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2014/07/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 2 函館にて(Ⅱ)

M423
図―423

M424

図―424

 

 図423は前面から見た我々の実験所の、又別の写生図である。我々は、海峡を越え、青森から東京迄十二日かかる長い旅に出る準備として、今や荷物をまとめつつある。図424は私が函館へ来てから住んでいる家を示す。隣にはお寺の門がある。人々が礼拝のために門を入ったり、あるいは入口の前を通る人が、礼拝のために頭を下げたりするのを見ては、興味深く感じた。今日私は娘達や子供達がいい着物を着、沢山の花、殊に螢袋(ほたるぶくろ)の一種が町へ運び込まれるのに気がついた。夕方には多くの人が、お寺に入って行った。私も寺の庭に入り、人々が広い段々を登るのを見た。老人や若い人が、先ず荷厄介な木の履物を、段段の下で脱いで上って行くのは、気持がよかった。上へ登り切ると、美しい着物を着た彼等の姿が、寺院内部の暗黒に対して、非常にハッキリ見られた。この光景を楽しみつつ家へ帰るとデンマーク領事のディーン氏が廊下から私に向って、まだまだ見るものは残っている、寺院の裏の丘にある墓地まで行って見給えと叫んだ。寺の構内をぬけて上の方の、高い杉の壮厳な林の中にある墓地までの路は面白かった。ここで人々は死者にお供物を捧げていた。先ず墓石の前の地面を平にし、持って来た奇麗な砂を撒きひろげ、その上に、小さな花生けのように立つ竹筒に、花を入れた物を置くと共に、赤味がかった煎餅若干も置くのだが、中にはとても素敵な御馳走もあった。一人の老婆が祈禱をつぶやきながら、石碑の周囲を平にし、花をいくつか、趣深く配置するのに没頭している。巨木の静寂な影、四角くて意匠の上品な灰色の石、奇怪麗な蝶々のように飛び廻る美装の子供何百人……それはまこと匠心を魅するような景色であった。これ等の人々もまた彼等の宗教を持っており、彼等が天主教徒と同様に熱心に祈り、その信仰の程度は天主教徒よりも深くさえあることを発見するのは、興味があった。朝、五時と六時との間に、必ず礼拝が一回行われ、この早朝の弥撒(ミサ)は、老いさらばえた男女が、頑丈な親類の者に背負われて来る。往来では、寺院の前を過ぎると、人々は常に非常に低くお辞儀をし、祈りを唱える人も多い。

[やぶちゃん注:「我々の実験所」その後のネット検索によってモースが実験所を置いたのは、函館市中央図書館公式サイト内の「はこだて人物誌」の「エドワード・シルベスター・モース」に、『函館における博士の生物学研究は、当時の「函館船改所(現・函館市臨海研究所)」の一部を借用して行われた』(現在の函館市大町13番1号)とあり、同研究所の紹介記事(PDFファイル)によれば、ここの二階にラボがあったことが分かった(一部情報では四百メートルほど東北方向にある現在の海上自衛隊函館基地隊本部のある北海道函館市大町10番3号であったとするが採らない)。

「私が函館へ来てから住んでいる家」既に本文でも函館到着後に滞在中の世話をした役人が、『西洋館に住んでいるデンマーク領事の所で、我々のために二部屋を手に入れたと報告した』と出るように、後に『家へ帰るとデンマーク領事のディーン』が誘いをかけるとあるようにここはこの『ディーン』の家である(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」でも『ディーン』とするが、事実は「デュース」が正しい。彼については後注する)。問題はこれが何処にあったかであるが、ネット検索ではよく分からない。そこで一つの推論を立ててみた。彼が当初、イギリス人扱いであり、しかもイギリス領事ヴァイスが詳細な報告の中に彼のことを記しているとすれば、彼の常勤先は当時のイギリス領事館の一室ではなかったか、そうしてそこに併設する形かすぐ近くに、モースの言う『西洋館』はあったのではないか? 函館市旧イギリス領事館(現在の開港記念館)は現在の函館市元町3314にあった(引き続き、次注を参照されたい)。

「隣にはお寺」函館ホテル旅館協同組合の「はこだて幕末・開港マップ」を見ると、函館山の麓にある浄玄寺(現在の東本願寺函館別院)安政四(一八五七)年にアメリカ貿易事務官ライスの仮止宿所となったとあり、その西に隣接する称名寺という寺は二年後の安政六年にイギリス領事館として貸与されたとある(イギリス領事はフランス領事も兼ねたと記す点に注意)。大谷派函館別院船見支院は現在の函館市船見町1820、称名寺は同船見町1814である。ここだとまさに本文の叙述によく一致するし、少なくとも来日した頃のデュースはこの両寺の孰れか(称名寺か?)に隣接する場所に居住していたと考えてよいであろう。因みに北海道大学付属図書館の「北方関係資料総合目録」に「イギリス商人(?)J.H.デュースへ箱館港の地所145坪貸渡証書(和文原本) / 箱館奉行小出大和守」という文書を見出せるが、私の能力ではよく判読が出来ず、場所がよく分からない。これはずっと後の慶応四(一八六八)年四月のものでもあり、住居ではなく、商業用施設なのかも知れない(無論、これがモースが滞在した当の場所である可能性もある)。郷土史研究家のご援助を切に乞うものである。因みにもうおわかりのことと思われるが、モースの二度目の函館での滞在は八月四日夜から十七日の朝までであった。モースが見た驚くべき数の人々の墓参りはまさに盂蘭盆の中日の光景だったのである。

「デンマーク領事のディーン氏」原文は“Mr. Dean, the Danish consul,”であるが彼の名は“John H. Duus”で「デュース」が正しい。「函館市史 デジタル版」のイギリスとの通商についての記載中に以下のようにある(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

在函のイギリス領事が各年の報告の中で個々の動向を報告している。断片的なものではあるが、これまであまり知られていないことなのでそれを中心にみてみよう。

 まず居留商社の動きに関する記事としては文久元(1861)年のエンスリーの報告にデント商会とリンゼー商会が安政6年の終わりから上海に向けて大量に木材輸出したが損失を被ったことを伝えている。リンゼー商会は先に述べたようにアストンが代理人であったが、文久元年にJ・H・デュースがアストンに変わって代理人となった(文久元年「各国書翰留」道文蔵)。ちなみにデュースはデンマーク国籍であるが来函時にはイギリス人の扱いとなっている。これはデンマークとの通商条約が締結されていなかったためである。文久2年に関するヴァイス[やぶちゃん注:当時の英国領事ヴァイス(Francis Howard Vyse)。]の報告では同年にクニッフラー商会と呼ばれているプロシアの商社の代表者C・ゲルトナーが貿易の目的のために来函したとある。ちなみにこのゲルトナーとは日本側史料にガルトネルとある人物であり、その後プロシア領事となる。R・ゲルトナーはその兄弟である。クニッフラー商会は『横浜毎日新聞資料集』によれば日本における最初のドイツ商社の1つであり、安政6年に拠点のバタビアから長崎に進出し、横浜には文久元年に出店するに至った。同商会は明治13年にイリス商会(C.Illis & co)と改称して今日に至っている。ちなみにイリス商会は明治20年代の函館の水道工事用資材の受注している。慶応元(1865)年のヴァイスの報告には清国において多くの商社が失敗し、それは函館の外国商社にも少なからず影響を与えたにもかかわらず函館の輸出は増加をみせたが、そのなかでもリンゼー商会が大量に輸出したことを述べている。

   《引用終了》

則ち、彼は領事とはいうものの、その実態はやり手の商人でもあったことが分かるのである。同じ「函館市史」の前ページの「表6-23 幕末から明治初期の外国居留人(商業関係)」では、彼を一貫して肩書を『貿易商』『貿易業』と記している。

 

 因みに、「函館市公式観光情報」の「あさり坂」に『1878(明治11)年に来函したイギリスの地震学者ジョン・ミルンと、アメリカの動物学者エドワード・モースらが、函館在住のイギリス商人トーマス・ブラキストンと協力し、市中で貝塚を発掘しました。貝塚からは古代人が食べたと思われるアサリの殻が多く見つかったため、この付近を通っていた坂の名前に「あさり」を取り入れた』とある。この「あさり坂」は現在の函館市宝来町にあり、ここは函館でも西方に位置する。この事蹟は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には載らないが、モースが函館で成した考古学上の大きな業績の一つと考えねばならないが、何故か、モースは一言も述べていない(これはもしかすると以前に日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 23 丘からの眺めの注で記したようにミルンとの間にあった大森貝塚人論叢のしこり(後年、本書刊行の前に和解はしているが)が記憶の底にあったからではなかろうか? ミルンの事蹟についてもリンク先を参照されたい)。そこで矢田部日誌を見ると、一つ、引っ掛かる以下の記載を見出せるのである。八月四日にモースは函館に着いたが、『それから二週間近く、連日のように函館周辺でドレッジを試み、腕足類を得て研究に専念した』(磯野氏前掲書)。その八月十二日と十四日の記載である。

   《引用開始》[やぶちゃん注:例によって恣意的に正字化してある。]

○十二日 「函館山ノ西方ヘマリイス氏ト共上ル。又同氏案内二テ古土器ノ出ル処こ至ル。モース氏高嶺掘テ土器ノ片ヲ多ク得タリ。昨日他ノ一所ニテモース高嶺余ト共ニ土器ノ片、鹿骨ナドヲ掘リ出セリ。此皆介殼丘ナリ」

○十四日 「モース其外土器ヲ掘リニ出ツ」

   《引用終了》

これによって、十一日と十二日は別な場所で土器の発掘を行ったことが分かるが、そこでは矢田部と高嶺の他に「マリイス氏」なる人物が同行している。『函館山ノ西方』というのが、現在の「あさり坂」の位置と完全に一致すること、「マリイス氏」という表記が何となく、ジョン・ミルン(John Milne)の姓と似ていることから、私はこの十二日にモース・ミルン・矢田部・高嶺の四人が「あさり坂」附近で有意の数の土器片を発掘、それに気をよくしたモースは、ミルンの他に当地で既に博物学研究家として知られていたブラキストン(Thomas Wright Blakiston:言うまでもなく津軽海峡における動物学的分布境界線ブラキストン・ラインを指摘した彼である。彼は当初は木材貿易のために函館に来、友人とともに設立したブラキストン・マル商会で貿易商として働いていた。ここはウィキトーマス・ブレーキストンを参照した)を誘ってこの八月十四日に再度、「あさり坂」貝塚を発掘したのではなかったか? 矢田部日誌の『モース其外土器ヲ掘リニ出ツ』の『其外』がまさにミルンとブラキストン(二人はイギリス人)で、『出ツ』から矢田部は同行していないことが分かる。ミルンとブラキストンの二人はイギリス人で、しかもブラキストンは長く函館に滞在しているから土地勘も十分にある。日本人を気にせず、英語で気楽に会話で来る三名(発掘品を運ぶための人夫はいたかも知れない)だけで行ったとしても不自然ではない。矢田部の日誌はそうした印象を十分に与えるもののように私には読めるのである。]

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