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2014/08/28

宮崎駿についての教え子との議論

先日2014年8月24日附の僕の『「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」「見えない雲」』の映画評記事はフェイスブックにも転載したのであるが、それに対して古い教え子(元、僕の教師最初の担任学年の生徒であった)から疑義が届き、それについてここ数日、タイムライン上で以下のやり取りをした。
教え子の意見はアニメーション・ファンならば、当たり前田の(つい使いたくなる言い回しだが、これも既に死語であり、私より若い人には通じんな)正論と感じられるものであろうし、やり取りで述べたが、アニメーションの苦手な(正直に言おう。僕は映画は無論、漫画も大好きだが、アニメーションは実はどうも未だに好きになれないのである。何故かは、そのうち、自己分析してみようとは思う)反論された当事者である僕でさえも、実はすこぶる論理的に納得出来る内容であった。

そもそもが僕の評言の根底には宮崎駿に対する強い私怨が働いていることをここに自白する。
そうして恐らく若い宮崎ファンは、彼に対する僕の強い生理的嫌悪感の理由が、もしかすると全く呑み込めないかも知れない(この教え子はその理由に薄々気づいていたことが以下のやり取りで判明する)。
僕はそれをここで語らねばならない義務と同時に権利も持つと考える。
そこで相手の教え子本人の許諾も得た上で、以下に関連するやりとりを再現、ほぼ引用しておく。対話者である本人の氏名は伏せたが、その他は原則、手を加えていない。
 
 
   *   *   *
 
 
● 僕 :
「エヴァ」の画像は驚くべきものである。大嫌いな宮崎駿が映画と同じ手法を安易にアニメションに適応して、非常に汚い画像となっている(例えば「もののけ姫」の冒頭近くの森の右から左へのパン・カットなど)のに対し、庵野の処理は特に光学的処理に於いて神憑っていて、アニメ―ションの疑似実写化ともいうべき、非常に美しいものである。但し、ストーリーはTV版の方が遙かに優れている(僕は劇場版三部作は未見)。[やぶちゃん注:これが2014年8月24日附の僕の『「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」「見えない雲」』記事の前半。]
 
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○教え子:
う〜ん、「宮崎駿が映画と同じ手法を安易にアニメションに適応して」は、反論せざるを得ないかなぁ。
美醜の判断は主観かもしれませんが、少なくとも安易な点など、どこにも見いだせない。ストーリーはちっとも面白くないけれど「もののけ姫」は終末期の手描きアニメとして恥ずべき点の全くない作画レベルにあると思いますが…。
新作エヴァは見てないので直接論評できませんが、CG導入後の(ご存知の通り2000年代にアニメ制作は手描きからコンピューター処理に徐々に移行しました)作品群を手描き時代と一律には比較できません。
「もののけ姫」や「魔女の宅急便」の時代の鉛筆や絵筆のタッチが残った映像は、まさに動く絵画として最高峰と思うのですが、いかがでしょう。
 
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● 僕 :
CGの描画法の進歩による限界値の引き上げが行われていることは確かだが、当時の表現法、特にパースペクティヴを疑似的にしか描けない欠点を知りながら、旧来の映画と同様のスピードでパンやティルトを行ってしまうと、あの森は森に見得ず、汚い緑のベタの如く見えるという印象を私は当時、ロードショウで見た際に思った。
私はあの場面に関しては、映画の急速なカメラ移動と同じことを映画の技法を無批判に用いてやっている――アニメションとしてのオリジナルな全く新しいセオリーを追及せずに――と感じた。それが冒頭であったが故に強く印象されてしまったとは言える。
 
因みに「宮崎のために」褒め言葉を追言しておくと、逆にそれからすぐ後の馬上の武士が襲撃され血しぶきが出る、パースのかかったシーンは、映画で言えば、高速度撮影の技法を使いつつ、アニメーション独自の優れた画面構成を成功させているとも実は感じた。
 
また、間違っては困るが、私はあの作品自体を「面白い」とは感じている。
恐らくハンセン病患者を始めとした被差別階級の存在をアニメーションで積極的な「生」として登場させ、最早、世界に於いて隠すことが常識となっている「常民」の「死」や「差別」を、「アニメ」というオブラート性の比較的強いものにあって、余すところなく描こうとした点でも、非常に優れた作品であり、謂わば、
 
「この監督は恐らく今までアニメーションがやれなかった/やることを憚ったもの/やってはならないとされてきたことを遂にやりたいだけやろうとしているのであろう」
 
と思ったのも事実であり、そしてそれを宮崎という男は成し遂げるであろう、とも思った。
因みに私は「天空の島ラピュタ」が彼の作品群の中では一番と思う。
 
しかし、私は彼の作品の持つメッセージ性への有意な不同調をも同時に感じた。何か、私は彼の作品の本質に、曰く言い難い独断的なものを感じ、生理的に違和感を持つのである(実はその理由は私には分かっているが、敢えて最後に書くことにする)。
 
その不同意を「ものの」見事に宮崎にぶつけたのが庵野の「ヱヴァ」であった(当時、TVで宮崎のもとを離れた庵野が久し振りに彼に逢って対談するシーンでも、師への敬意と同時に、自身のアニメーション哲学を譲らぬ印象に強く共感した(序でに言えば、その共感の理由は恐らく庵野が私と同じ特撮オタクであることと深層で繋がっているものと感じる)。
 
また、TV版の「ヱヴァ」は(当時、教え子に薦められて三日間、家で缶詰になって見たのだが)、庵野の持つ一つの「生」の一面である(と私が信ずる)不道徳的背徳的強迫神経症属性(特に後半部の)が私と共感覚を齎したと言ってもよいであろう(但し、映画版に色気を出してやらかした楽屋落ちの最終回は「おもしれえ」を通り越して星一徹状態になってTVを壊したくなったことは告白しておく。また、庵野の作品は見るもの自身の精神状態が比較的強健でないと厳しい――ややアブない――とも言えるかもしれぬ)。
最後に。
私は客観的に宮崎駿を不世出の映像作家の一人であると認めている。しかし――初期のジブリの多くが彼から離れていった彼の偏屈な人格(それ自体は天才の属性であり、問題はない)の中で、一つだけ私は生涯、絶対に許せない部分があるのである。
極めて分かり易いことだ。
 
彼は――私の愛する手塚治虫先生が亡くなった折りの手塚治虫追悼号の「朝日ジャーナル」で、只一人、追悼集の短文の中で手塚先生がアニメーションの世界でやったことは間違いだったと言い切ったからである。
 
それは恐らく、今に至るまで製作者の経済を脅かすことになるセル画の異常な安価さや、安易な同一画面の遣い回し、リフレインなど製作上技法上の指弾としては7、8割方、実は正しい内容ではあると思う。
 
問題は、それを追悼文で言い放って、何等、恥じないという点にある。だったら追悼文など書かぬがよかろう。私の記憶する限り、あの追悼集の中で只一人、批判を口にし、アニメ作家としての手塚をほぼ全否定した彼を私は絶対に許せないのである――
 

 
 
……○○君。
……記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。
……私は「鉄腕アトム」(但し、漫画で。動画ではない)で育った人間です。手塚治虫氏は私が「先生」と呼びたくなる数少ない人物なのです。
……私が宮崎駿という人格を認めないという訳が、あなたには明らかに呑み込めないかもそれませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。或いは個人のもって生れた性格の相違と云った方が確かかも知れません。……
 
   2014年8月26日 早朝 心朽窩主人藪野直史 記
 
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○教え子:
なるほど、やっぱり手塚治虫への追悼文の件があったんですね。そうかも、とも思っていました。
宮崎駿は、元々偏屈なところへ挫折と成功が重なって、ますます偏屈になったというか、まあ、普通あの場にああいうことは書かないだろうな、っていうものだと思います。
ぼく自身は、先生とは逆で、もののけ姫の表現技法は高く評価するけれども、映画そのものはまったく面白くなかった。
なんというか、爽快感というものが全くない!
「汚い緑のベタ」の感じ、もしかしたら「もののけ姫」の美術は、それまでの作品がヨーロッパ的な乾いた空気感だったのと正反対に、日本の湿った景色を表現しようとして狙った部分もあるのかな、と思います。
今一度、冒頭部分を見直してみたけれど、うーん、技法的に新しいか、挑戦的か、と言われれば、別に凡庸なのかもしれませんが、ともあれ、何かと「遠くまで見通せない感じ」、これが「もののけ姫」の美術の特徴、狙いなんだろうな、と思います。
脇にそれますが、息子の宮崎吾郎が監督した「ゲド戦記」は見ましたか?
まず冒頭、「父親を殺すシーン」から始まるという、なかなかの屈折ぶりです。親子で屈折しているのです、あの人たちは。(^^;
 
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   ↓
 
● 僕 :
貴君の意見にすこぶる納得した。
 
「もののけ姫」は日本の古典的美的概念を、当時の技術の限界を越境しながら、技法だけでなく、話柄の展開にも浸潤(時にしっとりと)浸食(時にびしょ濡れに)させた作品なのであろう。汚物と血と膿の臭い、見捨てられ裏切られ排除された者たちの怨念の湿り気がしてくるようなものとして。
 
まさにそれは貴君の言う「爽快感」とは無縁なものであった。
 
そしてそこに、寧ろ、彼のように「偏屈な」私は逆に旧来のアニメーションにない実験/挑戦の「面白さ」を感じたとも言える。
 
私の嫌悪の対象は実はまさにそこか?
 
恐らくは私は宮崎駿の「偏屈さ」の部分に実は自分自身を見てしまうからこそ嫌いなのかも知れない。 
 

 
あなたとのやりとりは、久しぶりに私の苦手なアニメーションについて、真剣に考えさせてくれました。
 
ありがとう。
 
因みに「ゲド戦記」はまさに君たちを教えていた頃に、親しい英語の城村先生とユングの話をするうちに勧められて原作を読み、いたく感動したこ作品で、それだけに映画を見るのは二の足を踏んでいます。そのうち、見てみようと思います。
 
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   ↓
 
○教え子:
「ゲド戦記」の方は、原作とは切り離してみるのがいいだろうと思います。世間の評価は悪いですが、ぼくはまあまあの出来だと思います。
 
 
   *   *   *
 
 
僕はひさびさにこの教え子のお蔭で知的な刺激を受けた。
最後に彼に謝意を表したい。

「ありがとう、〇〇君。」

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