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2014/08/13

北條九代記 卷第六 大魚死して浦に寄する 付 旱魃雨請

      ○大魚死して浦に寄する  旱魃雨請

同三年四月二十八日、若君の御手習始あり。陰陽頭國道(おんやうのかみくにみちの)朝臣、日次を選びて定め參す。手本御硯等は、御父道家公より迭らるゝ所なり。其式は、元三の儀に同じとかや。同五月、近國の浦々に名も知らぬ大魚共多く死して、波の上に浮上(うきあか)り、三浦ヶ崎、六浦(むつら)の前濱に打寄せらる。是を取上(とりあげ)て鎌倉中に充滿す、家々買取(かひとり)て、是を煎(せん)じて脂(あぶら)を取る、臭香既に四方に充ち、山谷(さんこく)に亙る。「是(これ)、旱魃の兆(てう)なり、只事にあらず」といひけるが、申すに違はず、炎旱(えんかん)、頻(しきり)にして田畠(でんぱた)、焦(こが)れたり。請雨(しやうう)の法行はるべしとて、百壇の不動供(ふどうく)、一字金輪(こんりん)水天供(ぐ)、降雨の法、仁王觀觀音經の御讀經(みどきやう)を行はれしか共、火龍(くわりう)の空に塞るか、祝融(しゆくゆう)の山に出たるか、密雲は棚引き、大虛は曇れ共、一滴も降る事なし。去年より打續き、天地の災變樣々なり。五龍祭、(りうさい)、屬星(じよくしやう)、水曜等の御祭(おんまつり)を行はれて然るべきかと、衆議、更に區(まちまち)なり。同六月に至りては、いとゞ炎暑烈(はげ)しくして、草木の葉は枯(かれ)につき、人は熱さに堪兼(たへかね)て、川水も涸上(かれあが)り、土石の中より燃出(もえいづ)るが如くなれば、蛇蛙(へびかはづ)を初(はじめ)て、死する事夥し。二位〔の〕禪尼、是を歎き給ひて、神社、佛寺に仰せて、請雨の御(ご)祈禱樣々なり。陰陽頭國道朝臣は、靈所七瀨の御祓を致せば、同じく知輔(ともすけの)朝臣は、金洗(あなあらひ)の澤沉(たくちん)の祭をぞ行ひける。同じく信賢(のぶかたの)朝臣は、江島の龍穴に行ひ、その外、柚河(ゆのかは)、杜戸(もりど)、六浦、固瀨川(こせがは)に八龍(りう)の祭を營み、日曜、七座(なゝざ)の太山府君(ぶくん)、十壇の水天供(ぐ)、取々に修せらるゝ所に、同六月十日の夜に入りて、甘雨(かんう)、降下(ふりくだ)りければ、上下萬歳を唱へて、喜ぶ事限なし。早苗は色を直し、田面の蛙(かはづ)も嬉(うれし)げに、鳴く聲、珍(めづらか)にぞ覺えける。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十六の貞応三(一二二四)年四月二十八日、五月十三日・十五日、六月六日・十日の条に基づく。

「若君」後の第四代将軍藤原頼経。当時、満六歳。彼の征夷大将軍宣下は二年後の嘉禄二(一二二六)年一月二十七日である。

「陰陽頭」誤り。「吾妻鏡」では「陰陽權助」(おんみょうのごんのすけ)。陰陽頭は陰陽寮長官で従五位下相当であるのに対し、陰陽権助は陰陽寮次官の陰陽助(おんみょうのすけ)のさらに次席で従六位上相当である。

「國道」安倍国道(あべのくにみち ?~貞永元(一二三二)年)。ウィキの「安倍国道」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『曽祖父である安倍晴道は、官職こそ陰陽権助に留まったものの、当代屈指の陰陽師として安倍氏の氏長者の地位を占めた実力者であった。その子孫も地位こそ振るわなかったものの、実力者を相次いで輩出して一族は「晴道党」と称されていた』。『建久四年一二月九日(一一九四年一月三日)、陰陽少允に任じられたのが記録上の初出(『玉葉』同日条)で翌年には主計助、建仁二年(一二〇二年)には正五位下に叙された。早くから九条家に仕え、息子の晴吉は承久元年(一二一九年)に鎌倉幕府の次期将軍として九条家の三寅(後の九条頼経)の護持陰陽師として三寅に随って鎌倉に下り、小侍所に配属されている。国道は翌承久二年(一二二〇年)までに天文密奏宣旨を受けて陰陽権助に任ぜられていたことが知られている』。『翌承久三年(一二二一念)、国道は鎌倉に下って陰陽権助在任のまま鎌倉幕府に仕える。この年、鎌倉幕府は承久の乱で勝利してその政治的地位を固めていた。その一方、三寅の将軍就任のための環境整備が進められており、国道は息子・晴吉との交替する形で三寅への近侍のために鎌倉に下ったのである。同年十一月三日には執権北条義時の夫人の出産に伴う移徙』(わたまし:転居。ここは血の穢れによる。)『に際して勘文を提出している(『吾妻鏡』同日条)。国道は以後五年間にわたって鎌倉に滞在し、北条義時・泰時からも信任を受けて、元仁元年十二月二十六日(一二二五年二月五日)には四角四境祭を行うために六連・小壺・稲村・山内を鎌倉の四境と定めている(『吾妻鏡』同日条)』。『嘉禄二年(一二二六年)、国道は突如京都に帰還した。藤原定家の『明月記』(同年十月十三日条)によれば、国道は天文博士の地位を望んだが叶えられず、反対に陰陽権助の地位を奪われるという風説を聞いたためであったという。寛喜二年(一二三〇年)に陰陽頭兼権天文博士の安倍泰忠が辞任すると、陰陽助(正助)の賀茂在俊と陰陽頭の地位を争って敗れるが、陰陽助兼権天文博士に任ぜられて面目を保つ。寛喜三年(一二三一年)二月には陰陽博士就任を希望して失敗し、八月に賀茂在俊が陰陽頭を辞任すると再度陰陽頭就任を希望した。これに対して賀茂氏嫡流の賀茂在継は賀茂氏・安倍氏の人々に国道の陰陽頭就任に反対し、任命された場合には公事をボイコットする旨の起請文を呼びかけた。これには賀茂氏だけでなく、国道の強引な猟官に反発する安倍氏の人々の賛同をも得たが、九条道家の後押しを受けた国道が陰陽頭に任じられた。折しも、寛喜の飢饉に付随して発生した疫病で、国道に対抗できる熟練の陰陽師の多くが死亡したこと、先に死去した安倍泰忠の後継者争いで安倍氏嫡流が衰退したことも国道にとっての追い風になったと言われている。また、賀茂在俊らの過激な反対運動が却って人々の反感を買い、藤原定家も『明月記』(寛喜三年九月九日条)の中で彼らの行動を僧兵の強訴になぞらえて批判している』。『こうして悲願の晴道党初の陰陽頭に就任した国道であったが、就任翌年の貞永元年(一二三四年)に急逝してしまった。だが、鎌倉において国道が行った様々な事例が鎌倉幕府における陰陽道・天文道の先例として重視されることになり、後の「鎌倉陰陽師」と呼ばれる鎌倉幕府に仕える陰陽師集団の基礎を築くことになった』とある。

「同五月」後で見るように、五月十三日。

「名も知らぬ大魚」見たことがないとあり、腥匂いの強烈な「脂」(魚油)を採っていることから、ワックスを多く含む深海魚と考えられる。条鰭綱ハダカイワシ目ハダカイワシ科 Myctophidae の中でも普通は浅海域に捕食遊泳しない種か。

「百壇の不動供」不動明王を本尊として息災を祈願する修法。以下の雨乞いの修法が執り行われたのは五月十五日で、本文はあたかもこの異魚の大量打ち上げがあってから、「是旱魃の兆なり、只事にあらず」と噂し、「申すに違はず、炎旱、頻にして田畠、焦れたり。」という現象が起こった、そこでやおら雨乞いの儀となったように見えるが、実際には後掲するように「吾妻鏡」ではそれよりも前から、雨が降らず、五月十五日までで炎暑日が十日も続いた結果、行ったのである。話柄の作りととして、日を抜いたのは上手い方法ではあるが、叙述としては正確ではない。

「一字金輪水天供」「一字金輪」は一字金輪仏頂のこと。一字金輪王・一字頂輪王・金輪仏頂王などともいう。仏頂部の中で最もすぐれた仏頂、如来を意味する。形像は宝冠をつけ瓔珞・腕釧(わんせん:上膊部或いは手首につける腕輪。)など種々の荘厳具を着けた菩薩形で、釈迦金輪と大日金輪の二種に分かれる。釈迦金輪は螺髪(らほつ)形の釈迦が須弥山頂で法界定印を結び、印の上に金輪を置く姿を表し、大日金輪の方は、宝冠を着けて智拳印を結ぶ金剛界の大日如来が日輪の中に表されたものをいう。「水天」は天部の一人で須弥山の西に住んでいるとされる水神の最高神。ここはそうした釈迦や大日如来と併せて水天の複数を本尊として修するもの。

「仁王觀音經」鎮護国家の代表的経典である「仁王(いんのう)経」と「法華経普門品」である衆生済度を讃える「観音経」。

「祝融」中国神話の火の神。炎帝の子孫とされ、火を司る。「山海経」中の「海外南経」によれば祝融は南の神でその姿は獣面人身である、とする。

「大虛」大空。

「五龍祭」雨乞いの修法としては、古くから陰陽道でポピュラーな水神である五匹の龍(青龍・赤龍・黄龍・白龍・黒龍)を祀る修法。

「屬星」陰陽道で生年によって決まり、その人の運命を支配するとする星。生年の干支を北斗七星の各星に宛てたもの。この場合は個人ではないから、総ての属星(午年は破軍星、巳・未年は武曲(ぶごく)星、辰・申年は廉貞(れんてい)星、卯・酉年は文曲(もんごく)星、寅・戌年は祿存(ろくそん)星、子年は貪狼(どんろう)星、丑・亥年は巨門(こもん)星)を祀るのであろう。

「水曜」九曜(くよう)である九つの天体である日曜・月曜・火曜(熒惑星)・水曜(辰星)・木曜(歳星)・金曜(太白星)・土曜(鎮星)・計都星・羅睺星の中の水星を祀る修法。陰陽道でのそれは抽象化されたもので実際の天体とは一致しない。雨乞いだから「水」星と捉えればよいであろう。

「靈所七瀨の御祓」鎌倉御府内を守護する七箇所の霊地(由比ヶ浜・金洗沢・片瀬川・六浦・㹨川・杜戸・江島竜穴)で行われる大規模な鎌倉防衛のための霊的な陰陽道の大祭。但し、この部分、脱落があり、「陰陽頭國道朝臣」が「靈所七瀨の御祓を」したように読めて以下が続かない。「吾妻鏡」によれば安倍国道は由比ヶ浜で修した。

「金洗の澤沉」「沉」は沈の俗字で、沼の意。七里ヶ浜の行合川の西の金洗沢(かねあらいざわ)の池。田辺ケ池・田辺池・雨乞いの池とも呼ぶ。教育社の「北条九代記」で増淵勝一氏は『銭洗弁天』と割注するが、これは誤りである。

「知輔」安陪知輔。以下、無論、最後の十壇の水天供の修法者を除いて総て幕府お雇いの陰陽師で、皆、安倍姓の一族。

「柚河」㹨川(いたちがわ)の誤記。

「固瀨川」片瀬川。

「八龍の祭」、天龍八部衆に所属する龍族の八王である護法神八大龍王。難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・娑伽羅(しゃから)・和修吉(わしゅきつ)・徳叉迦(とくしゃか)・阿那婆達多(あなばだった)・摩那斯(まなし)・優鉢羅(うはつら))を祭る修法。

「日曜」日曜祭。神格化された太陽を祭る修法。

「七座の太山府君」底本では「七座の」の後に読点があるが除去した。七座太山府君祭で、道教の最高神である泰山府君(たいざんふくん)を祭る、天変地異に対する修法では陰陽道最奥の秘儀とされるもの。

「十壇の水天供」「十壇」はよく意味が分からない。護摩壇の十方に祭壇を配したものか。識者の御教授を乞う。「吾妻鏡」によれば、これは真言僧『辨僧正〔定豪〕』が修したとある。定豪(じょうごう 仁平二(一一五二)年~嘉禎四(一二三八)年)は『治承四年(一一八〇年)に仁和寺の寛遍(忍辱山流の祖)の門人兼豪より、大和国忍辱山円成寺にて伝法潅頂を受ける。文治元年(一一八五年)、三十四歳でようやく法橋に任ぜられるなど、必ずしも僧侶として恵まれた立場にはいなかった。そこで、時期は不明であるが源頼朝がいた鎌倉に下り、建久二年(一一九一年)には鶴岡八幡宮の供僧に補任され、二年後には同地の宿老僧十名の一人とされる。正治元年(一一九九年)には、文覚失脚後を受けて神護寺を継承した性我の譲りによって勝長寿院の別当になった。建仁二年(一二〇二年)、五十一歳にしてようやく法眼に任じられた』。『ところが、承久二年(一二二〇年)、当時の鶴岡八幡宮別当であった公暁が叔父の将軍源実朝を暗殺して自らも討たれるという大事件が発生、急遽鶴岡八幡宮別当に補任された。以後、八幡宮の実権を掌握して、翌年九月の別当辞任後も門人を別当に据えてその権威を保持した。更に翌年承久の乱が発生すると、鎌倉幕府のために祈祷を行い、その功績によって熊野三山検校・新熊野検校・高野山伝法院座主が与えられ、鎌倉幕府の仏教界への本格的関与の先駆となった』。『定豪の台頭の背景には鎌倉幕府との強いつながりや朝幕関係の安定を望む承久の乱後の朝廷の意向があったが、その一方で彼自身も九条家や久我家と連携して仁和寺御室の道深法親王と間で伝法院や広隆寺、東大寺の継承を巡って激しく争うなど、鎌倉幕府の意向とは一線を画した野心的な行動も見せている』。『定豪はその後も鎌倉を本拠として必要な場合に京都に上った。嘉禄元年(一二二五年)には東寺三長者(東寺長者のうちの第三位)に任じられたが、久しく三名の定員であったものを四名の先例を盾にして強引に定数を増員して任じられたものであった。後に二長者に昇進する。安貞二年(一二二八年)には東大寺別当に任じられるが、文暦元年(一二三四年)、将軍九条頼経の正室竹御所の御産祈祷の失敗(母子ともに死去)の責任を取って、東大寺別当・東寺二長者を辞任する。嘉禎元年(一二三五年)には大僧正、同二年(一二三六年)には九条道家の推挙によって東寺長者の筆頭である一長者(貫主)に任じられた(八十五歳での任命は当時の最高齢記録)。同三年(一二三七年)には四条天皇の護持僧となる。同年には東寺一長者の権力を用いて、厳格な審査を必要とした同寺所蔵の仏舎利を一度に十五粒も受領した。八十七歳の高齢で京都にて没した』とある。当時既に七十二歳であった。

 

 以下、「吾妻鏡」の記載。まず、貞應三(一二二四)年四月二十八日の条。

○原文

廿八日甲午。晴。有若君御手習始之儀。陰陽權助國道朝臣擇申日次。〔今日。時巳未。〕其儀兼被上南面御簾三ケ間。御硯一面。〔蒔鶴。〕御手本〔昨日自京都參著。〕等〔置文臺〕置御座前。吉時〔未。〕前奥州著布衣被參。若君出御。宰相中將〔布衣。〕被候傍。頃之參進。開御硯蓋。摺墨染筆被進。取之習始給。長生殿詩云々。事訖。奥州被賜御釼。〔納錦袋。〕相公羽林傳之。出羽守家長〔布衣。〕爲役送。其後於上臺所盃酒。宿老御家人兩三輩參候云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿八日甲午。晴る。若君の御手習始めの儀、有り。陰陽權助國道朝臣、日次(ひなみ)〔今日。時は巳(み)・未(ひつじ)〕を擇(えら)び申す。其の儀、兼ねて南面の御簾三ケ間を上被げらる。御硯一面〔蒔鶴。〕。御手本〔昨日、京都より參著す。〕等〔文臺に置く。〕、御座の前に置く。吉時〔未。〕に前奥州、布衣を著して參らる。若君、出御。宰相中將〔布衣。〕、傍らに候ぜらる。頃之(しばらくあ)つて參進し、御硯の蓋を開き、墨を摺り、筆を染め進じぜらる。之を取りて習ひ始め給ふ。長生殿詩と云々。

事、訖りて、奥州、御釼〔錦の袋に納む。〕を賜(たまもの)せらる。相公羽林、之を傳ふ。出羽守家長〔布衣。〕、役送(やくそう)たり。其の後、上臺所に於いて盃酒す。宿老・御家人兩三輩參候すと云々。

・「巳・未」午前十時と午後二時。

・「蒔鶴」鶴をあしらった蒔絵。

・「前奥州」北条義時。

・「宰相中將」一条実雅。一条能保の三男で北条義時の娘婿。

・「長生殿の詩」長生殿は唐の太宗が驪(り)山に建てた離宮。玄宗が楊貴妃を伴って遊んだことから(当時は華清宮と改名)、及びそれを素材とした白居易の「長恨歌」で知られる。ここは「和漢朗詠集」に収められる慶滋保胤(よししげのやすたね)の詩、

 長生殿の裏には春秋富めり、不老門の前には日月遅し

を指す。この詩は帝王の万歳長久(ばんぜいちょうきゅう)を慶賀した内容であることから、吉祥の詩として、また意匠としても絵画や工芸の主題として好まれた(ここは「徳川美術館」公式サイトの「長生殿蒔絵手箱」のキャプションを参照した)。。

・「出羽守家長」中条家長(永万元(一一六五)年~嘉禎二(一二三六)年)のこと。武蔵七党の一つである横山党の小野義勝(法橋成尋)の子で、藤原道兼の子孫である有力御家人八田知家の養子となった。武蔵国埼玉郡中条保を本拠として中条氏を称した。右馬允・右衛門尉を経て、貞応二(一二二三)年に従五位下出羽守に至る。治承・寿永の内乱では源範頼に従って一の谷の戦いに加わり、その後も豊後国に転戦、奥州合戦にも参加した歴戦の勇士であった。源頼朝以下、藤原頼経まで歴代の将軍に近侍して鎌倉幕府宿老として重きをなした。また評定衆創設(一二二五)以来、その職に任ぜられて幕政にも参画した。(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

 

 以下、同年五月十三日の条。

○原文

十三日己酉。晴。近國浦々大魚〔其名不分明。〕多死浮波上。寄于三浦崎。六浦。前濱之間充滿。鎌倉中人擧買其完。家々煎之。取彼油。異香滿閭巷。士女謂之旱魃之兆。無先規。非直也事云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十三日己酉。晴る。近國の浦々に大魚〔其の名、分明ならず。〕波の上に多く死に、浮ぶ。三浦崎、六浦、前濱の間に寄りて充滿す。鎌倉中の人、擧(こぞ)りてて其の完(しし)を買ひ、家々に之を煎(せん)じ、彼の油を取る。異香、閭巷(りよこう)に滿つ。士女、之れを旱魃の兆と謂ふ。先規、無し。直(ただ)なる事に非ずと云々。

・「三浦崎」三浦三崎。

・「前濱」由比ヶ浜。

・「完」肉。

 

 以下、同年五月十五日の条。この間の十四日には記事がない。

○原文

十五日辛亥。晴。炎旱渉旬。仍被始行祈雨法。所謂。百壇不動供。一字金輪水天供。降雨法。仁王觀音等御讀經也。周防前司親實爲奉行。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日辛亥。晴る。炎旱、旬に渉(わた)る。仍つて祈雨の法を始行せらる。所謂、百壇不動供・一字金輪・水天供・降雨法・仁王・觀音等の御讀經なり。周防前司親實、奉行たり。

・「旬」は厳密には十日を示す単位。

・「周防前司親實」藤原親実(生没年不詳)幕府吏僚。明経道(みょうぎょうどう:律令制下に於ける大学寮の学科の一つ。儒教の経学を専攻したが、平安時代以降は中国の史書・詩文を学ぶ紀伝道が盛んとなるに従って次第に衰え、教官の世襲化が強まって中原・清原両氏の家学となった。ここは「大辞林」に拠った。)の中原忠順の子で、評定衆中原師員の叔父。仁治二(一二四一)年の安芸厳島社神官等申状には親実が当時七十歳を超えていたことを記している。将軍頼経に仕えた諸大夫で、将軍御所の儀礼・祭祀などの奉行を務めた。文暦二(一二三五)年の厳島社造営の人事で周防守護から安芸守護に転任,厳島神社の神主に任ぜられている。寛元二(一二四四)年には上洛して六波羅評定衆となり、その後は周防守護に戻って寛元三年から建長三(一二五一)年までの在職を認めることが出来る。建長五年の法勝寺阿弥陀堂供養では老体にも拘わらず、在京人として西二階門を警固している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

 

 次に、同年六月六日の条。この条の直前は同月の朔日で『子刻、大地震。』とある。

○六日壬申。霽。炎旱渉旬。仍今日爲祈雨。被行靈所七瀨御祓。由比濱國道朝臣。金洗澤池知輔朝臣。固瀨河親職。六連忠業。狎河泰貞。杜戸有道。江嶋龍穴信賢。此御祓。關東今度始也。此外。地震祭。〔國道。〕日曜祭。〔親職。〕七座泰山府君。知輔。忠業。晴賢。晴幸。泰貞。信賢。重宗等云々。又十壇水天供。辨僧正〔定豪。〕令門弟等修之。

○やぶちゃんの書き下し文

六日壬申。霽る。炎旱、旬に渉る。仍つて今日、祈雨の爲に、靈所に七瀨の御祓へを行はる。由比の濱には國道朝臣、金洗澤池には知輔朝臣、固瀨河には親職(ちかもと)、六連(むつら)には忠業(ただなり)、㹨河には泰貞。杜戸(もりと)には有道、江嶋(えのしま)の龍穴には信賢。此の御祓へは、關東、今度(このたび)、始めなり。此の外、地震祭〔國道。〕・日曜祭〔親職。〕・七座の泰山府君は知輔・忠業・晴賢・晴幸・泰貞・信賢・重宗等と云々。

又、十壇の水天供は、辨僧正〔定豪。〕、門弟等をして之を修せしむ。

 

 四日後の六月十日の条には『十日丙子。入夜。甘雨下。』(十日丙子。夜に入りて、甘雨、下(ふ)る)とある。]

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