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2014/07/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 4 青森から二戸へ

M426

図―426

 

 所々で我々は、北日本に特有と思われる、奇妙な看板の前を通った(図426)。これは樅(もみ)か杉の枝を結んで、直径二フィートの大きな球にしたもので、酒屋の看板である。「よき酒は樹枝(ブッシュ)を必要とせず」という諺言は、この国でも同様の意味を持っているかも知れぬ。第一日は岩の出た山路を越して行くので、我々は屢屢人力車夫の負担を軽くする為下りて、急な阪を登った。景色は非常によく、大きな入江や、面白い形をした山々がよく見えた。二日目は、夜に近くなってから、急な山脈を越す為、駄馬に乗った。この距離は十五マイルであった。我々の馬子は老人達で、十五マイルの間、絶間なく仲間同志、ひやかし合ったり、口喧嘩をしたりしていた。これ等の男の耐久力には、東京の労働者のそれよりも、更に驚く可きものがある。彼等はすくなくとも、五、六十歳であつたが、最も急な阪路を、ある場合には馬を引張って上りながら、絶えず冗談をいったり、ひやかしたりする程、息が続くのであった。峠の頂上で私は下馬し、素晴しい景色を楽しむために長い間歩いた。ある場所で我々は、底部から八百フィート、あるいは千フィートあるといわれる断崖の上に立った。正面は河によってえぐられ、その河の堂々たる屈曲線は、つき出した絶壁の辺で、我々の足の下にかくされている。我々は凸凹激しく、曲りくねり、場所によっては恐しく急な小径を、馬を引いて下りて来る老盲人に逢った。彼はこの路を、隅から隅まで知っているらしかった。

[やぶちゃん注:最初に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」から矢田部日誌の帰京までの記載紹介を見ておく。

   《引用開始》[やぶちゃん注:日誌本文と最後の文部省宛報告書は例によって正字化した。[ ]は磯野先生の割注。「……」は磯野先生の省略と思われる。]

○十八日 「朝六時靑森發、十一時小湊着、午後七時七ノ戸着」

○十九日 「朝六時十五分七ノ戸発、午前十時四十五分五ノ戸着、晝食ス。道中広原[三本木原]ヲ過グ。五ノ戸ニテ車ヲ換へ、十二時十五分発、三時半三戸着。午後三時二十分三戸發。人力車出切リニ出タル二付、馬ニテ行ク。七時半福岡[二戸]ニ達ス」[やぶちゃん注:底本では『三時半三戸着。午後三時二十分三戸發』の両時刻の右には孰れも磯野先生によってママ注記が附されてある。]

〇二十日 「朝六時福岡發、七時五十分三戸着。……午後二時沼宮内着……六時二十分渋民着」福岡出発後、浪打峠の切通しで貝や竪類の化石を採集したと、矢田部もモースも記録。

〇二十一日 「朝四時二十分渋民發、八時前盛岡着。九時四十分盛岡發、但シ川船ニテ北上川ヲ下ルナリ。午後七時半黑澤尻着。……午後十二時半頃黑澤尻發、但シ十二時後ニ至り発セシハ、川ニ急流アルガ故、月光ヲ待テ發セシナリ」

〇二十二日 「終日船中ニ在リ」  

〇二十三日 「船中ニ在リ。十一時カノマタニ達ス(鹿又村ナリ)。南風強クシテ船行カズ。故二此處ヨリ人力車四兩、馬壱疋ヲ雇フ……午後十二時十分鹿又發……六時半松島着」

〇二十四日 「五時半松島發、九時半仙臺着」佐々木と内山は松島に残して採集させ、松島以降はモースと矢田部の二人旅だった。二人は仙台で東京に電信を打とうとして、私人の電信使用が禁止されていることを知り驚くが、のちに東京竹橋兵営で反乱が起きたためと知る。一行は仙台からまた人力車で、長町、岩沼、大河原、白石を経て、「九時十五分藤田[現国見]着」

〇二十五日 「五時半藤田發、七時半福島着、十一時四十分二本松着……四時半郡山着……十時十五分白川[白河]發」

〇二十六日 「五時半白川發。十二時大田原着、三時十五分前喜連川着、六時宇津宮[宇都宮]着」

〇二十七日 「五時宇津宮發、馬車ニテ行クナリ……午後六時四十五分淺草着」

 人力車と船の旅はやっと終わった。青森を出てから丸十日。六時間ほどで上野に着く今では、その苦労は想像もつかない。

 このとき大学から文部省に宛てた報告が残っている。最後にそれを引用する。

「動物見本採集幷學術研究ノ爲メ七月十三日發程、徃復五十日間ノ期限ヲ以テ横濱ヨリ海路渡島國函館ニ到リ上陸、該地近傍ヲ經廻シ、尋デ後志胆石狩國ノ各郡ヲ廻歷シ、順路函館ニ歸リ、同所ヨリ陸奧國靑森ニ渡リ、夫ヨリ盛岡ニ出テ北上川ヲ下リ、鹿又村ヨリ上陸シテ順路陸前國仙臺ニ到リ、奧州街道ヲ經テ歸京」

   《引用終了》

二十四日の条の磯野先生の解説にある『東京竹橋兵営で反乱』とは前日の明治一一(一八七八)年八月二十三日に発生した、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件、竹橋事件を指す。以下、ウィキの「竹橋事件」によれば、『反乱は、鎮台予備砲隊隊長岡本柳之助大尉、松尾三代太郎騎兵中尉、近衛歩兵第二連隊第二大隊第二中隊兵卒三添卯之助、近衛砲兵大隊第一小隊小隊馭卒小川弥蔵、同第二小隊馭卒長島竹四郎、同じく小島萬助らを中心に決起の計画が練られた。 旗を用いて合図を送ったり、「龍」→「龍起」、「偶日」→「奇日」等の合言葉を作成する等、計画的なもので』、『午後11時、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し、騒ぎを聞いて駆けつけた大隊長宇都宮茂敏少佐、続いて週番士官深沢巳吉大尉を殺害』、『砲兵隊の門前を出ると、既に近衛歩兵第一、第二連隊が出動しており、これと銃撃戦になった。戦闘に紛れて反乱軍は大蔵卿大隈重信公邸に銃撃を加え、営内の厩や周辺住居数軒に放火。この一時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された』。『この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を捕らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ』。『正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た軍曹は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これをしおに、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった』。『同日午前8時、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が始められ、10月15日に判決が下された。 騒乱に加わった者のうち、岡本は発狂したとして官職剥奪で除隊、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑に処せられている。事件に直接参加していない者を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった』。『動機は、過重な兵役制度や西南戦争の行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである』。『内務省の判任官西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方に神田橋で叛乱計画の謀議を知り、内務省に立ち戻り書記官に急を知らせた。この通報により蹶起計画は事前に漏れていたのだが、阻止することはできなかった』。『のちに日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。太平洋戦争後まで真相が明らかになることはなかった。 近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている』とある。

「直径二フィートの大きな球」直径約六十一センチメートル。無論、杉玉である。ウィキの「杉玉」によれば、『スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。「搾りを始めました」という意味である』。『吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語る』。『今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる』。『起源は、酒神・大神神社の三輪山のスギにあやかったという。俗に一休の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものである』。『スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある』。作り方は『針金で芯となるボール(できあがりの半分ぐらいの大きさ)を造り、杉の葉を下方から順に差し込んで固定していく。上まで刺したら、球状になるようにきれいに刈り揃えてできあがり』となるとある。但し、全国で見られ、モースの「北日本に特有と思われる」というのは当たっていない。

『「よき酒は樹枝(ブッシュ)を必要とせず」という諺言は、この国でも同様の意味を持っているかも知れぬ』底本ではこの一文の最後に石川氏による『〔樹枝は西洋でも酒屋の看板になった〕』という割注が入る。諺の原文は“" Good wine needs no bush,"”。これはイギリスの諺で、昔、英国でワインを造っていた旅館や個人の家ではブドウの蔓(bush)をドアや窓の外に掛け、そこでワインやビールが飲めることを旅人に示したという。Bushivy:セイヨウキヅタ。イングリッシュ・アイビー。ツタのこと。) これは酒神 Bacchus の象徴であり、ブドウの蔓が看板(宣伝)の代わりに使用されていたことに基づくもであるが、既に良い味の酒を置いていることで知られていた旅宿や家では旅人が必ずそこに寄るので、蔓を戸外に垂らしておく必要はなかったことから、「良酒に看板は要らぬ」(「桃李もの言わずとも下自ずから蹊を成す」と同義。元来は、徳のある者は弁舌を弄するまでもなく、人はその徳を慕って集まり帰服するものであるの謂い)の謂いとなった(ここは「宮代翻訳工房」の「宮代翻訳工房の標語について」を参考にさせて戴いた)。

「第一日」八月十八日。朝六時に経って午前十一時に小湊(現在の青森県東津軽郡平内町大字小湊)に着き、夜七時に七戸(しちのへ)に到着している。

「岩の出た山路を越して行く」夏泊半島の根元を東に越して小湊へ出るルートを指すものと思われる。

「大きな入江」陸奥湾。

「面白い形をした山々」入り江を述べた後に記しているところからは、陸奥湾を隔てた下北半島の釜臥山から朝比奈岳の山容であろう。特に前者は名前の通り、独特の形をしている。

「二日目」八月十九日は朝六時十五分に七戸を出発、午前十時四十五分五戸着でここで昼食を摂り、三本木原を経て五戸、ここで人力車を乗り換えて十二時十五分に発ち、三戸で一本取ってここで人力車を乗り換えようとした。ところが人力車が出払っていたために、急遽、馬にかえて夜の七時半にようやっと二戸へ到着したとある。この「夜に近くなってから」越した「急な山脈」とは青森県南東部にある標高六一五・四メートルの名久井岳(なくいだけ)の西麓を越えてゆくルートか。

「十五マイル」は約二十四キロメートル。この距離は私は、最後に長い休息をとった三戸からの騎馬による距離と考える。私が考えるルートを採った場合、なるべく奥州街道(現在の国道四号)沿いに計測した三戸―二戸間の結果は二二キロメートル強となった。二戸側に下りると川幅の広い馬淵川畔を南下するが、この川の上流部は有意な河岸段丘が展開していることがネット情報によって分かる。以下のような断崖があってもおかしくないと思われるが如何であろう。私は現地を知らない。識者の御教授を乞うものである。

「百フィート」三〇・四八メートル。

「千フィート」三〇四・八メートル。]


M427

図―427

 

 通り過ぎた家に、奇妙な籠揺籃(ゆりかご)かあるのに気がついた(図427)。これは厚ぼったい、藁製の、丸い籠で、赤坊は温かそうにその内へ詰め込まれていた。

[やぶちゃん注:これは、平凡社の「世界大百科事典」に載る「つぐら」である。藁製の保育用具で「イヅミ」「エジコ」などとも呼び、大小いろいろに作って冬期には飯の保温用にも使う(「イヅミ」は「飯詰」の意である)。秋田では「イヅミ」、青森や岩手で「イヅコ」「エジコ」、信州北部から越後にかけては「ツグラ」「フゴ」、佐渡では「コシキ」、東海地方では「エジメ」「クルミ」、三重県では「ヨサフゴ」と呼ぶ。「イヅミ」は多く中部地方から東北地方の寒い地方で使われていたもので、ところによって製法や形が少しずつ異なっているが、多くは藁製で臼型に作り、底に藁を敷き、その上に籾殻や木炭灰などを厚く敷いて子どもの着物を捲くっておむつのままで座らせて布団で包む、とある。ウィキエジコ」には、『エジコ(嬰児籠)は藁などで筒状にしたもので他には木や竹製のものもあり、世話が出来ないときに赤ん坊が這い回らないようにする育児用の篭。地域によりエヅメ・イジコ・イズミ・イブミ・ツブラ・ツグラ・コシキ・エジメ・イヅミキともよばれる。

農作業などのとき長時間離れなければならない時に家または作業場近くに据え置くための道具として使われていた。 そのため、お漏らしをしても』幼児が不快にならぬように『工夫がなされている。 大まかには、底に灰・藁・籾殻・海藻・木炭などを敷き詰めその上に、 尿などを吸収しやすいように、オシメや軟らかくしたわら・い草で出来たシッツキなどを敷き、汚れた場合にはそのつど洗って使い、子どもが勝手に動かない様に布団や布切れなどで包み固定していた。そのため発育が妨げられたり、 不潔などの理由で衰退することとなり、 現在では従来の藁でエジコを作れる人がいなくなったのも含めて、新たに入手することはほとんど出来ず、どの地方でもエジコを使用する習慣はほぼ見られ無くなっている』とある。当該物を「こけし」化したものが多く出るが、グーグル画像検索「えこ」を参照されたい。]

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