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2014/07/31

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 15 北上川舟下りⅢ

M442

図―442


M443

図―443

 

 翌朝我々は元気よく、夙く起き、そして気持のよい景色や、河に沿うた興味のある事物を、うれしく眺めた。馬の背中や人力車の上で、この上もなく酷い目にあった我々にとっては、こづかれることも心配することもなく漂い下り、舟夫達や、河や、岸や、その向うの景色を見て時間をつぶすことは、実に愉快であった。間もなく薬鑵の湯がたぎり、我々は米と新しい鱒とで、うまい朝飯を食った。図442は船上の我々の炉、図443は舟夫の二人が飯を食っている光景を髣髴(ほうふつ)たらしめんとしたもの。

M444

図―444


M445

図―445


M446

図―446

 

 河上の景色は美しかった。一日中南部富士が見えた(図444)。我々は筵の下でうつらうつらして、出来るだけ暑い太陽の直射を避けた。飲料水とては河から汲むものばかりで、生ぬるくて非常にきたなかった。図445は船尾から見た我々の舟である。帆は上述した通り、かなりな間隙をおいて布の条片をかがったものであること、写生図の如くである。この河の船頭の歌は、函館の船歌によく似ている。図446は、フェノロサ教授が、その歌を私の為に書いてくれたもので、最初の歌は函館の歌、次の節は北上川の舟夫が歌う、その同質異形物である。時々舟乗が魚を売りに来たが、取引きをしながら、我々は一緒に、下流へ押し流される。図447は我々の舟の舟夫が漕いだり、竿で押したりしている所である。図448は、航行三日目における舟夫の一人を写生したもの。丁髷(ちょんまげ)が乱れて了い、彼はそれを、頭のてっぺんで束にして結んだ。剃った脳天と顎とには、新しい毛がとげのように生え、鼻は日に焼けて非常に赤い。彼は上陸すると先ず床屋を見つけ出し、剃刀を当てて貰い、丁髷の復興建築を行うことであろう。図449は河舟の別の型式で、底が平く、船尾は広い荷船である。この舟は遡行中で、船尾の下にいる男は、舟を砂洲から押し出しているのである。

M447

図―447

M448

図―448


M449

図―449

 

[やぶちゃん注:図446の楽譜を楽譜演奏ソフトに打ち込んで聴いてみたが、孰れも私の耳に馴染みがない。もし現存するか類似に舟唄があれば、是非とも御教授を乞うものである。

「フェノロサ」既注であるが再掲しておく。東洋美術史学者で、モースが招聘した当時の東京大学文学部政治学及び理財学教授アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa 一八五三年~一九〇八年) はアメリカ合衆国マサチューセッツ州セーラム生まれ。ハーバード大学で哲学を学び、一八七四年に首席で卒業、二年後に同大学院修了後、一八七七年にボストン美術館付属美術学校で油絵を学んでいた。モースの推薦で明治一一(一八七八)年八月九日附で東京大学に迎えられた彼は、二年後の明治十三年度からは哲学・理財学・論理学担当に変わった。彼の政治学講義は社会有機体説を提唱したハーバート・スペンサーの学説が中心で、当時の自由民権運動の思想的支柱として少なからぬ影響を及ぼし、哲学講義ではヘーゲルなどのドイツ哲学を初めて本邦に紹介した功績が挙げられる。また、来日後間もなく、彼は日本美術に並々ならぬ関心を寄せ、その収集と研究を開始(以前にも注したが、これもモースの陶器収集に触発されたものともいう)、狩野友信・狩野永悳(えいとく)に師事して鑑定法を学んだ。フェノロサの鑑定力は人々に大きな驚きを与えたようであり、後に永悳から「狩野永探理信」という画名をも受けている。一方、日本美術の復興を唱え、明治一五(一八八二)年に龍池会(財団法人日本美術協会の前身)で「美術真説」という講演を行い、日本画と洋画の特色を比較する中で日本画の優秀性を説いて日本美術界に大きな影響を及ぼしてもいる。明治十七年には自ら鑑画会を結成、狩野芳崖・橋本雅邦らとともに新日本画の創造を図った(これらの作品はフェノロサ自身の収集によって現在ボストン美術館・フィラデルフィア美術館・フリーア美術館などに収蔵されている)。 同年に図画調査会委員となって以降、美術教育制度の確立にも尽力、明治二〇(一八八七)年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)を設立(開校は明治二十二年)、同校では美術史の講義を行い、これが本邦初の美術史研究の濫觴となった。古美術保護にも尽力する一方、仏教にも傾倒、明治一八(一八八五)年にはビゲローとともに天台宗法明院(三井寺北院)で桜井敬徳師により受戒、「諦信」の法号も受けている。明治二三(一八九〇)年に帰国してボストン美術館中国日本美術部主任となったが、六年後に辞任、その後も数度来日している。一九〇八(明治四十一)年、ロンドンの大英博物館での調査中に心臓発作で客死した。当初、英国国教会の手によりハイゲート墓地に埋葬されたが、フェノロサの遺志によって火葬された後に日本に送られ、大津の法明院(三井寺(園城寺)寺塔頭で滋賀県大津市園城寺町にある)に改めて葬られた。近代日本での華々しい功績とは裏腹に、フェノロサの後半生は必ずしも恵まれたものではなかった(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「アーネスト・フェノロサ」とを比較参照しつつ、より正確と思われる記載を探り、それに「磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」のデータを加えたものである)。しかしこの譜面、どう考えても、東京に戻ったモースが思い出して唄ったものを、フェノロサが採譜した以外にはちょっと考えられないわけで、原曲とは――モース先生の声楽の才を疑う訳ではないのですが――かなり違っているのではないでしょうか?……]

M450

図―450


M451

図―451

 

 ある場所で我々は絶壁の下で太陽が照りつけるのもかまわず、陸産の螺(にし)をさがす為に上陸し、そして短い間に、我々がそれ迄に採集したことのない新種を八つ見つけた。このような絶壁に、漁師は屯所を設ける。この屯所に使用する小舎(図450)は、河から三十フィート向い所にあり、漁夫は長い繩で網を引上げ、魚が入っているか否かを見る。実にお粗末極まる小舎にまで、梯子(はしご)がかけてある。図451は網の一つの形式を示す。河の全長にわたって、このような漁屯所が見られる。

[やぶちゃん注:「陸産の螺」原文“land snails”。基本的には海産・淡水産を除く腹足類の、有肺類・カタツムリ・キセルガイ・ナメクジ等を広範に含む謂いである。

「三十フィート」九メートル強。

「屯所」「漁屯所」原文は“station”と“fishing stations”。魚群を探るためのそれならば魚見台であるが、これは図から明らかなようにそれではなく、そこで四手網を操作して直に魚を釣る施設である。岡山県南部の児島湾沿岸に今も残る四手網漁ではこの小屋を四手網小屋と呼んでいる(きよくらならみ氏のブログ「きよくらの備忘録」の「児島湾岸の夏の風物詩、四手網」を参照)。他に鳥取県東伯(とうはく)郡湯梨浜町(ゆりはまちょう)の汽水湖東郷湖にも残るが、このような断崖絶壁タイプのそれではなく、海や湖に張り出した小屋である。ただ私はこのようなタイプのものをかつて何処かで見た記憶があり、それは確かに東北南部(但し、海岸線であったように思う)であったように記憶する。識者の御教授を乞うものである。]


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図―452

M453

図―453

M454

図―454

 

 仙台湾に近づくにつれて、河幅は広くなり、流れはゆるく、きたならしくなった。航行の最後の日には、水を飲むことが容易でなかった。沈渣(おり)が一杯入っていたからである、河岸では人々が、布や、自分等の身体やを洗っていた。鳥が如何に人に馴れているかを示す、小さな写生図が一つある。女が一人、舷によって、見受けるところ魚を洗っていたが、そこから数フィートはなれた所に鳥が一羽、舷にとまって、女のすることを見ていた(図452)。河口に近づくと、風が吹き上げ始め、舟夫は岸へ上って数マイル間舟を曳いた(図453)。これをやるのに彼等は檣(マスト)を立てそのてっぺんに繩を結ひつけ、そして舟を引張った。舟夫の一人は舟に居残り、長い竿を使用して、舟が岸にぶつかるのを防いだ。三日間も船中に立て籠り、その間の多くを居眠りしたり寝たりしたというのは、まことに懶惰なことであった。写生図454では、一行中の一人が、蚊をよける為に、顔に紙をかぶせている。

[やぶちゃん注:図453はちょっと分かり難い。陸に上がった船頭らが引く曳き繩の線が三本ともちょっと向こうへ向いているように見えてしまうからである。老婆心乍ら、一言いっておくと、この途切れた曳き繩の先は画面の手前にある描いているモースが載った船の画面右手前に存在する当の舟の帆柱の先に実は繋がっているのである。]

 

 このような緩慢な河旅を数時間続けた後に、我々は時間を節約するため、最初の村で上陸し、仙台まで人力車で行くことに決定した。これは結局よいことであった、というのは、我々が入り込んだ村では、外国人を見る――もしそれ迄に外国人が来たとすれば――ことが非常に珍しいに違いなかった。人々は、老幼を問わず、大群をなして我々の周囲に集り、我我が立ち寄った旅籠屋では、庭を充し、塀に登り、まるで月の世界からでも来た男を見るように、私を凝視した。時に私は彼等に向って突撃した。これは勿論何等悪意あってやったのではないが、彼等は悪鬼に追われるように、下駄をガラガラいわせて四散した。我々が人力車で出立した時、彼等は両側に従って、しばらくの間、最大の好奇心と興味とを以て私を眺めながら、ついて来た。

[やぶちゃん注:「最初の村」現在の宮城県石巻市鹿又。]

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