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2014/08/27

耳嚢 巻之八 鱣魚の怪の事

 鱣魚の怪の事

 

 音羽町(おとはちやう)とかに住(すめ)る町人、至(いたつ)て穴うなぎを釣(つる)事に妙を得、素より魚獵を好みけるが、右町人は水茶屋同樣のものにて、麥食(めし)又はなら茶などあきなひけるが、或日壹人の客來りて麥食を喰ひて、彼是(かれこれ)咄しの序(つひで)、漁もなす事ながら、穴にひそみて居(をり)候處を釣出すなぞは、其罪深し、御身も釣道具など多くあれば、釣もなし給はんが、穴釣などは無用の由、異見なしけるに、折節雨つよくふりければ、彼(かの)なら茶屋、例の好物の釣時節と、やがて支度してどんど橋とかへ行て釣せしに、いかにも大き成(なる)うなぎを得て悦び歸りて、例の通(とほり)調味しけるに、右うなぎの腹より麥食多く出けるとなりと、人の語りければ、又壹人の噺しけるは、夫(それ)に似たる事あり、昔虎の御門御堀浚(さらへ)とかありしに、右人足方引請(ひきうけ)たる親仁うたゝねなしたるに、夢ともなく壹人來り、浚のはなしなど致けるゆゑ、定めて仲ケ間も大勢の事ゆゑ其内ならんと起出(おきいで)て、四方山(よもやま)の事語りさて此度(このたび)の浚ひに付(つき)、うなぎ夥敷(おびただしく)出候はんが、そが中に長さ三四尺、丸みも右に順じ候うなぎ可出(いづべし)。年古く住(すむ)ものなれば殺し給ふな。其外うなぎを多く失ひ給ひそと賴ければ、心よくうけ合(あひ)て有合(ありあひ)の麥食などふるまひ、翌をやくして別れぬ。あけの日、右親仁さわる事ありて、漸く晝の頃、彼者の賴みし事思ひ出して早々浚場所へ至り、うなぎか何ぞ大きなる活物(いきもの)掘出(ほりいだ)し事なきや、何卒(なにとぞ)夫(それ)を貰ひたきと申(まうし)ければ、成程すさまじき鱣(うなぎ)を掘出しぬと申(まうす)ゆゑ、早々其所へ至り見れば、最早打殺(うちころ)しけるとぞ。さて腹をさきて見しに麥飯出(いで)しゆゑ、彌(いよいよ)きのふ來りてたのみしは此うなぎなるべしとて、其後はうなぎ喰ふ事を止(やま)りしと咄す。兩談同樣にて、何れか實、何れか虛なる事をしらず。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:亡魂帰還の怪異から鰻妖(まんよう)が人に化けるという異類変容の怪奇譚で直連関。本格怪談が珍しく続く。

 底本の鈴木氏注に、本話について以下のようにある(例外的に全文を引くがこれは最後の私の補注にどうしても必要であると判断したからである)。

   《引用開始》

 三村翁の注に曰く、「八丁堀なるさる鰻屋へ、誂へに遣りしに、片目の女出で来り、今日は休の由をいふ、使帰りて、其趣をいふ故、さる事ありしとも覚えず、今一度行きて見よとて遣りしに、休みにもあらず、さる片目の女もなしと、不審しけるに、生簀の中の大なる鰻の片目なるか居たりければ、此鰻の殺されん事をいとひて、しかはからひしかと、放ちしと、人の咄せしこともありき。」蒲生飛騨守秀行が只見川へ毒流しをした時、旅僧が山里に宿って、何卒明日の毒流しをお止めになるよう申し上てくれというが、亭主は我ら如き賤し者の言をお取り上げの筈もないと、せめてもの馳走にと栗飯を饗した。翌日の毒流しに一丈四五尺の大鰻が浮き上ったが、その腹から粟の飯が大量に出たと。老媼茶話という会津のことを記した書物を引いて、『想山著聞奇集』にある。麦飯粟飯といって米の飯といわぬのが哀れである。魚王行乞譚の例は多いが、鰻は虚空蔵菩薩の使わしめとして、絶対に口にせぬ土地もあって、そのような信仰ともつながるものであろう。

   《引用終了》

●「魚王行乞譚(ぎょおうぎょうこつたん)」は、平凡社の「世界大百科事典」によれば、魚が昔話や伝説の不可欠の構成要素とされているものに、助けた魚が女の姿となって女房になり幸運を与える(「魚女房」)、動物が尾で魚を釣ろうとして氷に閉じられしっぽを失う(「尻尾の釣り」)などがあり、魚を捕らえて帰る途中で怪しいことが起こり、復讐を受ける(「おとぼう淵」「よなたま」)といった「物言う魚」の伝説譚は、魚が水の霊の仮の姿であるという信仰があったことを物語っているとし、淵の魚をとりつくす毒流し漁を準備しているとき、それを戒める旅僧に食物を与えたところ、獲物の大魚の腹からその食物が現れ、漁に参加した者が祟りを受けたという話や、川魚どもの首領が人に姿を変えて現れて毒流しを準備する人々に中止を求めるも住民はそれを聴かず、食物を与えて帰す。いざ、毒流しで多くの魚を捕ってみると、その中の特に巨大な魚の腹から先に与えた食物が出てきたので、人々はこの行為を悔いたという話(毒のあることは知りながら、それを用いることを忌むために発生した説話と考えられる)などを特に「魚王行乞譚」と称し、以上のような水神=魚という古い信仰の流れの末に位置する説話である、とする。

●「一丈四五尺」は約四・二五~四・五五メートル。

●「老媼茶話」は三坂春編(みさかはるよし 宝永元・元禄十七(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序を持つ怪談集。最も知られるのは「入定の執念」で、これは原文と私の注及び現代語訳をリンク先で読める。未見の方は是非。私がハマりにハマった大変面白い怪談である。【2018年3月21日追記:同「老媼茶話」全篇はカテゴリ「怪奇談集」で電子化注を2018年2月5日に完遂しているので、参照されたい。】

●「想山著聞奇集」(しょうざんちょもんじゅう)は江戸後期の名古屋藩士で書家・随筆家であった三好想山(生没年未詳)の作。想山は文政二(一八一九)年より江戸定府となって同地で没したが、本書は彼が聴いた尾張地方や江戸の奇談五十七話を集めたものである。【2018年3月21日追記:同「想山著聞奇集」全篇はカテゴリ「怪奇談集」で電子化注を2017年6月19日に完遂しているので、参照されたい。】

 幸い、私はこの「耳嚢」に前後する孰れの書も所持しているので、現代語訳の後に原文と簡単な注を附しておくこととする。

 以下、本文注を示す。

・「鱣魚」鰻。標題のここは「せんぎよ(せんぎょ)」と音読みしていよう。

・「音羽町」日本橋の音羽町と小石川の音羽町の二つがあった。日本橋の音羽町というのは東京都日本橋印刷工業組合日本橋支部の公式サイト内の「日本橋“町”物語」によれば、『当町域の東にあたる楓川に面する地域は、中世には海岸部でしたが、江戸開府直後に櫛の歯の様に何本かの深い入堀が造成された所で、江戸城の築城用材木や石材を陸揚げしたところで』あったが、寛永一〇(一六三三)年頃には幾つかが埋め立てられ、後の元禄三(一六九〇)年には、『残りの入堀もついに姿を消し、音羽町小松町という町が成立』したとあり、そこは現在の日本橋三丁目南の地域に当たる、とある。底本の鈴木氏及び岩波版の長谷川氏の注はそれを、現在の中央区日本橋(鈴木氏はここが「日本橋江戸橋」とするが、こんな住所はない)一丁目の一部分とするが、採らない。小石川の音羽町は現在の文京区音羽一丁目及び音羽二丁目。鈴木氏も長谷川氏も小石川の音羽町と推定しておられるのは、以下に出る「どんど橋」に近い方を選んだということであろう。

・「穴うなぎを釣事」これは鰻漁の方法の一つで、巣穴に竹の棒を挿し入れて鰻を釣る穴釣りと呼ばれるものである。一メートルほどの竹竿に並行して付けた道糸の先に釣針を附けたシンプルな漁具で、河岸や小川の土手のハングした部分にある鰻の巣穴を河畔から探し出し、竹竿の先の釣り針に餌(蚯蚓)をつけて、巣穴に挿し入れ、エサを喰わせ、間合いを糸で探りながらゆっくりと竹の棒を引き抜いて行き、十分に喰ったところで一気に引き抜く。私は小学校二年生の頃、家の裏山(藤沢市渡内)の溜め池から流れ出る小川でこの穴釣りをしているおじいさんにやり方を教えて貰った。……今はもう、溜め池も小川も田圃もタニシもモッゴもいなくなった。池は埋め立てれられて、アリス御用達の公園となり、周りは一面の住宅地と化して、小川は完全な暗渠になっている。……この間、アリスの散歩で公園で親しくなった少女に鰻釣りの話も含めて往昔のここの話をしたら、笑って「嘘でしょ?」と言われた……

・「麥食」のルビは底本のもの。

・「奈良茶」奈良茶飯。ウィキの「奈良茶飯」によれば、『炊き込みご飯の一種で、奈良県の各地の郷土料理』。『少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだもので、しじみの味噌汁が付くこともある』。『元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった。江戸時代初期の『料理物語』には、茶を袋に入れて小豆とともに煎じ、更に大豆と米を炒った物を混ぜて山椒や塩で味付けして炊いた飯を指すと記され、更に人によってはササゲ・クワイ・焼栗なども混ぜたという。現在も香川県の郷土料理となっている茶米飯は、米と大豆を炒ってものを少々の塩を入れた番茶で炊いて作られており、『料理物語』に記された奈良茶飯と同系統の料理であるとみられる』。『日本の外食文化は、江戸時代前期(明暦の大火以降)に江戸市中に現れた浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まったと言われて』おり、『これは現在の定食の原形と言えるもので、奈良茶飯に汁と菜をつけて供され、菜には豆腐のあんかけがよく出された』『これにより、奈良茶飯は、関西よりもむしろ江戸の食として広まっていった』とある。

・「折節雨つよくふりければ、彼なら茶屋、例の好物の釣時節と、やがて支度してどんど橋とかへ行て釣せし」何故、雨が降ると鰻が釣れやすくなるのか、不詳。降雨と濁りで穴を探すのも難しいし、足場も悪く危険である。識者の御教授を乞うものである(ただ、もしかすると他の釣り人が引き上げるから逆に釣果が上がるということはあるのかも知れない。激しい降りでない限りは、鰻の釣果には影響がないという記載もネット上ににはある。雨が降ると鰻が釣れ易くなるという言説がまさにネット上にあったが、実際の釣り人によるとこれはやはり誤りのようである。なお基本、他の漁法では鰻は夜行性であるから夜の方がよく釣れるらしい)。

・「どんど橋」ASHY 氏のサイト「東京探訪」の「船河原橋(ふなかわらばし)」によれば、現在の文京区後楽と新宿区揚場町の間で外堀通りが神田川を渡る船河原橋の俗称である。『この橋の創架は定かではないが、神田川及び外濠の外周を走る「外堀通り」は、神田川が開削された頃よりあったようで、この『船河原橋』も、江戸の初期には架けられていたと推測される』とあり、『『ドンド橋』とも『ドンドン橋』とも呼ばれた『船河原橋』とその上流の「大洗堰」との間は、有名な紫鯉(紫がかった黒い鯉)が放流され、禁漁区となっていたことから、「おとめ川」とも呼ばれていたらしい。紫鯉はとても美味で、将軍の食膳にだけのせるものであったと伝えられる。それでも『ドンド橋』のすぐ下は江戸川の落ち口で深瀬となっており、ここに落ちた魚は漁猟することが出来たため、いつも多くの釣り人で賑わっていたと伝えられている』とあって、本話で釣好きの麦飯屋が来るのに確かに相応しい場所である。また、「どんど橋」「どんどん橋」(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこちら)の由来は、その橋下が江戸川の落ち口となっていたというから、その落水の音をオノマトペイアしたものではなかろうかと私は推測するが、如何?

・「三四尺」九十一センチメートルから一メートル二十センチメートル。

・「順じ」底本では「順」の右に『(準)』の補正注がある。

・「翌をやくして」底本では「やく」の右には『(約)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鰻の怪の事

 

 ある折り、人々と話して御座ったところ、一人の御仁が次のような話をした。

   *

……小石川は音羽町とかに住んでおった町人は、川縁りの穴に潜んでおる鰻を釣ることに於いては至って妙技を持ちおり、当然のことながら、魚捕りが、これ、三度の飯よりも好きな男であったが、本職は水茶屋同様のぱっとしない店を営み、麦飯や奈良茶飯なんどを商っておった。

 ある日のこと、一人の客が参って麦飯を食うては、主人の男に声を掛け、あれやこれや世間話を致いておったところ、ふと、徐ろに、

「……漁もいろいろと御座れど……穴に静かに潜み暮らしておる鰻を……釣り出だすなんどと申すは……これ、その罪、まっこと、深いものじゃて。……お前さまも……見たところ、店内(みせうち)や外に釣道具の多きにあればこそ……釣りをなさるるので御座ろうが……のぅ……特に罪深きは穴釣り――これ、なさらぬが身のため――じゃて……」

と意見した。

 丁度その時、雨が強う降って参った。

 すると、かの釣り気違いの奈良茶屋主人、

「――好物の鰻! その穴釣りの恰好の時節到来じゃ!」

と叫ぶと、話しておった男には、

「早や、今日はもう、店じまいじゃ。また、お出でなせえ。」

と告ぐるや、慌ただしく店を仕舞うと、直ぐに支度致いて、どんど橋とかへと出かけて行き、得意の穴釣りを始めた。

 すると、これがまあ、驚くほど大きなる鰻を挿し捕ったによって、大喜びして店へと戻った。

 釣り立てを蒲焼きにせんものと、いつも通りに裂いて調理せんとしたところが……

……ぶっとい鰻の

……その肝の中から

……未だ形を残したままの

……麦飯が

……どっさりと

……出て参った……そうな…………

   *

 と、それを聴いて御座った、別の御仁が、

「……いや……まさにそれに似た話……これ、聴いたことが御座る。……」

と次のように語り出(いだ)いた。

   *

 昔、虎の門門前の外濠の浚(さら)いがあった時のこととか。

 この浚いの人足方の現場の差配を引き受けたある親仁、浚いの前日のこと、家にて転寝(うたたね)をしておるうち、何やらん、夢うつつに、誰かが人が一人、そばへやって参り、彼に向って明日の堀浚いの話なんどをし始めたによって、

『……こ奴、見知らねえ奴だけんど、まあ、大勢の仲間の内の、新参の一人でもあるんじゃろう。……』

と思って、ごろ寝のままというのも何かと思い、起き直って、話を聴いてやった。

 すると、あれこれと四方山話を致いておるうちに、その者、またしても明日の浚いの話しに戻って参った。

「……この度の親方の堀浚いにあっては……堀から鰻が夥しゅう捕れるものとは存じますが……その中に……長さ三、四尺……その胴周りもその長きに相応の……太き大物が見つかるはずで御座いまするが……それは年古きより……かの堀内に棲んで御座いまするものにてあれば……どうか……お殺しなさいまするな……また……どうか……その外の鰻も……これ……無駄に多くは……その命をお奪いなさらぬよう……どうか!……」

と何とも妙なることを頼んで御座った。

 この親方、しばしば泥鰌放ちや鰻放ち、亀放ちなんどを致すを好む男にてもあったれば、

「……唐突に妙な願いじゃが。あいよ! 請け負うたぜ!」

と気軽に受けがい、丁度、折から家人が作って用意して御座った、ありあわせの麦飯なんどまで振る舞(も)うた上、

「じゃあな。明日(あした)は浚い方、宜しく頼むぜ!」

「……へえ……儂(あっし)とのお約束も……どうか……宜しゅうに……」

と言い交して別れた。

 ところが翌朝のこと、この親仁、急な用の出来(しゅったい)致いて、午前中一杯は堀浚いの現場に赴くことが出来ず、浚いは差配した手下の者に任せおいた。

 やっと昼頃になって、

「おう? そうじゃ! 昨日の奴に頼まれておったを忘れとったわ。」

と男との鰻の約束を思い出(いだ)いて、早々に虎の門の外濠へと出向いて御座った。

 堀端へ立つと、

「おおぅい!――鰻か何か――何ぞ、ともかくも大きなる生き物――掘り出さなんだかぁ!?――もしあったらなぁ!――何卒、それを貰い受けたいんじゃがの!」

とあちこちに声を掛けて回ったところ、

「へえ! 如何にも! 凄まじく大きなる鰻を掘り出しやしたゼ!」

と申す者が御座ったによって、直ぐにそこへ降り下って見たところが、

「もう、かれこれ、昼前のことでげして。浚い一同の晩飯の蒲焼きに恰好じゃということで、へえ、既に皆して、棒で打ち殺して仕舞いました。……」

と申す。

 親仁は、

「……そうか……まあ……しゃあないな。……さても! もう仕事も上がりじゃ。大きさが大きさじゃけえの。運ぶより、一つ、ここでざっくっりと裂いちまいな。」

 と命じた。

「合点! 承知!」

と心得のある人足が、傍らに打ち上げてあった朽木の上で裂き始めた。

……と……

……その腹を裂いてみると

……そのぬらぬらとした肝の中から

……麦飯が

……出で……くる……

 親仁は、

「……そうか。……昨日、来って命乞い頼んだは……これ、実はこのうなぎで御座ったか。……」

と呟いて、深く悔悟致いたと申す。……

 その後は親仁は生涯、鰻を食わなんだと申すことじゃ。…………

   *

 この二つの話は全体の枠組みが非常によく似ておる。

 しかし、孰れが実話で、孰れが虚言なるかは、これ、分からぬ。

 

[やぶちゃん補注:先に注の冒頭で示した「老媼茶話」の巻之二にある「只見川毒流(ただみがわどくながし)」をまず参考引用する。底本は国書刊行会一九九二年刊の「叢書江戸文庫26 近世奇談集成[一]」を用いたが、恣意的に正字化し、読みも歴史的仮名遣に直した。読点・記号・読みの一部は私が追加した(カタカナは原文のルビ)。編者による漢字傍注(訂正を含む)は【 】で、編者による補綴字は《 》で示した。踊り字「〱」は正字化した。〔 〕内は原文ではポイント落ちの割注である。【2017年10月7日追記:二日前にブログ・カテゴリ「怪奇談集」「老媼茶話」電子化注で本篇「只見川毒流」を公開したが、以下は底本に概ね準拠した本文であるので、そのまま残すこととした。リンク先のそれは本文を読み易く改訂したもので、注も追加し、全体にブラッシュ・アップしてあるので、そちらも読まれんことを切に望む。】

   *

     只見川毒流(ただみがはどくながし) 

慶長十六年辛亥(かのとゐ)七月、蒲生飛驒守秀行卿、只見川毒流をし玉へり。柿澁(かきしぶ)・蓼(たで)・山椒の皮、家々の民家にあてゝ舂(つき)はたく。此折節ふじといふ山里旅行の僧、夕暮來り、宿をかり、あるし【主】を呼て此度の毒流の事を語り出し、「有性非性(うじやうひじやう)に及(およぶ)まて命を惜まさるものなし。承るに當大守明日(アス)此川へ毒流しをなし玉ふと也。是何の益そや。果して業報(ごふはう)得玉ふへし。何とそ貴殿其筋へ申上とゝめ玉へかし。莫太(ハクタイ)の善根なるへし。魚鼈(キヨベツ)の死骨を見玉ふとて大守の御なくさみにもなるまし。いらさることをなし給ふ事ぞかし」《と》深く歎(なげき)ける。あるしも旅僧の志(こころざし)をあわれみ申樣(まうすやう)、「御僧の善根至極斷(ことわり)にて候得共、最早毒流しも明日の事に候上、我々しきのいやしきもの、上樣へ申上候とて御取上も是あるまし。此事先達て御家老の人々御諫(イサメ)ありしかとも、御承引無御座(ござなし)と承り候」といふ。あるし、「我身隨分の貧者にて、まいらする物もなし。侘(わび)しくとも聞召(きこしめし)候へ」とて柏の葉に粟の飯をもりて、旅僧をもてなしける。夜明て僧深く愁(うれひ)たる風情にて、いづくともなく出(いで)されり。

 拂曉(フツキヤウ)に家々より件(くだん)の毒類持(もち)はこひ川上より流しける。異類(イルイ)の魚鼈(キヨヘツ)死(しに)もやらす、ふらふらとして浮出(うきいで)ける。さもすさましき毒蛇も浮出ける。其内に壹丈四五尺斗(ばかり)の鰻浮出けるに、その腹、大きにふとかりしかは、村人、腹をさき見るに、あわ【粟】の飯多く有。彼(かの)あるし是を見て夕べ宿せし旅僧の事を語りけるにそ、聞入(ききいれ)、「扨(さて)は、其坊主は、うなきの變化(へんげ)來りけるよ」と皆々あわれに思ひける。

 同年八月一日辰の刻、大地震山崩會津川の下(しも)の流(ながれ)をふさき、洪水、會津四郡を浸さんとす。秀行の長臣町野左近・岡野半兵衞、郡中の役夫を集め、是を堀【掘(ほり)】ひらく。此時山崎の胡水(コスイ)出來たり。柳津(やないづ)の舞臺も此地震に崩れ、川へ落(おち)、塔寺(とうでら)の觀音堂・新宮の拜殿も、たをれたり。其明(あく)る年五月十四日、秀行卿逝(セイ)し玉へり。人皆、「河伯・龍神の祟(タヽ)り也」と恐れあへり。秀行卿をは允殿館(じようどのがたて)に葬る。

 號弘眞院殿前拾遺覺山靜雲〔秀行卿御影石塚蓮臺寺にあり

 秀行卿御辭世、

  人ぞしる風もうこかすさはくとはまつとおもわぬ峯の嵐を

■やぶちゃん注

●「慶長十六年」西暦一六一一年。

●「蒲生飛驒守秀行」(天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年)は安土桃山から江戸初期にかけての大名。陸奥会津藩主。蒲生賦秀(氏郷)嫡男。以下、ウィキの「蒲生秀行」によれば、文禄四(一五九五)年に父氏郷が急死したために家督を継いだ。この時、羽柴の名字を与えられた。遺領相続について太閤豊臣秀吉の下した裁定は、会津領を収公して、改めて近江に二万石を与えるというものであったが、関白秀次が会津領の相続を認めたことにより、一転して会津九十二万石の相続を許されている。『その後、秀吉の命で徳川家康の娘・振姫を正室に迎えることを条件に、改めて会津領の相続が許されたが、まだ若年の秀行は父に比べて器量に劣り、そのため家中を上手く統制できず、ついには重臣同士の対立を招いて御家騒動(蒲生騒動)が起こった』。慶長三(一五九八)年には秀吉の命で会津九十二万石から宇都宮十八万石に移封されたが、その理由としては、『先述の蒲生騒動の他に、秀行の母すなわち織田信長の娘の冬姫が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが冬姫が尼になって貞節を守った事を不愉快に思った』からとする説、秀行が家康の娘(家康三女振姫(正清院))を『娶っていた親家康派のため石田三成が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説』などもある。『秀行は武家屋敷を作り町人の住まいと明確に区分し、城下への入口を設けて番所を置くなどして城下の整備を行ない、蒲生氏の故郷である近江日野からやって来た商人を御用商人として城の北側を走る釜川べりに住まわせ、日野町と名づけて商業の発展を期した』。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いで上杉景勝を討つため、徳川秀忠は宇都宮に入』り、『その後、秀忠も家康も西に軍を向けて出陣したため、秀行は本拠の宇都宮で上杉景勝(秀吉に旧蒲生領の会津を与えられた)の軍の牽制と城下の治安維持を命じられた』。『戦後、その軍功によって、没収された上杉領のうちから陸奥に』六十万石を与えられて会津に復帰、『秀行は家康の娘と結婚していたため、江戸幕府成立後も徳川氏の一門衆として重用された』。しかしその後の会津地震や家中騒動の再燃なども重なり、その心労などのために享年三十歳の若さで逝去している。『器量においては凡庸という評価がなされているが、父は氏郷、母は信長の娘、正室は家康の娘という英雄の血を受け継いだ貴公子であった。蒲生騒動の背景には、蒲生氏の減移封を目論んでいた秀吉及び石田三成らが騒動を裏で操って秀行を陥れたという説もあり、秀行の年齢・器量のみが原因と断定するには疑問が残る』とある。

●「大地震」俗に「慶長会津地震」又は「会津慶長地震」と呼ばれ、慶長一六年八月二十一日(一六一一年九月二十七日)午前九時頃、会津盆地西縁断層帯付近を震源として発生したもの。一説によれば震源は大沼郡三島町滝谷付近ともいわれるが、地震の規模マグニチュードは6・9程度と推定されており、震源が浅かったために局地的には震度6強から7に相当する激しい揺れがあったとされる。記録によれば、家屋の被害は会津一円に及び倒壊家屋は二万戸余り、死者は三千七百人に上った。鶴ヶ城の石垣が軒並み崩れ落ち、七層の天守閣が傾いたほか、『会津坂下町塔寺の恵隆寺(えりゅうじ・立木観音堂)や柳津町の円蔵寺、喜多方市慶徳町の新宮熊野神社、西会津町の如法寺にも大きな被害が出たという』。『また各地で地すべりや山崩れに見まわれ、特に喜多方市慶徳町山科付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(当時の会津川)が堰き止められたため』、東西約四~五キロメートル、南北約二~四キロメートル、面積にして一〇~十六平方キロメートルに及ぶ山崎新湖が誕生、二十三もの集落が浸水したともいう。『その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、河道バイパスを設置する復旧工事(現在は治水工事により三日月湖化している部分に排水)に』よって、三日目あたりから徐々に水が引き始めた(ここが本文の「胡水」の叙述に相当すると思われる。「胡」は会津の「西方」を意味するものと思われる)。『しかしその後の大水害もあり山崎湖が完全に消滅するには』三十四年(一説では五十五年)もの歳月を要し、『そのため移転を余儀なくされた集落も数多』くあった。『さらに旧越後街道の一部がこの山崎湖に水没し、かつ勝負沢峠付近も土砂崩れにより不通となって、同街道は、現在の会津坂下町内-鐘撞堂峠経由に変更されたため、同町はその後繁栄することにな』ったとある(以上はウィキの「会津地震」に拠る)。

●「柳津の舞臺」「柳津」は現在の福島県河沼郡柳津町。やはり会津の西方にある。ここの只見川畔にある臨済宗妙心寺派の霊岩山円蔵寺(本尊は釈迦如来)の虚空蔵堂は「柳津虚空蔵(やないづこくぞう)」として知られ、その本堂の前は舞台になっている。

●「塔寺の觀音堂」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺。本尊は十一面千手観音菩薩で、寺自体を立木観音と通称する。この観音も会津地震で倒壊している。

●「新宮の拜殿」現在の福島県喜多方市慶徳町新宮にある新宮熊野神社。ウィキの「新宮熊野神社」によれば、天喜三(一〇五五)年の『前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後』の寛治三(一〇八九)年の『後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという』源氏所縁の神社であったが、後、盛衰を繰り返した『慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時』、本社は五十石を支給されたが、『会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった』とある。

●「允殿館」現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。

●「石塚蓮臺寺」現在の福島県会津若松市城西町にある真言宗石塚山蓮臺寺。通称、石塚観音。キリシタンであった秀行の正妻で、家康三女の大のキリシタン嫌いであった振姫が厚く信仰した(秀行没後、振姫は他の藩主に嫁いでいる)。但し、戊申戦争の際に本寺は焼け落ちた。現存するものの、常住する僧もいないらしい(個人サイト「天上の青」の石塚観音に拠った)。

 以上見るように、蒲生秀行が毒流を強行した只見川周辺及び彼が助力した会津を守護するはずの神社仏閣が悉く倒壊、秀行もほどなく死したという紛れもない事実を殊更に並べ示すことによって、まさに典型的な祟り系の魚王行乞譚の様相を本話が美事に呈していることがはっきりと分かる、優れた構成を持つ伝承、怪奇譚であると思う。

   *

 次に「想山著聞集」の「イハナの坊主に化けたる事 幷、鰻同斷の事」から後半部の「鰻同斷の事」の部分を引用する。底本は本「耳嚢」の底本と同じ、三一書房一九七〇年刊の「日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞」の正字正仮名版を用いた。記号は前に準ずる。引用文は「老媼茶話」とほぼ変化はないが、著者による貴重な書誌学的・博物学注記が附されてあるので、煩を厭わず全文出す。【2017年5月22日追記:「想山著聞奇集 卷の參」の「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」の全文電子化注をブログ公開したので、ここにリンクを張っておく。

 

 又、老媼茶話に曰。慶長十六年〔辛亥〕七月、蒲生飛驒守秀行卿、只見川毒流しをし給へり。柿澁、蓼、山椒の皮、家々の民家にあてゝ舂(つき)はたく。此折節、フシと云山里へ、遊行の僧、夕暮に來り、宿をかり、主を呼て、此度の毒流しのことを語り出し、有情非情に及まで、命を惜まざるものなし。承るに、當大守、明日、此川へ毒流しをなし給ふと也。是、何の益ぞや。果して業報を得玉ふべし。何卒、貴殿、其筋へ申上、とゞめ玉へかし。莫大の善根なるべし。魚鼈の死骨を見給ふとて、大守の御慰みにも成まじ。いらざる事をなし給ふ事ぞかしと、深く歎きける。主も旅僧の志をあはれみ、申樣、御僧の善根、至極、理にて候得ども、最早、毒流も明日の事に候上、我々しきの賤きもの、上樣へ申上候とて、御取上も是有まじ。此事、先達て、御家老の人々、御諫め有しかども、御承引御座なく候と承り候ひしと云。扨、我身も隨分の貧者にて、參らする物もなし、侘しくとも聞し召候へとて、柏の葉に粟の飯をもりて、旅僧をもてなしける。夜明て、僧深く愁たる風情にて、いづくともなく出去れり。扨又、曉には、家々より件の毒類持運び、川上より流しける。異類の魚鼈、死もやらず。ぶらぶらとして、さしもすさまじき毒蛇ども浮出ける。其内に、壹丈四五尺計の鰻、浮出けるに、その腹、大きにふとかりしかは、村人、腹をさき見るに、粟の飯、多く有。彼あるじ、是を見て、夕べ宿せし旅僧の事を語りけるにぞ、聞人、扨は其坊主は鰻の變化來りけるよと、皆々憐れに思ひける。同年八月廿二日、辰の刻、大地震山崩れ、會津川の下の流をふさぎ、洪水に會津四群を浸さんとす。秀行の長臣、町野左近・岡野半兵衞、郡中の役夫を集め是を掘開く。此時、山崎の湖水、出來たり。柳津の舞臺も、此地震に崩れ、川へ落ち、塔寺の觀音堂、新宮の拜殿も倒れたり。其明る年五月十四日、秀行卿逝し給へり。人皆、河伯龍神の祟りなりと恐れあへりと云々。〔此茶話と云は、今會津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後、寛保年間にしるす書にて、元十六卷有て、會津の事を多く記したり、此本、今、零本と成て、漸七八卷を存せり、尤、其家にも全本なしと聞傳ふ、如何にや、多く慥成、怪談等を書す。〕全く同日の談也。依て、併せ記し置きぬ。鰻も數百歳を經ては、靈に通ずるもの歟。〔七の卷に記し置きたる大鰻の談と見合わすべし。〕扨又、毒流しの事は、古くより有事と見えたり。三代實錄に、元慶六年六月三日、僧正遍照、七ケ條を起請せし中に、流ㇾ毒捕ㇾ魚事を禁ぜらるゝ條有。又、東鑑に、文治四年六月十九日、二季彼岸放生會の間、於東國有ㇾ被ㇾ禁斷殺生、其上如燒狩毒流之類向後可停止之由、被ㇾ定訖云々。左すれば、上古は、毒流しは國禁なる事と知れたり。毒流しは、山椒の皮と薯蕷と石灰とを和して沈る所も有。又は、辛皮(からかは)〔山椒の皮也。〕胡桃の皮、唐辛しを石灰にて煮詰、或は多葉粉(たばこ)の莖、又は澁かきなど、國々にて色々の仕方有事と見えたり。大同小異なり。

   *

●「零本」は「れいほん」と読む。書物の大部分の巻数が失われ、極僅かに残っているもの。端本(はほん)。この三好想山の割注は原「老媼茶話」の非常に重要な書誌学的記載であるが、本話とは直接関係がないので、将来的に「想山著聞集」の電子化を手掛けた際に考証したい(何時になることやら)。

●「全く同日の談也。依て、併せ記し置きぬ」省略した前半の「イハナの坊主に化けたる事」と同様であるから、併置したという意。信濃と信州の境、御岳山山麓近くで若者が毒揉みをして川漁せんと立ち入り、まずはと腹ごしらえをしているとそこに僧が現われて、『毒流しはよからぬ事に候』と諫める。若者たちが団子や飯を饗応して僧は食った後に立ち去る。若者らは結局、毒揉みをし、「六尺程の」(約一八二センチメートル)の巨大岩魚を捕まえるが、食わんとして腹を裂いたところが、胆の中からは、先にかの僧に与えた団子や飯粒がぞろぞろと出できて、若者らは恐懼するという怪奇譚である(ここでも筆者三好想山の岩魚に関する博物学的注が炸裂して面白いのだが、涙を呑んで向後に譲る)。これに限らず、ここに始まる一連の魚妖譚は皆、複式夢幻能のパロディみたようで実に面白い。

●「元慶六年」西暦八八二年。

●「東鑑に、文治四年六月十九日、二季彼岸放生會の間、於東國有ㇾ被ㇾ禁斷殺生、其上如燒狩毒流之類向後可停止之由、被ㇾ定訖云々」文治四年は西暦一一八八年。以下に正式な原本に拠って書き下したものを示す(末が省略されている)。未だ頼朝のである。

十九日 癸未(みづのとひつじ) 二季彼岸放生會(はうじやうゑ)の間、東國に於いて殺生(せつしやう)を斷殺せらるべきの由、其の上、燒狩(やきがり)・毒流しの類のごときは、向後、停止(ちやうじ)すべきの由、定められ訖んぬ。奏聞(そうもん)を經(へ)らるべしと云々。

●「薯蕷」「しよよ(しょよ)/じよよ(じょよ)」と読む。ナガイモ又はヤマノイモの別名。]

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