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« 「こゝろ」の最終回は今日 | トップページ | 『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 筆捨松 »

2014/08/11

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 能見堂(二)

江戸名所圖會に云。

[やぶちゃん注:以下は底本では一字下げポイント落ち。]

此地に至りて。金澤の勝景を望めば。畫が如く。南より西北にめくりては。皆山にして。東は浪溟に連り。千里の風光窮りなく。沖行舟の眞帆片帆は。雲に入かとあやしまる。瀨戸の神祠は水に臨み。稱名の佛閣は山に傍たり。漁家民屋は樹間々々にみえかくれし。島は波間々々にあらはる。又鹺戸の烟潮水の盈虛も。皆此の擲筆松の下に平臨する所にして。一瞬に遮り。一日早晩の異なる一年春夏秋冬の變れる。千態万狀極りなく。關左の一勝地にして。しかも松島象潟の風致あるを以て。雅客遊人留連時を移すといへども。其の十の一を究むる事能はす。

[やぶちゃん注:「江戸名所圖會」神田の名主斎藤幸雄・幸考・幸成の親子三代によって完成された長谷川雪旦・雪提画になる天保七(一八三六)年刊の、江戸及びその近郊の絵入名所案内記。次に出る「東海道名所図会」より新しいので注意。

「畫」「ゑがく」と読む。

「傍たり」「そひたり」と読む。

「鹺戸」前出既注。「さこ」と読む。

「關左」関東。

「雅客遊人留連」「がくかくいうじんりうれん(りゅうれん)」と読む。「留連」は遊興に耽って家に帰るのを忘れることをいう。流連とも書く。

「十の一を」「江戸名所図会」では『十が一を』。]

 

東海道名所圖會に云ふ。

[やぶちゃん注:以下は底本では一字下げポイント落ち。]

夫此堂上へ登りて遠望すれは。東南には安房。上總の峯々。眼下に遮り。近く見れは瀨戸洲崎の入江。鹽くむ海人藻を刈る賤女。瀨戸橋の行人。島は烏帽子島猿島、躶島、野島、夏島。浦は六浦、三浦、葛浦、浦江。社は瀨戸明神辨天社手子社。寺は稱名寺、大寧寺、善雄寺、藥王寺、龍華寺、圓通寺、金龍院。松は照天松村君大夫が夫婦松。君が崎りひとつ松。雀浦の孤松。金澤の四石八木は世に名高し。井は龜井、染井、白井、赤井、大井所、小井所の七井。亭は四望亭、九覽亭の二亭あり。里は釜利屋(かまりや)、刀切(なたぎり)、洲崎村、町屋村、瀨戸村、谷村、室木村、野島村、柴崎村、引越村、乙艫村、大同(だいどう)村。山は鎌倉山に續て。遠近の連山綿々たり。安房、上總のあいだの鋸り嶽。三浦の二子山。名にしをふ行衛も知らぬ我思ひと詠せられしふじの高根も。此濃見の筆捨松の葉はしより。邈に見へわたり海は堅魚とる鎌倉の海につらなり。波瀾渺々にして。水やそら。空や水とも見えわかず。かよひてすめる秋の夜の月と。淸輔の詠め給ひしも。こゝにおもひあたる。

[やぶちゃん注:「東海道名所圖會」秋里籬島(あきざと(あきさと) りとう)著で北尾政美・竹原春泉斎他画になる寛政九(一七九七)年刊の、京都から江戸に至る東海道絵入名所案内記。

「躶島」は「はだかじま」と読む。「新編鎌倉志卷之八」の「猿島」の条に、

〇猿島〔附裸島〕 猿島(さるしま)は、夏島(なつしま)の東南にあり。五町四方ばかりあり。其の前二三町餘離れて、裸島(はだかじま)と云ふ小島あり。

と出る。古くは猿島一帯にあった十の小島と猿島とを総称して豊島(としま)(十島)と呼ばれていたらしく、「裸島」もその一つであった(現在、裸島は同定不能。岩礁であったが浸食で消滅した可能性が高いと思われる)。

「葛浦、浦江」原本を視認すると「くずがうら」「うらえ」と読み振られてある。ともに不詳。識者の御教授を乞う。

「手子社」「てこのやしろ」と読む。金沢区釜利谷南にある手子神社。「新編鎌倉志卷之八」に、

〇手子明神 手子(てご)の明神は、釜利谷(かまりや)村の内、瀨戸の北にあり。此の所三方は山、東は瀨戸橋より入海(いりうみ)なり。明神の北に、瀟湘(しやうしやう)の夜雨松と云あり。此所より鼻缺(はなかけ)地藏へ出る道あり。

とある。「此所より鼻缺地藏へ出る道あり」は、同書の「鼻缺地藏」の条で言うところの、「鼻欠地蔵の右手を回り込んで行く山道『釜利谷へ出て、能見堂へ登る路』と考えられ、朝比奈のずっと東に、この古い間道があったことが分かる。リンク先の「鼻缺地藏」の注に「江戸名所図会」の絵を挿入してあるので、是非、ご覧あれ。最早、失われた古道がちゃんと描かれてある。

「善雄寺」「新編鎌倉志卷之八」に、

〇善雄寺 善雄寺(ぜんゆうじ)は、野島村の内にあり。野島山(やとうざん)と號す。眞言宗、龍華寺の末寺なり。本尊は不動。觀音、聖德太子の作。愛染、弘法の作、長(たけ)五寸。腹内に愛染の小像千體作りこむと云ふ。寺の側に井あり。淸冷なり。

とあるが、寺名や本尊が錯綜しており、「江戸名所図会」では「善應寺」と記しており、現存する寺も野島山染王寺(のじまさんぜんのうじ)とする。小市民氏の「散歩行こうぜ」の『ようこそ「金沢・時代の小波 野島コース」へ』によれば文政十三(一八三〇)年に成った「新編武蔵国風土記稿」によれば『「この寺は、もとは野島の山頂にあったが、南方からの強風を受けて堂舎を破損したため、山麓の現在地に移った、山頂には今でも善応寺屋敷の地名が残っている」と寺伝を記して』おり、同書では続いて本堂の規模を記した上、本尊観音は約八寸程の立像であるとし、『昔は愛染明王が本尊だったのであろう、火災に遭って改めたものだ』と記されているとある(小市民氏は寺号もこのときに変更されたものと推測されている)。更に寺伝によれば、開山とされる源朝なる僧の示寂は永禄九(一五六六)年とあることから、その頃の創建とされているけれども、境内の墓地入口に『古びた宝篋院塔があり、安山岩の基礎石正面には「比丘尼角意、永徳二年六月十八日」と刻まれて』いるとする。永徳二・弘和二(一三八二)年であるから、この尼が本寺関係があるとすれば、この寺の創建は開山とされる源朝の存命期よりもずっと前(百五十年以上前)に遡る可能性がある、と記されておられる。『野島には染王寺のほかにも夕照山正覚院や円明院という寺院があって、いずれも洲崎町龍華寺の末寺で』あったが、『円明寺は早くから廃寺となり、正覚院の過去帳の一部などが染王寺に伝えられて』おり、現在、『染王寺は、金沢札所第八番であるとともに、新四国東国八十八所霊場第七十七番にもなってい』るとある。

「藥王寺」「新編鎌倉志卷之八」に、

〇藥王寺 藥王寺(やくわうじ)は、町屋村の東にあり。三愈山と號す。龍華寺の末寺なり。堂に藥師十二神の像〔行基作。〕・蒲(かば)の御曹司範賴(のりより)の牌有。表に太寧寺道悟、裏に天文九年庚子六月十三日とあり。後の太寧寺の條下に詳なり。

とある。現在は三療山医王院薬王寺と号している。金沢区の公式記載に依れば、本寺は頼朝異母弟源範頼(久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年? 遠江国蒲御厨(現在の静岡県浜松市)の出身であることから「蒲殿」と呼ばれた。頼朝への謀反の疑いによって伊豆修繕寺に幽閉誅殺された)の別邸があったこの地(瀬が崎と称した)にその霊を弔うため、鎌倉前期に建立された真言寺で、古くは三愈山愈遍照坊と称したが一時衰亡、再建後の江戸期に三療山薬王寺と改名したとある。本尊薬師如来は範頼の念持仏と伝えられる。鎌倉にも同名の日蓮宗寺院があるので注意が必要。「天文九年」は西暦一五四〇年。]

「龍華寺」本文に後掲。

「圓通寺」「新編鎌倉志卷之八」に、

○圓通寺 圓通寺(えんつうじ)は、引越村(ひきこへむら)の西にあり。日輪山と號す。法相宗。南都法隆寺の末寺なり。開山は法印法慧、寺領三十二石、久世(くぜ)大和の守源の廣之(ひろゆき)付するなり。

東照權現の社 山の上にあり。御代官柳木(やなぎ)次郎右衞門勸請し奉るとなり。

とある。金沢八景駅を利用したことのある人なら、まずホームから見えた茅葺屋根の家が記憶にない人物はいないであろう(二〇一〇年に火事で一部焼失)。楠山永雄氏の「ぶらり金沢散歩道」の「NO.48 円通寺客殿と権現山」(トップ・リンク及び設置の確認メールを要求されておられるので、リンクは張らずにアドレスを以下に示す。 http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/48/48.htm)によれば、ここがこの「圓通寺」の遺構である。ここの『奥の一段高いところには、かつて東照宮が鎮座して』おり、これは万治年間(一六五八年~一五六一年)に、土地の郡代官『八木次郎右衛門が東照大権現(徳川家康)を祀ったもので、円通寺はその別当寺であった』とする(本文では「柳木次郎」とあり、「江戸名所図会」でも「柳木氏」とある)。あの『茅葺の建物は、円通寺の客殿で奥座敷の長押の釘隠しは「三つ葉葵」で飾られ、将軍・家光が使ったという手あぶり火鉢などが伝えられている。だが、明治維新の神仏分離令によって円通寺は廃寺となり、東照宮』も明治十一(一八七八)年に『瀬戸神社へ合祀され』てしまった。その際に久世広之(慶長十四(一六〇九)年~延宝七(一六七九)年:秀忠・家光小姓から大名となり、家綱の御側衆、若年寄、後に老中となった)及び六浦藩主米倉保教がこの東照権現に『寄進した石灯篭も同神社に移され、現在も鳥居をくぐった両側に建っている』と記しておられる。リンク先の記事では旧客殿の長押釘隠しの葵の紋も画像で見られる。別なデータでは、この旧客殿原型は江戸時代後期の享和二(一八〇二)年頃の建築と推定されている。]

「金龍院」本文に後掲。

「照天松」「てるてのまつ」と読む。既注。

「村君大夫が夫婦松」原本では「むらきみだゆうがふうふまつ」と読んでいる。

「雀浦の孤松」原本では「すゞめがうらのこしよう」と振る。

「金澤の四石八木」金龍院の条その他に出るが、「四石」は飛石・美女石・姥石・福石。飛石は現在、金竜院本堂裏庭にある(後掲されるように元は背後の山腹にあったが、文化九(一八一二)年十一月の関東地方に発生した大地震によって現在位置に落下したものと伝えられている)。後の三つの所在(跡)地は美女石と姥石が称名寺(本堂前の阿字ヶ池の中に美女石のみ現存する。後の「稱名寺」の条に出る)、「福石」が琵琶島の瀬戸神社(「瀨戸辨才天」の条に出る)である。「八木」は「稱名寺」で後掲される名数であるが、「新編鎌倉志卷之八」では「稱名寺」の条に、

金澤の八木と云て、靑葉(あをば)の楓(かへで)・西湖梅(せいこむめ)・黑梅(くろむめ)・櫻梅(さくらむめ)・文殊櫻(もんじゆさくら)・普賢象櫻(ふげんぞうざくら)・蛇混柏(じやびやくしん)・雀浦一松(すゞめがうらのひとつまつ)とてあり。五木は此の處にあり。蛇混柏は、瀨戸の明神にあり。雀浦(すずめがうら)の一つ松は其の所にあり。黑梅(くろむめ)は絶てなし。其跡は爰にあり。

とあって「黑梅」は古くに枯死していたことが分かる。「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」にはそれらの花の図があるので参照されたい。これらの木については「稱名寺」の条で再度細かく注する。

「龜井」称名寺赤門内左側の民家の裏にある石の丸井戸。ここに亀山天皇が住み、この井戸を用いたという伝承に基づくとされる。

「染井」現在の金沢文庫駅から横浜寄りの線路の西側奥にある石の丸井戸。

「白井」釜利谷道白井橋 (現在の金沢文庫駅西口の谷津川に架かる橋)の右側崖下にあった。現存しない模様。

「赤井」正法院の庫裡の裏に現存する。昔、赤い水が出たことからこの名がついたとされる。私も実見した。近くには同じ水質の赤黒い鉱泉能見堂赤井温泉がある(私は釜利谷高校時代によく入りに行った。かつての軍の保養施設で二階の雰囲気などとてもレトロ。お薦めのスポットである)。

「大井所」原本ではこの三字で「おほゐと」と読んでいる。御井戸とも。称名寺赤門から東へ凡そ百メートル行った右側にあった角井戸。現存しない模様。

「小井所」原本ではこの三字で「こゐと」と読んでいる。以上の記載の参考にした横浜市公式サイト内の「金沢の四石・七井・八名木」の「七井」の名数の「御仲井」がこれか? 『釜利谷御仲井通りの中ほどを北に入った民家の庭(元真浄寺の境内)にある丸井戸』とあり、現存するようである。

「七井」原本では「しちせい」と振る。ところが井戸は六つしかない。以上の記載の参考にした横浜市公式サイト内の「金沢の四石・七井・八名木」によれば、恐らくは「荒井」という七番目の井戸が落ちているものと思われる。金龍院の前の荒井妙法の屋敷跡にあったとある。現存しない模様。

「亭は四望亭、九覽亭の二亭あり」原本では「ちんはしばうてい、きうらんていのにてあり」と読んでいる。「四望亭」室ノ木の鎮守である熊野権現社は、かつてはその参道入口に観音堂があって室木庵と称し、金沢三十四観音の第九番札所であった。江戸後期には山頂に四望亭と称する展望台が設けられ、瀬ヶ崎の半島先端部の断崖を天神崎と呼んで、天神の祠が置かれ、観光名所となっていた、と神奈川県タウンニュースの『かねさわ地名抄 第31回「室ノ木」』にある。廃仏毀釈や海軍航空隊追浜飛行場の延長としての大規模な削平工事によって、神社を除き、総て現存しない。「九覽亭」は本文に後掲。

「室木村」「室木」には「むろき」と振る。前注参照。熊野権現社の境内にあったムロノキが地名の由来とされる。ムロノキは針葉樹の杜松(ねず)、裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ビャクシン属ネズ Juniperus rigida

「町屋村、瀨戸村」脱落がある。原本では「町屋(まちや)村、六浦(むつら)村、瀨戸(せと)村」である。

「行衛も知らぬ我思ひ」西行の和歌、

 

 風になびく富士の煙の空に消えてゆくへもしらぬわが思ひかな

 

を指す。これは西行の辞世とも言えるもので、奥州行脚の旅の帰るさの詠歌とされるもの。慈円の「拾玉集」によれば、西行自身、生涯一と自賛した一首とする。

「邈に」「はるかに」と訓ずる。

「水やそら。空や水とも見えわかず。かよひてすめる秋の夜の月と。淸輔の詠め給ひしも」「詠め」は原本を視認すると「ながめ」と訓じていることが分かった。「淸輔」は藤原清輔(長治元(一一〇四)年~治承元(一一七七)年)は平安末期の公家人で歌学書「袋草紙」の作者であり、この和歌は、その「袋草紙」上巻に載るものであるが、注意しなければならないのは、彼の詠ではないということである。これは「田舎の者に詠み負かされてしまった不覚の歌人の例をアンソロジックに纏めた章の冒頭に出る「詠み人知らず」の無名の武士の作った和歌である。岩波版新日本古典文学大系から恣意的に正字化して引く。

   *

 俊綱朝臣の家に、「水上の月」を詠じたる歌を講ず。而して田舍の武士、中門の邊に宿してこの事を聞き、即ち靑侍に語りて云はく、「豫(あらかじ)め今夜の題をこそつかうまつりて候へ」と云々。侍云はく、「興有る事なり、如何」と。兵士詠じて云はく、

  水や空空や水ともみえわかずかよひてすめる秋の夜の月

侍來たりてこの由を申す。萬人驚歎して詠吟し、且つ感じ且つ恥ぢておのおの退出すと云々。

   *

「俊綱」は官人歌人であった伏見修理大夫橘俊綱(長元元(一〇二八)年~寛治八(一〇九四)年)。本歌は「続詞花和歌集」(第一八四番歌)・「新後拾遺和歌集」(第三七二番歌)に載り、またこの話も「古今著聞集」の巻六や「十訓抄」第三にも載る知られたものではあるが、「淸輔の詠め給ひしも」というのは無理がある。せめて「俊綱の詠め給ひしも」なら意味が通るという気がする。]

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