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2014/07/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 3 函館にて(Ⅲ) モースがドレッジに使った青函航路蒸気船は実は前の年に西南戦争で薩摩軍を砲撃した船だった?!

M425
図―425

 

 蝦夷島を検断して帰って来てから、我々は目ざましい曳網を数回やって、腕足類を沢山集め、その生きた物に就て興味のある研究をした。最終日の曳網には、当局者が大部大きな汽船(図425)を準備してくれ、我々は津軽海峡の、今までよりも遙か深い場所まで出かけた。何から何まで当局者がやって呉れたので、採集に関する我々の成功は、すべて彼等の配慮に原因する。陸路東京へ帰るに際して、私は矢田部教授、佐々木氏、及び矢田部氏の植木屋が私と一緒に来、ナニヤ、高嶺両氏は新潟で曳網するために日本の西海岸を行き、種田氏、私の従者、及び大学の小使は採集した物を持って、汽船へ帰ることにきめた。面白いことに、これ等の異る目的に行く三艘の汽船が、いずれも八月十七日に出帆した。我々は気持よく海峡を越して、大きな入江へ入った。ここへ入る前に、もう一つの大きな入江の入口を過ぎたが、その上端では更に陸地が見えなかった。海は完全に平穏で、我々は函館から青森までの七十マイルを、一日中航行した。この町は長くて、低くて、ひらべったい。これ等以外に、我々は何も気がつかなかった。翌朝六時、我々は四台の人力車をつらねて、五百マイル以上もある東京へ向けて出発した。十五日はかかると聞いたが、十日間で目的地へ着き度いというのが、我々の希望であった。

[やぶちゃん注:前段で注したように、八月四日にモースは函館に着いたが、『それから二週間近く、連日のように函館周辺でドレッジを試み、腕足類を得て研究に専念し』(磯野氏前掲書)ている。先の引用と前後するが、磯野氏前掲書の矢田部日誌紹介の八月九日と十日の記事には、

   《引用開始》[やぶちゃん注:日誌本文部分は恣意的に正字化した。]

〇九日 「朝八時頃モース氏ト共ニ時任氏ヲ訪フ。同氏青森ヨリ陸路ニテ歸ルコトヲ[旅行]免状ニ加入スルコトニ付、加藤君[加藤弘之東大綜理]ニ電信ヲイダセリ。時任氏モ此件ニ付キ外務省へ電信ヲ出セリ」当初は海路で直接帰京するつもりだったらしい。

○十日 「朝八時過石狩丸卜云フ小汽船ニテ有川村へ行キ……佐々木海底動物ヲ採集シ、モース氏ハ高嶺ト共ニ上陸シ海岸ニ沿ツテ行ケリ。汽船兩人ノ行ク處迄至ル筈ノ処、風高クシテ途中ヨリ歸レリ故、高嶺モースハ陸ヲ戻リ大イニ失望セリ」

   《引用終了》

とあり、以下、先に示した十二日と十四日記事を挟んで、

   《引用開始》[やぶちゃん注:日誌本文部分は同前で、波江の記事(『波江元吉動物学雑誌』第九巻・五五~六一頁・一八九七年発行)も準じて正字化した。]

○十五日 「朝八時矯龍丸ニテ沖ニ探底ニ出ツ。午後六時帰港」後年波江元吉が、「或日箱館靑森間ヲ定期航海セル小汽船ヲ雇ヒ、箱館ノ湾口ニ至リ八十尋ノ所ニ Boat dredge ヲ用ヒテ曳網ヲ試ミシコトアリシ。……本邦ニ於テ汽船ニテ八十尋ノ所ニどれじヲ使用セシハ蓋シ之ヲ嚆矢トスベシ」と記したのは、このときのことらしい。

○十七日 「朝十時半函館ヲ發シ靑森ニ向フ。船ハ三菱ノ靑龍丸ナリ……午後六時半靑森着」この日、モース、矢田部、佐々木、内山の四名は、日誌どおり青森へ、高嶺と波江はドレッジを試みに新潟へ、種田と菊地は標本を持参して直接横浜へ、ほとんど同時にそれぞれ出発した。

 モース・矢田部組は青森から東京まで、北上川の舟下りを別にすれば、後はほとんど人力車の旅であった。

   《引用終了》

と記されておられる。

「大部大きな汽船」これは何と、北海道大学名誉教授理学博士角皆静男(つのがいしずお)氏のサイト内の「新函館物語(ハイカラ都市、函館の外国人)」の「函館物語(2):エドワード・モースと日本最初のドレッジ」によれば、『青函連絡船を雇い、函館港外水深150mのところで、日本初の船によるドレッジ(海底上に降ろした篭を曳く)を行った』とある。一研究者のために青函連絡船が恐らくは貸切で使用されたのである(前に注で記したが、角皆先生は海上自衛隊函館基地本部をラボの同定地とされておられるが、採らない)。前注の矢田部日誌十五日の記事の「矯龍丸」が、まさにこの角皆氏の言う『青函連絡船』(厳密には我々に馴染みのこの呼称は後の日本国有鉄道(国鉄)と北海道旅客鉄道(現在のJR北海道)との鉄道連絡船の固有名詞で明治四一(一九〇八)年以降のもので、正確には開拓使の青函航路連絡船である。以下の引用を参照のこと)に相当するものである。「函館市史 デジタル版」の「函館支庁付属船」によれば、『開拓使は主要幹線の定期航路とは別に、不定期航路として札幌本庁や各支庁に付属船を所轄させて、用途に応じて道内各港間へ就航させている。所轄船は年次で異動があったが、明治11年当初には大幅な交替があった。同年1月7日付の函館新聞にその報道がなされている。それによれば、函館支庁所管として函館丸、矯龍丸、弘明丸、鞆絵丸、石明丸、白峰丸、辛未丸、札幌本庁が稲川丸、豊平丸、空知丸、乗風丸、根室支庁が沖鷹丸、択捉丸、千島丸、そして東京出張所が玄武丸となった。なお4月2日付の「函館新聞」には、函館支庁の管轄となり、函館港を定繋港とするこれらの船舶によって近県へ運輸を盛んに乗客輸送などの便宜を図る趣旨について連絡をしたところ近県からは、それに同意し実地取調べのうえ回漕の依頼などをする旨の回答があったと報道されている。12年には開拓使の青函航路が取りやめられたので、弘明丸は他へ所管替えとなり、その他の船舶も一部所管が変わった。函館丸、辛未丸、矯龍丸の3艘となり、翌年には函館丸、矯龍丸、白峰丸が函館支庁所管となっている』とあり(下線やぶちゃん)、矯龍丸が青函航路の函館支庁所管船であったことが分かる。しかも、この船、前年の明治一〇(一八七七)年の西南戦争勃発に際して錦江湾海上から薩摩軍を砲撃した矯龍丸と同一かと思われ、とすればこの船は元は軍用船であったことになる。

「植木屋」底本では直下に石川氏による『〔植物園の園丁〕』という割注がある。小石川植物園園丁を勤めていた内山富次郎。既注

「ナニヤ」底本では直下に石川氏による『〔?〕』という不詳を示す割注があるが、随行していた教育博物館動物掛の波江元吉のこと。既注

「我々は気持よく海峡を越して、大きな入江へ入った。ここへ入る前に、もう一つの大きな入江の入口を過ぎたが、その上端では更に陸地が見えなかった」前者が青森湾、後者が平館海峡を抜けた陸奥湾のことであろう。

「七十マイル」約一一二・七キロメートル。地図上で函館―青森航路を計測すると一一〇キロメートル弱であるから概算表としてはおかしくない。

「五百マイル」約八〇五キロメートル。

青森―東京間は直線ならば約五八〇キロメートルであるが、これは実際の行程距離を示したものであろう。この後の矢田部日誌(後掲する)を見ると、その行程は、

 

青森―小湊―七戸―五戸―三戸―二戸―一戸―沼宮内(ぬまくない:現在の岩手県岩手郡岩手町大字江刈内(えかりない)沼宮内)―渋民―盛岡―(川船による北上川下りで玄沢尻から船中泊二泊)―鹿又(かのまた。現在の宮城県石巻市鹿又)―松島―仙台―長町―岩沼―大河原―白石―国見―福島―二本松―郡山―白河―大田原―喜連川―宇都宮―上野

 

であった。この行程を凡そ旧奥州街道添いに小まめに実測してみたが、青森からは凡そ八〇〇キロメートルになった。モースの計算は実に正確である。]

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