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2014/07/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 13 白老のアイヌの人々(Ⅰ)

M383
図―383

M384

図―384

M385

図―385

M386

図―386

M387

図―387

 苫小牧からは、タルマエと呼ばれる、奇妙な山が見える。図383はそれをザッと写生したものであるが、これによっても蝦夷の不思議な形をした山の観念は得られる。ここにはアイヌの小舎が何軒かあったが、我々はそれを調べるだけの時間を持たず、その上次の夜の宿泊地はアイヌの村だと聞いていたのでシラオイへ向って進んだ。路は今や砂浜に沿うており、路それ自身が白くて砂地で、一方には絶間なく打ちよせる波が轟く広々した太平洋、他方には恐らくすべて火山性であろう所の奇異な形をした山々が見える。青色の眼鏡をかけていたにも拘らず、白い砂に反射する太陽はギラギラと目に痛く、数マイル行った時には、馬に乗っていることも単調になって来た。所々にアイヌの家が数軒かたまっていた。ある場所では一人のアイヌが、小さな女の子と男の子と、犬二匹とを連れているのを追い越した。子供達は全裸体で、女の子は頭帯によって包みを背中に負い、男は彼女の手を握って先に立っていた。男がノロノロしていて、女と女の子がすべての仕事をしているのは不思議に思われる。女は皆、見た所どっちかといえば粗野だが、親切で気がよく、態度は極端に遠慮深い。私が見たアイヌ女の殆ど全部は、子供が耻しがる時にするように、頑固に手を口に当てた。上述したように、彼らの口辺は必ず黒い区域で縁どられ、中には腕に、腕環みたいな環を連続的に描いたのもある。彼等がこの着色に使用する材料たるや、鍋の底の煤に過ぎぬことを、私はハッキリと知った。子供達は大きな眼と気持のいい顔を持っていて、欧洲人の子供に非常によく似ているが、極めて臆病で、はにかみやである。見知らぬ人がいると、女は習慣的に手を口に当てる。これは口の周囲の絵具を隠そうとするのだと思って見もするが、彼等にかかるこまかい気持があるとは信じられず、殊に子供迄がこの身振りをするに於ておやである。図384は頭帯で荷物を運ぶ女、図385はアイヌ女二人、図386は子供で、赤い布製の耳飾と、奇妙な形の垂前髪とを示し、図387は三人の子供が坐っている所である。彼等は暗い小舎にいて、我々がいた間、石像のようにじっとしていた。太い黒い毛を頭の周囲で真直に梳(くしけず)り、頸部で短く切り、耳の上に長く垂らし、前髪を大きく下げる。アイヌのある者の間には、絵に画かれることを恐怖する迷信があるので、私は彼等を写生するのに多くの困難を感じた。それで彼等を写生する時には何か別のことに興味を持っているような真似をし、彼等の注意が他方に向けられている時、チョイチョイ盗見をした。

[やぶちゃん注:モースが白老に到着したのは八月一日の午後六時で、翌二日の朝九時二十分に室蘭へむけて発っているが、この短時間の中で、実に二段組の底本で十ページになんなんとする(一六六~一七六頁)貴重な記録と多くの稀有のスケッチを残して呉れている。

「タルマエ」底本では直下に石川氏の『〔樽前〕』という割注が入る。樽前山(たるまえさん)。北海道南西部にある支笏湖の南側の苫小牧市と千歳市に跨る活火山。現在の標高は最高点の樽前ドームで一〇四一メートル。風不死岳(ふっぷしだけ)・恵庭岳とともに支笏三山の一つ。モースがスケッチした三十一年後の明治四二(一九〇九)年の噴火で山頂には巨大な溶岩ドーム(樽前山熔岩円頂丘)が出来たために現在の頂上及びそこから南西に延びる山容(図では左方向)は著しく異なってしまった。ウィキの「樽前山」に拠れば、『山名の由来は、アイヌ語で「タオロマイ taor-oma-i」(川岸の高いところ・〈そこに〉ある・もの)。一般的にアイヌは山に山そのものを指す名前を付けず「これこれという川の上流(水源)の山」という名づけ方をすることが多いので、この言葉は現在の樽前山そのものを指すのではなく、樽前山の南側を下る現在の樽前川を指した言葉である可能性が高く、その水源として樽前山という名になったと思われる』とある(現在の支笏湖湖畔からの同ウィキの写真はこちらで、その反対位置のモースが見たものに近い白老からの写真はこちら)。

「シラオイ」底本では直下に石川氏の『〔白老〕』という割注が入る。現在の胆振総合振興局白老郡白老町(しらおいちょう)。町名はアイヌ語の「シラウオイ」(アブの多い所)に由来する。『この地には日本人が入植するはるか以前から、アイヌコタン(アイヌの大集落)があった。 古文書にもいくつかのコタン名が記載されており、現在でもアイヌ人の血を引く人たちが多く住んでいる』。幕末の安政三(一八五六)年には『仙台藩がこの地に北方警備のため陣屋を建設した』が、『戊辰戦争勃発により仙台藩は撤退、その後明治政府により陣屋は解体され、代わりに開拓史出張所がおかれた。 戦前は単なる一寒村で産業にも乏しかった』と参照したウィキの「白老町」にある。

「頭帯」アイヌ語で「タ」と呼ぶ背負い繩。詳細と原物の写真を「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」公式サイトのこちらで参照されたい。

「私が見たアイヌ女の殆ど全部は、子供が耻しがる時にするように、頑固に手を口に当てた」「女は習慣的に手を口に当てる」全くの直感だが、これはアイヌの女性や子供(図385はまさにその仕草を写している)に特有の(モースは書いていないが男性はこの仕草をしないと考えられる)、何か口に纏わる霊的な一種の呪(まじな)いなのではなかろうか? アイヌの信仰や習俗にお詳しい方の御教授を是非とも乞うものである。

「腕に、腕環みたいな環を連続的に描いたのもある」浅川嘉富氏のサイトの「アイヌと琉球人の源流」のページが画像・解説ともに面白い(但し、同氏はムー大陸の存在を肯定する立場に立った独特の論展開をなさっているので、そこに免疫のない方はアイヌの手(腕だけでなく手の甲・指にも彫られた)の刺青部分の写真を見るだけに止めておいた方が無難とは思われる)。この『女性の腕や指にかけての刺青は』七~八歳『になる頃から母親同伴で彫師の元に通いながら婚礼までに少しずつ彫り進めてゆく習慣があった。女性の手指の刺青は家事や裁縫などが上手になって無事に立派な家庭を持つ事が出来るよう、嫁に出す側の親の願いが込められた婚礼道具のような性質のものであった』とウィキアイヌ文化」の「刺青」にあり、そこにはまた『衣服に隠れる身体にも、美しく神聖な蛇の表皮の模様が施されていたが他人には見せてはならぬものとされた。腕から指にかけての刺青は他人も見ることができた』ともある。

「絵に画かれることを恐怖する迷信がある」写真を撮られると魂が抜き取られるといった、しばしば見られるところの類感呪術的理由であろう。]

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