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2014/07/11

北條九代記 卷第六  後嵯峨院新帝踐祚 付 能登守秀康誅せらる 承久の乱の終焉――後堀河天皇践祚、藤原秀康及び同弟秀澄、捕縛されて六条河原に梟首となる

      ○後嵯峨院新帝踐祚  登守秀康誅せらる

 懷成(かねなり)親王は、新院の御讓を受けさせ給ひけれ共、御即位の式も調はず、程なくこの亂ありしかば、三院ともに、遠島に移されさせ給へば、關東より計ひ申して、僅に九十餘日にして、御位を下し奉り、九條の廢帝(はいたい)と申して、王代(わうだい)の數の外にぞおはします。後鳥羽上皇の御兒(この)守貞(かみさだ)親王は、後白河院の御心に叶はせ給はずとて、帝位にも即(つ)け奉らず、持明院宮と號して、打込められておはしけるを、義時計ひ申して、御位に即け奉らんとありしかども、入道親王の御事なり、御子茂仁(もちひと)親王を帝位に仰ぎ奉るべしとて、今年十歳に成り給ふを取立參(まゐら)せ、御父の守貞には、太政天皇の尊號を奉り、承久三年七月九日、新帝茂仁踐祚あり。後嵯峨院(ごさがのゐん)と申すはこの君の御事なり。攝政道家公は、鎌倉の將軍賴經の御父なれども、順德院の舅なるに依て、官職を改補(かいふ)して、近衞家實(このゑのいへざね)公を以て攝政にぞ補(ふ)せられける。何事も皆、右京大夫義時が心に任せ、鎌倉より計ひ奉る。武蔵守泰時、相模守時房を京都の守護として、六波羅にぞ居ゑ置きたる。叛逆與黨の沒收(もつしゆ)の領地、凡(すべて)三千餘ヶ所なり。二品禪尼の計(はからひ)として、今度勲功の武士に勸賞(けんじやう)あり。功の淺深(せんじん)に隨ひて、充行(あておこな)はる。自分に於いては、立錐の地もなし。かゝる所に謀叛の張本、能登守秀康、河内判官秀澄は戰場を遁出(のがれい)でて、南都に落下り、深く忍びて居たりけるを、武蔵守泰時、聞出し、相模守時房に言合(いひあは)せて、家人等を遣して搜求(さがしもと)むる所に、件の兩人は跡を暗(くらま)して逐電す。東大、興福の兩寺の内に方人(かたうど)ありて、隱置(かくしおき)きぬらんとて、坊中に亂入して搜しければ、佛具、經論までも取散(とりちら)し、狼藉なる事云ふ計(ばかり)なし。衆徒等、大に怒(いかつ)て夜討強盗(ようちがうたう)ありと、訇(ののし)りける程に、衆徒悉く蜂起して、相模守の使を四方より取圍(とりかこ)み、三十餘人を打殺す。下部(しもべ)一二人、辛(からう)じてにげ歸り、六波羅へ申しければ、在京の武士、二千餘騎を催し、南都にぞ向へられける。衆徒この由を聞きて、大に驚き、木津河の邊に來合ひて、使者を以て愁へ申すやう、「軍兵、只今、南都に討入り候はば、衆徒等(しゆうとら)出合ひて力を盡して防戰(ふせぎたゝか)はん。然らば古(いにしへ)平家の逆臣(ぎやくしん)、既に大伽藍を燒失せしに異ならず。天下國家、騷亂の本なるべし、今度叛逆の張本に於いては、尋出して、此方(こなた)より生捕りて參すべし。軍勢をば引取り給へ」と申しければ、衆徒の申す旨、理(ことわり)ありとて、軍勢をば引取りて歸洛あり。不日(ふじつ)に秀康が郎等を搦捕(からめとつ)て、六波羅にぞ送りける。この者の白狀するに依て、十月十六日、この両人の謀秀康、秀澄両人を河内國より生捕て六波羅にぞ渡しける。抑この亂逆(らんげき)は、この兩人の謀計より起れり。重科(ぢうくわ)の責(せめ)、重かるべしとて、關東へ申され、六條洞原にして、首(かうべ)を刎(は)ね、獄門に梟(か)けられたり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱の終焉――後堀河天皇践祚、藤原秀康及び同弟秀澄、捕縛されて六条河原に梟首となる〉なお、標題の「後嵯峨院新帝踐祚」は誤り。底本頭注に『後嵯峨院―御堀河即位の誤、茂仁は』(本文では「もちひと」とルビを振るが)『「とよひと」と讀む』とある(後注参照)。

「懷成親王」仲恭天皇。

「九條の廢帝と申して、王代の數の外にぞおはします」当時は満三歳。廃位後間もなく母方実家である摂政九條道家(天皇叔父で第四代将軍頼経父)邸に引き渡された。十三後の天福二(一二三四)年、十七歳で薨去した。彼が歴代天皇の一人として認められ、第八十五代仲恭天皇と正式に追号されたのは、それから実に六百三十六年後の明治三(一八七〇)年のことであった(以上はウィキの「仲恭天皇」に拠る)。

「守貞親王」(治承三(一一七九)年~貞応二(一二二三)年)は高倉天皇の第二皇子で後鳥羽天皇の同母兄。母は坊門信隆の女殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄に当たる。持明院基家娘陳子を妃として持明院家所縁の持明院を御所としていたが、皇位の望みもない不遇な運命を嘆いて建暦二(一二一二)年に出家、行助入道親王と号していたが、この承久の乱の戦後処理の中で子の後堀河天皇が即位し、後には彼守貞親王に異例の太上天皇号が贈られ、院政を敷いた。『朝廷内の混乱を収め、公武関係の融和にも努めるなど、実績を残したものの、わずか』二年で『腫物を患って崩御』した。院号を後高倉院という。乳母は平知盛夫人の治部卿局(以上はウィキの「守貞親王」に拠る)。

「入道親王の御事なり、御子茂仁親王を帝位に仰ぎ奉るべし」前のウィキの「守貞親王」に、『鎌倉幕府は仲恭天皇を廃位し、「後鳥羽上皇の子孫の皇位継承は認めない」とする方針を決定、非後鳥羽系皇族の擁立を図った。この際、行助の三男・茂仁王より他に出家していない皇族のいないことが判明したため、茂仁王を即位(後堀河天皇)させ、行助入道親王へ太上天皇号を奉って、その院政を敷くことにした。皇位につかず、出家している親王へ太上天皇号を贈ることは全く異例であったが、後鳥羽上皇の院政勢力を駆逐するためにはこれが最適な処置であった』とある。

「茂仁親王」後堀河天皇(建暦二(一二一二)年~天福二(一二三四)年)。当時未だ十歳であった。ウィキの「後堀河天皇によれば、貞永元年二十歳の時、『院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位。3日後に太上天皇となる。しかしながら、元来病弱であり、院政開始後2年足らず』、二十三歳で崩御した。それが中宮竴子(しゅんし/よしこ:九条道家娘。第二皇子を死産後に二十四歳で薨去した。)『の死から間もない時期だったため、かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧の怨霊の祟りだとか、後鳥羽上皇の生霊』(後鳥羽上皇の隠岐での崩御はこの五年後の延応元(一二三九)年で当時は五十四歳)『のなせる怪異であるなどと噂されたといわれる』とある。

「後嵯峨院」後堀河天皇の誤り。後嵯峨天皇はこの次の次の第八十八代天皇。この後堀河天皇の第一皇子で皇位を継承したが四条天皇が仁治三(一二四二)年に十二歳で夭折してしまったため、皇位継承問題が再燃、ウィキの「後嵯峨天皇」によれば、『公卿や幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。九条道家ら公卿勢力は、順徳上皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとした。しかし執権北条泰時および現地六波羅探題の北条重時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した(実は土御門定通の側室は重時の同母妹(竹殿)であったため、邦仁王と北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった)。この駆け引きのため』に、十一日間もの天皇不在という異常事態が発生している。『また、当時の貴族の日記である『平戸記』・『民経記』が邦仁王擁立を非難する記述』『を残すなど、当時の貴族社会に衝撃を与えた』とある。こうした承久の乱に似た幕府絡みの天皇交代劇のスキャンダラスな印象が「北條九代記」の筆者の記憶を齟齬させたものと思われる。肝心の本当の後の後嵯峨天皇即位の記載は「北條九代記」には最早、描かれていない。

「攝政道家公は、鎌倉の將軍賴經の御父なれども、順德院の舅なるに依て、官職を改補して」当時二十八歳であった九条道家は第四代将軍頼経(母は西園寺公経娘倫子)の父であると同時に、承元三(一二〇九)年三月に姉立子が当時の後鳥羽天皇の第三子で後の皇太子(後の土御門天皇)異母弟の守成親王(後の順徳天皇)の中宮であったために、一貫して承久の乱への関与はなかったものの、形の上で連座となって摂政を罷免された(後に関白に復活)。

「近衞家實」(治承三(一一七九)年~仁治三(一二四三)年)は関白近衛基通長男。建永元(一二〇六)年摂政に次いで関白に補任したが、承久の乱で後鳥羽上皇らの挙兵に反対、四月に関白を解任されていた。同年十二月二十日には太政大臣に就任して後堀河天皇の元服加冠の役を務めている。貞応二(一二二三)年の後高倉院崩御以後は名実ともに朝廷の主導者として、幕府に協調したが、安貞二(一二二八)年に西園寺公経(道家の岳父)と組んだ、復権して勢力を拡大した道家の工作によって関白を辞任させられた(これ以後は近衛家と九条家とが交替で摂関を務めるのが慣例化している)。当時四十二歳。彼の娘の長子(ながこ 建保六(一二一八)年~ 建治元(一二七五)年)は後堀河天皇中宮となった。

「二品禪尼」北条政子。

「自分に於いては、立錐の地もなし」御自分では錐を立てるばかりの小さな領地さえも手にされなかったの意で、主語は総大将北条泰時である。

「能登守秀康」承久の乱の首謀者の一人藤原秀康。既注

「河内判官秀澄」藤原秀澄。藤原秀康の弟。既に「山田次郎重忠」注で詳述したが、承久の乱では大将軍として美濃国と尾張国の国境の尾張川の墨俣に陣を敷いたが、京方は少ない兵力を分散させる愚策を犯していた。尾張の住人山田重忠(かの後鳥羽院を「大臆病」と罵った私の大好きな武士(もののふ)である)は、これに対して兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲う積極策を進言したものの、『怯えた秀澄はこれを取り上げず、結局、京方は大敗を喫し、秀澄は京へ逃げ帰った。『承久記』は秀澄を「天性臆病武者なり」「心のたるんだ武者」と酷評している』とウィキの「藤原秀澄」にはある。

「方人」「かたひと」の音変化で、ここは味方・仲間の意。かとうど。

「古平家の逆臣、既に大伽藍を燒失せし」南都焼討。治承四(一一八一)年十二月二十八日に平清盛の命を受けた五男重衡ら平家軍が東大寺・興福寺など奈良の仏教寺院を焼討にした一件。東大寺は金堂(大仏殿)などの主要建物の殆んどを焼失、中心から離れた法華堂・二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰した。参照したウィキの「南都焼討」には当時の右大臣『九条兼実は日記『玉葉』に「凡そ言語の及ぶ所にあらず」と悲嘆の言葉を綴っている。重衡は29日に帰京し、この時持ち帰られた49の首級は、ことごとく溝や堀にうち捨てられたという』とある。「北條九代記 卷第一 南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」なども参照されたい。

「十月十六日」捕縛は十月六日の誤り。以下の「吾妻鏡」参照。「十六日」というのはその通知が幕府に着いた日付である。なお、践祚や論功行賞の前半部の「吾妻鏡」相当箇所(巻二十五の承久三年七月八日・九日・十一日の条)は既に北條九代記 卷第六  京方式將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑(3) 承久の乱【二十九】――天皇及び雲客諸将、配流処刑され、承久の乱終わるの注で引用してある。

 

 「吾妻鏡」承久三(一二二一)年十月十二日の藤原秀康・秀澄逃亡及び南都のによる捕進の約契の条。

〇原文

己戌。六波羅飛脚到着云。去月廿五日。今度合戰張本能登守秀康。河内判官秀澄隱居南都之由。依有其聞。爲相州之計。遣家人等。搜求之間。件兩人者逃去訖。衆徒等蜂起。稱夜討人。圍相州使者合戰。其使者依無勢。悉以被殺戮。纔所殘之僮僕兩三輩。馳還六波羅。訴事由。仍相州。武州相談。翌日〔廿六日。〕午刻。相催在京幷近國勇士數千騎。差向南都。衆徒聞之太周章。來合于木津河邊。先以使者。愁云。軍兵入南都者。不異平家燒失大伽藍之時歟。然者搜尋惡黨等。可虜献者。就懇望之旨。成優恕之儀。歸洛畢。今月二日。自南都搦出秀康之後見。當時有沙汰。又三日夜半。殿下及右幕下亭燒亡。前殿下亭同時雖令放火打消。凡叛逆余殃未盡云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十二日壬戌。六波羅の飛脚到着して云はく、

――去ぬる月廿五日、今度の合戰の張本能登守秀康・河内判官秀澄、南都に隱居するの由、其の聞へ有るに依つて、相州の計らひとして、家人等を遣はし、搜(さぐ)り求むるの間、件の兩人は逃げ去り訖んぬ。衆徒等、蜂起し、夜討人と稱して、相州の使者を圍み、合戰す。其の使者、無勢に依つて、悉く以つて殺戮せられ、纔かに殘る所の僮僕兩三輩、六波羅へ馳せ還り、事の由を訴ふ。仍つて相州、武州に相ひ談じ、翌日〔廿六日。〕午の刻、在京幷びに近國の勇士數千騎を相ひ催して、南都へ差し向く。衆徒、之を聞きて太(はなは)だ周章し、木津河の邊に來り合ふ。先づ以つて使者、愁へて云はく、

「軍兵の南都に入る者、平家が大伽藍を燒失するの時に異ならざらんか。然れば、惡黨等を搜り尋ね、虜(とら)へ献ずべし。」

てへり。懇望の旨に就き、優恕(いうじよ)の儀を成し、歸洛し畢んぬ。――今月二日、南都自り秀康の後見を搦め出だす。當時、沙汰有り。又、三日の夜半、殿下及び右幕下亭、燒亡す。前殿下の亭も、同じ時に放火せしむと雖も打ち消す。凡そ叛逆の余殃(よあう)未だ盡さず――と云々。

・「己戌」は「壬戌」の誤り。

・「優恕の儀」寛大なる心で罪を許す処置。

・「後見」後見人。

・「當時、沙汰有り」即日、自白させた上で処分(恐らく梟首)となったの意であろう。

・「殿下」近衛家実。

・「右幕下」右大将西園寺実氏。

・「前殿下」九条道家。

・「余殃」悪業を重ねた報いとして受けるところの禍い。先祖の悪業の報いとして子孫が受ける災厄。「余慶」の対義語。

 

 次に一つ飛ばして(飛ばした十三日の条は、宮中の警備及び官軍協力者に対する処分についての評議が行われたことと信仰心の篤い北条泰時が早くもこの日、三寅(後の将軍頼経)と北条政息災及び承久の乱の貴賤得脱のために京都に寺を草創を命じたという記事である。ただこの寺、私には不明。識者の御教授を乞うものである)「吾妻鏡」承久三 (一二二一) 年十月十六日の条。

 

○原文

十六日丙寅。六波羅飛脚到着。去六日寅尅。於河内國。虜秀康。秀澄等。是依彼後見白狀也。同八日至六波羅云々。天下乱逆根源起於此兩人謀計。重過之所當。責而有餘歟云々。○やぶちゃんの書き下し文

十六日丙寅。六波羅の飛脚、到着す。去ぬる六日寅の尅、河内國に於いて、秀康・秀澄等を虜(とら)ふ。是れ、彼の後見の白狀に依て也。同じき八日六波羅に至ると云々。天下乱逆の根源は此の兩人の謀計に於て起きる。重過の當る所、責めて餘り有るかと云々。

 

・「寅の尅」午前四時頃。]

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