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2014/07/25

飯田蛇笏句集 山響集 電子化始動 / 昭和十一年(全)

飯田蛇笏句集「山響集」の電子化を開始する。

 

[やぶちゃん注:「山響集」は「こだましふ(こだましゅう)」と読む。飯田蛇笏が先に電子化した第二句集「靈芝」に次いで昭和一五(一九四〇)年十月三十一日に河出書房より刊行した第三句集である。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリー版を視認したが、ポイントの違いは原則、無視した。ルビは( )で示した。底本では上部左(右)頁でそれぞれ左(右)インデントで年号と季節が示される(右書き)という変わった趣向を持つ。それぞれの頁の頭にあるが、変化する頁の最初の句の前にそれを〈 〉で配しておいた。]

 

句集

山響集

飯田蛇笏

 

河出書房

 

[やぶちゃん注:扉。底本では右書き。「河出書房」は下インデント。次に目次が入るが省略する。]

 

句集 山響集(こだましふ)   飯田蛇笏

 

   昭和十一年

 

〈昭和十一年・春〉

 

水神をまつる日虧けて夏隣

 

〈昭和十一年・夏〉

 

つりそめて水草の香の蚊帳かな

 

かたつむり南風茱萸につよかりき

 

荼毘のあと炭いつまでも藜草

 

[やぶちゃん注:「藜草」は「あかざぐさ」と読んでいるか。ナデシコ目ヒユ科Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ Chenopodium album変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum 。春から初夏にかけて若葉や中心部の芽が赤紫色となり、初夏には淡緑・紅紫の小花を房状につける。]

 

聖母(マドンナ)に灯し紫陽花こゝだ插す

 

[やぶちゃん注:「こゝだ」副詞。沢山。大層。甚だしく。漢字では「幾許」と書く。「ここば」とも。万葉以来の古語。]

 

空梅雨に衷甸(ばしや)みどりなる耶蘇詣で

 

[やぶちゃん注:「衷甸」は二頭立ての馬車を意味する漢語。音は「チュウデン」で「甸」は「乗」と同義(そのせいか「チュウジョウ」と誤読する表記を見かける)、「衷」は中央の意か。元は貴人の乗る馬車を指す。]

 

   御嶽昇仙峽

 

打水す娘に翠巒の雲ゆけり

 

[やぶちゃん注:「御嶽昇仙峽」秩父多摩甲斐国立公園に属する名勝昇仙峡の正式名。甲府盆地北側山梨県甲府市の富士川支流である荒川上流に位置する渓谷。長潭橋(ながとろばし)から仙娥滝までの全長約五キロメートルに亘る渓谷で奇岩多く、特に十一月頃の紅葉が美しいことで知られる(ウィキの「昇仙峡」に拠った)。]

 

〈昭和十一年・秋〉

 

毬栗のはぜかゞりゐる八重葎

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「はぜ」は「爆(は)ず」で]草木の実などが熟しきって裂け飛び散る、はじけるの意の「爆(は)ぜる」の文語。]

 

秋雞が搏ちまろがせる狗(こいぬ)かな

 

秋雷に首さしのべて塒雞

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「塒雞」は「ねぐらどり」と読む。]

 

夜も撞いて江湖の鐘や鰯(いわし)雲

 

    註――江湖會

 

[やぶちゃん注:「江湖」=「江湖會」は「がうこゑ(ごうこえ)」と読み、禅宗寺院で修学参禅の僧を集め、夏安居(げあんご:単に「安居」という。元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺院。)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。因みに安居の開始は結夏(けつげ)、終了は解夏(げげ)と称する。雨安居(うあんご)ともいう。ここは平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした。)を行うことをいう。]

 

   箱根賽の河原にて

 

曾我の子はこゝにねむりて鰯雲

 

[やぶちゃん注:「箱根賽の河原」現在、双子山山麓箱根神社の芦ノ湖畔元箱根の入口に建つ一の鳥居の傍らにある。この地は神仏習合の江戸時代まで地蔵信仰の聖地として信仰を集め、かつての芦ノ湖畔には至るところに供養のための夥しい石仏や石塔が並んでいたというが、明治の廃仏毀釈によって現在のように纏められ、矮小化されてしまった。箱根町史跡とされ、伝曽我兄弟の墓と伝える日本最古とも言われる五輪塔二基があるものの、同神社(曽我神社として後掲する曽我兄弟を祀っているにも拘わらずである。但し、同神社の曽我兄弟祭祀は江戸の正保四(一六四七)年、小田原城主稲葉美濃守正則の造営になる新しいものである)の公式サイトにさえ記されていない。

「曾我の子」仇討ちで知られる曽我兄弟。弟の曽我五郎時致(ときむね)が箱根権現(箱根神社の旧称)の稚児であった関係から、賽の河原伝兄弟の墓とするものが現存する。傍らにやや小さな同形の五輪塔があり、こちらは兄の曽我十郎祐成の思い人であった虎御前の墓とも伝える(グループ東海道53コム制作のサイト「夢出あい旅 サイバー五十三次」の「曽我兄弟の墓と賽の河原」で写真が見られる)。但し、伝承に過ぎず、供養塔の可能性はあるが墳墓とは思われない。彼らの墓地としては千葉県匝瑳(そうさ)市匝瑳地区山桑に伝わる曽我兄弟の墓の方がまだ信憑性がある(リンク先は匝瑳市公式サイト内)。但し、ネット上の情報では賽の河原に現在残っている石仏石塔群の中には鎌倉後期までは遡れるものが認められるようである。]

 

艇庫閉づ秋寒き陽は波がくれ

 

  北巨摩古戦場耳塚原 二句

 

巖温くむら雨はじく秋日かな

 

[やぶちゃん注:「北巨摩古戰場」「耳塚原」ともに不詳。個人サイト「城と古戦場」の「山梨県の城」には、谷戸城(北巨摩郡大泉村谷戸。武田氏滅亡後に徳川家康と北条氏直との覇権争いに利用される)・若神子城(北巨摩郡須玉町若神子。武田信玄が佐久進軍の際に、幾度もここに宿を置いた)・獅子吼城(北巨摩郡須玉町江草。武田信虎の甲斐統一の仕上げの山城)の三つが北巨摩郡としては載る。リンク先の各解説を読むと、獅子吼城のそれが凄絶な戦場の雰囲気を伝える。「耳塚原」も固有名詞と思われるが、検索に掛からない。用年研究家の御教授を乞うものである。

 老婆心乍ら、「温く」は「ぬくく」と読む。]

 

雷遠く雲照る樺に葛咲けり

 

   信濃白骨行

 

温泉(でゆ)ちかき霽れ間の樺に秋の蟬

 

〈昭和十一年・冬〉

 

花金剛纂(はなやつで)焚火に燻(く)べて魚香あり

 

[やぶちゃん注:「花金剛纂」セリ目ウコギ科 Aralioideae 亜科ヤツデ Fatsia japonica の枝分かれした小さな毬状の白い花を指す。「金剛纂」は漢名。熟した実は堅いことからの命名か。ヤツデの花を燃やすと魚臭いのか? 今度、やってみようと思う。実験後に結果を追記する。]

 

マスクしてしろぎぬの喪の夫人かな

 

   靑森港

 

ペチカ燃え牕(まど)の寒潮鷗とべり

 

うす日して震災堂の玉あられ

 

[やぶちゃん注:「震災堂」現在の東京都墨田区横網の横網町公園内にある東京都慰霊堂。昭和五(一九三〇)年に関東大震災の身元不明遺骨を納め、死者の霊を祀る震災記念堂として創建され、昭和二三(一九四八)年より東京大空襲の身元不明遺骨をも納め、死亡者の霊を合祀して、昭和二六(一九五一)年に東京都慰霊堂となった。東京都の施設であるが仏教各宗により祭祀されている。ここは元陸軍被服廠があった場所であったが、大正八(一九一九)年に赤羽に移転してその後公園予定地として更地にされて被服廠跡と呼ばれたが、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災では多くの罹災者の避難場所となっていた。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災がこの家財道具に燃え移り、更に火災による旋風が起こったためにこの場所だけで推定東京市全体の死亡者の半数以上、訳三万八千人もの市民が死亡したとされる。震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって昭和五(一九三〇)年九月に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付された。昭和六(一九三一)年には震災復興記念館が建てられている。本堂は築地本願寺の設計でしられる名建築家伊東忠太の手になる(ここまではウィキ東京都慰霊堂に拠る)。Sohsuke Suga 氏の震災慰霊堂で昭和五創建当時の写真が見られる。]

 

聖樹灯り水のごとくに月夜かな

 

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