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2014/08/31

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 モースの明治の帝都東京考現学(Ⅰ)うどん屋と糊屋の看板/植木屋/頭巾

M467_468

図―467[やぶちゃん注:上図。]

図―468[やぶちゃん注:下図。] 

 マカロニ〔西洋うどん〕の看板(図467)は、一枚の板の下に、房のように紙片がさがった物である。マカロニは軒評で出来ていて、汁と一緒に食うと非常にうまい。糊の看板は円盤で、その上に糊を表す字が書いてある(図468)。米国と同様、糊は売買されるが、日本人はより多い目的にこれを使用する。

[やぶちゃん注:「マカロニ」底本では直下に石川氏による『〔西洋うどん〕』という割注が入るが、これは初訳時のマカロニが一般家庭の食卓に上らなかったところの時代を感じさせ、そしかもここは、「マカロニ」で「饂飩(うどん)」を指しているのだから、石川氏に失礼乍ら、微苦笑を禁じ得ないところである。因みに、図の看板には「うんとん」とあるのは文字通り「饂飩」を音読みしたもので、ウィキの「うどん」(の注)には、『饂の字の右半分は温の字の正字。音はウンまたはオン(ヲン)である(新明解漢和辞典、三省堂)。饂は国字であるため字音はきめがたい。「ウンドン」または「ウドン」であることは日葡辞書にみえ、「Vndon (ウンドン)ただし、ウドンと発音される」とある』とあり、また(本文の)歴史パートには以下のようにある。

   《引用開始》

うどんの誕生には諸説があり、定かではない。

仁治2年(1241年)に中国から帰国した円爾(聖一国師)は製粉の技術を持ち帰り、「饂飩・蕎麦・饅頭」などの粉物食文化を広めたと云われている。また、その円爾が開いた福岡市の承天寺境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑が建っている。

奥村彪生によれば、うどんは中国から渡来した切り麦(今の冷や麦)が日本で独自に進化したものであるという。奥村によれば、麵を加熱して付け汁で食する(うどんの)食べ方は中国には無く、日本の平安時代の文献にあるコントンは肉のあんを小麦の皮で包んだもので、うどんとは別であり、うどんを表現する表記の文献初出は南北朝時代の「ウトム」であるという。

南北朝時代末期の庭訓往来や節用集などに「饂飩」「うとん」の語が現れる。江戸時代は「うどん」と「うんどん」の語が並存し、浮世絵に描かれた看板などに「うんとん」と書いてあることがよくあり、明治初期の辞書である「 言海」は、うどんはうんどんの略とする。

奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した菓餅14種の中にある索餅(さくべい)が、平安時代に完成した『新撰字鏡』 では「牟義縄(むぎなわ)」と呼ばれて、「麦縄(むぎなわ)」が日本の麺類の起源とされる。ただし、麦縄は米と小麦粉を混ぜて作られていた。やがて鎌倉時代になると、円爾など入宋した禅僧らが小麦粉で作る素麺を博多経由で日本に持ち帰って「切麦(きりむぎ)」が誕生した。室町時代には一条兼良の著書『尺素往来』に、「索麺は熱蒸し、截麦は冷濯い」という記述があり、截麦(切麦)がうどんの前身と考える説もあるが、その太さがうどんより細く、冷やして食されていた事から、冷麦の原型とされている。切麦を温かくして食べる「温麦」と冷やして食べる「冷麦」は総じてうどんと呼ばれた。

奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩(こんとん)」に起源を求める説もある。

平安時代に空海が唐から饂飩を四国に伝えて讃岐うどんが誕生したという伝説もある。

青木正児の「饂飩の歴史」によれば、ワンタンに相当する中国語は「餛飩」(コントン)と書き、またこれを「餫飩」(ウントン、コントン)とも書き、これが同じ読み方の「温飩」(ウントン)という表記になり、これが「饂飩」(ウドン)となったという。

   《引用終了》]

M469

図―469 

 昨今(十一月の終)は、木を動かす季節だと見えて、往来でよく木を動かす人々を見受ける。私はそれを扱うのに三十人も要する大きな木を見た。立木は何回もくりかえす移植に耐えるらしく、転々と売られては、図469に示すようにして、何マイルもはこばれて行く。

[やぶちゃん注:電子化しながらふと、梅崎春生の「植木屋」を再読したくなった。]

M470

図―470

M471

図―471 

 寒さが近づくにつれて、人々は厚い衣服をつけるが、下層階級の者はすべて脚と足とをむき出し、また家も見受ける所、みな前同様にあけっばなしである。地面には霜が強く、町に並ぶ溝は凍りついているのに、小さい店は依然あけっぱなしてあり、熱の唯一の源は小さな火の箱即ちヒバチで、人々はその周囲にくっつき合い、それに入れた灰の中で燃える炭に、手を翳(かざ)してあたためる。人力車夫が何マイルか走って、汗をポタポタたらしながら、軽い毛布を緩(ゆるや)かに背中にひっかけ、寒い風が吹く所に坐って、次のお客を待つ有様は、風変りである。人は誰でも頭を露出して歩く。彼等は帽子をかぶることに馴れていないので、学生も帽子をかぶって人を訪問し、帰る時にはそれを忘れて行く。そして一週間もたってから取り来るが、これによっても、彼等が如何に帽子の無いことを苦にしないかが判る。寒い時、男は、綿をうんと入れた、後に長い合羽のついた、布製の袋みたいなものをかぶる。見た所、それは袋に、顔を出す穴をあけたようである(図470)。我国でも男の子達は、梳毛糸(ウォーステッド)でつくった、同じような物をかぶる。温い衣服に着ふくれた子供達は、滑稽である。外衣には厚く綿が入れてあり、袖は手が完全にかくれる位長く、支那の衣服に似ている。婦人連は長さ一ヤード四分一の布の一片でつくった、非常に似合う帽子をかぶる。それは図471の如く畳み、Aで縫いつけてあるが後は開いており、内側のBの所にある長い環を耳に引っかけてそれを前方に引き下げ、顔はDにあらわれる。ニつの懸垂物EEは額の後に廻し、前で結ぶ。これは非常に容易に身につけられ、我国でも鑑賞される可き装置である。普通紫色の縮緬(ちりめん)で出来ていて、これをかぶっていると、十人並以下の女でさえ、美しく見える。図472はこの帽巾をかぶった婦人を示す。

M472

図―472

[やぶちゃん注:図470は口辺部を覆わずに下で括った刺子頭巾のように見受けられる(正式な被り方は火事場用であるから鼻も覆って目だけを出す)。図は御高祖(おこそ)頭巾で、辞書によれば、四角な一枚の布で製した被りもので、これには耳へ掛け顔を表す被り方と、目の周りだけを出して頭部全体を包むものとがあるとあり、モースが実に忠実にその二様を図解していることに驚く(実際にネット検索をかけてみても、この二様をちゃんと画像で示しているサイトは見当たらない)。多くは女性が防寒用に用いたもので、宝暦(一七五一年から一七六四年)頃から明治時代まで行われた。名称の御高祖は日蓮上人像が被るそれに似るからとされる。

「梳毛糸」原文“worsted”。「梳毛糸」は「そもうし」と読み、梳毛紡績で出来た糸のことをいう。比較的長めの上質の羊毛繊維を主体とした糸で繊度(糸の太さ)が均一で滑らか、撚りは強めで固く締まった感じを与え、糸の表面も滑らかで光沢を持つ。紡毛糸(ぼうもうし:通常の紡績にかからない五センチメートル以下の屑糸のこと。そのまま撚りをかけて織糸に用いる。「屑糸」と呼ぶものの、毛布・フェルト・フランネルなどの製織には上等な原料である)の対語。

「一ヤード四分一」凡そ九十七センチメートル。

「これをかぶっていると、十人並以下の女でさえ、美しく見える」ストイックなモース先生にしてはちょっと筆が滑ったね!]

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