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2014/08/02

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 岩殿觀音堂

   ○岩殿觀音堂

阪東札所第二番なり、行基の開基にして、自作の像を安置せしも後(のち)災に罹り、今十一面觀音を置く(鎌倉英勝寺太田禅尼葬送の時造立せし六觀音の一なり、長一尺八寸)鎌倉將軍殊に信仰ありて屢(しばしば)參詣せられし事東鑑に歷擧す。寛喜二年十一月、僧西願勸進して堂宇を再建せしこと同書に見ゆ、然るに年を逐(おい)て衰廢せしかば、天正十九年十一月、縣令長谷川七左衞門長綱堂字を再建(さいこん)す。

岩窟 堂後にあり、方九尺、奥院(おくのゐん)と稱す、石像觀音を置く。

別當岩殿寺 海運山(古は海前山と稱す。長谷川長綱再建の後改(あらた)むといふ)護國院と號す、曹洞宗(招問海寶院末)開山行基養老六年六月十八日起立(きりつ)すと云、其頃は眞言宗なり、建久三年五月後白河法皇七七日の御追福を鎌倉勝長壽院にて修せられし時、當時の僧其列に加はる。(東鑑曰五月八日法皇四十九日御佛事於南御堂被修之有百僧供岩殿寺二日)、其後頽廢せしを、本寺三世一機中興す、此時今の宗派に改む、本尊釋迦を安す。

[やぶちゃん注:現在の逗子市久木五丁目にある曹洞宗海雲山岩殿寺。ネット上に存在する同寺の案内板「岩殿寺縁起」の複数の写真を視認したものを電子化して以下に掲げておく。但し、後に掲げるように、この内容は看過出来ない誤りが多いので注意されたい。

   *

  岩殿寺縁起

 相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山となっている)の由来は皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。

 それゆえ、当山は徳上、行基両上人の開基と言われている。また、大非殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。

 正暦元年庚寅春三月十七日六十五代花山法皇が来山され、御自身導師となられて百僧法要御供養を営まれた。従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元密上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。

 又、承安四年四月十八日七十七代後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三ヶ所第二番の霊場とお定めになった。なお、源頼朝が蛭ヶ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を厚く信仰し、夢に現われてお告げを蒙ることがしばしばあったという。戦乱の折、敗色濃くなってからも、大悲の冥助を幾度も得て、立直れたというが、なかでも石橋山敗軍のときは、観世音が船人ととなって頼朝を房州洲崎に渡したちまち十一面観世音の妙容をあらわして、三浦の方にとび去ったという。頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。文治三年正月二十三日には頼朝公の姫が参詣。建久二年子の三月には三浦義澄同六兵衛義村参詣。建久三年乙未の二月二十三日には頼朝公幕下参詣。建久三年乙卯の五月八日には後白河法皇四十九日の御仏事のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する。承元三年五月五日には右大将実朝将軍参詣。寛喜二年十一月十一日、大破せる伽藍再建のため、大僧正院家竝び十二院の別当が日夜法要を修行され、そのとき、鎌倉殿の命に依り僧西願に勧進して堂宇を再建、三代盟主三七日昼夜祈念したことが「東鑑」にも記されている。

 しかし、その後もまた、ものかわり星うつりて七堂伽藍も荒廃し、寺院の面目もなかったものを東照神君(徳川家康)の御仁恵により境内ならびに田畑山林と御朱印を賜わり、その徳沢に潤い、天正十九年十一月には県令長谷川七衛門長綱が荘厳なる堂宇を再建し、且つ申し請けて寺領五石の御朱印を賜ったという。

 (以上「東鑑」「三浦郡記」「相模風土記」および土地旧家覚之書による)

   *

・「皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたとき」ウィキの「岩殿寺」には、『寺伝によれば』として養老五(七二一)年創建と特定してある。

・「正暦元年」西暦九九〇年。

・「花山法皇が来山」各所にあるが、この花山法皇の関東巡礼伝承は後世の創作であろう。

・「承安四年」西暦一一七四年。

・「後白河法皇が来山」これもまた、あり得ない話である。

・「文治三年正月二十三日には頼朝公の姫が参詣」文治三年は西暦一一八七年。「吾妻鏡」に基づくが、これは同年二月二十三日の誤りである。「姫」は頼朝長女の大姫。彼女はこの四年前の承安三(一一七三)年に最愛の木曽義高を失っている。因みに、これより前、それによって精神に変調をきたした大姫のために頼朝・政子夫婦は鎌倉の杉本観音から巡礼古道を通って、この岩殿寺まで平癒祈願をしたとも伝えられる。

・「建久二年子の三月には三浦義澄同六兵衛義村参詣。建久三年乙未の二月二十三日には頼朝公幕下参詣。」誤記。これは建久三(一一九二)年壬子(みずのえね)三月二十三日乙未が正しく、しかも頼朝の御参で、それに従ったのは「三浦介」(義澄)と「同左衞門尉」(三浦義連)である(「建久二年」に岩殿寺参詣の記事はないし、そもそも三浦私家の参詣記載が「吾妻鏡」に書かれようはずもない)。

・「建久三年乙卯の五月八日には後白河法皇四十九日の御仏事のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する」「吾妻鏡」のトンデモ誤読と誤記である。これは「吾妻鏡」の建久三年壬子五月八日の条に、鎌倉の勝長寿院の南御堂院で修せられた後白河法皇の四十九日の法要に多くの僧衆が集められたが、そこに岩殿寺から二人の僧が招ぜられた旨の記載がある、というだけのことである。これは……何とも凄い読みである……

・「承元三年五月五日には右大将実朝将軍参詣」「吾妻鏡」によるが、またしても誤記。承元三(一二〇九)年五月十五日である。

・「寛喜二年十一月十一日、大破せる伽藍再建のため、大僧正院家竝び十二院の別当が日夜法要を修行され、そのとき、鎌倉殿の命に依り僧西願に勧進して堂宇を再建、三代盟主三七日昼夜祈念したことが「東鑑」にも記されている」「三代盟主」は第四代将軍藤原頼経の誤りであろう。しかし、何よりもこんな細かな内容は「吾妻鏡」には書かれていないのである。以下に寛喜二 (一二三〇) 年十一月十一日の条を総て示す。

○原文

十一日戊戌。晴。勝長壽院内新造塔婆上棟。武州監臨云々。」又被行變異御祈云々。」今日。巖殿觀音堂居礎引地云々。勸進上人西願云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十一日戊戌。晴。勝長壽院内の新造の塔婆、上棟す。武州監臨すと云々。

又變異の御祈を行はると云々。

今日、巖殿觀音堂の礎を居へ地を引くと云々。

勸進上人は西願と云々。

 一読、お分かり戴けると思うが、最後の二行だけが岩殿寺の観音堂の謂わば、起工式の記事である。精査していないけれども、どうもこの部分を書いている人物は将軍家の私的な勝長寿院と岩殿寺を同一のものとどこかで考えているのではあるまいか? この訳の分からない「大僧正院家竝び十二院の別当が日夜法要を修行」「三代盟主三七日昼夜祈念した」というのは恐らく勝長寿院についての別な「吾妻鏡」の記載を引っ張り出して附会させたようにか見えないのである。

「天正十九年」西暦一五九一年。

「長谷川七衛門長綱」海寶院の項に既注。

 因みに、後のことであるが、作家泉鏡花は当時芸妓であったすず女と恋に落ち、師尾崎紅葉の頑強な反対を押し切って同棲生活をしていた頃、逗子に滞在(明治三十五年(本誌の発刊の四年後)と同三十七年の夏)し、よくこの岩殿寺を訪れたことで知られる(当時の住持とも親しく接して後に同寺の観音堂前に「鏡花の池」の寄進している)。鏡花の名作「春昼」「春昼後刻」は岩殿寺を重要なロケ地の一つとしている。]

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