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2014/07/20

芥川龍之介手帳 1-7

《1-7》

 

〇兄と女との關係を depict する scene 朱雀門(?)邊偸盗の集合する光景(女は覆面にて出で 兄と弟はそのまま出す) 兄のそこへ赴くみちより書出す

[やぶちゃん注:「偸盗」の書き出しの案。“depict”は描写する・叙述する。実際の「偸盗」では冒頭のロケーションは「朱雀綾小路」で朱雀門から下がった平安京の中央位置となっており、また主人公の兄太郎は出るがヒロインの沙金は登場せず、彼らの養父猪熊の爺と太郎と弟次郎の三人と淫蕩奔放な小悪魔であると同時に不思議な聖性を持った沙金との複雑で爛れた愛情関係については、猪熊の婆と太郎との掛け合いによってアウトラインが示され、第二章・第三章(特に三章の太郎の一人称の心内表現)明らかになるようになっている。沙金は第四章(「偸盗」は全九章)で始めて登場する。太郎も、その夜の藤判官の押し込みのための「集合」ではなく、真昼日中に猪熊の婆がその段取り確認をするためだけに接触している。押し込みの「集合」は第五章の猪熊の爺と太郎の修羅場未遂の場面を挟んだ第六章で、場所は羅生門(これは第一章に既に予告されてある)であり、沙金は覆面はしていない。]

 

○中に comical scene abstract allegory と入れんとす 前者は狡猾なる neben の人物によりて越され 後者は老人によりて起さる

[やぶちゃん注:「越され」はママ。旧全集は正しく「起され」となっている。

abstract allegory」観念的寓話。

neben」ドイツ語の前置詞で「~の脇に」であるから脇役。

「偸盗」では「狡猾なる neben の人物に」よって起こされる「comical scene」というのは見当たらないが、「neben の人物」では脇役としての猪熊の爺の子を孕んだ阿濃(あこぎ:彼女自身は次郎の子と信じている)の存在は、主たる筋と絡みつつも、一体とはならずに最後まで重要な道化として機能している点ではこの「comical scene」のメタモルフォーゼしたサイド・プロットとは言えるかも知れない。しかし彼女は「狡猾」どころか、イディオ・サパンである。寧ろ、「abstract allegory」として機能しているのは沙金以上に強烈なトリック・スターである猪熊の爺の存在と、彼が語る「親殺し」の自己合理化の論理と、言った傍から総て嘘だとする人を食った虚言癖である。太郎がそれに対して激すればするほど、読者は作品の深刻なイメージ以前に、この猪熊の爺という救い難い奇体な人物に、どこか滑稽なものを見、思わず失笑してしまわないか?(少なくとも私はそうである)私はここで龍之介が分離して考えたキャラクターが融合した存在こそが実は猪熊の爺だったのではないかと感じ始めているのである。]

 

○發端 老人の盜賊 dostoefsky の「虐げられし人々」の發端をみよ

[やぶちゃん注:ドストエフスキイの「虐げられし人々」の発端はこうである。散歩中の主人公の青年イワンが、みすぼらしい怪しげな老人と喫茶店で邂逅するが、その老犬アゾルカがその場で死に、それを放置して出て行く(この直前にその死んだ犬を剥製にすればよいと客が提案する奇体なシーンがある)。イワンがその後を追って家まで連れ帰ろうとするが、老人もその道半ばで斃死してしまう――ここで特に老人が愛犬アゾルカを杖で突っくが既に死んでいることが分かって杖を落す、その杖を拾った上げたドイツ人の男が異様なロシア語で死んだ傍から犬を剥製にしよう頻りに勧める、という如何にもドストエフスキイ好みの粘着的で生理的不快感を催させるシークエンスがあることに気づく。ここで実際の「偸盗」の第一章と比べてみると、これは冒頭近くで、『七月の或日ざかり』のねばつくような炎暑の描写のなまなましい描写と軌を一にするように思われる。

   *

 むし暑く夏霞のたなびいた空が、息をひそめたやうに、家々の上を掩ひかぶさつた、七月の或日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝の疎な、ひよろ長い葉柳が一本、この頃流行(はや)る疫病(えやみ)にでも罹つたかと思ふ姿で、形(かた)ばかりの影を地の上に落としてゐるが、此處にさへ、その日に乾いた葉を動かさうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださつき通つた牛車(ぎつしや)の轍が長々とうねつてゐるばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇(ながむし)も、切れ口の肉を靑ませながら、始めは尾をぴくぴくやつてゐたが、いつか脂ぎつた腹を上へ向けて、もう鱗一つ動かさないやうになつてしまつた。どこもかしこも、炎天の埃を浴びたこの町の辻で、僅に一滴の濕(しめ)りを點じたものがあるとすれば、それはこの蛇の切れ口から出た、腥い腐れ水ばかりであらう。

   *

そしてその後の太郎の猪熊の婆の会話の昼間部に再度、

   *

「お前さんは、不相変疑り深いね。だから、娘にきらわれるのさ。嫉妬(やきもち)にも、程があるよ。」

 老婆は、鼻の先で笑ひながら、杖を上げて、道ばたの蛇の死骸しがいを突ついた。何時の間にかたかつてゐた靑蠅が、むらむらと立っつたかと思ふと、又元のやうに止まつてしまふ。

「そんな事ぢや、しつかりしないと、次郎さんに取られてしまうふよ。取られてもいいが、どうせさうなれば、唯ぢやすまないからね。お爺さんでさへ、それぢや時々、眼の色を變へるんだから、お前さんなら猶さらだらうぢやないか。」

   *

と配し、太郎が猪熊の婆を見送って踵(くびす)を返した第一章末尾に今一度、

   *

 二人の別れたあとには、例の蛇の死骸にたかつた靑蠅が、相變日の光の中に、かすかな羽音を傳へながら、立つかと思ふと、止まつてゐる。…………

   *

と閉じる。

 因みに「偸盗」ではカタストロフ直前のクライマックスに野犬の群れが太郎に純粋至高の兄弟愛を取り戻させる重要な役として登場することと、ドストエフスキイが「虐げられた人々」でこの犬のことを、犬の形をかりたメフィストフェレスみたいなものだと言っている点にも着目しておいてよいかもしれない。龍之介は猪熊の爺に「親殺し」を口走らせるところで明らかに「カラマーゾフの兄弟」を意識してもいる(但し、「偸盗」では「親殺し」は猪熊の爺は死ぬものの「親殺し」は完遂されず、この猥雑な猪熊の爺は、寧ろ、そのトリック・スターの役割からは、親殺しの真犯人であったスメルジャコフのような印象を私は受けることも申し添えておきたい。]

 

○病人及弱者の Egoism を書かんとす

[やぶちゃん注:これは完成形の「偸盗」の自体が叙述するテーマとは、微妙にずれる感じがする(背景としての荒廃した末法の京はまさに『このごろはやる疫病(えやみ)』や貧困に冒されており、この盗賊団も零落した貧者の堕落した変態物ではある)。寧ろ、この初期の頃の龍之介のこれ以外の、「羅生門」を始めとする「鼻」や「芋粥」の複数の王朝物にこそよく共通して顕在化している主題ではある。]

 

[やぶちゃん注:新全集ではここに原底本資料の手帳原本が一枚欠損している旨の注記がある。旧全集ではそこが示されてあるので以下に補っておく。]

 

〇兄弟の enmity 及その肉親の relation weak なる點。

[やぶちゃん注:「enmity」憎悪・対立、「その肉親の relation weak なる點」というのは、兄弟という肉親、血がつながっているという関係性故の(それによって他人との関係よりもより顕在的に惹起されてしまう付帯的憎悪・嫉妬・殺意といった人間的に脆弱な脆い部分という謂いで、明らかに「偸盗」の太郎と次郎の実の兄弟の葛藤状況の設定を示している。]

 

〇人身賣買の問題。

 

〇牛頭大王の夢。或人の子が痘死ス。即廟をこはす。

 

〇關帝廟。道士あらかじめ毒酒を與へて無賴に帝廟を罵らしむ。利益分配爭ひよりわかる。

 

〇皆神の無を語る。婆來つて否定す。There is something in the darkness.

[やぶちゃん注:この英文は前にも出て来た。これについて「夢みる風力発電機 ―skycommuの書評・雑記」の「偸盗(There is something in the darkness と 二人の具現者)」で海老井英次氏の論考を援用しながら、この英文と「偸盗」と「羅生門」の関係性を読み解いておられる。非常に説得力があり、先にこの英文に注した私の印象をなどとも絡んでなかなか共感出来る部分がある。海老井氏の見解を解説した幾つかの箇所がこの「There is something in the darkness.」と関わるので以下に引用させて戴く

   《引用開始》

「この「強盗を働きに」「京の町へ」消えていった「下人」のその後の姿を、我々は「偸盗」の中にみることが出来るのである。」①海老井氏はその根拠として偸盗のメモにある( There is something in the darknesssays the elder brother in the Gate of Rasho.)(病人及弱者のEgoismを書かんとす。)という文章や羅生門の草稿に見える主人公の名「交野の平六」と偸盗の盗賊の一味の名「関山の平六(後編で交野の平六と記述される)」の同一をあげている。

   《引用終了》

 引用文中の①などは注記記号。最後に配した。

   《引用開始》

一方、海老井氏は偸盗の執筆動機に「「羅生門」をとりまく「darkness」の中に「something」を見出すこと」① をあげ、「「darkness」の中にある「something」とは、他でもなく、「羅生門」に描かれた無明からの〈救済〉を可能にする何か」③ であると説明している。そして不運にも「兄弟の対立を止揚する「something」として〈兄弟愛〉を捉えながら、それを通俗的理解を超えた明確な実体として把握しきらずに、「血のつながり」といわれるようなものと同次元のものとして描くに終わったのである。」① として失敗理由を挙げている。これは実に評価できる画期的な意見だろう。

   《引用終了》

 この海老井氏の最期の「偸盗」失敗の理由は、何と、まさにこの手帳の四項前で芥川龍之介自身が『兄弟の enmity 及その肉親の relation weak なる點』と、既にして予告していたことが分かるのである。

   《引用開始》

太郎も次郎も、猪熊の爺も婆も、それぞれに何かを体現し活躍している。しかし、沙金と阿濃のそれは異常だ。体現しすぎて二人にはリアリティーがないのである、固有の内面がないのである。沙金は徹底的に美しい悪女になり、阿濃は徹底的に愚かなる聖女になった。彼女らは一種の非人間として、主題「「羅生門」をとりまく「darkness」の中に「something」を見出すこと」① のために芥川によって造りだされ、存在しているのだ。

   《引用終了》

 二人の聖性に着目する論には、森正人氏の「《偸盗》の構図」(『熊本大学文学部論叢』一九九〇年三月)があり、そこでは、『沙金と阿濃を女夜叉・女菩薩という観点で対照させつつも、阿濃や猪熊の爺に対する沙金のやさしさ・太郎の目に「映る」不思議な円光」等から沙金に聖性を読み取り、阿濃・沙金を一体のものと』(勉誠出版「芥川龍之介全作品事典」須田千里氏記載)している。

   《引用開始》

芥川は羅生門において提示した、darknessの先にあるsomethingを見出そうとし、偸盗を執筆した。無明に落ちた畜生の救済である。芥川はそのsomethingに兄弟愛や白痴ゆえの愛を見出した。どちらも無垢で感覚的な、本能的な愛である。芥川はエゴイズムの世界に、人間本能の導く美しさや希望を見出したのだ。しかし結局、主題をきちんと理解しそれらの愛をまとめきれなかった。偸盗の失敗はここにある。

   《引用終了》

 引用文献の上記引用に出たものだけをリンク先を参照して示しておく。

①海老井英次『「偸盗」への一視角」』(『語文研究』一九七一年十月)

③海老井英次「〈我執〉から〈救済〉へのロマン」(『近代文学考』一九七四年三月)

 「偸盗」は芥川龍之介自身が執筆中から不満を持ち、失敗と断じて、改作の希望を持っていた。

 因みに、私は「偸盗」を「羅生門」より遙かに面白い小説であると思っている。

 以上、引用元の全論考をお読みになられることを強くお薦めする。]

 

〇朱雀門上の炎。

[やぶちゃん注:ここまでが旧全集による。]

 

○魔術 old witch. Hand in the fire.“What is itone asks.What is in the darknessis the reply.

[やぶちゃん注:後年の「魔術」とは無関係。]

 

tale of fathers and sons.

  1 Antipathetic.

 2 Mystic pathetic.

[やぶちゃん注:「Antipathetic」は非感傷主義的で、「Mystic pathetic」は霊的なまでに感傷的。それぞれを父やその子に配した二律背反の父と子の物語という謂いか。特にピンと来る芥川作品は浮かばない。]

 

〇弟は shy.――放免となりて兄をつかまへに來る。

 

Fraternal love explosion.

[やぶちゃん注:「Fraternal love explosion」は兄弟愛の破壊であるから、これはもしかすると「偸盗」の改作若しくは続編のメモかも知れない。]

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