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« 僕の長女の28歳の誕生日 | トップページ | 橋本多佳子句集「海彦」 青蘆原 Ⅱ »

2014/08/25

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の貝類と現生種の比較

 十一月二十二日。我々は再び大森の貝塚へ、それを構成する貝殻の各種を集めに行き、次に海岸に打上げられた生きた標本を集めに行った。両者を比較するためである。すでに私は貝殻の大きさのみならず、釣合にも相違のあることに気がついていた。二枚貝の三つの種( Arca granosalamarckianaponderosa )は、いずれも帆立貝みたいに、放射する脈を持っているのだが、それ等は貝塚に堆積された時よりも放射脈の数を増し、バイの類のある種( Eburna )の殻頂は、現在のものの方が尖っているし、他の種( Lunatia )は前より円味を帯びている【*】。

 

* これ等、及びその他の相違は私の大森貝墟に関する報告の中に発表してある。貝殻の変化に関する観察の部分はダーウィンに送ったが、それに対して彼は、「全有機世界は何という間断なき変化の状態にあるのだろう!」と返事をした。(『続チャールス・ダーウィン書簡集』第一巻三八三頁)

 

[やぶちゃん注:この明治一一(一八七八)年十一月二十二日の大森貝塚発掘と近隣の大森海岸での現生種の貝の貝殻を採集したビーチ・コーミングの記事は、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」本文や年譜にも載らないが、見逃すべきでない非常に重要な箇所であると私は思っている。以下に一九八三年岩波文庫刊の近藤芳郎・佐原真編訳「大森貝塚」の正式論文「大森貝塚」最終図版である「図版 18」を示す。キャプションは、

   《引用開始》

図版18 注意 この図版の図はすべて実大[やぶちゃん注:ここに当該引用所では図版の縮尺が約1/3であるという編訳者による注記が入るが、私の図はほぼ原寸大に戻してある。以下の冒頭の文は底本では全体が一字下げである。ピリオドとコンマは句読点に代えた。]

2つの図をならべた場合は,左が大森貝塚出土の昔の形態。右図は、大森海岸採集の現代の形態。輪郭線と点線とをともにしめした場合は、点線が昔の形態をあらわす。+記号をつけた図も、昔の形態であることをしめしている。

図1 オキシジミ

図2 アサリの類

図3 シオフキ

図4 オオノガイ

図5 アカガイ

図6 カガミガイ

図7 ハマグリ

図8 ツメタガイ

図9 バイ

   《引用終了》

Oomoriplate18

である。なお、上記画像については他者の図像作品を平面的に写しただけの写真には著作権は発生しないという文化庁の公式判断がある。キャプションなしには図の意味は分からぬから、上記も引用の許容範囲と判断する。論文「大森貝塚」では「大昔および現生の大森軟体動物相の比較」という一章が設けられて(底本五八~八五頁)、詳細な考察が行われている。是非、訳書を参照されたい。

 なお、モースは一八八〇年四月十二月号の『ネイチャー』に寄せた「大森貝塚 付 チャールズ・ダーウィン添え書き」の中で、彼の大森貝塚の正式な報告書“Shell Mounds of Omori”(英文の紀要“Memoirs of the Science Department, University of Tokio, Japan”(「日本・東京大学・理学部紀要」)の第一部第一巻。明治一二(一八七九)年七月(月は序文クレジットから推定)刊)の銅版刷最終図版(後掲する)で、同貝塚で発掘した貝類は『一部を除いてすべての種が、近くの海岸で入手できた同一種の形状と比較してある』とし、続けて『私は、貝塚の貝の形状を、新潟・神戸・長崎の同じ貝の形状と比較するのが妥当とは思わなかった。遠く離れた地方間で種が示す変異をいささかでも知っている人には、その理由は明白であろう』と述べている(「新潟・神戸・長崎の同じ貝の形状と比較する」とあるのは正式論文「大森貝塚」では実際にそれらとの比較対象の言及があることへの一種の自己弁護とも言える。以上の引用は岩波文庫版「大森貝塚」の中の「関連資料」に拠った)。ただ、モースがフネガイ科の放射肋は「貝塚に堆積された時よりも放射脈の数を増し、バイの類のある種( Eburna )の殻頂は、現在のものの方が尖っている」と断言している点には、やや疑問を感じる。モースは腕足類の専門家ではあるが、二枚貝についての種同定も万全であったとは必ずしも言えないと思うからである。アカガイやサルボウなど、フネガイ科の現生種でも多様な種がおり、それらの近縁別種では放射肋の数が異なる以外は、蝶番の形状などの微細部分の検証をしないと、非常によく似ている。モースが杜撰だったというのではなく、当時の貝類分類は未発達で(後注参照)、しかも前代の博物学の大まかな外見観察(放射肋の本数で断定する)に頼っていた傾向がここには感じられるからである(しかもモースはそれまで未見であった本邦産の種についての知識も当然ない)。即ち、モースが比較対照した個体は実は貝塚出土の種とは異なる近縁種であった可能性を排除出来ないと思うのである。これについては大方の御批判を俟つものではある。

Arca granosa」斧足綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ科リュウキュウサルボウ亜科ハイガイであるが、現在の学名は Tegillarca granosa である。当時はフネガイ科 Arcidae より下位の属が細分化されていなかったためであろう(以下も同様に現在の学名と異なる)。因みにフネガイ科のタイプ属名 Arca はラテン語で「箱」の意で、タイプ種である一見忘れ難い学名を持つノアノハコブネガイ Arca noae の殻の形に由来している。

lamarckiana」不審。モースは「二枚貝の三つの種」(原文“Three species of a bivalve shell”)としているが、Arca lamarckiana という学名を有する二枚貝の種はいない(当時はこう学名を称したフネガイ科の二枚貝がいたのかも知れないが、検索では探し得なかった)。寧ろ、このラマルクの名を冠したものは「大森貝塚」の「大昔および現生の大森軟体動物相の比較」に、

 Natica Lamarckiana Duclos

として載る巻貝(先の図18の図8)、現在の腹足綱直腹足亜綱新生腹足上吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイGlossaulax didyma ではなかろうか? しかしモースが誤記したとは到底思われないので、もう少し、調べて見たい。

ponderosa」これもやや不審。Arca ponderosa という種の二枚貝の種はいない。但し、当時、フネガイ目フネガイ科フクレサンカクサルボウNoetia ponderosa がかく呼ばれていたものとは思われる。なお、これは巻貝の現在の腹足綱前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ超科トウカムリ科レンジャクガイ(練鵲貝) Casmaria ponderosa nipponensis の種小名とも一致し、しかもモースが「大森貝塚」で、

 Eburna Japonica Lischke

として出し(これは腹足綱吸腔目バイ科バイの学名 )、図18の9に載せるそれの形状は、本種Casmaria ponderosa nipponensis とかなり近い一致を見せていることは述べおくに値するか(但し、種としてはバイ類とは全く近縁ではない)。取り敢えず二枚貝とあり「帆立貝みたいに、放射する脈を持っている」という点がよく一致する、フクレサンカクサルボウNoetia ponderosa ととっておく。

Eburna」前注に示した通り、腹足綱吸腔目バイ科バイ属 Eburna

Lunatia」これは現在の腹足綱直腹足亜綱新生腹足上吸腔目タマガイ上科タマガイ科タマツメタ属 Lunatia の属名であるが、モースは明らかに近縁のタマガイ科ツメタガイGlossaulax didyma を指すものとして記している(「大森貝塚」でも同様)。

「全有機世界は何という間断なき変化の状態にあるのだろう!」原文は“What a constant state of fluctuation the whole organic world seems to be in!”。モースとダーウィンの親交が窺える感嘆であるが(磯野先生によればダーウィンのモース宛書簡は四通が現存するという)、私はこれを読むとモースが逝去の年に発表した最後の論文「貝塚ならびに貝塚を構成する貝殻の変化」に引用した、このダーウィンからの手紙(一八七九(明治一二)年十月二十一日附。モース帰米の翌月である。“Shell Mounds of Omori”をモースが贈ったことへの礼状)の末尾の一文が響き合って聴こえるのである。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」から引用させて戴く(ダーウィンの手紙引用部は底本では全体が一字下げ)。

   《引用開始》

この年[やぶちゃん注:一九二五(大正一四)年。]モースは、「蜷川の著作に記載された五個のオリジナル」を『ボストン美術館館報』に記し、また「貝塚ならびに貝塚を構成する貝殻の変化」を『サイエンス・マンスリー』同年十月号に寄稿した。前者は陶器についての彼の恩師蟻川式胤の著作に触れたものであり、一方、彼の最後の論文となった後者は、貝類の進化という大森貝塚以来のテーマの総決算であった。その末尾にはダーウィンがモースに宛てた一八七九年十月二十一日付の手紙が全文引用されていた。その末尾の一文に、

「貴方がいま助力されている日本の進歩は、世界のあらゆる驚異のなかでもっとも驚くべき出来事のように私には思えます」とある。

 日本に関するこの二報文を書き、しかも往年のダーウィンの手紙をわざわざ引いたのは、モースが死を予感していたのではと感じさせる。不幸にも、その予感は現実となった。

   《引用終了》

「蜷川式胤」は「にながわのりたね」と読む。モースの陶器収集の師であった。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、天保六(一八三五)年に京都の名家に生まれ、明治二(一八六九)年に太政官として出仕、『民法編纂事業に参加してフランス民法を翻訳、同年四月外務省大録』(第十一等官)、『ついで五年から十年まで文部省博物局に在籍して社寺宝物調査に従事、正倉院や伊勢神宮を調査した。当時第一流の好古家で、陶磁器や古瓦などに造詣が深かった』。モースとは『明治十一年の晩秋までにはすでに交流があったと思われる』が、『両者の接触がいちじるしく緊密になるのは明治十二年に入ってからで、『蜷川日記』を見ると、一月から四月までにに約三〇回も会っている』とあり、彼の指導によって『モースの』陶器への『鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった』という。『こうして始まったモースの日本陶器コレクションの大半は、いまボストン美術館に納められており、現存点数は四七四六という。海外はもとより、国内にも単一のコレクションとしては並ぶものがほとんどない』とある。本書でも「第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし」(この陶器は考古学上の土器ではなく、本物の陶磁器のこと)など、おいおい語られてゆくこととなる。

……「全有機世界は何という間断なき変化の状態にあるのだろう!」……「貴方がいま助力されている日本の進歩は、世界のあらゆる驚異のなかでもっとも驚くべき出来事のように私には思えます」……モースがそしてダーウィンが驚嘆し、そうして少なくともモースがある種の漠然とした危惧を抱いたに相違ない「間断なき変化の状態にあ」った「全有機世界」としての「日本」という存在――モースが心から親愛し、「助力」した「日本」が――恐ろしい勢いでみるみる「進歩」肥大化し、「世界のあらゆる驚異のなかでもっとも驚くべき」存在へとのし上がって――その後も今も――数多のおぞましい悪鬼に憑りつかれている日本という存在がある――ということを、モースやダーウィンが知ったなら……どう感ずるであろうと、私は思うのである……] 

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