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2014/07/30

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 48 酒田 暑き日を海にいれたり最上川

本日二〇一四年七月三十日(陰暦では二〇一四年七月四日)

   元禄二年六月十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月三十日

である。この前日の十三日、芭蕉は鶴岡から赤川を行く川舟で発ち、酒田に着いた。翌日の十四日、酒田湊の豪商御城米浦役人(東西廻船の要所に配された城米輸送船の荷の積み替えや監視・管理を掌っていた幕府の米置場役人。ここ酒田湊は西廻廻船の要衝として幕命を受けた豪商河村瑞賢が設置した)寺島彦助安種(やすたね:号は詮道。)邸に招かれて、七吟連句(恐らくは歌仙)興行が行われた。

 

暑き日を海にいれたり最上川

 

  安種亭より袖の浦を見渡して

涼しさや海に入(いれ)たる最上川

 

涼しさを海に入たりもがみ川

 

暑き日を海に入ㇾたる最上川

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「継尾集」(つぎおしゅう・不玉編・元禄五年刊)で「曾良俳諧書留」も同句形で、そこでは、

 

  六月十五日、寺島彦助亭にて

涼しさや海に入れたる最上川    芭蕉

  寺島

  月を搖りなす浪のうき見る   詮道

 

と亭主が脇を付けている。日附が十五日となっているが、同じ曾良の「随行日記」の、

 

〇十四日 寺島彦助亭ヘ 被ㇾ招。俳有。夜ニ入歸ル。暑甚シ。

 

によって十四日の誤りと推定される。これによってこの「涼しさや」が初案と分かるが、これは既に決定稿とは印象が全く異なり、別稿・改案というより全くの別句としたくなるものである。所謂、芭蕉にしばしば見られる、有意に乖離した二様の創作時心情の併存という稀有の心的状態である(私は実はここにこそ芭蕉に対する深い魅力を感じている)。なお、この七吟連句は「曾良俳諧書留」には七句を並べただけで『末略ス』とあり、満尾したものが残されていない。

 第三句は「奥の細道菅菰抄(すがごもしょう)附録」=「奥細道附録菅菰後考」(梨一著・文政一二(一八二九)年少波写本)の、第四句目は「奥の細道曾良本」の初稿である。

 

 さて、頴原・尾形氏訳注の角川文庫「おくのほそ道」の発句評釈では、この日を「暑き夏の一日」とし、「暑き日」を直ちに水平線に沈む「太陽」を指すという解釈は、『芭蕉当時の句としては、そうした見かたや考え方はふさわしくない』とし、夕陽の海に沈む実景を知ることによって鑑賞を確かなものにするのは『少しもさしつかえない』、『しかし、「暑き日」の』(底本では傍点)『は、やっぱり直接太陽をさしたものではない』と、異常なまでに【「日」≠「陽」説】を否定する。

 ところが山本健吉氏の講談社学術文庫「芭蕉全句」では、逆に「日」を即物的な『沖に今しがた沈もうとする赤い大きな夕陽の景観と、最上川の押し流す力との間に、一つの対応を作り上げている。最上川が夕陽を水平線の彼方に押し入れようとしているものとして、表現している。「暑き日」を「暑き太陽」と取らず、「暑き一日」と取る解釈もあるが、句の味わいが落ちる。太陽と大河と、あたかも自然のエネルギーとエネルギーのが相搏(う)ような壮観であり、大景によって得た感動の句である』、と全く真逆の【「日」=「陽」限定説】を宣明する評釈が載る。

 個人的には、前者のような観念上の「暑き一日」を象徴する海に没する夕陽の実景として私は印象してきた。

 そもそも前者には、当時の詩人の観念には即物的な夕陽の物理的直截詠や包括的象徴的手法はなかったという肝心のその証左が挙げられておらず、何より、「暑き一日」鑑賞の一助とするに『少しもさしつかえない』がしかしその印象は全くの誤りであるということを知れ、というこの意味不明の、国文学者の人を食った非論理的な謂いが、すこぶる附きで不快である。

 かといって後者の山本氏のように、ジリジリと焼けつくような往年の日活映画みたような「太陽」でなくてはだめ! 「太陽」が「青春」そのものを短絡的にドラマライズする如きシャウト一点張りの主張も、ちょとついて行けない。

 加藤楸邨は「芭蕉の山河」でこの議論の多い問題に触れるが、『それにこだわらない方がよいであろう。自分の相伴ってきたこの最上川の流れを、今海に入れて涼しさが萌してきた。甚だしいこの暑き日』(楸邨氏の謂いなら「(陽)」と追記したくなる)『も海に入れてしまって、今眼前には最上川だけが涼しく海に流れこんでいるという気持ち』を詠んだものであり、『芭蕉の発想は横から眺めるというのでなく、対象とする物の中に入り立って、そこから機微の真実を把握してくるゆき方』をとる。この句の場合も『単なる眼前の景と限定するのでなく、最上川そのももの中に入り立ってゆくことを大切にしてみたいと思うのである』と美事、中庸の【「日」∨「陽」説】で記される。如何にも元国語教師然とした心地よい解説ではある(私も似たようなもってまわった言い方をしばしば教師時代にしたことを思い出すのである)。両説をいなすのではなく、体をくいっと捻ってかわした上に、分かったような分からないような禅語染みたオチをつけるである。両者の包括的相互象徴的共時認識と言わないところがミソである。それともやっぱり芭蕉の時代にこうした複合的比喩象徴やアウフヘーベンに似た観念はタブーだとでもいうのであろうか?

 安東節ではどうなるか、やっぱり最後はそこを楽しみにしていたのであるが、これが思ったより案外にしょぼいのである。安東次男は曾良の「随行日記」を披見してみたら当日の最後に『暑甚シ』とあるので、芭蕉が「涼しさや」から改稿した思い付きが分かった、と言うのみである。即ち、『甚暑にかさねて「暑き日」を持出したらかえって涼意をつよめるだろう、というところに滑稽の』それがある、と評するだけなのである。

 敢えて私の立ち位置に近いものを選ぶとすれば、凡そ教師時代の私とは対極乍ら、やはり根性ドラマ風の熱血系山本健吉先生のそれを最終的には支持する。インキ臭い輩は惟然坊風に、

 日を海にじゆつと入れたり最上川

とでもやらかさない限り、梗塞した頭脳には十七音が響かぬものらしい。これは冗談ではない。私はその音が確かに聴こえると本気で言っているのである。それは本段の直前にその音が聴こえるように芭蕉がちゃんおセットしていると考えているからである。前段、標高の高い羽黒山から月山・湯殿山は、登攀の大苦行はあったものの、「雪をかほらす」地であり、「ふり積む雪の下に埋もれて遲ざくら」が「かほる」地であり、「涼しさ」と「月の山」「ぬらす袂」の山行であった。「炎天(の梅花)」などは比喩の彼方へ去って涼風に冷感さえ添えている。しかしここで考えてみると、何故に芭蕉は、

 谷の傍らに鍛冶小屋と云ふ有り。此の國の鍛冶、靈水を撰みて、爰に潔齋して劔を打つ。終ひに月山と銘を切りて世に賞せらるる。彼の龍泉に劔を淬(にら)ぐとかや。

という考証をわざわざ挟み込んだのか? それはこの三山詣前から始まって体感し始めていた下界の「甚暑シ」(『曾良随行日記』にしばしば出る)という自然を捕らまえているからに他ならない。そうしてその直後、饒舌さを反転させて、「羽黒を立」ち「川舟に乘」って「酒田の湊に下る」までの急ぎに急いで削ぎに削いだ(これは「五月雨を」の句のような最上川の速さではなく、私はその川風の向こうにある、実は炎熱をこそ暗示させるものだと思っている)の文の後にあるのは「あつみ山や吹浦かけて夕すゝみ」の炎暑の昼間を表象する句であり、その次に本句「暑き日を海に入れたり最上川」が現われれば、それはまさに直前で鍛えに鍛え抜いた真っ赤になった「日」=「陽」の「劔」を最上川が「龍泉」たる海(「龍」と「海」とこれほどぴったり合致する語彙があろうか)にぐいっ! と差し入れて「淬(にら)ぐ」と読まない方が、私は鈍感だと断ずるものである。

 ともかくも私は――本句が大好き、なのである。

 以下、「奥の細道」の鶴岡・酒田の段を示すが、そこに出る「あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ」という句は、この後、象潟へ行って再び酒田へ戻ってから創られた句で、時系列上の操作が加えられている。従って象潟の句の後に再掲して評する。

   *

羽黑を立て鶴か岡の城下長山氏

重行と云ものゝふの家にむかへられて

俳諧一卷有左吉も共に送りぬ

川舟に乘て酒田のみなとに下ル

渕庵不玉と云醫師の許を宿とす

  あつみ山や吹浦かけて夕すゝみ

  暑き日を海に入ㇾたる最上川

   *

■やぶちゃんの呟き

 

「渕庵不玉」「えんあんふぎよく(えんあんふぎょく)」と読む。伊東玄順(慶安元(一六四八)年~元禄一〇(一六九二)年)。淵庵が医号で不玉は俳号。既出の大淀三千風が天和三(一六八三)年が酒田を訪れた際にその脇を付けている。この時、芭蕉に昵懇して蕉門に入った。現在の酒田市中町一丁目に不玉宅跡が残る以外、事蹟はあまり知られていない(以上はムーミンパパのサイト「旅のあれこれ」内の『奥の細道』ゆかりの俳人 伊東不玉を参照させて頂いた。不玉の脇句なども読める)。「醫師」は「くすし」。]

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