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2014/08/14

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 20 仙台から白河へ 白河提灯祭り

 翌朝我々は暗い内から起き、九時頃仙台市へ着いた。た。雑閙(ざっとう)する町々を人力車で行ったら、一寸東京へ帰ったような気がした。随行者の二人を採集するために松島へ残し、矢田部と私とは、東京へ向けての長い人力車の旅に登った。我々は身軽くする為に、出来るだけ多くの物を残し、人力車一台に車夫を二人ずつつけた。矢田部は東京へ電報を打とうとしたが、私人からの電報はすべて禁止されていると知って、大きに驚いた。何故こんな告示が出たのか、いろいろ聞いても判らぬので、彼は大きに心を痛めた。東京で革命が勃発したのか? 反外国の示威運動があったのか? 何事も判らぬままに、我々は東京迄陸路二百マイルの旅に出た【*】。この電報の禁止以後は、通り違う日本人がすべて疑い深く、私の顔を見るように思われた。仙台を出て二時間行った時、我々は間違った方向へ行きつつあることに気がついた。このひどい間違いのために、我々は仙台へ立ち戻り、半日つぶして了った。ここで食事をし、新しい車夫を雇って夜の十時まで走り続け、藤田へ着いた。旅館はすべて満員で、我々はあやしげな旅籠屋へ泊らねばならなかった。貧弱な畳、貧弱な食物、沢山あるのは蚤ばかり。それでも我々は苦情をいうべく、余りに疲れていた。

[やぶちゃん注:次に一行空け、注記の後も同じ。注記は底本では全体が一字下げのポイント落ち。]

 

* 東京へ近づいた時、我々は東京の兵営で反乱が起ったことを知った。それで電報を禁じたのである。

 

[やぶちゃん注:前に記した通り、松島出発は午前五時半で、仙台着は午前九時半であった。

「雑閙」雑踏に同じい。「閙」は騒がしいの意。

「随行者の二人を採集するために松島へ残し」前に注したが、再掲すると、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によると、『佐々木と内山は松島に残して採集させ、松島以降はモースと矢田部の二人旅だった。』とある。

「矢田部は東京へ電報を打とうとしたが、私人からの電報はすべて禁止されていると知って、大きに驚いた」「東京の兵営で反乱」竹橋事件。これも前に注したが、再注する。この前日の明治一一(一八七八)年八月二十三日に発生した、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件。以下、ウィキの「竹橋事件」によれば、『反乱は、鎮台予備砲隊隊長岡本柳之助大尉、松尾三代太郎騎兵中尉、近衛歩兵第二連隊第二大隊第二中隊兵卒三添卯之助、近衛砲兵大隊第一小隊小隊馭卒小川弥蔵、同第二小隊馭卒長島竹四郎、同じく小島萬助らを中心に決起の計画が練られた。 旗を用いて合図を送ったり、「龍」→「龍起」、「偶日」→「奇日」等の合言葉を作成する等、計画的なもので』、『午後11時、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し、騒ぎを聞いて駆けつけた大隊長宇都宮茂敏少佐、続いて週番士官深沢巳吉大尉を殺害』、『砲兵隊の門前を出ると、既に近衛歩兵第一、第二連隊が出動しており、これと銃撃戦になった。戦闘に紛れて反乱軍は大蔵卿大隈重信公邸に銃撃を加え、営内の厩や周辺住居数軒に放火。この一時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された』。『この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を捕らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ』。『正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た軍曹は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これをしおに、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった』。『同日午前8時、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が始められ、10月15日に判決が下された。 騒乱に加わった者のうち、岡本は発狂したとして官職剥奪で除隊、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑に処せられている。事件に直接参加していない者を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった』。『動機は、過重な兵役制度や西南戦争の行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである』。『内務省の判任官西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方に神田橋で叛乱計画の謀議を知り、内務省に立ち戻り書記官に急を知らせた。この通報により蹶起計画は事前に漏れていたのだが、阻止することはできなかった』。『のちに日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。太平洋戦争後まで真相が明らかになることはなかった。 近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている』とある。

「二百マイル」約三百二十二キロメートル。仙台から東京までは直線距離でも三百キロ強である。

「この電報の禁止以後は、通り違う日本人がすべて疑い深く、私の顔を見るように思われた」これはモースが竹橋事件のような小規模な反乱やクーデターの如きものではなく、最悪の事態として、前年の西南戦争に匹敵するような内戦か、恐らくはいろいろ聞き知っているかつての攘夷思想の基づく、モースの現在の地位をも揺るがせにするかも知れない大規模な「反外国の示威行動」的な騒乱勃発の恐れを強く抱いていたことを示唆する疑心暗鬼の内心をリアルに示している部分と言える。

「仙台を出て二時間行った時、我々は間違った方向へ行きつつあることに気がついた。このひどい間違いのために、我々は仙台へ立ち戻り、半日つぶして了った」この事態は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも出ていない(矢田部日誌には記載がなかったか)。そこでは一見順調に、『一行は仙台からまた人力車で、長町、岩沼、大河原、白石を経て、「九時十五分藤田[現国見]着』と記すのみである。国見とは現在の福島県伊達郡国見町藤田。]

 

 翌日は白河まで七十マイル行かなくてはならぬ。そうでないと、その次の日、宇都宮ヘ着くことが出来ない。それで我々は日出前に出発したが、夜になる前、すでに我々はしびれる程疲れ切っていた。私は昼、何かを食うために、非常に奇麗な茶店にとまったことを覚えている。後の庭は奥行僅か十フィートであったが、日本人が如何に最も狭い地面をも利用するかを、よく示していた。我々が休んだ部屋から見たこの狭い地面は、実に魅力に富んだ光景であった。灌木は優雅に刈り込まれ、菖蒲は倭生に仕立てられ、ここかしこには面白い形の岩が積まれ、小さな常緑樹と日本の楓とが色彩を与え、全体の効果が気持よかった。午後中我々は旅行した。そして七時、我々はこれ以上行くことが不可能と思われる位疲れていたが、それでも飯を腹一杯食って、また次の駅へ向けて出発した。夕方の空気の中を行くことは涼しくて気持よく、また夜の村をいくつもぬけて、再び広々とした田舎の路に出るのは興味があった。この夜白河へ着くことが出来さえすれば、次の夜には宇都宮へ着くことが出来、宇都宮からは東京まで駅馬車がある。

[やぶちゃん注:この八月二十五日の藤田出発は朝五時半で、午前七時半に福島着、午前十一時四十分二本松着、午後四時半郡山着、夜遅く午後十時十五分にようよう白河へ辿りついている。ここで昼に訪れた茶店は二本松辺りであったか(磯野先生は矢田部日誌の一部を割愛しているので断定は出来ない)。

「七十マイル」百十三キロメートル弱。現在の国道四号を国見町藤田から白河まで丹念に実測してみると凡そ百キロメートルある。何時もながら、モースの記載は正確だ。

「十フィート」約三メートル。]

 

 十時、白河の町に近づいた時、路に多数の人がいることによって、我々は何か並々ならぬことが行われつつあるのを知った。町へ入って見ると建物は皆、提灯その他いろいろな意匠の透し画で照明されていた。旅館はいずれも満員で、我々は十時半にやっとその夜の泊を見出したが、この宿屋も満員で、また往来はニコニコして幸福な人々でぎっしり詰っていた。十一時、大行列がやって来た。人々はいずれも色鮮かな提灯を、長い竿の上につけたり、手に持ったりしていた。この行列が隊、あるいは集団から成立していた点から見ると、これ等は恐らく各種の職業、あるいは慈善団体を代表していたのであろう。一つの群は赤い提灯、他は白い提灯……という具合であった。最も笑止なのは、場合によっては長さ三十フィートもある、竹竿の上につけた提灯を持って歩くことで、持っている人はそれを均衡させる丈に、全力を焼け尽すらしく思われた。彼等は一種の半速歩で動いて行き、皆「ヤス! ヤス!」と叫んだ。

[やぶちゃん注:これは恐らく当地の鹿嶋神社(現在の福島県白河市大鹿島に所在)の例祭で、現在の「白河提灯まつり」であろう。同神社公式サイトの同祭の「いわれ」のページの「各町神輿の提灯行列図」を見ると、各町(モースは「各種の職業、あるいは慈善団体」と誤認しているが)の行列の先頭には非常に長い竿の先に提灯を吊るした「先達提灯」というのがあり、これはまさにモースの叙述とぴったり一致するのである。同ページを見ると、町によって提灯の意匠(提灯自体は白)の色が黒か赤(若しくは赤を主体)とした二種に分かれる点も一致する。

【以下、2014年8月16日改稿】

 ただ、問題はこの祭(少なくとも現在は祭日の三日間総てに提灯行列がある。以下に示す資料によれば、江戸時代も三日間やはりそれぞれに意味の異なった提灯行列が行われていたことが分かった)が行われていた日付で、現在は九月敬老の日(九月の第三月曜日)直前の金・土・日に開催されている。モースが訪れたのは八月二十五日(土)であった。しかしこれは明治十一年の旧暦だと九月二十一日である。孰れもぴったり一致する感じがしない。この白河での提灯祭り嘱目パートを公開してその疑問を投げかけたところ、「ミクシィ」の未知の方から、白河市公式サイト内の白河市歴史的風致維持向上計画を紹介して戴いた。その「第3章 維持向上すべき歴史的風致」(PDF形式3.98MBでダウンロードして閲覧可能)の中の「(1) 白河提灯まつりにみる歴史的風致 ① 白河提灯まつりの歴史と発展」の「イ. 祭礼の由来」の項に祭日の記載が現れる(下線はやぶちゃん)。

   《引用開始》

 現在の提灯まつりにつながる祭礼のはじまりは、江戸時代初期の明暦3年(1657)に白河藩主本多忠義より神社神輿(市指定重要文化財)の寄進があり、これが祭礼の始まりであるとされる。

 明暦3年7月6日から8日までの3日間、城下東端の桜町に御旅所(御旅屋)を建築し、神輿の遷座、神楽祈祷を行い、「鹿嶋様」である神社神輿を渡御(渡祭)し城下総町(氏子区域)を巡幸し、各町において13~14歳の子供を屋台に乗せ、この屋台に続いて踊りを奉納したとされる。その後、寛政6年(1794)には、祭礼日が8月3日から5日までに変更されたという。しかし、その後祭礼日はすぐに旧に復することとなった(『白河市史』)。このように、鹿嶋神社祭礼は白河藩の庇護の下に復活し、途中に中断や祭礼日の変更はされながらも、明暦3年の渡御祭復活から約350年にわたり白河市を代表する祭礼として現在に引き継がれている。

   《引用終了》

しかも、続く「ウ.祭礼の発展」の項には、『明治11 年(1878)7 月13 日、東京大森貝塚を発見したアメリカ人のエドワード・シルヴェスタ・モースは、横浜から蝦夷へ調査に向かった帰路に白河に宿泊した折、白河提灯まつりに遭遇している。その様子を『Japan Day by Day(日本その日その日)』「函館及び東京への帰還」に記している』とあって、本段を全文引用しているのである。これによって白河市はモースが嘱目した祭りが白河の提灯祭りであることを公式に認めているということが分かった。ただ、今度はこの「公認記載」のヘッドの部分が気になるのである。これは普通に読む人が『明治11 年(1878)7 月13 日、』とある日附部分を、後文のどこに掛かっていると読むかというと、当然、『白河に宿泊した折、白河提灯まつりに遭遇している』の部分である。ところが、すると日付が合わないのである。まず、私が問題にしている祭日と整合しない(因みに、明治十一年の旧暦7月6日から8日を見ると、言わずもがな乍ら、新暦では6月7日から9日に相当し、まるで合致しない。試みに明暦に変更されて直に旧に復したという祭日の8月3日から5日は旧暦7月5日から7日で、これもまたやはり合わない)。それに加えて事実はモースの白河来訪は8月25日(旧暦9月21日)なのである。実はこの日付は、モースが北海道旅行に旅立ったその日であり、『明治11 年(1878)7 月13 日、』とある文は実は『横浜から蝦夷へ調査に向かった』に掛かるのである。こう読む/読める人は万に一人もいない。これは文章としては失礼乍ら、おかしいのである(因みに、この年の7月13日は旧暦で8月11日である)。

 これだけの豊富なデータが揃いながら、しかも、この祭日の齟齬の謎は深まるばかりである。とりあえず、「第3章 維持向上すべき歴史的風致」の波線部の中の『途中に』『祭礼日の変更はされ』たことがあったという記載から、この明治十一年の白河の提灯祭りは何かの都合で8月25日(旧暦9月21日)前後に行われていたらしいという、如何にもしょぼい結論を出すしかないようなのである。更なる情報をお持ちしている。

【改稿終】

「三十フィート」九・一メートル。]

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