之介の死後二年目の昭和4(1929)年6月号の雑誌『若草』に掲載がある(この作品については私の芥川龍之介と絡めた詳細な論考『「片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』がある。未読の方は是非読まれたい。私の貧しいオリジナル論考の中ではかなりの自信作の一つではある)。この前半部「五月」のパートは誰が読んでも相手が芥川龍之介であることが明白である。その後半に附された「六月」に相当する部分を引く。

 

 圓覺寺の寺内に一つの廢寺がある。ある年、私はそこを借りて夏やすみをしたことがあつた。山をかこむ杉の木に霧がかゝり、蝙蝠が寺のらん間に巣くつて雨の晝まごそごそと音をさせることがあつた。

 震災で寺がまつたく倒れたと聞いて、翌年の六月、鎌倉のかへりに寄つて見た。門だけ殘つてゐた。松嶺院といふ古い札がそのまゝだつた。くづれた材木は片よせられ、樹々は以前のとほりで、梅がしげり白はちすが咲き、うしろの崖が寺ぜんたいに被さるやうに立つてゐた。その崖からうつぎの花がしだれ咲いて、すぐ崖の下に古い井戸があつた。

 深くてむかし汲みなやんだことを思ひ出して、そばに行つて覗いて見た。水があるかないか眞暗だつた。そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。同時に死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない、と氣がついた。その時の私に、死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄に感じられた。そこいらの落葉や花びらと一緒に自分の體を蜥蜴のあそび場にするには、私はまだ少し體裁屋であつたのだらう。そのまゝ山を下りて來た。

 

「震災で寺がまつたく倒れたと聞いて、翌年の六月、鎌倉のかへりに寄つて見た」とあることから、これは大正十三(一九二四)年六月、廣子四十六歳のことであることが分かる。この頃、片山廣子は未だ芥川龍之介とは親密ではなかった。但し、全く知らなかった訳ではない。大正五(一九一六)年に芥川二十五歳の折り、「翡翠 片山廣子氏著」という廣子の歌集評を『新思潮』に掲載、彼女とは何度かの手紙のやりとりがあり、廣子が芥川家を訪問してもいる。その時、廣子、三十八歳。しかし、二人が男女を意識し、急速に接近したのは正にこの廣子円覚寺訪問の一ヵ月後、大正十三(一九二四)年七月のことであった。しかも本作自体は龍之介の自死後に書かれたものである。

 この『そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。同時に死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない、と氣がついた。その時の私に、死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄に感じられた』という廣子の述懐は、廣子自身がこの時そう遠くない近過去に自殺を思ったことがあるということを示している(でなければ、昔の馴染みの円覚寺の古井戸を訪ねて覗いてそしてここなら「死ねるな」などとは人は思わぬ)。しかし時系列から言えば、これは前半の「五月」よりも遙か以前となり、「五月」の主人公が芥川龍之介であるならば、この話は何の関係もない、ということになってしまう。しかも本作の前半部とは一見、何の脈絡も持たせずに廣子は叙述しているのである。こんなおかしな話はない。

 実はこの「五月と六月」の「六月」の部分には、ある巧妙な仕掛けがなされているのではあるまいか?

 この廣子が自殺を思ったのは、実はこの井戸の覗いた後の出来事であり、それを井戸に附会させることで時間設定を遡らせ、前半の人物が芥川龍之介であることが読者に分からないようにした(芥川龍之介であるはずがないと物理的に思わせた)のではなかったか?

 とすれば――実は廣子が考えた自殺というのは、実は生前の芥川龍之介と交わしたことがある心中の約束であったのではなかったか?

 本作「五月と六月」の前半に覆面の相手芥川龍之介を登場させておいて、しかもそこにこの一見無関係に見える文章をさりげなく投げ込んだ廣子の隠蔽の意図は、そこでうっかり安心して自死を匂わせる叙述を挟んで龍之介への秘かな追悼としてしまった結果、逆に龍之介と彼女が以前秘かに自死を語り合ったことがあったのではなかったかという私の疑惑を深くさせる結果となったということなのである。

 最後に。「火あそび」ならぬ、私の「あそび」で筆を措くこととする。

「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の台詞部分をシナリオ風に書き直してみよう。因みに、ト書きの「よろしく」というのは、一部のなまくらな脚本家が現場の監督や俳優にに当該部分の演出や演技を丸投げする際に用いる掟破りの業界用語である。

 

廣子 「死にたがっていらっしゃるのですってね。」

龍之介「ええ。――いえ、死にたがっているというよりも、生きることに飽きているのです。」

(二人、これに類した問答、よろしく。その中で、一緒に死ぬことを約束するシーン、よろしく)。

廣子 「プラトニック・スゥイサイドですね。」

龍之介「ダブル・プラトニック・スゥイサイド。」

(龍之介、こう答えた自身が如何にも平然として落ち着いて笑みさえ浮かべているのを不思議そうに感じている風。)…………

2014/07/20

芥川龍之介手帳 1-7

《1-7》

 

〇兄と女との關係を depict する scene 朱雀門(?)邊偸盗の集合する光景(女は覆面にて出で 兄と弟はそのまま出す) 兄のそこへ赴くみちより書出す

[やぶちゃん注:「偸盗」の書き出しの案。“depict”は描写する・叙述する。実際の「偸盗」では冒頭のロケーションは「朱雀綾小路」で朱雀門から下がった平安京の中央位置となっており、また主人公の兄太郎は出るがヒロインの沙金は登場せず、彼らの養父猪熊の爺と太郎と弟次郎の三人と淫蕩奔放な小悪魔であると同時に不思議な聖性を持った沙金との複雑で爛れた愛情関係については、猪熊の婆と太郎との掛け合いによってアウトラインが示され、第二章・第三章(特に三章の太郎の一人称の心内表現)明らかになるようになっている。沙金は第四章(「偸盗」は全九章)で始めて登場する。太郎も、その夜の藤判官の押し込みのための「集合」ではなく、真昼日中に猪熊の婆がその段取り確認をするためだけに接触している。押し込みの「集合」は第五章の猪熊の爺と太郎の修羅場未遂の場面を挟んだ第六章で、場所は羅生門(これは第一章に既に予告されてある)であり、沙金は覆面はしていない。]

 

○中に comical scene abstract allegory と入れんとす 前者は狡猾なる neben の人物によりて越され 後者は老人によりて起さる

[やぶちゃん注:「越され」はママ。旧全集は正しく「起され」となっている。

abstract allegory」観念的寓話。

neben」ドイツ語の前置詞で「~の脇に」であるから脇役。

「偸盗」では「狡猾なる neben の人物に」よって起こされる「comical scene」というのは見当たらないが、「neben の人物」では脇役としての猪熊の爺の子を孕んだ阿濃(あこぎ:彼女自身は次郎の子と信じている)の存在は、主たる筋と絡みつつも、一体とはならずに最後まで重要な道化として機能している点ではこの「comical scene」のメタモルフォーゼしたサイド・プロットとは言えるかも知れない。しかし彼女は「狡猾」どころか、イディオ・サパンである。寧ろ、「abstract allegory」として機能しているのは沙金以上に強烈なトリック・スターである猪熊の爺の存在と、彼が語る「親殺し」の自己合理化の論理と、言った傍から総て嘘だとする人を食った虚言癖である。太郎がそれに対して激すればするほど、読者は作品の深刻なイメージ以前に、この猪熊の爺という救い難い奇体な人物に、どこか滑稽なものを見、思わず失笑してしまわないか?(少なくとも私はそうである)私はここで龍之介が分離して考えたキャラクターが融合した存在こそが実は猪熊の爺だったのではないかと感じ始めているのである。]

 

○發端 老人の盜賊 dostoefsky の「虐げられし人々」の發端をみよ

[やぶちゃん注:ドストエフスキイの「虐げられし人々」の発端はこうである。散歩中の主人公の青年イワンが、みすぼらしい怪しげな老人と喫茶店で邂逅するが、その老犬アゾルカがその場で死に、それを放置して出て行く(この直前にその死んだ犬を剥製にすればよいと客が提案する奇体なシーンがある)。イワンがその後を追って家まで連れ帰ろうとするが、老人もその道半ばで斃死してしまう――ここで特に老人が愛犬アゾルカを杖で突っくが既に死んでいることが分かって杖を落す、その杖を拾った上げたドイツ人の男が異様なロシア語で死んだ傍から犬を剥製にしよう頻りに勧める、という如何にもドストエフスキイ好みの粘着的で生理的不快感を催させるシークエンスがあることに気づく。ここで実際の「偸盗」の第一章と比べてみると、これは冒頭近くで、『七月の或日ざかり』のねばつくような炎暑の描写のなまなましい描写と軌を一にするように思われる。

   *

 むし暑く夏霞のたなびいた空が、息をひそめたやうに、家々の上を掩ひかぶさつた、七月の或日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝の疎な、ひよろ長い葉柳が一本、この頃流行(はや)る疫病(えやみ)にでも罹つたかと思ふ姿で、形(かた)ばかりの影を地の上に落としてゐるが、此處にさへ、その日に乾いた葉を動かさうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださつき通つた牛車(ぎつしや)の轍が長々とうねつてゐるばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇(ながむし)も、切れ口の肉を靑ませながら、始めは尾をぴくぴくやつてゐたが、いつか脂ぎつた腹を上へ向けて、もう鱗一つ動かさないやうになつてしまつた。どこもかしこも、炎天の埃を浴びたこの町の辻で、僅に一滴の濕(しめ)りを點じたものがあるとすれば、それはこの蛇の切れ口から出た、腥い腐れ水ばかりであらう。

   *

そしてその後の太郎の猪熊の婆の会話の昼間部に再度、

   *

「お前さんは、不相変疑り深いね。だから、娘にきらわれるのさ。嫉妬(やきもち)にも、程があるよ。」

 老婆は、鼻の先で笑ひながら、杖を上げて、道ばたの蛇の死骸しがいを突ついた。何時の間にかたかつてゐた靑蠅が、むらむらと立っつたかと思ふと、又元のやうに止まつてしまふ。

「そんな事ぢや、しつかりしないと、次郎さんに取られてしまうふよ。取られてもいいが、どうせさうなれば、唯ぢやすまないからね。お爺さんでさへ、それぢや時々、眼の色を變へるんだから、お前さんなら猶さらだらうぢやないか。」

   *

と配し、太郎が猪熊の婆を見送って踵(くびす)を返した第一章末尾に今一度、

   *

 二人の別れたあとには、例の蛇の死骸にたかつた靑蠅が、相變日の光の中に、かすかな羽音を傳へながら、立つかと思ふと、止まつてゐる。…………

   *

と閉じる。

 因みに「偸盗」ではカタストロフ直前のクライマックスに野犬の群れが太郎に純粋至高の兄弟愛を取り戻させる重要な役として登場することと、ドストエフスキイが「虐げられた人々」でこの犬のことを、犬の形をかりたメフィストフェレスみたいなものだと言っている点にも着目しておいてよいかもしれない。龍之介は猪熊の爺に「親殺し」を口走らせるところで明らかに「カラマーゾフの兄弟」を意識してもいる(但し、「偸盗」では「親殺し」は猪熊の爺は死ぬものの「親殺し」は完遂されず、この猥雑な猪熊の爺は、寧ろ、そのトリック・スターの役割からは、親殺しの真犯人であったスメルジャコフのような印象を私は受けることも申し添えておきたい。]

 

○病人及弱者の Egoism を書かんとす

[やぶちゃん注:これは完成形の「偸盗」の自体が叙述するテーマとは、微妙にずれる感じがする(背景としての荒廃した末法の京はまさに『このごろはやる疫病(えやみ)』や貧困に冒されており、この盗賊団も零落した貧者の堕落した変態物ではある)。寧ろ、この初期の頃の龍之介のこれ以外の、「羅生門」を始めとする「鼻」や「芋粥」の複数の王朝物にこそよく共通して顕在化している主題ではある。]

 

[やぶちゃん注:新全集ではここに原底本資料の手帳原本が一枚欠損している旨の注記がある。旧全集ではそこが示されてあるので以下に補っておく。]

 

〇兄弟の enmity 及その肉親の relation weak なる點。

[やぶちゃん注:「enmity」憎悪・対立、「その肉親の relation weak なる點」というのは、兄弟という肉親、血がつながっているという関係性故の(それによって他人との関係よりもより顕在的に惹起されてしまう付帯的憎悪・嫉妬・殺意といった人間的に脆弱な脆い部分という謂いで、明らかに「偸盗」の太郎と次郎の実の兄弟の葛藤状況の設定を示している。]

 

〇人身賣買の問題。

 

〇牛頭大王の夢。或人の子が痘死ス。即廟をこはす。

 

〇關帝廟。道士あらかじめ毒酒を與へて無賴に帝廟を罵らしむ。利益分配爭ひよりわかる。

 

〇皆神の無を語る。婆來つて否定す。There is something in the darkness.

[やぶちゃん注:この英文は前にも出て来た。これについて「夢みる風力発電機 ―skycommuの書評・雑記」の「偸盗(There is something in the darkness と 二人の具現者)」で海老井英次氏の論考を援用しながら、この英文と「偸盗」と「羅生門」の関係性を読み解いておられる。非常に説得力があり、先にこの英文に注した私の印象をなどとも絡んでなかなか共感出来る部分がある。海老井氏の見解を解説した幾つかの箇所がこの「There is something in the darkness.」と関わるので以下に引用させて戴く

   《引用開始》

「この「強盗を働きに」「京の町へ」消えていった「下人」のその後の姿を、我々は「偸盗」の中にみることが出来るのである。」①海老井氏はその根拠として偸盗のメモにある( There is something in the darknesssays the elder brother in the Gate of Rasho.)(病人及弱者のEgoismを書かんとす。)という文章や羅生門の草稿に見える主人公の名「交野の平六」と偸盗の盗賊の一味の名「関山の平六(後編で交野の平六と記述される)」の同一をあげている。

   《引用終了》

 引用文中の①などは注記記号。最後に配した。

   《引用開始》

一方、海老井氏は偸盗の執筆動機に「「羅生門」をとりまく「darkness」の中に「something」を見出すこと」① をあげ、「「darkness」の中にある「something」とは、他でもなく、「羅生門」に描かれた無明からの〈救済〉を可能にする何か」③ であると説明している。そして不運にも「兄弟の対立を止揚する「something」として〈兄弟愛〉を捉えながら、それを通俗的理解を超えた明確な実体として把握しきらずに、「血のつながり」といわれるようなものと同次元のものとして描くに終わったのである。」① として失敗理由を挙げている。これは実に評価できる画期的な意見だろう。

   《引用終了》

 この海老井氏の最期の「偸盗」失敗の理由は、何と、まさにこの手帳の四項前で芥川龍之介自身が『兄弟の enmity 及その肉親の relation weak なる點』と、既にして予告していたことが分かるのである。

   《引用開始》

太郎も次郎も、猪熊の爺も婆も、それぞれに何かを体現し活躍している。しかし、沙金と阿濃のそれは異常だ。体現しすぎて二人にはリアリティーがないのである、固有の内面がないのである。沙金は徹底的に美しい悪女になり、阿濃は徹底的に愚かなる聖女になった。彼女らは一種の非人間として、主題「「羅生門」をとりまく「darkness」の中に「something」を見出すこと」① のために芥川によって造りだされ、存在しているのだ。

   《引用終了》

 二人の聖性に着目する論には、森正人氏の「《偸盗》の構図」(『熊本大学文学部論叢』一九九〇年三月)があり、そこでは、『沙金と阿濃を女夜叉・女菩薩という観点で対照させつつも、阿濃や猪熊の爺に対する沙金のやさしさ・太郎の目に「映る」不思議な円光」等から沙金に聖性を読み取り、阿濃・沙金を一体のものと』(勉誠出版「芥川龍之介全作品事典」須田千里氏記載)している。

   《引用開始》

芥川は羅生門において提示した、darknessの先にあるsomethingを見出そうとし、偸盗を執筆した。無明に落ちた畜生の救済である。芥川はそのsomethingに兄弟愛や白痴ゆえの愛を見出した。どちらも無垢で感覚的な、本能的な愛である。芥川はエゴイズムの世界に、人間本能の導く美しさや希望を見出したのだ。しかし結局、主題をきちんと理解しそれらの愛をまとめきれなかった。偸盗の失敗はここにある。

   《引用終了》

 引用文献の上記引用に出たものだけをリンク先を参照して示しておく。

①海老井英次『「偸盗」への一視角」』(『語文研究』一九七一年十月)

③海老井英次「〈我執〉から〈救済〉へのロマン」(『近代文学考』一九七四年三月)

 「偸盗」は芥川龍之介自身が執筆中から不満を持ち、失敗と断じて、改作の希望を持っていた。

 因みに、私は「偸盗」を「羅生門」より遙かに面白い小説であると思っている。

 以上、引用元の全論考をお読みになられることを強くお薦めする。]

 

〇朱雀門上の炎。

[やぶちゃん注:ここまでが旧全集による。]

 

○魔術 old witch. Hand in the fire.“What is itone asks.What is in the darknessis the reply.

[やぶちゃん注:後年の「魔術」とは無関係。]

 

tale of fathers and sons.

  1 Antipathetic.

 2 Mystic pathetic.

[やぶちゃん注:「Antipathetic」は非感傷主義的で、「Mystic pathetic」は霊的なまでに感傷的。それぞれを父やその子に配した二律背反の父と子の物語という謂いか。特にピンと来る芥川作品は浮かばない。]

 

〇弟は shy.――放免となりて兄をつかまへに來る。

 

Fraternal love explosion.

[やぶちゃん注:「Fraternal love explosion」は兄弟愛の破壊であるから、これはもしかすると「偸盗」の改作若しくは続編のメモかも知れない。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 42 羽黒山 其玉や羽黑にかへす法(のり)の月

本日二〇一四年七月二十日(陰暦では二〇一四年六月二十四日)

   元禄二年六月 四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十日

である。【その二】芭蕉はこの羽黒山滞在中に、親しく接した別当代会覚阿闍梨らから羽黒山中興の祖として知られる第五十代別当天宥(てんゆう)法印追悼の句を求められたらしい。一応、ここに配しておく。

 

  羽黑山別当執行不分叟天宥法印は、行法い

  みじききこえ有て、止観円覺の仏智才用、

  人にほどこして、あるは山を穿(うがち)、

  石を刻(きざみ)て、巨靈が力、女媧がた

  くみを盡して、坊舍を築(きづき)、階

  (きざはし)を作れる、靑雲の滴(しづ

  く)をうけて、筧の水とほくめぐらせ、石

  の器(うつはもの)、木の工(たくみ)、此

  山の奇物となれるもの多シ。一山擧て其名

  をしたひ、其德をあふぐ。まことにふたゝ

  び羽山(うざん)開基にひとし。されども

  いかなる天災のなせるにやあらん、いづの

  國八重の汐風に身をたゞよひて、波の露は

  かなきたよりをなむ告侍るとかや。此度、

  下官(やつがれ)、三山順禮の序(ついで)、

  追悼一句奉るべきよし、門徒等しきりに

  すゝめらるゝによりて、をろをろ戲言(け

  げん)一句をつらねて、香の後ニ手向侍

  る。いと憚多(はばかりおほき)事にな

  ん侍る。

 

其(その)玉や羽黑にかへす法(のり)の月

 

  悼遠流(をんる)の天宥法印

その玉を羽黑にかへせ法の月

 

その玉を羽黑へかへせ法の月

 

 

[やぶちゃん注:長い前書を有する第一句目は現存する出羽三山歴史博物館蔵になる真蹟懐紙の句形。末尾に

 

   元祿二年季夏

 

とクレジットする(句の最初は「無」と書いて、それを見せ消ちにして「其」に改めてある)。第二句目は「泊船集」(風国編・元禄十一年)の、第三句目は「芭蕉句選」(華雀編・元文四(一七三九)年刊)の句形。

 出羽三山神社(出羽三山という呼称は実は近代以降に使われるようになった語であって、かつては「羽州三山」・「奥三山」・「羽黒三山」(天台宗系)・「湯殿三山」(真言宗系)と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があってこれらを総称して現在は出羽三山神社という。宗教法人としての現在の正式名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社(出羽三山神社)」。この注記部分はウィキ出羽三山」に拠る)の公式サイト内の中興の祖・天宥法印に続く歴代別当遺品展によれば、天宥別当は慶長一一(一六〇六)年に山形県西村山郡川土居村吉川(現在は西川町)安仲坊に生れ、二十五歳にして第五十代別当に就いてその類稀な才能を発揮、一山の繁栄を願って様々な施策を講じた。例えば今に見る天然記念物指定の四百本にあまる羽黒山杉並木や羽黒山頂までの二千四百四十六段に及ぶ石段、また、東三十三ヶ国を出羽三山の信仰区域と規定してその受け入れ先としての組織や諸制度を整備するなどの現在ある出羽三山信仰の磐石の基礎を築いた人物であった。しかし、讒言によって伊豆大島へ流罪となり、遂に帰ることなく八十二歳にして遷化したとある。芭蕉らが泊まった宝前院若王寺南谷別院も、芭蕉が詣でた二十余年前にこの天宥が五年をかけて建てた建坪七百坪(約二千三百平方メートル)の壮大ものであったともいう(場所については異説もある。現在の比定地には礎石が残るのみ)。山本胥氏は「奥の細道事典」で、天宥は『なかなかの事業家』で、『当時勢力のあった天海僧正に取り入り、つぎつぎに寺領を拡大』するといった『強引さが、一部の人たちから反感を受けた』とし、『事業欲にはしりすぎた天宥は、芭蕉好みの男ではない』と断ずる(私も同感である。山本氏も指摘するように、この前書で記されたような門徒衆の称揚した天宥の業績に対して本当に芭蕉が好ましく感じたとすれば、それは「奥の細道」に記されねばならない。しかし天宥のことは一言も触れられていないのである)。山本氏は、寧ろ、そうした追悼の句を望んだ会覚や門徒露丸の人柄にこそ惹かれ、その懇望にほだされて「戲言」(ざれごと)と諧謔しつつものしたものが、この句と前書であったのではないかと推理されている。これにも私は諸手を挙げて賛同するものである。

 「其玉」は七月の魂祭(たままつり)、祖霊祭を指していよう。私の好きな第三句ならば――遠島となって流人の島大島で亡くなられた法印天宥さまの御魂を――仏法のあまねき慈悲の光を放つ月よ――今も恋い慕って已まぬ衆徒らのいる、この神々しい羽黒に、還しておくれ――というのである。第一句・第二句では御霊は羽黒に既に還されたこととなるが、句の詠ぜられる際のそこで仮想された句内の時間が当該の魂祭の日であったとすれば、これでもおかしくはない。]]

橋本多佳子句集「紅絲」 祭笛(Ⅲ)

 

連れ立ちて百姓低し天の川

 

七夕や同じ姿に農夫老い

 

潮汲のゆきて夏濤小さくなる

 

夏潮の二つの桶を肩にかけ

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 41 羽黒山 有難や雪をかほらす南谷

本日二〇一四年七月二十日(陰暦では二〇一四年六月二十四日)

   元禄二年六月 四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十日

である。【その一】この前日に新庄を発った芭蕉は羽黒山へ向かった(途中、本合海(もとあいかい)から古口・清川を経て狩川まで、実に二十九キロメートルに及ぶ最上川の川下りを初めて体験している)。羽黒山では南谷の別院に入り、途中に芭蕉生涯一度の本格登山であった月山(一泊)・湯殿山登頂を挟んで十日に鶴岡に発つまで、七泊八日を過ごした。

 四日の正午頃、本坊に招かれ、天台の高僧別当代会覚(えかく)阿闍梨(京都出身。法名和合院照寂。次の「其玉や」で注するように第五十代別当天宥が伊豆流罪に処せられて後、当「羽黒三山」(天台宗系ではかく呼称した)の別当は本山の東叡山寛永寺が兼務をした。芭蕉参詣当時の別当は東叡山大円覚院公雄であったが、兼務別当は当地には赴かず、その別当(院)代として派遣されていたのが会覚である)に謁して蕎麦切をふるまわれ、その場で本句を発句とした歌仙「有難や」の巻が巻き初められた(但し、この日は初折の表六句までで、翌五日羽黒山山頂(標高四一八メートル)の羽黒権現の参詣の後に初裏十二句で初折まで出来、月山と湯殿山の登頂が無事成就した後の九日に再開、名残の折(表十二句と裏六句)が詠まれて完成したらしいことが「曾良随行日記」の記載から窺える)。

 

有難(ありがた)や雪をかほらす南谷(みなみだに)

 

  此日閑に飽て、翁行脚の折ふし、羽黑山於

  本坊興行の歌仙をひらく、元祿二年六月に

  や

有難や雪をめぐらす風の音

 

  羽黑山本坊おゐて興行

    元祿二、六月四日

有難や雪をかほらす風の音

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の句形。

 第二句目は「花摘」(其角編・元禄二年奥書)の句形で、「南谿集」(みなみだにしゅう・羽州羽黒山連であった松童窟文二編・文政(一八一八)元年刊)にはこの句形で載り、

 

  元祿二年六月四日、於羽黑山本坊

 

という前書と、

 

  おくの細道には、雪をかほらす南谷とあるは、例の後に再案せられしなるべし

 

と丁寧に附記されてある(ここらは底本の岩波文庫版中村俊定校注「芭蕉句集」の脚注に基づく)。

 第三句目は「曾良俳諧書留」に載る完成した歌仙「有難や」の巻の発句の句形。脇は「奥の細道」にフル・ネームで名が載る芭蕉らをここに案内した、門前町荒町で山伏たちの摺り衣染めを生業とする図司(近藤)左吉、俳号露丸(呂丸とも記す)が、

 

有難や雪をかほらす風の音       芭蕉

  住程(すむほど)人のむすぶ夏草  露丸

 

と付けている。

 以上から本句は、

 

有難や雪をかほらす風の音

 ↓

有難や雪をめぐらす風の音

 ↓

有難や雪をかほらす南谷

 

の推敲過程を経たことが知れる。「かほらす」(仮名遣は正しくは「かをらす」は既にして「風」を匂わせているから決定稿の「南谷」は実際の芭蕉が泊した霊場の地名であり、その「かほり」は霊地の妙香ででもあるのであろうが、それは同時に自ずと「南風」から「風薫る」の意が利くように選ばれたものであるということがこの推敲順列から判然としてくるのである。

 以下、「奥の細道」の羽黒山の段の前段

   *

六月三日羽黑山に登る圖司左吉

と云ものを尋て別當代會覺阿

闍梨に謁ス南谷の別院に舎して

憐愍の情こまやかにあるしせらる

四日本坊於本坊俳諧興行

  有難や雪をかほらす南谷

   *

■やぶちゃんの呟き

 この露丸は三十そこそこの若者であったが、芭蕉は親しく接した別当代会覚に対しては勿論(次に掲げる「其玉や羽黑にかへす法(のり)の月」の私の注を参照)、この俳諧に精進せんとする青年露丸に対しても非常な好感を持ったことが「奥の細道」やその関連諸資料によってはっきりと分かる。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の人名解説「呂丸(近藤)」には『呂丸は『聞書七日草』という書物を残すが、これは羽黒山での芭蕉の教えを記述した書。 芭蕉の俳論「不易流行」が最初に着眼されたのはこの時の呂丸との対話の中といわれている』とあり、また、露丸は後の元禄五年九月には芭蕉庵をも訪問、この時に芭蕉は「三日月日記」の稿本を彼に譲っている。しかしこの露丸、その翌元禄六年二月二日、京都で客死してしまうのである。]

2014/07/19

大和本草卷之十四 水蟲 介類 ネヂ貝

【同】

ネヂ貝 海濱ニ出アリ其殼ノ形顧テ戻レリ味不美

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ねぢ貝 海濱にあり。其れ、殼の形、顧(かへりみ)て戻(もど)れり。味、美からず。

[やぶちゃん注:腹足綱翼舌目イトカケガイ上科イトカケガイ科ネジガイ Gyroscala perplexa 及びその近縁種。二センチ前後で殻質は割合に厚く螺塔も高い。糸状のくっきりとした縦肋が上下連結する(但し、しばしば螺層の間で隙間を作る)。一見してその特徴的形態から判別がつく(大型の近縁種で切手にもなったコレクターに好まれるイトカケガイ科オオイトカケ Epitonium scalare のミニチュア版と言った方が分かり易いかと思われる)。私は食したことはないが、この手の巻貝類は形はいいが、新腹足目ムシロガイ科ムシロガイ Niotha livescens などを筆頭に、往々にして腐肉食の雑食性であるから美味くないとは思う。グーグル画像検索「ネジガイ」をリンクしておく。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 鹽吹貝

【同】

鹽吹貝 殻色淡黑色肉淡紅味不美

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

鹽吹貝〔しほふきがひ)〕 殻の色、淡黑色。肉、淡紅。味、美〔(よ)〕からず。

[やぶちゃん注:斧足綱異歯亜綱バカガイ科バカガイ属シオフキ Mactra veneriformis 。殻は中程度の球状三角形を成し、殻幅部が著しく膨らみ、特に殻頂は膨大して突出した印象を与える。殻表面には頂部を除いて輪脈が明瞭で、黄色を帯びた褐色の殻皮があり、また往々にして殻の周縁部分が淡紫色に彩られる。前後の側歯も強大で鋭く、非常に深く嚙み合わさっている。本州以南の潮下帯に棲息し、食用に供せられ、やや柔らかいが味もそう悪くない。但し、砂抜きが必須で食材としては敬遠され、市場ではまず見ることがない。なお、和名のように、採取された際に本種が他の種に比して有意に特異的に水管から勢いよく水を吹き出すようには、私の数少ない採取経験でも特に感じたことはない。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 白貝

【和品】

白貝 形扁淡白色味不佳

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

白貝〔(しろがひ)〕 形、扁く、淡白色。味、佳からず。

[やぶちゃん注:斧足綱マルスダレガイ目ニッコウガイ科サラガイ Megangulus venulosa

白貝とも呼ぶ。殻は大きく長円形を成す。殻質は重厚で扁平、後端に添って走る褶曲部分は僅かに右に曲がる。殻表面前半には輪脈が著しくあるものの後半では弱くなり、全体は白色又は淡褐色を呈し、斑紋を持たず、内側は多く橙黄色を示す。蝶番部には二つ主歯を持ち側歯は小さいものの、靭帯が長大で歯丘はかなり発達する。本州東北部以北の潮下帯の河川の流入の少ない砂泥中に棲息する(データは主に保育社吉良版に拠る)。

「味、佳からず」食用貝類のそれぞれの強い個性的な味や肉の厚さといった観点では確かに引けをとるものの、癖がなく甘みもある貝で、ある意味で洗練されたもので、貝の磯臭さが嫌いな人でも安心して口に入れられる点でもっと食されてよい食材であると私は思う。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 西施舌

【外】

西施舌 泉郡志曰似蛤蜊而長其肉有舌最美又

漳州府志所載最詳○江戸ニ多シ諸州ニアリ佳品ナ

リ蛤ニ似テ少長クヒラシ其舌殼ノ外ニ長ク出ツ紅白

色ナリ味ヨシ淡菜ミルクヒト訓スルハアヤマリ也

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

西施舌(みるくひ) 「泉郡志」に曰く、『蛤蜊(がふり)に似て、長し。其の肉、舌、有り、最も美〔(うま)〕し。』と。又、「漳州府志」に載る所、最も詳し。江戸に多し。諸州にあり。佳品なり。蛤に似て、少し長く、ひらし。其の舌、殼の外に長く出づ。紅色なり。味、よし。「淡菜」を「みるくひ」と訓ずるはあやまりなり。

[やぶちゃん注:斧足綱異歯亜綱バカガイ科オオトリガイ亜科ミルクイ Tresus keenae 。本文にある通り本邦全土の内湾砂泥底に生息し、主な産地としてしては瀬戸内海・三河湾・東京湾などが挙げられるが、現在純国産のミルクイは激減しており、一般に流通しているものは殆んどが韓国産・中国産で、代用食材として広い流通を見せる通称「白みる(白ミル)」と呼ぶナミガイ Panopea japonica やアメリカナミガイ Panopea generosa は形状が酷似するものの孰れもナミガイ科の全くの別種である。参照したウィキルクイ」によれば、あ『ナミガイは千葉県の東京湾や兵庫県の播磨灘や山口県の周防灘や愛知県の三河湾などが主産地で殻付きの活きたものが売られ、アメリカナミガイはカナダなどからの輸入品が回転寿司などの「みる貝」によく利用される。ミルクイはこれら白みる貝と区別する意味で「本ミル」(稀に「黒ミル」)と呼ばれるが、少なくとも20世紀末以降の流通量はナミガイ類(白みる)の方が圧倒的に多い。とは言え、代用品とされる白みる類も大変美味な貝類である』とある。因みに、国立国会図書館蔵の同本には頭書部分に旧蔵本者の手になると思われる手書きの付箋が附き、

ミルクヒ 泥土アル海ニ生ス。砂地ニ不生。本吉郡気仙沼海気仙郡大舟渡ニアリ上品ナリトス

みるくひ 泥土ある海に生ず。砂地に生じず。本吉郡気仙沼の海・気仙郡大舟渡(おほふなと)にあり。上品なりとす。

とある(訓読文は私「なり」は汚れかも知れない)。「本吉郡」「もとよしのこほり」で、現在もある宮城県の郡。令制国下では陸奥国(後に陸前国)に属し、幕末時点では全域が仙台藩領であった。「気仙郡」(「気」はママ)は岩手県南東部に現在もある郡。令制国下で本吉郡に同じ。「大舟渡」現在の大船渡市。かつては本吉郡に含まれた。

「泉郡志」陽思謙撰になる「泉州府志」のことであろう。南宋嘉定年間(一二〇八年~一二二四年)に起筆された泉州(福建省東南部の現在の泉州市)の地誌である。

「蛤蜊」前掲の「蛤蜊」の項を参照されたい。

「漳州府志」既出。清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。

「西施舌」淡菜の項でも注したが、本邦で「西施舌」は一応、ミルガイの漢字表記とするが、中文サイトを調べてみると少なくとも現代中国では「西施舌」はバカガイ科 Coelomactra 属アリソガイ Coelomactra antiquata を指している。]

橋本多佳子句集「紅絲」 祭笛(Ⅱ)  田辺流燈

  榎本冬一郎氏に誘はれて、その故郷紀州

  田辺に流燈を見る 三句

 

一束の地の迎火に照らさるゝ

 

流燈を灯して抱くかりそめに

 

  近村の人々精霊に捧げし燈籠を集め波打

  際に焚く、焰炎々と幾ケ所にもあがり、

  夜更くるまで続く

 

焰の中蓮燈籠の燃ゆるなり

 

[やぶちゃん注:「榎本冬一郎」(えのもとふゆいちろう 明治四〇(一九〇七)年~昭和五七(一九八二)年)和歌山県生。『馬酔木』(山口誓子選)に投句して誓子に師事、誓子の『馬酔木』離脱とともに「天狼」創刊に同人として参加、別に『群蜂』(ぐんぽう)を創刊、没年まで主宰した。作品を示す。

 

 ぎらぎら青し泥より芦立つ血族婚

 尾てい骨で坐る赤ん坊の星祭

 メーデーの中やうしなふおのれの顔

 根の国の祖(おや)への道のとりかぶと

 凍蝶のいまわのきわの大伽藍

 

以上は引用句も含め、俳句舎の俳人名鑑の記載に拠った。]

出癖   山之口貘

 出癖

 

ぼくは毎日

家を出て行つた

勤めてなんかゐるのではないのだが

ぼくのなかにはいまもつて

むかしのまゝの放浪がゐるのだ

放浪はいつも風を呼び

ぼくのことを誘ひ出しては

紙屑みたいに風ぐるみにするのだ

ぼくはそのたびごとに

女房こどものことを置き去りにして

地球のあちこちをうろつき廻るのだ

ときには女房こどもが

風のけはひに文鎮ぶつて

またかとむかしたりしないでもないが

用あるふりして

出かけるのだ。

 

[やぶちゃん注:恐らくは未発表の一篇で創作は底本解題によれば推定で昭和二八(一九五三)年頃とする(詳細は当該新全集を参照されたい)。バクさんはこの推定年に先立つこと、五年前の昭和二十三年三月に生涯唯一度の定職であった東京の職業安定所勤務を辞し、文筆一本の生活に入っている。当時、バクさんは五十歳、「こども」のミミコ(泉)さんは未だ九つであった。]

杉田久女句集 254 花衣 ⅩⅩⅡ 耕人に雁歩むなり禁獵地

 

  越ケ谷附近御獵地 一句

 

耕人に雁歩むなり禁獵地

 

[やぶちゃん注:「越ケ谷附近御獵地」現在の埼玉県越谷市の地に慶長九(一六〇四)年に徳川家康によって建てられた越ヶ谷御殿の傍の鷹狩のための御猟地のことと思われる。因みにこの越ヶ谷御殿は、江戸の大火で失われた江戸城の建物の代替として明暦三(一六五七)年になって江戸城二の丸に移されるまでの五十三年間、家康・秀忠・家光などが鷹狩で訪れた御殿の跡として現在に知られる(ここは個人サイト「しらこばとNETWORK」の越ヶ谷御殿跡を参照した)。]

杉田久女句集 253 花衣 ⅩⅩⅠ

  悼柳琴 一句

 

莖高くほうけし石蕗にたもとほり

 

[やぶちゃん注:「柳琴」太田柳琴。坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、久女の子らの主治医であった小児科医でクリスチャン、俳句もたしなんだ人物で、夫宇内との不仲に悩んだ久女のメソジスト教会への入信を勧めた一人である。『俳句をたしなみ、小倉の俳句会『二八会』の創設者のひとりで、久女によれば、「物質万能のK市には珍しい様な高い人格者だつた」』(小説「河畔に棲みて」からの引用)とある。彼の没年は調べ得なかったが、角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和六(一九三一)年のパートにある。久女大正一〇(一九二一)年より教会に通い出し、翌大正一一年八月に受洗した。因みに夫も同年十二月に受洗しているが、久女は四年後の大正十五年十一月頃には教会から距離をおき、同時に俳句に専心する決意を固めている。因みに昭和二一(一九四六)年一月二十一日に大宰府県立筑紫保養院にて腎臓病のために亡くなった久女の遺骨は夫宇内の実家の裏山の墓地に葬られている。戒名は無憂院釋久欣妙恆大師である。教会を離れてから五年後であるが、同人に対する敬愛の念は続いていたことが分かる。久女伝説の一つにはこの大田柳琴との醜聞があるが、私は全く採らない、というか、彼女の不倫スキャンダル自体が孰れも怪しいものばかりで私には関心がないのであると述べおくこととする。]

杉田久女句集 252 花衣 ⅩⅩ

 

嚴寒や夜の間に萎えし卓の花

 

如月の雲嚴めしくラヂオ塔

 

ほのゆるゝ閨のとばりは隙間風

 

眉引も四十路となりし初鏡

 

たらちねに送る頭巾を縫ひにけり

 

遊學の旅にゆく娘の布團とぢ

 

かざす手の珠美くしや塗火鉢

 

筆とればわれも王なり塗火鉢

 

ひとり居も淋しからざる火鉢かな

 

銀屛の夕べ明りにひそと居し

 

色褪せしコートなれども好み着る

 

句會にも着つゝなれにし古コート

 

アイロンをあてゝ着なせり古コート

 

身にまとふ黒きショールも古りにけり

 

鶺鴒に障子洗ひのなほ去らず

 

かき馴らす鹽田ひろし夕千鳥

 

首に捲く銀狐は愛し手を垂るゝ

 

牡蠣舟や障子のひまの雨の橋

 

君來るや草家の石蕗も咲き初めて

 

そののちの旅便りよし石蕗日和

 

[やぶちゃん注:「石蕗日和」は「つはびより」で石蕗(つわぶき:キク亜綱キク目キク科キク亜科ツワブキ Farfugium japonicum )の花の映える好天をいう。ツワブキは晩秋から初冬にかけて咲くから、小春日和と同義で冬の季語である。]

 

冬ごもる簷端を雨にとはれけり

杉田久女句集 251  花衣 ⅩⅨ 冬凪げる瀨戸の比賣宮ふしをがみ / 初凪げる和布刈の磴に下りたてり

 

冬凪げる瀨戸の比賣宮ふしをがみ

 

[やぶちゃん注:「瀨戸の比賣宮」 福岡県宗像市田島にある全国の弁天の総本宮ともされ、裏伊勢とも称される宗像三女神を祀る宗像大社(むなかたたいしゃ)。「瀨戸」は現在の福岡県宗像市の古称。「比賣宮」は「ひめみや」と読み、比売は宗像三女神を指す。]

 

初凪げる和布刈の磴に下りたてり

 

[やぶちゃん注:「初凪げる和布刈の磴に下りたてり」は「はつなげるめかりのとうにおりたてり」と読む。「和布刈」は福岡県北九州市門司区門司にある和布刈(めかり)神社のこと。ウィキ「和布刈神社に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みにこの神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。「磴」は同神社の階(きざはし)の謂い。私は実は行ったことがないのだが、壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っており、そこから石段が社殿に向かって延びているのがネット上の写真で確認出来る。]

杉田久女句集 250  花衣 ⅩⅧ 冬濱のすゝ枯れ松を惜みけり

  萬葉企救(きく)の高濱根上り松次第に煤煙に枯るゝ 一句

 

冬濱のすゝ枯れ松を惜みけり

 

[やぶちゃん注:「企救の高濱」は「万葉集」に「企救の濱」「企救の長濱」「企救の高濱」などと詠まれた歌枕で、現在の北九州市小倉北区赤坂附近から戸畑区の洞海湾湾口までの、響灘に面した国道一九九号線沿いの海浜を指す。現在は大方が臨海埋立造成によって全く消失しているが、往古は白砂と美しい根上り松(根の部分が地表から浮き上がっている松をいう)が群生し、太宰府へ行き交う旅人や大里宿へ通じる街道筋の美観として多くの人々の心を慰めたという。小倉の高浜町や長浜町はその地名の名残とされる。以下に「万葉集」の当地の詠歌を総て示す。

 

 豊國の企救の濱辺(はまへ)の眞砂地(まなごつち)眞直(まなほ)にしあらば何か嘆かむ                             (巻 七・一三九三)

 

あなたの私への思いがあの真砂のようにまっさらな清いみ心であたなら、どうしてかくも歎くことがありましょうという女の詠歌。

 

 豊國の企救の濱松ねもころに何しか妹(いも)に相言ひそめけむ (巻十二・三一三〇)

 

「松根」の「ね」に「めもころ」(懇ろ)を掛けた。どうして妻にお前にかくも恋を囁くようになってしまったのだろう、という男の側の恋の苦悶を詠む。『柿本人麻呂歌集に出づ』と後書する。

 

 豊國の企救の長濱行き暮らし日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ    (巻十二・三二一九)

 

 豊國の企救の高濱高高(たかだか)に君待つ夜らはさ夜更けにけり(巻十二・三二二〇)

 

「高高に」は心の高揚感を掛ける。先に続く恋情に燃える同じ男の詠歌。

 

    豐前國(とよのみちのくちのくに)の白水郎(あま)の歌一首

 豊國の企救の池なる菱の末うれを摘むとや妹がみ袖濡れけむ (巻十六・三八七六)

 

菱の実の先を摘もうとしてあなたの恩袖は濡れ遊ばされたろうか、この恋情の相手は上流階級の女性か、と中西進氏(講談社文庫「万葉集」注)は注する。

 坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、久女の草稿には、既に出た、

 

くぐり見る松が根高し春の雪

 

の句とこの句の間に、

 

  この萬葉の根上り松は次第に煤煙と漁夫ら

  のあらすところにあり。今上陛下のよき御

  屛風の小倉赤坂の名所萬葉にうたはれし企

  救の高濱も次第に枯れ今數本あるのみ。お

  しむべし

 

との詞書があるとある(底本引用を恣意的に正字化した。「おしむべし」は底本にママ注記がある)。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(26) その日頃 

 その日頃

 

わが少女捕虜(とりこ)のごとくくゝられて

鞭もて打たれ泣きたしといふ

        西洋の花なる故にダリヤの花

        を好みたる人、その人いまい

        づれにありや

 

眠むたげに尚キスせんと言ふ人の

側へにありて午後の茶を飮む

 

古めきし我が洋館のバルコニに

晝も夢みる人と住みにき

 

かあてんも動かずなりし八月の

午後を我等はキスして居たりき

 

窓あけよ餘り我等が長き日に

空氣も今は重くしづめり

 

 

[やぶちゃん注:いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「重くしづめり」の「づ」の左位置から下方に向って、最後に以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、「その日頃」歌群の終了を示している。これで大歌群「何處え行く」は終わる。]

耳嚢 巻之八 長壽の人其氣質常に異なる事

 長壽の人其氣質常に異なる事

 

 寶藏院の鎗術を師とせる長尾撫髮は九十六にて物故(もつこ)なせしが、寒中も布子(ぬのこ)又小袖にてもひとつ着し、常住坐臥甚だ氣丈にて、死せる時も子共弟子家内の物と盃事(さかづきごと)いたし相果けるとなり。文化五年未(いまだ)存生(ぞんしやう)の由、松平出羽守家來にて、番頭を勤(つとむ)る荻野喜内は、いかなる譯哉(や)、鳩ケ谷出生の由、異名を鳩ケ谷天狗と唱候由。則(すなはち)文化五年八十八歳にて今以(もつて)丈夫成由。常に物の捨るを嫌ひ、道にぬぎ捨し草履を小者にとらせ右をつくろひ直して用ひける由。右は草(ざう)りに限らず、都(すべ)て捨れるもの不捨(すてず)といふ願の由、一奇人なりと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。

・「寶藏院の鎗術」既注であるが再掲する。奈良興福寺の僧であった宝蔵院覚禅房胤栄(大永元(一五二一)年~慶長一二(一六〇七)年)が創始した十文字槍を用いる槍術の一派。今は伝わらない(現在は宝蔵院流高田派の江戸に伝えられた系統のみが現存しているとウィキ宝蔵院流槍術にはある)。

・「長尾撫髮」「ブハツ」と音読みしておく。長尾資正。底本の鈴木氏注によれば、長宝蔵院尾流の鎗術家で、同流は宝蔵院宗家三代目覚舜坊胤正の門人長尾資政を始祖とし、撫髪は三代目とある。因みに、江戸後期の剣客で天真一刀流の祖である寺田宗有(延享二(一七四五)年~文政八(一八二五)年)はウィキ寺田宗有に槍術をこの長尾撫髪に学んで免許皆伝を得たという記事が載る。根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから同時代人で、長尾も本記事執筆(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)の直近まで存命であったと考えてよい。例えばこの文化五(一八〇八)年に亡くなったと仮定しても、その九十五年前は正徳二(一七一二)年で、ウィキによれば寺田宗有は十八歳で高崎藩に出仕、剣術を平常無敵流の池田八左衛門成春に入門、以後十二年間に亙る修行の末に谷神伝(こくしんでん)奥義を授けられたとあるから、彼が十八の時は、既に撫髪は五十歳、三十歳以降なら七十二歳超えとなる。

・「常住坐臥」底本には右にママ注記。この後は本当は正しくは「行住坐臥」(仏語で人の起居動作の根本の四威儀を指す)で、別な仏語で永遠不変を表わす「常住」と誤って混用した用法が慣用句化してしまったもの。

・「松平出羽守」松平斉恒(寛政三(一七九一)年~文政五(一八二二)年)。出雲松江藩第八代藩主。但し、文化三(一八〇六)年に家督を父から譲られたばかりで、この文化五(一八〇八)年当時は未だ満十七歳であった。

・「荻野喜内」底本鈴木氏注に、『名は信敏。字は求之、号は鳩谷。三百石。異風を好み高慢なため天狗と呼ばれ、自らも天愚斎と藤した。自ら誇称して、孔子六十五代の後裔孔胤椿の妾が明代に倭寇の捕虜なり、日本に来て出産した者の子孫であるとし、孔平といった(世に天愚孔子平といへど孔平は姓なり。三村翁)。文化九年百五歳であると自称し、同十四年没した。司馬江漢の『春波楼筆記』に、その容貌は乞食が帯刀したのに変らない。千金をたくわえ、漢籍にも通暁し、風流人の跡を弔うことと、自己宣伝を兼ねて、各所の神社仏閣に千社札を貼り歩く。その札に天愚孔平子としるしてあるといっている。千社札の鼻祖とされ、継竿の先に刷毛を付けて貼る仕掛けは、この人の工風であるという』とある。あまりに面白く興味深い注であるので、例外的に全文を引用した。本文の「文化五年八十八歳」が正しいとすると、生年は享保六(一七二一)年、この注の「文化九年百五歳」が正しいとすると、宝永五(一七〇八)年となるが、まあ、前者を採ることと致そう。それでも享年九十七ですから、ご満足でしょう、天愚斎殿?

・「鳩ケ谷」埼玉県鳩ヶ谷市。先の鈴木氏の注から見ても、鳩と自身の蔑称であった天狗とのミス・マッチを、奇人であった当の喜内自身が気に入って自称したものであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 長寿の人はその気質に於いて常人と異なる事

 

 宝蔵院の鎗術(そうじゅつ)の師で御座った長尾撫髪(ぶはつ)殿は、九十六歳にて物故(ぶっこ)致いたが、寒中でも布子又は小袖にても、ただ一枚を着すのみにて、行住坐臥、背筋をぴんと伸ばして頭脳明晰、すこぶる気丈にて、死したる際(きわ)も、子供・弟子・家内の者一人ひとりと、別れの盃(さかずき)の儀を、これ、整然と漏るることなく、相い行(おこの)うた後、端然と亡くなられた。

 文化五年の今も、未だ存生(ぞんしょう)なる、松平出羽守殿御家来にて、番頭を勤むる荻野喜内殿は、如何なる訳か、鳩ヶ谷の出生なればとて、異名を御自身、「鳩ヶ谷天狗」と唱しておらるるよし。則ち、文化五年の当年とって、八十八歳にして、今以って丈夫ならるる由。この御仁、何につけても、物を捨つるを嫌い、道にぬぎ捨てられたる使い古しの草履は小者に拾わさせて、これをつくろひ直させて用いておらるると聴く。これは一つ草履に限らず、『総ての世に捨つるものをば、我ら、一切捨てざる』と申す、奇なる願いを立てたればなりと申さるる由。さても、これ、一つの奇人で御座る、とは人の語った話で御座る。

2014/07/18

どゞのつまり   山之口貘

 どゞのつまり

 

みんながそこまで

のがれては来たものゝ

まへは水

うしろが火なのだ

引返すことも出来なければ

飛び込むことも出来なかったのだ

そこでかれらはどゝのつまりを

天に向つて

のがれようとしては

引返すみたいに跳ねかへつたり

天に向つてのがれようとしては

飛び込むみたいに

 落つこちてしまつたのではなからうか

火ぶくれになつて

ころがつてゐえゐる死

水ぶくれになつて

浮いてゐる死。

 

[やぶちゃん注:本詩は思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題の考証によれば未発表である可能性が強いとされ、創作は昭和二七(一九五二)年頃とされている(詳細は当該書を参照されたい)。それによればバクさんは本篇を当初は詩集「鮪に鰯」に収録することを考えていたようである。

 「どゞのつまり」は、通常、「とどのつまり」で、いろいろやってみた結果・結局。畢竟の意で、多くはその最終容態が実行者や観察者にとって思わしくなく比較上では悪い状態である場合に用いる語であるが、小学館「日本国語大辞典」では、名詞「とど」の見出しの連語の「とどのつまり」の小見出しの直下に『「どどのつまり」とも』と注記し、最後の同発音の項に『〈なまり〉ドドノツマー・ドドノツマリ・ドンドノツマリ〔鳥取〕ドドンツマリ〔対馬〕』と注記する。因みに語源は『トドは、魚のボラが幼魚の時から順次名を変える最終の呼び名である』ことによると記す。よく知られるように条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ Mugil cephalus は出世魚で、地域差があるが例えば関東方言では成長の順に、

 オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド

と変化する。詳細は私の電子テクスト寺島良安和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚の「ぼら なよし 鯔」の私の注を参照されたい。

 戦後の詩であるから、東京大空襲や広島・長崎の原爆被災(特に広島の)を想起させる詩であるが、私には強烈に、俳人富田木歩の死がフラッシュ・バックし(私の評論イコンとしての杖――富田木歩偶感――を是非、参照されたい)、直ちに関東大震災の際の実体験の惨状まで遡ったバクさんの、天災と戦争という人災のカタストロフの、「どゝのつまり」の人間の凄惨な死の様態をつらまえた恐るべきリアルな実感にまで淵源を遡れるもののように思われてならない。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 1 函館にて(Ⅰ)

 第十四章 函館及び東京への帰還
M422
図―422
 函館へ帰ってから数回、津軽海峡へ曳網旅行に出かけた。一度は素略しい弁当、バスのエール、その他いろいろなうまい物を持って、一日がかりで出かけた。ある地点で高嶺と私とは、六マイルばかり離れた海角にある古代の貝墟を、歩て見に行く為に上陸した。我々は遠か向うに我々の小さな蒸気船を見ることが出来たが、目的の海角に着かぬ前に疾風が起り、我々が腕の痛くなる程ハンカチーフを振ったにも拘らず、彼等は我々を見出すことが出来なかった。我々は船が我々を十五マイルの遠方に残して函館へ向うのを、空しく見送らねばならぬ、悲惨な状態に陥った。小さな漁村で、我々は船の上にある御馳走のことを考えながら、一塊の水っぽい魚の羹(あつもの)と、貧弱な米の飯とを食った。ここで土着の鞍をつけた駄馬を二頭やとったが、実に我慢出来ぬ鞍なので、時々下りて歩き、夜に入ってから疲れ切って、びっこを引き引き、函館へ着いた。途中、例の噴火山が非常に立派に見えたが、その輪郭は函館から見るのとまったく違う。噴火口の形は明瞭に見わけられ、斜面は淡褐色で、美しく日に輝いていた。図422はその外見を、簡単に写生したものである。
[やぶちゃん注:「バスのエール」原文は“Bass's ale”。底本では直下に石川氏の『〔一種の麦酒〕』と割注する。これは“BASS PALE ALE”(バス・ペール・エール)でイギリスのバス社製のエール、上面発酵のビール。ウィリアム・バス(William Bass) が英国中部で創業した古参のビール会社である。グルメ情報サイトの『明治時代の日本にも輸出されていた「バス」』によれば、ナポレオン・エドガー・アラン・ポーが愛飲、かのタイタニック号の処女航海には五百ケースのバス・ペール・エールが積み込まれていたとあり、『明治時代にバス・ペール・エールを輸入していたという記録が残ってい』るとある。
「六マイル」約九・七キロメートル。
「海角」原文は“point”。岬。突端。
「十五マイル」約二十四キロメートル強。
「例の噴火山」有珠山。識者ならば以上の距離と山容(現在とは異なるが)から見て、モースと高嶺が置き去りされた場所がある程度、特定出来ると思われる。よろしく御教授をお願い申し上げる。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 40 新庄 風の香も南に近し最上川

本日二〇一四年七月十八日(陰暦では二〇一四年六月二十二日)

   元禄二年六月 二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月十八日

である。新庄二日目。この日、芭蕉は渋谷風流の兄で問屋業を営む商人で城下一の豪商渋谷九郎兵衛盛信に招かれ、風流宅の斜向いのその豪邸に於いて七吟歌仙「御尋に」の巻と以下の句を発句とする芭蕉主催の三つ物をものした(後者は前日の風流主催のそれへの返礼)。

 

  盛信亭

風の香も南に近し最上川

 

[やぶちゃん注:「曾良俳諧書留」。三つ物を示す。

 

  盛信亭

風の香も南に近し最上川  翁

  小家の軒を洗ふ夕立  息 柳風

物もなく麓は霧に埋て  木端

 

主人盛信は俳諧を嗜まなかったので歌仙にも参加していないが、そのホスト代役として盛信の「息」子の柳風(仁兵衛)が脇を、第三を地元の俳人木端(小村善衛門)が付けたものである。

 山本健吉氏は「芭蕉全句」で、『この句の季題は「風薫る」。『増山の井』』(ぞうやまのい:俳書(季寄せ)。北村季吟著。寛文三(一六六三)年刊。)『に「風薫(かおる)」を録して「南薫(なんくん)。六月にふ涼風也。薫風自南来(みなみよりきたる)と古文真宝前集にいへり」と説いている』とある。この「薫風自南来」は寧ろしばしば禅語として目にするもので、そこでは例によって「くんぷうじなんらい」と棒読みする。この語は唐代の文宗が作った「人皆苦炎熱/我愛夏日長」(人 皆 炎熱に苦しむも/我 夏日の長きを愛す)の句に文人柳公権がつけた「薫風自南來/殿閣生微涼」(薫風 南より來たり/殿閣 微涼を生ず)の七絶の転句である。

 山本氏は先の引用部に続けて以下のように本句を評しておられる。

   《引用開始》

「風の香も南」と言って、この南薫を意味している。新庄は、最上川より大分北になるので、芭蕉は南からの風に最上川の水辺の匂いを感じ取ったのである。近々と最上川が感じられることを、盛信への挨拶とした。大国に入っての挨拶句の格をはずしていない。同じ日、盛信亭での歌仙の脇句に、芭蕉は「はじめてかほる風の薫物」と作っていて、「風薫る」の季題にひどく執著している様子が見える。

   《引用終了》

因みに、この七吟歌仙「御尋に」の巻の方の発句は風流の「御尋に我宿せばし破れ蚊や」である。

 以上の山本氏の指摘は例えば、明日示す、この翌日六月四日の句である「奥の細道」にも載るそれが、

 

有難や雪をかほらす南谷(みなみだに)

 

であることからもすこぶる首肯出来る。]

2014/07/17

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 39 新庄にて 水の奥氷室尋ぬる柳哉

本日二〇一四年七月十七日(陰暦では二〇一四年六月二十一日)

   元禄二年六月 一日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月十七日

である。この日、芭蕉は大石田を発って新庄に到着、尾花沢で知遇となった豪商渋谷風流(甚兵衛)の邸宅で歓迎の宴が催された。恐らく以下の句以下の「水の奥」を発句とするの「三つ物」(連歌・俳諧で発句・脇句・第三の三句を指し、早くからこの三句だけを詠む形式が好まれた。特に近世以降は歳旦の祝いとしてよく詠まれた形式である)はその席上で読まれたものと推定される。

 

  風流亭

水の奥氷室(ひむろ)尋(たづぬ)る柳哉

[やぶちゃん注:「曾良俳諧書留」。以下、これを発句とする「三つ物」。

 

 風流亭

水の奥氷室尋る柳哉     翁

  ひるがほかゝる橋のふせ芝  風流

風渡る的の變矢に鳩鳴て     ソラ

 

新庄には翌日も新庄に滞在、その翌六月三日(新暦七月十九日)に現在の山形県新庄市大字本合海(もとあいかい)に向けて発っているが、本「三つ物」がものされたのがこの日に比定出来るのは、芭蕉の発句に詠み込まれた「氷室」に依拠する。この旧暦六月一日は「氷室の節句」「氷の朔日」に当っているからである。これは奈良時代の古えからこの日に前年の冬に氷室に貯蔵しておいた雪氷を食す習慣に基づくもので、庶民の間では高価な氷の代わりに前年十二月の水で製した「凍り餅(氷餅)」や「欠餅(かきもち)」をこの日に食して暑気払いや夏の厄除けとしたのであった。時候を押さえた心憎い挨拶句であるからこそ比定の有力な証左となるのである。因みに曾良の第三の「變矢」は「へんや」で尾羽を彩色などした変わり矢羽根のことか。

 山本健吉氏の指摘するように、実際にそんな氷室が風流亭の奥にあったわけではなく、そのような幽邃な邸を讃える全くの想像吟であったと考えてよかろう(但し、私は実際に氷室の氷が食膳に供された可能性はあると考えている)。なお諸本の指摘にもある、芭蕉が羽州街道を新庄城下に入った際、そこにあった「柳の清水」(昭和初期までは湧水として知られた)で清涼な冷「水」を掬したものと考えてよく、その「柳」をも添えて亭主を含む土地の自然をも言祝いだのだとすれば万全の句とも言えよう。「氷室」には無論、主人の富貴も匂わせてある(そう考えると氷若しくは氷を用いた冷やし物が実際に膳に出ていなければ厭味にもなり、挨拶吟として機能しなくなると私は思うのである)。]

2014/07/16